第2バチカン公会議開会の頃の思い出

印刷所
株式会社 藤木博英社
~
年、公会議開会
1962年 月 日から 年 月8日まで開催された第2バチカン
公会議は、4つの会期に分けられる。山内清海師がサン・スルピス司
祭会会員としてローマに留学されていた時期は
ヨハネ 世と
から第2会期の頃までであった。当時の思い出を書いていただく。
日(日)、中町教会で
長崎南地区 評 議 会 は 8
さ れ て い た、偉 大 な 教 皇 ピ オ
世の後継者として選ばれた
現
代の奴隷制度である人身
売買の根絶
カン公会議が開催された。しか
年
月には、予告通り、第2バチ
せた。しかし3年後の1962
催 を 宣 言 し て、再 度 人 々 を 驚 か
さ ら に 新 教 皇 は、着 座 1 年 後
の 1 9 5 9 年 に は、公 会 議 の 開
集合体が形成され、
教会全体が、
の、信 仰 と 知 性 の 調 和 し た 一 大
マ で は、ま さ に カ ト リ ッ ク 教 会
したことであろう。この時ロー
顧 問 神 学 者 た ち が、一 同 に 集 合
会議のために特別に任命された
者 た ち の 他 に、バ チ カ ン か ら 公
でもあった。
このような歴史的状況の中で
開催された第2バチカン公会議
言っても、過言ではなかった。
提言推進会議の議員任命
部
長
中濱敬司 (
信仰養成)
(福
紙﨑新一
音化推進)
(教
眞浦健吾
会奉仕者)
委員長
黒崎勝郎
山内茂雄
松本久幸
下田浩二
葛島幸則
(長崎中)
(長崎南)
(長崎北)
(佐世保)
(平 戸)
(上五島)
(下五島)
下山盛朗 (典 礼)
大水文隆 (広 報)
大山 繁 (
「 教 区 シ ノ ド ス 提 言 推 進 会 議 」 議 員 が、 7 月 日
信仰教育)
工藤秀晃 (青少年)
付 で 任 命 さ れ た。 ま た、会 議 で 取 り 扱 う 議 題 を 準 備
(生
谷脇誠一郎
す る 同 推 進 会 議 中 央 委 員 会 が 組 織 さ れ、山 脇 師( 委
涯養成)
岩村知彦 (
員長)
、中 濱 師、紙 﨑 師、眞 浦 師、下 窄 師( 事 務 局 長 )
平和推進)
川口昭人 (人 権)
が委員を務める(事務局秘書 宮崎善信氏)
。
岩崎晋吾 (福 祉)
(佐世保)
葛嶋秀信
岡 秋美 (召 命)
教区長
(教
山田 聡 (平 戸) 辻原達也
会奉仕者)
髙見三明大司教
橋口朝光 (上五島)
地区評議会議長
中村 満 (下五島)
司教総代理・顧問
林田殉二
三村誠一 (
山脇 守 (長崎北)
司教任命) 田川孝弘
下窄英知 (
事務局長)
法務代理
古巣 馨
(大
司教館)
教区顧問
久志利津男
(長
崎中)
橋本 勲 ( 長崎南)
講 演 を 欠 か さ ず 聞 い た、と 確 信 し
公 会 議 中、私 は 毎 日 の テ レ ビ や
夕 刊 紙 な ど で、で き る だ け 忠 実 に
て い る。 特 に 第 1 会 期 後 半 か ら、
となられるラッツィンガーなどの
会議の進展状況に注目していた
会期(1963年9月~ 月4
月~
れていた著名な顧問神学者たちに
やカトリック系の学校などで行わ
日 曜 や 休 日 に、ロ ー マ 市 内 の 教 会
友 で あ っ た こ と か ら、何 度 か 食 事
教 授 が、私 の 論 文 の 指 導 教 授 の 親
フランスの哲学者ジャン・ギトン
し か っ た、当 時 の ベ ネ チ ア の
大司教、アンジェロ・ジュセッ
井清邦牧師様(長崎キリ
れる状況です。被爆・終
日 本 は、新 た な 争 い へ
と向かう危険性が危惧さ
もあった。
こ の 公 会 議 に は、日 本 か ら は
人 の 司 教 様 た ち が 出 席 さ れ た が、
地区評議会女性部
川原由美子 (
長崎中)
五島 忍 (長崎南)
松本 恵 (長崎北)
小出惠子 (佐世保)
小川ふい子 (
平 戸)
野下敏美 (上五島)
葛島志代美 (
下五島)
修道会代表
ジェブーラ・エウゲニウス
(神言会)
大山ミサエ (
お告げ)
(神言会)
