8月6日と9日はそれ ぞ れ 広 島 を知り、愛するか、そしてそのキ に キ リ ス ト と 出 会 い、キ リ ス ト わたしたちキリスト信 者は、 「神を信じ、 愛しま の も と 司 祭・ 助 祭 叙 階 て、髙 見 三 明 大 司 教 司 式 3月1日(日)午後3 時から浦上教会におい 誕生を見 と助祭の して司祭 を一つに 人の助祭と2人の司祭が の 儀 へ と 進 み、晴 れ て 1 た。福音朗読の後に叙階 であってほしい」と説い い。そのために祈る司祭 する即戦力であってほし 区シノドスの提言を形に 主任)が教話を行い、「教 師(福江・浜脇・井持浦 が紹介された後、下口 勲 よって受階者の人となり れ、 鼈甲屋賢治神学生 (宝 任式が浦上教会で行わ た。 たことでしょう 」と語っ け恵みの重さを理解でき 長 く 待 た さ れ て、そ れ だ 島 師 の 両 親 は、 「本人が の期間を3年過ごした小 受階者をたたえた。助祭 げた両親と召命に応えた をもって、 我が子を神に捧 刷 新 の 道 の り は 遠 く、平 た ん で そっ か は な い か も し れ ま せ ん。 し か こう し、「千里の行も足下に始まる」 るし、 交わる方へ 司祭・助祭叙階式 す 」 と 言 う 一 方 で、あ る 誕生した。叙階の秘跡を 亀・中野)と宮原大地神 全面的にいっそう深く理解さ れ、人 び と の 心 の 中 に さ ら に よ く 浸 透 し て、人 び と の 心 を 変 え イ エ ス の 福 音 を、実 は ま だ よ く た し た ち は、何 度 も 聴 き 慣 れ た 必 要 が あ り ま す。 と こ ろ が、わ 太 陽 を 昇 ら せ、正 し い 者 に も 正 の天の父は「悪人にも善人にも い」 (ルカ6・ ) 。あなたがた がたを憎む者に親切にしなさ 言 っ て お く。 敵 を 愛 し、あ な た で あ る 教 会 は、人 々 を 厳 し く 取 し か し な が ら、キ リ ス ト の 花 嫁 た。「誤謬には教会はいつも反対 中で次のように述べられまし 世 教 皇 は、公 会 議 開 会 演 説 の す る ど こ ろ か、む し ろ 自 分 の 真 も っ て そ れ ら を 断 罪 し ま し た。 ら し、弟 に 対 す る 父 の 愛 を 共 有 し、時 に は 断 固 と し た 厳 し さ を 面 目 さ と 忠 実 さ を 主 張 し、報 い て お や り に な る 」 と、不 平 を も 帰 っ て 来 る と、肥 え た 羊 を 屠 っ にあなたの身上を食いつぶして の あ の 息 子 が、娼 婦 ど も と 一 緒 かって進むべきかを教えること 厳をそなえたものであるかを に、 人間とは何か、 どれほどの尊 知っています。 事実、 教会は人々 に助けることができると教会は て、人 々 が 自 分 自 身 を 知 る よ う トの光をもたらすことによっ て い ま す。 ま た、人 々 に キ リ ス めに有益であるかと教会は知っ 所属教会の信徒代表に 守った。 理 解 し て お ら ず、何 よ り も 実 践 しくない者にも雨を降らせてく を求めます。 ができるのです」 ( 「第2バチカ 日(木)に認定式と選 していないのではないでしょう り 扱 う よ り は、む し ろ 慈 し み の わ た し た ち は、放 蕩 息 子 で も あ り、ま た 兄 の よ う で も あ る か 学生(桐)が助祭・司祭 か。 そ れ は、福 音 の 基 本 的 な こ す。 断 罪 を 繰 り 返 す よ り は、自 兄 弟 に だ け 挨 拶 し た と こ ろ で、 薬 を 用 い て い や す 方 を 選 び ま ださるからである。……自分の 分 の 教 え の 価 値 を 示 し な が ら、 も し れ ま せ ん。 兄 は、い つ も 父 ていくようにすること」 (第2 2 差 別や裁きや排除 と い う 老 子 の 名 言 通 り、遠 大 な 人 を 差 別 し た り、排 除 し 式が行われ、小島 明助祭 受 け た 3 師 は、司 祭 団 か 候 補 者 に 認 定、下 原 和 希 し た ち 一 人 一 人 に、そ し て 全 員 計 画 を 実 施 す る た め に は、ま ず 稲田伸也助祭(諫早教会 ら拍手で迎えられた。 神学生(土井ノ浦)が祭 に差し向けられています。その 足 元 か ら、つ ま り 福 音 の 基 本 的 = 写 真 中 央 ) が 司 祭 に、 が福音の基本にそぐわな ( 浜 脇 教 会 = 写 真 右 ) と た り し て い な が ら、そ れ 山内啓輔神学生(田平教 ミサの終わりに、2人 の新司祭は両親に初めて 壇奉仕者に選任された。 ほう なことから始める必要がありま いということに気づいて 会) が助祭に叙階された。 を見届けた参列者は拍手 の 祝 福 を 授 け、そ の 様 子 で は な く、認 め、ゆ す。 いません。 祭と、1600人余の修 式には大分の浜口末男 をしたくないというのは 世 の 常 か も し れ ま せ ん。 司教ほか110人余の司 気 が 合 わ な い 人、恨 ん でいる人などにあいさつ 道 者 や 信 徒 が 参 加 し、心 と が 意 外 と 難 し く、で き な い で どんな優れたことをしたことに さと 〝祈りによって即戦力に〟 し か し 一 方、わ た し た ち は カ ト リ ッ ク の 教 え が、 「いっそう うわたしたちをこう諭し バ チ カ ン 公 会 議「 開 会 演 説 」 ) し か し、イ エ ス は そ う い 叙階式に先立ち、2月 を目指さなければなりません 言葉を聞いているあなたがたに ておられます。「わたしの と こ ろ で、日 本 の 信 徒 発 見 1 5 0 周 年 を 機 に、昨 年 は じ め て いることが多いからです。その な ろ う か。 異 邦 人 で さ え、同 じ 1 福 音宣教の新しい熱意、 の長崎大司教区代表者会議(教 意 味 で、イ エ ス の こ と ば は 今 の 新しい表現、新しい方法 区 シ ノ ド ス ) を 開 催 し、こ の 3 わたしたちにとって新しい熱意 ことに力を注がなければなりま か ら は、そ の 提 言 を 実 施 に 移 す 布をもって閉幕しました。これ り得るのではないでしょうか。 り、新しい表現、 新しい方法とな をもって取り組むべき課題であ 父 が 憐 れ み 深 い よ う に、あ な た タイ5・ 、 ) 。「あなたがたの ことをしているではないか」(マ ています。 」 現代の要求に応えることを考え ていると思っているかもしれま の 側 に い て、父 を 誰 よ り も 知 っ た め に は、す べ て の キ リ ス ト 信 ン公会議招集の大勅書」 ) 。