教育施設代表
西 経一
福祉施設代表
心)
(長崎北)
松﨑ヒロ子 (
純
青年代表
今田亜希
今 年 度 も 半 ば を 過 ぎ た。
教区シノドス後の最初の
半 期 は、教 区 と し て は 司
祭研修会と第1回教区シ
ノドス提言推進会議を開
催 し た が、新 た な 歩 み の
始まりを具体的に信徒に
感じてもらえているだろ
う か。 せ め て、教 区 評 議
会の活動方針『神のいつ
くしみを生きよう』とい
う言葉が浸透してくれれ
ば と 願 っ て い る が、現 状
はどうだろう▲地区や諸
団 体 に お い て は、教 区 シ
ノドスの公式提言に応え
る た め、独 自 の 目 標 を 掲
げたところもある。より
現 場 に 近 い だ け に、新 た
な展望が開けるのではと
期待している▲率直に言
わ せ て も ら う と、我 が 教
区の現状と展望は大変厳
しい。教区の人口減少は
著 し く、司 祭・ 修 道 者 の
召 命 の 激 減 は も と よ り、
教会の存続が危ぶまれる
小教区・巡回教会も少な
くない。教区全体が縮小
していくことは避けられ
ない情勢だ▲だから今
ン種(マタイ ・
ください。神の恵みはす
ルに滞在されていた他の日本人司
ぐ そ こ に、現 実 に あ る。 山 口 愛 次 郎 長 崎 大 司 教 様 は、ホ テ
に、長 崎 大 司 教 と し て 出 演 さ れ た
レビで 放 映 される 国 際 記 者 会 見
いか
教 様 方 と は 別 に、バ チ カ ン 広 場 の
瞋り
私 た ち は、生 き て い る 限
すぐ傍にあった聖アウグスティヌ
―
り『瞋りの炎』を持って
和を実現する人
をのり越えて」
。
い る。 そ れ を 慈 し み の
します。私の嫌いなあの
最 後 に、私 の 罪 を 赦 し
てください。私も人を赦
ご と に 大 司 教 様 の 宿 舎 を 訪 れ、会
市、
川原義和両師とともに、
土曜日
議中の資料の整理を手伝っていた
忘れられない。またわれわれが整
理する書類にはほとんど赤鉛筆の
線 が 引 か れ て い て、熟 読 さ れ た 跡
)
、
狼
) で あ っ て、そ も
ま ま に、私 は 何 か 手 伝 う こ とで も そも大きくもなく力もな
あるのかと思って会見場に同行し
いのだ。唯一の強みはキ
たことがあった。大司教様はまず、
リストと結ばれているこ
特に被爆後の教区の状況について
と、た だ そ れ だ け ▲ 教 皇
イ タ リ ア 語 で 所 信 を 述 べら れ、そ
フ ラ ン シ ス コ は、今 年
の 後、各 国 の 記 者 た ち か ら 質 問 を
月8日無原罪の聖マリア
受けられたが、
大司教様は、
記 者た
ち が 語 る 英・ 仏・ 伊 語 の 言 葉 で、 の祭日から来年の王であ
・
つめ直したい。我々はパ
こ そ、教 会 と は 何 か を 見
「イエス様は、
息を吹き
か け て、弟 子 た ち に 使 命
分 に 帰 る 』 と は、意 識 し
ある。まずは
『瞋りの炎』 と息をしてください。
」
がはっきりと分かった。
山口大司教様についてはもう一
つ 驚 嘆 さ せ ら れ た こ と は、彼 の 達
者 な 語 学 力 で あった。 あ る 時、テ
が、
「一緒に来なさい」と言われる
をお与えになった。人間
て『息』呼吸すること。
が、い つ も 静 か に 会 議 の 資 料 を 読
は、す で に 故 人 と な ら れ た 深 堀 栄
さ て、
『 瞋 り 』 は あ ら 人が幸せでありますよう
ゆ る 病 気 の 根 源 で あ る。 に。私の嫌いなあの人の
に帰ることができる。『自
は、息 を す る こ と で 自 分 『息』に変えてください。 ス 会 本 部 に 宿 泊 さ れ て い た。 私
の群れに放たれた羊(同
福者パウロ 6 世教皇を囲む日本司教団
◦一般
◦日本 平
和に貢献する諸宗教間の
交流と対話
第2バチカン公会議中の
ローマの雰囲気
この公会議のもう一つの特徴
は、公 会 議 に 出 席 さ れ た 教 父 た
も こ れ は、第 1 バ チ カ ン 公 会 議
まさに興奮のるつぼと化したと
ちに同伴した個人的な顧問神学
振 り の、ま さ に 歴 史 的 な 大 快 挙
( 1 8 6 9 年 ) 以 来、 1 0 0 年
こ の 公 会 議 に は、出 国 許 可 が
出ない共産圏諸国以外の世界中
2540人もの教父たちが参集
日 ) 中、ロ ー マ で 学 位 論 文 を 執
を 共 に し、論 文 や 研 究 に つ い て も
が、
特に有益で楽しかったことは、 ただ一人の信徒として招集された
し た が、そ れ に プ ロ テ ス タ ン ト
筆中だった私には、
最高の霊的・ よ る 公 開 講 演 会 だ っ た。 私 は、当
相談し、
励まされた思い出がある。
の国々から、公会議史上最多の、 の「 第 1 会 期 」
(1962年
諸 派 か ら も、オ ブ ザ ー バ ー と し
時 特 に 注 目 さ れ て い た、Y・ コ ン
スト教協議会議長)によ
節目に』のテーマで講演
戦
月 8 日 ) と、翌 年 の 第 2
て招かれた多くの代表者たちが
知 的 刺 激 と な り、理 想 的 雰 囲 気
ガール、
H・ド・リュー・バック、
と し て は、ほ と ん ど 無 名 に 等
ペ・ロンカッリ枢機卿だった。 加 わ っ て、ロ ー マ・ 聖 ペ ト ロ 大
の中で研究を続けられたこと
の永遠の
る『広島・長崎キリスト
をお願いしました。戦時
尊さをもっと真剣に考え
山口愛次郎大司教のこと
聖 堂 で、教 会 史 上 最 大 規 模 の 公
すでに高齢者だった新教皇
安息を願
下における国や社会と教
なければと思います。
を消してその状況から自
願 い が 叶 い ま す よ う に。 み ふ け っ て お ら れ た お 姿 が、今 も
髙見大司教様の意向
で、被 爆 マ リ ア 像 の 安 置
迫害する人のために祈り
式 に 始 ま り、松 田 清 四 朗
分 を 元 に 戻 し、癒 や し の
誤解され、
侮辱され、
耐え
―――――――――
神父様(湯江主任・コン
静けさを持っている
『息』
切れずに怒り狂うことが
長崎北・南地区両評議
会は8月 日(日)、滑石
ベンツアル聖フランシス
をしてください。そして
長崎南地区評議会
それに後で教皇ベネディクト 世
M・D・セェニュやK・ラーナー、
方 は、少 な く と も 教 皇 候 補 者
10
は、私の生涯の宝であり、
誇りで
は、「ヨハネ 世」を名乗り、 会議が、荘厳に開会された。
世界中の人々を驚かせた。
いロザリ
者共同平和アピール』が
会 の 関 わ り、「 社 会 の 中
き か、何 が で き る の か と
教会で合同研修会を開
コ修道会)の講演会を開
滑石小教区評議会
議長 鈴木 博
私の心を見透かされた
ようなお話でした。
催、約 2 0 0 人 が 参 加 し
第 3 部 は、髙 見 三 明 大
司教様司式による『平和
考えました。
年 の 節 目 に、平 和 の
で国の責任を私たちも共
に『被爆・終戦 周年の
﨑新一神父様(植松主任) 宣言されました。
オ を さ さ げ、第 2 部 は 紙
長崎南・北地区で研修会
月
の集いを行い ま し た 。
第1部は午前 時よ
り、浦 上 教 会 か ら の 被 爆
マリア像を迎 え る 式 と 感
に感謝をささ げ ま し た 。
いてくださっ た マ リ ア 様
の時も日本の 教 会 と 共 に
終 戦 と、順 境 の 時 も 逆 境
信徒発見・再宣教・被爆・ 今、私 た ち が 何 を す る べ
教 伝 来 か ら 迫 害・ 潜 伏・ に 担 う 」 と の お 言 葉 に、
謝のミサです 。 キ リ ス ト
28
ないだろう」とまで高く評価
1 9 5 8 年 月 日、先 に
も後にも「彼以上の教皇は出
第2バチカン公会議
23
の た め の ミ サ 』。 説 教 の
14
11
〝主の平和実現〟のため
平和を実現する人は幸い
◦宣教 ア
ジアにおけるキリスト者
共同体の宣教