その 自 覚 さ せ、ど の よ う な 目 的 に 向 日の記念ミサでの提言の公 いうことです。 大司教 ヨセフ 髙 見 三 明 年です。公会議公文書 のうち が、最後の第4会期で、パウロ 6 世 教 皇 に よ り、承 認・ 公 布 さ れ ま し た。 そ の 中 に は、『 神 の 啓示に関する教義憲章』や『現 代世界における教会に関する司 牧憲章』、『信徒使徒職に関する 教令』や『教会の宣教活動に関 する教令』などがあります。 さ ら に、昨 年 月 日 か ら 来 年 2 月 2 日 ま で「 奉 献 生 活 の 「年頭教書」でも触れました が、今年は、いくつかの重要な節 目に当たっております 。 行事過多にならないように注意 周 年、 月 8 日 。 信 仰 を 守 り ま し た。 まから父のもとを去った放蕩息 へ の 署 名 式 へ と 続 い た。 書に署名した(左写真) 後は教区シノドス提言書 面に漢字で「天主堂」 祝 福 式 が あ り、拝 領 祈 願 を受けて大司教が公布文 採 択 し た 」 と 話 し、こ れ け、 待ち続け、 帰ってくると無条 しょうか。 基準にすることはできないので わ た し は、神 の 物 差 し を 自 分 の 主 張 す る だ け の 人 間 な の で す。 自 分 を 基 準 と し、自 分 の こ と を せんが、 実はまるで知らず、 結局 奉 献 生 活 者、す べ て の 信 徒 に も ら れ て い る と し て も、す べ て の 次 の イ エ ス の 言 葉 は、ま ず は 教会に仕える司教や司祭に向け 生きていく覚悟が必要です。 者は、 人々のために、 人々と共に ・ ~ ) は、自 分 の わ が ま 子とその息子をいつも心にか す。「あなたがたの中で偉くなり たい者は、 皆に仕える者になり、 い ち ば ん 上 に な り た い 者 は、す の子は仕えられるためではなく 人々と共に生きる 仕えるために、 また、 多くの人の 教えています。この父のこころ わ た し た ち は、自 分 の 生 活 環 境の中にぬくぬくと閉じこもっ 身代金として自分の命を献げる えきれず信仰を捨 かつてキリシタ ン た ち は、命 懸 け で い」 (ルカ6・ ) 。 がたも憐れみ深い者となりなさ の金文字を書いたこ 提 言 書 は 3 月 日 の し か し、異 質 な も の 署 名 式 で は、教 区 シ ノ ド ス中央委員会委員長の山 「日本の信徒発見の聖母」 と 見 る と、た と え 件で喜び迎える父のやさしさを 長崎教区を刷新するためにわた と に も 触 れ た。 そ し ば、過 酷 な 拷 問 に 耐 の祝日に発送、 その後、 小 「 放 蕩 息 子 」 の た と え( ル カ て「 信 者 た ち は、教 脇 守師が髙見大司教に 向けられていると考えるべきで 会がまさに信仰のよ こ れ ま で の 経 過 を 報 告。 教区を通して各世帯に届 宗 教 の 人 を 差 別 し、 り、ま た 十 字 架 の 上 で 自 分 の い てはなりません。外に出向いて べての人の僕になりなさい。人 のちを与え尽くした御独り子イ こ そ、父 で あ る 神 の こ こ ろ で あ 福音を宣べ伝え、 実践し エ ス の こ こ ろ で す。 と こ ろ が、 行って、 てた人(ころび)、異 りどころだと実感し けられる予定。 裁 き、排 除 す る こ と 教会から遠ざかっ たとえば自死者や ま せ ん。 そ れ な の に、わ た し が つけに背いたことは一度もあり お父さんに仕えています。言い 人間にふさわしいものとするこ できません。人々の生活状態を ことがらに無関心でいることは 任務を果たすにあたって地上の も の で は あ り ま せ ん が、自 分 の ができません。「わたしは何年も 「 教 会 は 地 上 の 目 的 を 追 求 す る ています。 で共有できるかどうかにかかっ 本、つ ま り キ リ ス ト の 心 根 を 皆 教 区 シ ノ ド ス の 成 果 は、わ た したちが以上のような福音の基 ) 。 ている人たちをど 友 達 と 宴 会 を す る た め に、子 山 と が、ど れ ほ ど 永 遠 の 救 い の た ・ b~ こ か で 軽 蔑 し、除 け 羊一匹すらくれなかったではあ なければなりません。 なぜなら、 た め に 来 た の で あ る 」 (マルコ 者にしがちです。 り ま せ ん か。 と こ ろ が、あ な た も、わ た し た ち は、 長男はそのこころを認めること が あ り ま し た。 今 4 人 々のために、 た の で は な い か。 キ に問い掛け、共に考え、分 リ ス ト 教 を 禁 じ ら れ 「聖霊の導きのもと、自ら た逆境から解放され か ち 合 い、今 後 の 教 区 の 3 神 の物差しこそ基準 せ ん。 こ れ ら の 提 言 は、今 後 の 年 」 と さ れ て い ま す。 し か し、 月 まず2月3日はユス ト 高 山 右 近の帰天400周年、 3 月 日 と長崎の原爆 リ ス ト と の つ な が り の 中 で、他 は 日 本 の 信 徒 発 見 1 5 0 周 年、 しつつ、心がけたいことは、いか は第2バチカン公会議 閉 幕 周 日本二十 六 聖 人 に 献 げ て建てられ、「信徒発見」 の舞台とも な っ た 大 浦 天 主堂。その 献 堂 1 5 0 周 年を記念す る ミ サ が 2 月 日(木) 時 か ら 行 わ 人余の共同 れ、髙 見 三 明 大 司 教 主 司 式、司 祭 団 司 式 の も と、参 列 し た 約 方向と生き方を明示する い か な け れ ば な ら な い 」 体 で 3 年 か け て 準 備 し、 たこの自由な時代を と、今がカトリック教会、 教区シノドス中央委員会 もっと大切にし、先祖 を 中 心 に し て『 提 言 案 』 32 第2バチカン公会 議を招集したヨハネ 45 2 0 0 人 が 共 に 祈 っ た。 と い う 形 に ま と め、代 表 妙案を見出す必要があっ タ ン に と っ て、聖 堂 の 塔 キリストの福音について た。 そ の 妙 案 を、教 区 全 の大きな金色の十字架が 人々に知っていただく機 たちが命懸けで守っ 教会と分かる印だったこ た信仰を広く伝えて と、外 国 人 の た め に 建 て た っ て 審 議 し、最 終 的 に 議員たちが4会期にわ 会だと語った。 