教皇さまの意向
第2バチカン公会議開会の頃の思い出
発行人
大 水 文 隆
その中に神の声を聞いて
長崎教区司祭 山内清海
ない語学力に感動させられた。
としたい。
(S)
生きる共同体の深化の年
しかも流暢に応答された。私はあ るキリストの祭日までを
ら た めて、大 司 教 様 の 衰 え を 知 ら 『 い つ く し み の 年 』 と さ
れた。神のいつくしみを
12
〒 852‐8113
長崎市上野町 10‐34
カトリックセンター内
TEL 095‐843‐3869
FAX 095‐843‐3417
振替口座 01880‐5‐2699
きました。テーマは「平
33
12
ました(写真)。
13
10
23
70
16
12
聖ヨハネ 23 世教皇
中 で、髙 見 大 司 教 様 と 藤
16
64
10
そ の 後、先 の 大 戦 で 犠
牲になったす べ て の 人 々
10
62
65
11
10
30
10
カトリック長崎大司教区
広報委員会
70
16
12
昭和27年1月12日
第三種郵便物認可
10 月1日(毎月1日発行)
12
1032 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可)
第
)
1カ月140
円 年間1,500円(
カトリック教報
(1)2015年(平成27年)
聖アウグスチノ修道会とは
哲也
トルコライスはお好きですか
聖アウグスチノ修道会司祭 平野
修道会のカリスマ
―
ウグスチノ修道会が創立されます。
録 に、
『 彼 ら は 全 て の も の を 共 有 し、 実際、
このような霊性の上に、
今の聖ア
各々の必要に応じて分配していた』と
い を 尽 く し て 』 愛 す べ き で あ り、隣 人
グ ル ー プ に『 聖 ア ウ グ ス チ ノ の 会 則 』
そんな歴史があったなんて知りません あるからである」
(会則Ⅰ、1~4)
。
1 2 4 3 年、教 皇 イ ノ チ ェ ン ト 4 世
でした。会の創立者は誰ですか? あの
『告
ま た、ヨ ハ ネ 福 音 書 講 話 の 中 で は、 は、イ タ リ ア の ト ス カ ー ナ 地 方 で 隠 修
白録』
を著した聖アウグスティヌスですか? 「神を、
『心を尽くし、
精神を尽くし、
思 生活を送っていた複数の修道者たちの
歳の時、ミラノで回心した彼は、
聖アンブロ
わ っ た と い え る と 思 い ま す。 3 8 6 年、
順 序 で は 先 で す が、隣 人 へ の 愛 は 実 行
べきことがらです。神への愛は命令の
常 に 瞑 想 し、心 に と め、実 行 し、果 た す
わ り、
『大合同』といわれることが起
呼 び か け、そ れ に 複 数 の グ ル ー プ が 加
も、教 皇 ア レ キ サ ン デ ル 4 世 が 新 た に
修道会が誕生しました。1256年に
た 隠 修 士 た ち に よ っ て、 1 2 4 4 年、
こ れ ら の こ と は 常 に 考 え る べ き こ と、 う に 書 簡 を 送 り、そ の 呼 び か け に 応 え
を『自分のように』愛すべきなのです。 に従う修道会として一つにまとまるよ
ジオから洗礼を受け、その後、
故郷の北アフ
の順序では先です。……ヨハネは明ら
こ り、修 道 会 は さ ら に 大 き く な っ て い
そ う で す ね ~。 彼 は、修 道 会 創 立 に 直 接
に関わったとはいえませんが、間接的に関
リ カ( 今 の ア ル ジ ェ リ ア ) へ 戻 り、父 親 の
か に、
『目に見える兄弟を愛さない者
年)し、多国籍の人たちの司牧や炊き出
家を修道院に改築し、友人たちと共同生活
は、目 に 見 え な い 神 を 愛 す る こ と が で
(
を始めました。彼が理想としたのはエルサ
日本における修道会の歴史
レムの初代教会共同体の姿でした。自分の
―9)
。
きません』と言っています」
(
、7
き ま し た。 ま た、当 時 の 福 音 的 な 清 貧
なぜアメリカからですか?
意に反して司祭に叙階された後も修道生活
―
しなどの社会活動にも携わっています。
「もしもし、聖アウグスチノ修道会でござ
い ま す。」「 あ の ~、修 道 会 に 興 味 が あ り ま
ことでした。キリシタン時代に長崎で働い
を続け、ヒッポの司教に叙階されてからも
に応える形で托鉢修道会の一つとして
運 動 や ヨ ー ロ ッ パ の 商 工 業 化、都 市 部
1584年に2人の会員がマニラからマカ
まっている第一の目的は、この修院におい
る よ う に 命 じ る。 あ な た が た が こ こ に 集
院で生活するあなたがたに、次の事柄を守
た の は ア ウ グ ス チ ノ 会 士 で す。 日 本 と は、 れに与えられた第一の掟だからである。修
そして、兄弟を愛しなさい。これは、
われわ
グスティヌス自身の生き方でもありま
ある教会に「奉仕する」ことが聖アウ
て、
その実りをもって、
キリストの体で
互 い の 友 情 の 中 に 神 を 見 い だ し、そ し
によって全ての物を「分かち合い」
、
お
で、
「共に祈り」
、
「食事をし」
、兄 弟 愛
聖書(み言葉)を中心にした生活の中
のような会です。ところで『トルコラ
と バ ラ ン ス の と れ た『 ト ル コ ラ イ ス 』
一 つ に 盛 ら れ、滋 味 豊 か な ハ ー モ ニ ー
「色んな意味で、
うちはスパゲティと
トンカツとカレーチャーハンと野菜が
命としています。
応 え て 奉 仕 し、福 音 を 生 き る こ と を 使
―
どこから来て、何をしていますか?
ハリウッド映画の『 ロ ッ キ ー 』 で 有 名 に
なったアメリカのフィ ラ デ ル フ ィ ア 市 の 郊
ン 教 会 を 建 て、『 第 三 会 』 を 創 設
ま た、 1 6 1 2 年 に は、長 崎 の 眼 鏡 橋 付
近(古川町)にサン・アウグスティ
修道院を建て、宣教活動が始まりました。
者、観 光 客 ら
共有にしなければならない……。使徒言行
の会の存在理由であり、
カリスマです。 イス』はお好きですか?」
旧出津救助院で歌と祈りの集い
人ほどが
ともなり
お 茶 会 で は、修 練 者 手
弾んでいた。
純心聖母会の修道院が落成
島原半島で宣教と癒やしの場を目指す
可能と思われていた島原
に、配 流 先 の 金 沢 か ら 帰
還した浦上信徒の家族が
住み着いた。
1932年、
キリシタンたちの牢で
られ、1940年に上の
1月24日(土) 第2回入学審査〔出願期間1/13(火)~1/22(木)〕
長崎大司教区の山口愛次郎大司教様から
して、修道会案内の本を見ていたら五十音
でもそうでしたが、アルファベット順でも、 宣教者派遣の要請があり、それに応えての
アとAで、そちらの修道会の名前が最初に
ていたアウグスチノ会に、再び長崎の地に
このように聖アウグスティヌスに
と っ て 修 道 院 は、キ リ ス ト の 掟 を 実 際
生 ま れ た ア ウ グ ス チ ノ 会 は、現 在 も キ
の人口増加によって教会と時代の要請
に生きる場であり、
共同生活とは、
愛を
オへ向かう途中に、嵐に遭い、偶然に平戸へ
て、魂 と 心 を 一 つ に し て、専 ら 神 に 心 を 向
し た。 こ の 精 神 を 生 き る こ と が、う ち
愛なる兄弟たちよ、全てにこえて神を愛し、 学 び、福 音 を 共 に 生 き る こ と で し た。 リストの体である教会や社会の必要に
397年頃に記した『聖アウグスチノの
会則』が彼の精神をよく表しています。「親
目に留まったものです か ら ~ 。 ち ょ っ と マ
キリシタン時代?