共同祈願後は新祭壇の られた教会だったものの 43 ミ サ で は、新 祭 壇 の 祝 福 が、わ た し た ち 自 身 が 福 音 の 精 発行人 大 水 文 隆 福音の基本 キリストの心根を共有しよう のすべての人々といかによく交 神 を よ く 悟 り、よ く 身 に つ け る 印刷所 株式会社 藤木博英社 〒 850‐0852 長崎市万屋町 5‐13 TEL 095‐821‐2146 FAX 095‐821‐2148 わ り、い か に そ れ を 広 げ る か と カトリック長崎大司教区 広報委員会 11 16 30 プティジャン神父が正 10 と教区シノ ド ス 提 言 書 の 大司教署名 も 合 わ せ て 行 われた。 髙見大司 教 は 説 教 の 中 で、日 本 の 教 会 の 歴 史 に おける大浦 天 主 堂 建 設 の 経 緯 を 述 べ、「 教 会 堂 を 見たことが な い 」 キ リ シ 36 11 19 〒 852‐8113 長崎市上野町 10‐34 カトリックセンター内 TEL 095‐843‐3869 FAX 095‐843‐3417 振替口座 01880‐5‐2699 17 11 27 45 47 17 50 23 15 12 19 20 17 70 19 昭和27年1月12日 昭和27年1月12日 第三種郵便物認可 第三種郵便物認可 4 月1日(毎月1日発行) 復活教書 大浦天主堂献堂 150 周年記念ミサ 1027 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 1カ月140 1カ月140 円 年間1,500円( 円 年間1,500円( ) ) 第 カトリック教報 (1)2015年(平成27年) 信徒発見150周年と高山右近列福に向けて これだけのことは知ってほしい ⑭ 教区の刷新のために 熱心ではなかっ たからだという し、反 面、親 が しっかりと信仰 を伝えてこな かったからだと もいいます。こ れまで信仰を伝 ほどにひっきりなしにあずかっていまし り、ゆるしの秘跡にも聴罪司祭が休めない 堂に入りきれないほどの信徒たちが集ま きたつもりだっ 生懸命司牧して す。 し か し、一 つもりなので に頑張ってきた 守 た。信仰が危うくなってきたといわれなが た の に、結 果 と 長崎教区司祭 山脇 えるためにそれ らも、長崎教区の信徒たちの多くが秘めた ぞれが自分なり 今年の2月1日に西坂公園において、日 本二十六聖人殉教記念ミサが行われまし 信仰をしっかり持っているのです。 秘めた信仰 た。約2千人が集まり 荘 厳 に 式 典 が 行 わ れ 人事異動・任命 エスに近づこうと、それぞれの思いを秘め 教者をたたえ、彼らを通して少しでも主イ に、「 長 崎 教 区 は こ の ま ま で よ い の か 」 と ろんな理由で子 も り な の に、い いつ頃からでしょうか。どうしたことか、 心 に 祈 り、信 仰 信仰を持った信徒はまだ随分いるはずなの を伝えてきたつ どもが教会から な表現、新たな方法をもって実施していか 記念ミサが行われたばかりなのに、あらた 日殉教者をたたえて教 区 主 催 で 荘 厳 に 殉 教 ところが、それから4日経過した2月5 日、二十六聖人の殉教の祝日なのですが、先 が、ふと立ち止まって全体を見回して見る ら子へ、子から孫へ伝えてきたはずでした これまで長崎教区は伝統を守り信仰を親か な け れ ば い け な い と 思 っ て い る よ う で す。 教区に漂っていました。 のために、多くの人が、長崎教区を何とかし トが中心ではなくなってきたようです。そ あってどうすればよいのか、もどかしさが ます後退しつつあります。こうした状況に 教区シノドスがはじめて長崎教区で開か れたことから、まだシノドスに関して十分 う。そのために専門家の意見は大変貴重と いえますので、 その意見を紹介します。 (1)価値基準 (名古屋・港主任) いると誤解されることのないよう、教会が はなく、かといって自由気ままを容認して いる。そうした中にあって教会は厳格にで どが教会にも自然風潮として浸透してきて て、経 済 中 心、宗 教 へ の 無 関 心、個 人 主 義 な 現代は時代の変化によって社会が変わっ てきている。近代化・工業化が進むにつれ 認められない。 に自己形成をすることが、これからの信仰 である。従ってこのような信仰を持つよう 力して平和的に生きなければならない社会 まざまな異なった考えを持った人の中で協 と に も な る。 現 代 お よ び 将 来 の 社 会 は、さ 従った道徳生活を誘惑と闘いながら送るこ ができる。カトリック信仰共同体の倫理に り、使徒的活動に誘って連帯感を持つこと 神と約束をすることで、 これが洗礼の意味。 だから自分の信仰や洗礼を他人にも勧めた 保持してきた本来持っていた正しいカト 教育のあり方の根本方針とならなければな うに変わってきた世界の中で、信仰共同体 区シノドスの提言の目指すことは、このよ 働きを持つ信仰共同体を作るかが課題。教 り、世 界 に 対 し て 世 の 光・ 地 の 塩 と し て の 信徒発見後保持していた神学もこれであっ このように変わってきた世界の中で、カ た。 その当時は価値があり意味があったが、 ト リ ッ ク 信 者 は ど の よ う に 信 仰 生 活 を 送 分の」信仰を持たないこの時期に、基本道 小さな子どもの場合、神のことを伝える のは親や幼児教育者の責任であり、 まだ 「自 省が必要である。 付けておくことが十分でなかったことの反 教育の中で、堅信までに自分の信仰を植え に は、こ れ が 前 提 で あ る。 こ れ ま で の 要 理 らない。異なった信仰を持つ人たちの中に そ こ で、シ ノ ド ス の 準 備 段 階 に お 色は、位階制を中心にした教会観に基づい い て 教 区 の 全 世 帯 へ の ア ン ケ ー ト、 て い た。 そ れ 故、信 徒 の 役 割 を 充 分 に 認 め としての教区は何を大事にしなければなら (3)強調すべき点 リック倫理を見極めて伝える必要がある。 松本 幸徳師 東京・シャミナード修道院 (海星修道院) ▼マリア会 松本 勝男師 新潟・秋田主任 ( 南山中高校長) (西 パサラ・ジョゼフ師 新潟・秋田助任 町助任) トラン・ドュック・ディエム師 西町助任 (新潟・土崎助任) 西 経一師 南山中高校長 (名古屋・南山中高校長) ▼神言修道会 若林 智樹師 東京・聖ヨゼフ修道院 (本 原協力) ▼フランシスコ会 井田 明師 愛宕主任 (横浜・岡谷主任) (京 三輪 周平師 愛宕助任 都・京都北部地区長) 頭島 光師 鹿児島・谷山主任 (愛宕助任) 橋口 啓悟師 横浜・富士見主任 (愛宕主任) ▼レデンプトール会 敬司師 信仰養成部長 家庭委員長、 センター ▼聖アウグスチノ修道会 (浦上助任) 平野 哲也師 城山主任 中濱 (八幡町主任) 鍋内 正志師 平戸口主任 (福江、 浜脇) 葛島 輝義師 病気療養 ( )内は前任地 (稲佐主任代行) 前田 達也師 病気療養 岩下 和樹師 大崎主任 ▼教区〔4月 日着任〕 (大浦主任) (長崎カトリック神学院副院長) 峰 徳美師 引退 野下 千年師 引退 熊谷 裕司師 長崎カトリック神学院副院長 (エキュメニズム・諸宗教委員長、 センター) (俵町主任) て参加していたようで す 。 そ こ に は 長 崎 の 誰彼となく言い始めて久しくなってきまし なければならないことは確かです。 てきてくれな して信徒がつい ま し た。 参 列 者 た ち の 中 に は、体 の 不 自 由 な 方、高 齢 の 方、ま た 遠 方 か ら 徒 歩 巡 礼 を 信徒ばかりではなく県 外 か ら 参 加 し た 方 々 た。ミサに与る人の減少や召命の減少だけ 離れてしまっているなど、なぜか思うよう 行って西坂にたどり着いた人たちなど、殉 もいれば、信徒以外の方々も加わっていま な結果が出てこなかっただけでなく、ます めて二十六聖人殉教記 念 ミ サ に 参 列 す る 人 今の長崎教区が以前に比べ宣教や司牧面 で、さらに信仰生活において後退している か っ た と か、熱 した。その日は彼らの 二 十 六 聖 人 に 会 い た でなく祈りがおろそかになってしまい、家 が後を絶ちませんでし た 。 長 崎 南 地 区 の 司 とそうではなくなってきているのです。 な理解をもっているとはいえないでしょ 祭団が朝9時から午後 8 時 ま で 2 時 間 ご と フランシスコ・ザベリオや宣教師たちが 持っていた神学は、トレント公会議の神学 応した「新たな熱意」 「新たな表現」 で あ っ た。 そ し て、パ リ・ ミ ッ シ ョ ン 会 が と判断した髙見大司教は、時代の変化に適 これから目指すもの に交代でミサを行い、連続してゆるしの秘 そこでその原因をあらためて見直してみ る と、司 教・ 司 祭・ 修 道 者 が 宣 教 や 司 牧 に 跡を授けていましたが、毎回のミサには聖 ていない。それが第2バチカン公会議にお 閉校が宣言されました。 キリシタン時代の信仰も信徒発見後のキ リ シ タ ン た ち の 信 仰 も、そ の 時 代 の 文 化・ そ れ 故、カ ト リ ッ ク 信 者 は「 自 分 の 自 由 な い、以後は自己の信仰を確立するというよ 行うべきであり、小学低学年までこれを行 き方の重要さを教えるなど、これを家庭で うに段階に沿った要理教育を行う。 選択として、わたしはキリストに従って人 いうことになる。 要理教育はこの観点から総合的に行われ るよう計画的行動が必要である。 信仰に導く手段であり、信仰は自己責任で 親 か ら 伝 え ら れ た と か、先 生、指 導 者、友 人や本の影響、 あるいは結婚などは、 すべて 生を生きていくという決意を持った者」と 神への祈り、 感 現代、 信仰は各自が自分で選び、 自分の責 や生き方の指導だけでなく、 任において生きるべきものになっている。 謝や保護を願う習慣、神の前での良心的生 徳の中に隣人や社会に対する人間のあり方 ありながらカトリックの信仰を保ち伝える いて訂正されたことは周知の通りである。 ないか、 どうすれば崩壊や弱小化を防ぎ、 一 閉 校 感 謝 の ミ サ 後、ホ テ ル 「 新 た な 方 法 」 を も っ て 司 牧 に あ た を会場に祝賀会が行われまし る 必 要 性 か ら、長 崎 教 区 の こ れ か ら 長、副 院 長、会 計 だ っ 小 教 区、地 区、諸 修 道 会、諸 活 動 委 員 それ故に現状に対応するためには、第2バ た 司 教・ 司 祭 た ち も オ生たちが会場を和ませてく 会、顧 問 会 か ら の 意 見 を で き る だ け チカン公会議の神学に基礎を置くことが大 長崎コレジオ閉校式 れました。彼らは長崎教区の 受 け 入 れ ま し た。 そ し て、そ う し た 必ずしも普遍的価値があるとは限らない諸 司祭職を目指す人に 必 要 な 堅 固な信仰とそれに根ざ し た 深 い これからを担ってくれる主要 意見を基に開催されたシノドスにお 点 も 多 い。 具 体 的 に、例 え ば こ の 神 学 の 特 霊 性 の 確 立 と、社 会 で 宣 教・ 司 メンバーにきっとなってくれ 切。 の方向性を教区民で考えるために教 牧にたずさわる人に欠 か せ な い ることでしょう。 いて、教区を代表した議員たちは 『父 コレジオ 生 養 成 は 福 岡 へ 人間としての資質の体 得 を 目 的 の家に帰ろう』を主要テーマとして 人あまりの元コレジ として、島本 要大司教によって 1998年に始まった長崎 コレジオには 年間で 人の 社会・歴史環境に規定されている面を持っ ていた 開 設 さ れ た 長 崎 コ レ ジ オ は、コ し た の で し た。 そ し て、提 言 案 に 大 させたり恒久化することにはあまり意義が 層発展できるかということである。 レジオ神学生養成を全 面 的 に 福 これからの長崎教区の方向性を「シ 月 司 教 が 加 筆 し て 後 署 名 さ れ、 「シノ 公 布 さ れ た 提 言 を 新 た な 熱 意、新 た ド ス 提 言 」 と な り ま し た。 し か し、 ているので、それらを現代にそのまま再生 助祭と6人が大神学院に在籍 22 わ れ、長 崎 コ レ ジ オ の 歴 代 の 院 院長 山脇 守 しています。 (2)現状に対する配慮の必要性 ノドス提言案」として大司教に提出 区シノドス開催を決定しました。 (1) 入 学 者 を 迎 え、そ の 中 か ら 7 た。閉校とあって少し寂しさ (2) 人が司祭に叙階され、1人の も 感 じ ら れ ま し た が、出 席 し (1) 日にその役割を終 え て 閉 校 共同司式し、ミサの最 12 岡 コ レ ジ オ に 引 き 継 ぎ、今 年 2 後に長崎コレジオの 19 (2) もどかしさ いとの強い思いや信仰 を 感 じ る ひ と と き で した。 庭でも教会活動においてもイエス キ ・ リス 下山 盛朗師 稲佐主任 小島 栄師 引退 谷脇誠一郎師 俵町主任 ( 長崎カトリック神学院) (浦上主任 中地区長 司教総代理) 大水 満師 長崎カトリック神学院 ( 滑石助任) (稲佐主任) 中野健一郎師 大野主任 (浦上助任) 片岡 久司師 引退 (中町助任) 橋本 勲師 中町主任 南地区長 (上神崎主任) 金 桐旭師 滑石助任 センター) 小島 (新司祭) 山川 忠師 上神崎主任(信仰養成部長、 明師 福江助任 (新司祭) 下口 勲師 大浦主任 ( 福江主任 下五島地区長) 稲田 伸也師 浦上助任 (大崎主任) 村川 昌彦師 八幡町主任 ▼派遣〔4月 日着任 は1日 は 日〕 山脇 守師 滑石主任 北地区長 司教総代理 (長崎コレジオ院長) 山本 一郎師 高松・今治主任 (長崎コレジオ副院長) 中村 満師 福江、 浜脇、 井持浦主任 下五島地区長 (滑石主任 北地区長) 嘉松 宏樹師 中央協・新聞事業部長兼務 中島 誠志師 東京・日本カトリック神学院 久志利津男師 浦上主任 中地区長 (中町主任 南地区長) 東京キャンパス養成者 (大 野主任) (平戸口主任) 竹内 英次師 福岡・二日市主任(福 岡・糸島主任) 19 しました。 