教区司祭たちと共同生活を続けました。
―
イ ナ ー な 修 道 会 で す よ ね。」「 え っ
あ、 戻って来てほしいという大司教様の強い願
は ~ ぁ。」「 と こ ろ で、お 宅 の 会 を 一 言 で 言 いからです。
う と ど ん な 修 道 会 で す か?」「 そ う で す ね
~。長崎名物の『トル コ ラ イ ス 』 の よ う な
修道会でございます。 ス パ ゲ テ ィ と ト ン カ
はい、アジアとは 世紀の半ばから関わ
りがあり、フィリピンへ最初に福音を伝え
漂 着 し た の が 始 ま り で す。 そ の 後、マ ニ ラ
け、互 い に 和 合 し て 生 き る こ と で あ る。 何
ツとカレーチャーハン と 野 菜 が 一 つ に 盛 ら
に 戻 り、 1 6 0 2 年、ス ペ イ ン 人 宣 教 師 が
物も自分のものとは言わず、全てのものを
れたような……。」「はぁ~っ 」
外にあるヴィラノバからです。1952年、 再来日し、大分県豊後地方の臼杵に教会と
し、病 人 や 貧 し い 人 た ち の 世 話 を
集 ま り、救 助 院 1 階 は ほ
3名の会員が来日し、長崎の浦上地区の城
そ の 後、聖 マ リ ア 学 院( 日 本 初 の 小 教 区 学
し、福 音 宣 教 に 励 み ま し た。 し か
ぼ満杯と盛況だった。
島原市上の町に純心聖 島原小教区主任の山田良 あった島原城内二の丸に
最
母 会 島 原 修 道 院 が 完 成、 秋師司式により、9月1 「二の丸教会」が建ち、
年 )。
校)を開校し( 年)、幼きイエス会の助け
し、1614年には宣教師追放令
1部はミニコンサート
で修練者たちのコーラス
初の主任司祭として山口
山 に 修 道 院 と 教 会 を 建 て ま し た(
の も と、幼・ 小・ 中 の 子 供 た ち の 教 育 に 力
が 出 さ れ、こ の 教 会 は 取 り 壊 さ れ
を楽しみ、2部は参加者
宅助師が着任。島原の教
の 中 で、宣 教 と 癒 や し の
を 注 い で き ま し た。 現 在 は、お 告 げ の マ リ
てしまいました。厳しい迫害の中、
も共に歌いながら
「テゼ」
日(火)落成式が行われ
会 は、浦 上 信 徒 と 早 坂 久
作 り の ゆ う こ う ケ ー キ、 仕と地域の方々との交流
ア 修 道 会 の 協 力 を 得 て、保・ 幼・ 小 を 通 し
ア ウ グ ス チ ノ 会 士 た ち は、第 三 会
の祈りの集い、3部のお
た。同修道院は、201
之 助 司 教、教 区 司 祭 た ち
ド・ ロ さ ま の 蕎 麦 ク ッ
てキリスト者以外の子 供 た ち も 含 め て 教 育
会員が大村の鷹島や長崎の西坂で
茶会へと続いた。参加者
3年3月をもって閉園し
の手によって復活を果た
た 」「 簡 単 で 参 加 し や す
に携わっています。そ れ か ら 、 1 9 5 9 年
殉教していきました。その数60
建てられ、サン・スルピス大神学院も近く、 員 た ち と 共 に 活 動 を 続 け、多 く の
には福岡の笹丘に修道院、小教区、幼稚園が
0 人 に 及 ぶ と も い わ れ て い ま す。
たちは特に、2部の祈り
た学校法人第二純心学園