56 20 大 浦 天 主 堂 で の 閉 校 式 で は、 髙見三明大司教司式で ミ サ が 行 17 4 月1日(毎月1日発行) (2) 2015年(平成27年) カトリック教報 1027 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第 「演じる 時代環境の中で必死に生 (西町教会)は、 しらは自分に与えられた 私へのメッセージは『わ す。 演 劇 を 通 じ、彼 ら の をはらうことができま 素直に彼らに感謝し敬意 ゆり役の綾部文香さん ま た、プ テ ィ ジ ャ ン 神 父に信仰を告白した杉本 と語った。 そ、 今につながってきた。 きた先祖がいたからこ 苦しい思いをしながら生 と、 (ゆりの)言葉をか が、得がたい経験でした」 な思いで語っていたのか 年3月 日大浦天 ていけ』ということです。 て、気 持 ち を 深 め て い く 知恵をだして必死にやっ リア様のご像を見たりし ひたむきに信仰を生きた人々を描く劇 「信徒発見」の場面では、 ら れ た 時 代 環 境 の 中 で、 史 を 学 ん だ り、当 時 の マ 感想を語った。 んだ』と思いました」と い。神様はよしとされる 脇 主 任、 年 任、 年 3 月 久 賀 島・ 浜 町 助 任、 年 8 月 紐 差 助 月 稲 佐 助 任、 年 4 月 中 主堂で司祭叙階。同年4 身。 引退される4師に感謝 徳美師 ミカエル 峰 会場のあちこちからすす にあたって信徒発見の歴 『 無 駄 な こ と は 1 つ も な み し め ま し た。 潜 伏 し、 天主堂を訪れプティジャ きてきた。おまえも与え 日本の信徒発見150周 年 記 念 ン神父に出会う奇跡的な り泣く声が聞かれた。出 舞台は柄でもなかった キリスト教の正しい知識を 公 開 講 座 を2月 に向けた し、市 民 学教授・古巣 馨師の「信 令」 、 最終回は長崎純心大 道女の「キリスト教禁止 スト教伝来」 、 純心女子学 ンゾ師の「日本へのキリ 野下千年師 一 つ に し て、乗 り 越 え た よ う 大水害。信者の皆さんと心を 司祭として長年、司牧に専念されてきた峰 徳美師、 野下千年師、小島 栄師、 片岡久司師が引退されること 助 任、 年 長 崎 公 教 神 学 司祭叙階。同年8月稲佐 に な っ た。 こ れ ま で の 活 躍 に 敬 意 を 表 す と と も に、 健康をお祈りしたい。 ペトロ 栄師 校(現長崎カトリック神 任、 年1月桐助任、 同年 年 宝 亀 主 任、 年 浦 上 助 小島 学院) 、 年 中 町 助 任、 任、 年3月稲佐主任、 年 4 月 黒 崎 主 任、 年 4 1 年 4 月 水 ノ 浦 主 任、 公 教 神 学 校 校 長、 年 ア 5 月 か ら 主 任、 年 長 崎 メリカ研修(サバティカ 浦 頭 教 会 付 福 江 助 任、同 受洗。中町教会出身。 1937年 月 日五 島市生まれ。浜脇教会で 任・司教総代理。 江 主 任、 年 か ら 浦 上 主 ル) 、 年浅子主任、20 年 9 月 浦 頭 主 任、 年 カ 年3月 日大浦天主堂で 月から大浦主任。 トリックセンター司牧企 画 室 室 長、要 理 教 育 研 究 所 所 長、 年 N I C E 推 進委員会・養成担当(中 0 5 年 中 町 主 任、 年 か E A P I 留 学、 年 4 月 佐助任、 年フィリピン・ 長、長 崎 県 宗 教 者 懇 話 会 ら カ ト リ ッ ク セ ン タ ー。 座開催を知りました。日 イグナチオ 片岡久司師 0 1 年 田 平 主 任、 年 福 主 堂 で 司 祭 叙 階。 同 年 4 月 俵 町 助 任、 年 4 月 大 野 助 任、 年 9 月 大 司 教 秘 書、 年 2 月 丸 尾 主 任、 年3月馬込主任、 年 4 月 平 戸 主 任、 年 3 月 浦 頭 主 任、 年 3 月 青 砂ヶ浦主任、2005年 2 月 紐 差 主 任、 年 4 月 1939年 月 日長 崎市生まれ。浦上教会出 療養。 稲佐主任、5月から病気 の中で『信仰の領域』と 返 り、現 代 要だと感じるようになっ 聖が現代日本の教会に必 見後の殉教者の列福・列 かった」 と感想を語った。 和 野 の 殉 教 者 ら、信 徒 発 で、そ れ が 聞 け て 一 番 よ たことを紹介した。「日本 発表。五島・久賀島や津 広島司教)が 聞きたいと思っていたの ( 年当時、 な意義を説明。フランシ 人への崇敬がもつ現代的 ス 会 の 平 林 冬 樹 師 は、聖 たいとした。またイエズ 教者の列福を突破口とし 共に熟している津和野殉 も、ま ず は 資 料 も 声 望 も かれなかった。 毎年5月、 聖しよう』という声は聞 も『浦上キリシタンを列 所ある配流地のどこから は、 「今日まで、 藩 カ 歴史委員会の野口勝利氏 最後に登壇した浦上教会 か ら 出 津 主 任、 年 4 月 身。 年3月 日大浦天 いう言葉がでてきました に生きる 会長。 本史の話もとてもおもし が、そ の 部 分 を か ら め て 私たちの の 信 徒 発 見 1 5 0 周 年 」 スコ・ザビエルが福音を 『 乙 女 峠 ま つ り 』 を 開 催 カトリックセンターで開 信徒発見150周年」が 聖をめざして――日本の ウム「津和野殉教者の列 を語った。 シンポジストが次の内容 開催にあたっては4人の で開催された。長崎での 日にエリザベト音楽大学 リック教会の歩みを振り 由獲得へと日本のカト 信徒総流罪から信仰の自 か ら 浦 上 四 番 崩 れ、浦 上 た前田万葉大阪大司教 列聖を目指す」と宣言し て津和野殉教者の列福・ 年(2023年)に向け 始 め に、 2 0 1 3 年、 こ の シ ン ポ ジ ウ ム は、 大浦天主堂での信徒発見 「 広 島 教 区 創 立 1 0 0 周 かれた。 3 月 8 日( 日 ) 、長 崎・ を発見することを目指し 広島教区共催のシンポジ たもの。広島では1月 津和野殉教者の列聖をめざして シンポジウムを開催 信仰の糧 ろかった。最終回の講話 年5月植松主任、200 月大曽主 督・ 脚 本 古 巣 演者は長崎中地区の司 ことができました。どん 祭・信徒を中心とした約 1937年3月 日五 島 市 生 ま れ、堂 崎 教 会 出 馨)が長崎市 古 に 励 み、ひ た む き に 懸 日から3月 日までの毎 徒発見の意義」 。 カトリッ ドミニコ のチトセピア 命に信仰を生きた当時の 週土曜日、4回にわたっ ク信者でない方の参加も 市民に向けた公開講座 され、前日の公 人々を演じた。裏方とし て大浦天主堂で開催し あ り、延 べ 約 6 0 0 人 が 月から稽 開リハーサル て支えるスタッフも含め た。 講 座 は、キ リ ス ト 教 聴 講、キ リ ス ト 教 の 教 え 央協議会) 、 年日本カト 機会となった。 教区エキュメニズム・諸 リック研修センター所 4回とも受講したとい うカトリック信者でな た。そうして5人でスタートし に覚えています。私は初めの 92 人。 昨 年 を合わせ約9 総勢約 について信者があらため や日本における教会の歴 して開かれた。 い 若 い 二 人 連 れ の 方 は、 出身。 年3月 日大浦 ま し た が、時 津 教 会 の 子 ど も た 6 年 間 だ け で し た が、そ の 後 09 ホールで上演 00人が鑑賞 た 舞 台 は、観 客 か ら の 惜 て 学 び、ま た キ リ ス ト 教 史 を 学 び、理 解 を 深 め る 第1回は髙見三明大司 教による「キリスト教に 宗 教 委 員 会 委 員 長、世 界 や 信 徒 の 皆 様 に は、言 葉 で は 表 ち の 要 理 ク ラ ス を は じ め、ご 近 長 与 教 会 も 出 来、お 手 伝 い さ 64 園理事長・片岡千鶴子修 し、 感動を分か しみない拍手のうちに幕 を知らない方々が正しい ちの残してくれたいわゆ ついて」の講話。第2回 連邦日本宗教委員会副会 長崎教区は日本の信徒 発見150周年を記念 ち合った。 を下ろした。 知識を持つことを目的と る『遺産』を美化するこ 天主堂で司祭叙階。同年 人がつくり上げ 250年に わたる司祭不 浦上の子どもたちに洗 礼を授け続けた水方・岩 の浦上キリシタンの日常 と は 苦 手 で す が、自 分 が 4 月 三 浦 町 助 任、 年 稲 在の中、どのよ 永又市役の片岡明俊さん が 丁 寧 に 描 か れ、観 客 は せやフェイスブックで講 以 降 は、日 本 二 十 六 聖 人 「 教 会 の 掲 示 板 の お 知 ら しきれないたくさんのお心をい 所 の 方 々 に 料 理 教 室 を 開 く、乳 71 85 うにして信仰 3月 日(水)、長崎中 地区評議会が主催する 日 笑 い と 涙 を 交 え、約 2 時 記念館館長デ・ルカ・レ ただきました。 児 の 保 育 を す る、放 課 後 の 小 学 せていただきました。 りましたが、 関わってくださっ このたび諸事情がありまし て修道院を閉鎖することにな 長、 年 黒 崎 主 任、 2 0 本の信徒発見150周 浦上に生まれ一人の信者 思 え ば 1 9 7 9 年、主 の ご 降誕のミサがスタートでし 生 の 勉 強 を 見 る、滑 石 教 会 の 手 うまくいかなかったものもあ り ま し た が、毎 日 が 楽 し か っ た た 主 任 神 父 様、信 者 の 皆 様 お 29 05 86 後の新しい宣教のために に つ い て 触 れ、津 和 野 殉 ようにして起こったか 続いて髙見三明大司教 は、浦 上 四 番 崩 れ が ど の うこと」だと強調した。 いの歴史を公に示すとい 動 と い う の は、日 本 の 救 振 り 返 り、 「この列聖運 歴史だった日本の教会を 伝 え た 後、ず っ と 苦 難 の 料館(長崎市平和町 番 ン」も浦上キリシタン資 流された浦上キリシタ シンポジウム開催に合 わ せ、特 別 展「 津 和 野 に の期待を語った。 がりと今後の取り組みへ に 思 い を 述 べ、運 動 の 広 本当にうれしい」と率直 その声が聞かれたことは さ れ て い る 津 和 野 か ら、 日まで。 号、 月曜休館) で始まっ い 」 と の 思 い を 語 っ た。 た。4月 て「 全 面 的 に 応 援 し た 教者の列聖運動に対し 20 13 れ て き た の か、潜 伏 時 代 (浦上教会)は、「先祖た 年 記 念 劇「 そ し て サ ン と し て 生 き て い る と き、 た。 滑 石 教 会 の 巡 回 教 会 で 修道院といっても小さな住宅 風の建物だったので、当時、長崎 伝いをする……など分担して使 櫃、十字架、ご像も小さめ……こ のを覚えています。中でも 年 一人お一人に心より 感 謝を申 77 74 83 69 14 08 11 71 96 98 93 78 が守り伝えら 92 05 間におよぶ舞台に見入っ あ っ た 時 津 教 会 は、ま だ 生 ま 県から宗教法人として認めても れが私たちの在り方でしたの の2月は忘れることができませ し 上 げ、こ れ か ら の 時 津 教 会 11 19 63 10 66 70 66 た。特に信者たちが大浦 れたての小さな共同体でし らうのが大変だったのも覚えて この 年 間、時 津 に 派 遣 さ れたシスターたちは延べ 人 ご降誕のミサに招か れ て い ま で、何 と か 認 め て い た だ か な い ん。ヨハネ・パウロ2世が長崎 の歩みの上に神様の祝福をお 63 68 10 62 68 83 タ・マリアがいた―― キ た。三村誠一神父様 が 主 任 司 徒活動を始めました。 した。少し緊張して い た の で と困るのです。そこでお世話に を訪問してくださった一連の行 19 66 69 11 16 23 1937年8月4日長 崎市生まれ。三ツ山教会 11 83 21 リ シ タ ン 復 活 物 語 」( 監 祭 で、あ っ た か い 雰 囲 気 が 主 い ま す。 立 派 な 聖 堂 も な い、聖 くらいです。主任神父様も 年訪問した際、 信徒の方々のご 人お代わりになりました。近 活 躍 を 見 て、最 初 の 小 さ な 共 同体がしっかり 歩まれている す が、皆 様 の 温 か い 心 に 接 し なったのが野下千年神父様でし 事。どんなにか興奮したことで 原田明子 年前の時津派遣を思い出し…… 時津修道院の閉鎖 に あ た っ て のご降誕のお祝いに ぴ っ た り な感じでした。 私たち聖母訪問会 は 翌 年 の 4 月 か ら、時 津 教 会( 年 5月から小教区)で 使 徒 活 動 をさせていただくこ と に な っ て不安もなくなりま し た 。 そ た。これからはこのような小さ 聖母訪問会 の後4月から修道院 の 落 成 式 い修道院もできるのですと県の ことをうれしく感じました。 ま で の 2 カ 月 半、司 祭 館 を お 祈りしています。主の平和。 ていたのです。その た め こ の 借りして徐々に慣れ て い く こ し ょ う。 そ し て 翌 年 7 月、あ の 12 40 10 35 19 14 10 71 89 90 80 方を納得させてくださいまし 81 22 11 Sr. 75 26 35 とができました。三 村 神 父 様 19 81 80 67 11 “そしてサンタ・マリアがいた” 4 月1日(毎月1日発行) 40 1027 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第 カトリック教報 (3)2015年(平成27年) 平戸と佐世保で合同堅信式 “ミサに 来 な い 仲 間 に 声 を 掛 け た い ” できない人々に思いを寄 の信者が聖霊 人 の賜物を祈り 求 め た。 の受堅者のう 〝神のみ旨を自分のものに〟 長崎カトリック神学院卒業式 植 松 ) の 4 人。 窄 口、池 所属の卒業生として初め て、福 岡 コ レ ジ オ( 山 村 ぶどう園 声を掛けたいと力強く に つ い て 触 れ、積 極 的 に に来ない仲間がいる現状 た り、受 堅 者 た ち は キ リ 協力して準備と世話に当 主任司祭や小教区信徒が も と、み 言 葉 の 祭 儀 の 中 て髙見三明大司教司式の で の 初 め て の 堅 信 式 に、 5 時、神 学 院 聖 堂 に お い 昨年新設された佐々教会 で行われた。 大切な我が子を司祭召命 る 」 と 述 べ、保 護 者 に は ら歩んでいくものであ 旨を自分のものにしなが 常 に 恵 み の 中 で、神 の み いつも自分自身の事を選 ▼教区評議会総会 5月 時、カ ト リ ッ ク ℡095‐884‐3428 合先・事務長 田川信子。 エズス会立山修道院。問 ▼136回クルシリヨ 5 月 3 日 ㈰ ~ 6 日 ㈬、イ の か の ど ち ら か で あ り、 4月 ぶ の か、神 の み 旨 を 選 ぶ 4日㈪ 長崎市・同博物館)主催。 同 実 行 委 員 会( 長 崎 県・ クセンター。講師・ルラ 時~ ▼信徒発見150周年記 語った。さらに「どんな スト者としての新たな出 の道に進ませてくれたこ センター。 念事業・特別展『聖母が に 仕 事 が 忙 し く て も、ま 卒業した神学生は、(写 真右から)吉浦 勲さん とに感謝した。式後は祝 憲一院長)に進学するこ た 疲 れ て い て も、車 で 教 発の日を迎えた。 窄口 歩さん(長崎教区・ 髙 見 大 司 教 は、神 の 十 ( 福 岡 教 区・ 伊 万 里 )、萩 戒を生きることはキリス 原直人さん(同・今村)、 宴 が 行 わ れ、喜 び を 分 か とになる。 会 に 連 れ て 行 き、一 緒 に トのように神から愛され 城山)、池田裕輝さん(同・ 見守った奇跡』 長崎歴 史文化博物館。一般80 ミ サ に あ ず か り、言 葉 と ている証しとなることだ た ち は、決 し て 一 人 で は 4人を福岡コレジオに 送 り 出 す に あ た り、髙 見 行いの模範によって信仰 と 説 い た。「 1 5 0 年 前、 なかった。信仰は個人の 田 両 神 学 生 は、長 崎 教 区 の大切さを教えてくれる 大浦天主堂へ信仰を告白 ち中学生が 長崎カトリック神学院 人、 成人が 人。 ( 眞 浦 健 吾 院 長 ) の 卒 業 2月 日(日) 両 親 の 姿 勢 に、ひ し ひ し 平戸地区合同 堅 と 伝 わ っ て く る も の が あ するために向かった信徒 せ な が ら、同 年 代 で ミ サ り ま す 」 と 述 べ、両 親 の ★ ★ 日まで開催。 大 司 教 は「 召 命 の 道 は、 0 円、高 校 生 以 下 無 料。 信仰を模範としながら学 お笑いネタを取り入 れ る な ど、息 の 合 っ た ユ ★ 難 し い 世 界 に あ っ て、同 ていける。信仰を生きる 害の中で信仰をつないだ 2月 日 (日) 午後1時、 に長崎の信徒たちを教育 石油備蓄記念会館を会場 し、250年もの長い迫 オナジ信仰をつないだ先祖に学ぶ 師 た ち が ち合った。 どのよう た。 宣 教 が行われ た」と述べた。 ジ信仰を今に残してくれ た。ここまで育てられた ごし方を求めた点だっ 規 則、同 じ 典 礼 暦 年 の 過 の で、ヨ ー ロ ッ パ と 同 じ ▼講演会「信仰生活とお 議会女性部主催。 入場無料。長崎中地区評 キア氏(スタイルイノ ベーター) 。※随時通訳。 しゃれ」 6月 日㈰ 時 分、カ ト リ ッ じ信仰を受けた者のつな か を 語 る 講 師 に、聴 衆 は 続いて行われたミサの 説 教 で、真 手 ノ 浦 小 教 区 い励まし合いながら生き 上五島地区信徒の集い がりや助け合いを大事に 催で2年に一度 行 われて に、 上五島地区評議会の主 静かに耳を傾けていた。 も の で あ っ て も、支 え 合 してほしい」 集い」が開催された。 いる「上五島 地区 信 徒の 主任の山内 実師は、身近 故カタリナ山本満智子様 右の方々からご芳志を 賜りました。お礼とご報 故マリア眞倉洋子様 呼び掛けた。参加した約 眞 ⃝倉 正様(仲知) ◦匿名様(浦上) 長崎カトリック神学院 ― 香典返し ― 感 謝 受堅者と保護者は感謝 の あ い さ つ の 中 で、キ リ な体験を通して司祭召命 3 5 0 人 全 員 が、心 を 一 「召し出し」を た ち の 教 育 の お か げ で、 に 触 れ、 長崎はすでにヨーロッパ 最初に純心大学の片岡 瑠 美 子 学 長 を 迎 え、講 演 キ リ シ タ ン た ち が、オ ナ ストとのつながりや信仰 参 加 者 の 一 人 は、 「印 象 に 残 っ た の は、宣 教 師 に生きることを大切にし と同じレベルにまで信仰 たいと応えた。 振 り か け て 食 べるの だ と 言って 促 さ れ、 よって 断 ろ う と し た ら、 「私たちが好物 告を申し上げます。 ちました。 ストの愛・いただいたい 集った。テーマは「キリ 佐世保などから 人の青 た が 食 べら れ ず、いつも 断って ば か り い ま した。というのはこの卵は、受精して、もう 年たちが長崎大司教館に 尊く素晴らしいものであ 神 か ら の 贈 り 物 で あ り、 (純心聖母会) 木村スヤ修道女 テオドラ 2 月 日、聖 フ ラ ン シ スコ病院で逝去。 歳。 1926年佐世保市生 まれ。褥崎教会出身。 年に同会へ入会。 年初 初 誓 願 宣 立 後 は、神 崎 修 道院をはじめ、 浦上、 田園 調布、 川内、 八王子、 浦和、 深堀修道院などに派遣さ れ、調 理 や 教 会 奉 仕 に 携 わ っ た。 特 に、共 同 体 の 姉妹たちの食事のお世話 を 誠 実 に 果 た し な が ら、 人との出会いや関わりを 大 切 に し、積 極 的 に 声 掛 けをしていた。いつもロ ザリオを手に祈る人で あった。 葬儀ミサ・告別式は2 月 日、修 道 会 本 部 聖 堂 年 赤 羽 修 道 院。 年 王 子 修 道 院、 年 亀 誓 願。 誓願、 年終生誓願宣立。 で行われた。 フランシスコ 中村安五郎修道士 聖フランシスコ修道会) (コンベンツアル 2 月 日、諫 早 市 高 来 町の養 護 老人ホーム聖フ 有 修 道 院、 年 東 村 山 修 道 院、 年 聖 母 の 騎 士 修 道 院。 2 0 0 9 年 3 月、 養護老人ホーム聖フラン シスコ園に入所。 聖コルベ神父が長崎で 生活した最後の時期に入 会。 要 理 教 育、園 バ ス 運 転、 受付係などを務めた。 温 和 な 性 格 で、多 く の 人 に無原罪の聖母や聖コル 区長の﨑濵宏美師司式に 年4月 葬儀ミサ・告別式は2 月 日、同 修 道 会 日 本 管 ランシスコ園で逝去。 歳。 ベの精神を伝えた。 1921年9月 日福 江市久賀町生まれ。浜脇 教会で受洗。 よ り、本 河 内 教 会 で 行 わ 月4日終生 を し た。 最 後 に、そ の 実 ループごとに分かち合い 月 見修道院に入会。 1920年7月9日新 上五島町生まれ。 年福 年3 日 初 誓 願、 年 3 月 日終生誓願宣立。 通夜は2月 日福見修 道 院 で、葬 儀 ミ サ・ 告 別 ささげた。 く 見 守 り、祈 り の 日 々 を 年は若い姉妹たちを温か 魂込めて取り組んだ。晩 ちの修道生活の充実に精 物静かな性格の中にも 強 い 信 仰 を 秘 め、姉 妹 た 年院長を務める。 時 の 最 初 の 誓 願 者 で、長 尽くす。聖婢姉妹会統合 育所などでの奉仕に力を 創立期の福見修道院に 入 会 し、農 耕 や 教 会・ 保 れた。 日入会。 年6月 日初 誓 願、 年 アンナ (お告げのマリア修道会) 岩谷チヅ子修道女 2 月 日、上 五 島 病 院 で逝去。 歳。 りをミサの中で共同祈願 ち伝えていくかを考え の ち を 輝 か せ、信 仰 を 保 ト者としてどのようにい 年・ 恵 み の 年 に、キ リ ス ま た、日 本 の 信 徒 発 見 150周年という記念の ることを再確認した。 迎 え る こ と を 踏 ま え、家 与えられているいのちが と、参 加 者 た ち は 各 々 に 一委員長)と深堀 柱氏 あきら つにした集いとなった。 と し ている この 卵 を 食 べない な ら、あ な すると「よく食べられましたね。感心し の理解度が深まっていた たはフィリピン人を軽蔑したことになり 私は意を決して、 しゃにむに食べました。 「キリストの苦しみにあずかればあずかる ました」と、 にっこり笑って「でも食べる 会で行われ、300人余 式が2月 日(土)午後 信式が平戸ザ ビ 学生 、大人6)が、髙見 ニークなあいさつの最後 跡を受けた。 あさ ひ 陽 君( 中 2・ 御 厨 教 会 ) 感謝式で受堅者を代 表 問 も 飛 び 出 し て い た 。 ゆう してあいさつした嘉松 悠 に は、髙 見 大 司 教 へ の 質 三明大司教から堅信の 秘 山田の6小教区 人( 中 宝亀・田平・紐差・西木場・ 決意を示した。 行 わ れ、平 戸・ 校と教会を両立していく エル記念教会 で ⃝ 6 月 11 日㈭~ 17 日㈬ ( 5 /27 締切) (城山教会)の協力のも と き、貴 方 は 目 をつむってい ま し た よ 」 。 復活と卵 にミサにあずかること が 紛 争 や 病 気、高 齢 の た め 3月8日(日)佐世保 と 嘉 松 麻 陽 君( 同 ) は 、 地区合同堅信式が佐々教 ひ 30 大司教館で教区青年黙想会 ま す 」 と 言 わ れ る や ら、 「あなたはそん ⃝ 5 月 14 日㈭~ 20 日㈬ ( 4 /29 締切) る た め に、青 年 た ち は グ 47 カリタス大槌ベースボランティア募集 庭特別委員会(古木眞理 「キリストの愛・いただいたいのち」をテーマに 教区青少年委員会(工 藤秀晃委員長)は、3月 バ ル ゥ ー ト の ほ ろ 苦 い 体 験 が、人 々 と より深く親しくなれたという喜びに変 の ち ―― あ の 日 を 想 い、 8日(日)教区青年黙想 わったように、苦しみを通して喜び、 死を 今 を 見 つ め、こ れ か ら を 会 を 行 い、長 崎・ 大 村・ 通して復活へという事を教えられた体験 その後、司祭になってから、 北関東で働 きましたが、助祭の時の体験は、 多くの在 となりました。文化的・人種的違いを越 生きる」 。 日フィリピン人の司牧のために大変役立 化に親しくなれたような気がしました。 なんだかその時から急にフィリピンの文 これ に は 少 々しゃ く に さ わ り ま し た が、 なに臆病者ですか」と言われる始末。そ (Ⅰペトロ4・ ) ほ ど 喜 び な さ い。 そ れ は、キ リ ス ト の 栄 光 が現れるときにも、喜びに満ちあふれるた めです。」 年以上昔、助祭になった年に、体験学習 のためフィリピンへ 行 か さ れ ま し た 。 文 化 がちがうと食べるも の も こ ん な に ち が う の かと驚かされたこと が あ り ま す 。 ず、 弱音をはいては、 日本男児の名がすた こまで言 われたのでは断る訳にもいか えて互いに理解し合って一つになると し ば 見 か け ま し た。 何 度 も 勧 め ら れ ま し すぐ雛になる寸前のものを茹でたものだっ き、喜 び も 文 化 的 豊 か さ も い た だ く の だ 向 こ う の 人 が、バルゥー ト とい う ア ヒル の茹卵をおいしそうに食べているのをしば た か ら で す。 と こ ろ が、マニラ か ら レ ガス る という わ け で、とに か く ま ず 受 け 取 り ピとい う 所 に バスで 旅 行 中、隣 に 座った 同 54 17 ⃝ 7 月 9 日㈭~ 15 日㈬ ( 6 /17 締切) 14 として献げた。 60 48 10 59 乗 者のフィリ ピン 女 性 がこれ を 差 し 出 し、 ました。すると今度は食べ方を教えてく には東日本大震災の日を 14 88 51 93 24 TEL 095-842-4450 FAX 095-842-4460 13 28 と思います。 10 77 18 れ ま し た。 躊 躇 し ている と、岩 塩 を 少 し 38 42 申し込みは所属小教区へ。問い合わせは 教区本部事務局(松尾)まで。 28 15 10 12 15 64 式は翌 日福見教会で行 22 (本原教会) 今年は戦後 年である こ と、ま た 3 日 後 の 日 食べるようにしきりに勧めるのです。例に 11 21 佐世保地区 江夏国彦神父 67 われた。 23 みことばにふれて 116 12 57 42 13 36 62 31 70 94 15 31 60 15 15 15 平戸地区 25 35 4 月1日(毎月1日発行) (4) 2015年(平成27年) カトリック教報 1027 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第
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