し た。 と こ ろ が、社 会 情
かった」
「友人と喜びを
修練院もありました。
そ の 中 に は、福 者 ト マ ス 次 兵 衛 神
の集いに深い感動を受け
聖和幼稚園の跡地に建て
ん。地元の
東京オリンピックの 年 ( 年 ) に は 名 古
屋に港教会が建てられ ま す 。 名 古 屋 港 の す
父(金鍔)や長崎の聖マグダレナ
た様子。積極的に歌って
ら れ、研 修 棟 も 併 設 さ れ
方々の他に
ぐ側で、伊勢湾台風の数年後、長屋に住んで
が 含 ま れ て い ま す。 金 鍔 神 父 は、
祈 り を 深 め、ロ ー ソ ク 奉
ド・ロさまと祈ろう!
い る 貧 し い 人 た ち も 多 く、ま た、貨 物 船 に
日本人初のアウグスチノ会司祭に
献(写真=吉永友愛さん
勢を背景に立ち退きを迫
場となることを目指す。
乗って日本に物資を運 ん で く る 船 員 た ち の
な り、魔 術 を 使 う バ テ レ ン と し て
8月 日(日)旧出津
救助院でコンサートと祈
ている
(写真は小聖堂)
。
メール [email protected]
キ ー、ド・ ロ さ ま の お 茶
世話、長崎方面から金の卵として都会に出
恐れられ(長崎の民話に残されて
撮影)では、
神への思い、
町(現島原修道院)に移
リスト教でない方々には
TEL 095 - 842 - 4450 FAX 095 - 842 - 4460
を い た だ き な が ら、話 が
て来たカトリック青年 労 働 者 た ち と そ の 家
いる)、谷や洞窟に潜伏しながら宣
りの集いが行われた。指
碑がこのことを記憶して
数 は 1 4 0 人、 世 帯。 転した。「聖和礼拝所」の
現 在、半 島 全 体 に ま た
がった島原小教区の信徒
いる。
〒852-8121
長崎市三川町 1234-1
TEL.095-845-6846
http://www.seido.ed.jp/
申込・問合せ 教区本部事務局(担当 宮崎)
〈お問合せ・資料請求〉
お申込みは 10 月 5 日(月)から受け付けます
分かち合えた」などの感
族を司牧するために、 2 つ の 集 合 住 宅 と 2
導と指揮・草野延代さん、 願いなどをささげた。キ
高 齢 者 が 多 く、他 は 転 勤
教区内の小教区、
修道院には別途お知らせ
想が寄せられた。
つのマンションを建て、また、その子供たち
教活動を続けました。
族。 今 後、小 教 区 へ の 奉
日程・旅費の詳細は 10月初めに教区ホームページに掲載
シスター
を預かる幼稚園も併設され、聖心会が、小教
リ ア 修 道 会 修 練 者 8 人、 戸惑いがあるのではとの
コ ー ラ ス・ お 告 げ の マ
懸 念 を よ そ に、
「繰り返
たちの関係
区活動や外国人司牧に も 携 わ っ て く だ さ い
し か し、 1 6 3 7 年、彼 と ミ カ
エルという日本人神父の殉教に
し祈ることで心に残っ
テグ大司教司式の降誕ミサ参加
かつて徹底的に弾圧さ
れ、キ リ シ タ ン 復 活 は 不
ました。
フ ル ー ト・ 草 野 雪 音 さ
テ グ…小教区での交流会、
降誕夜半ミサ参加
33
ん、ギ タ ー・ 白 石 仁 美 さ
入学審査 出願期間
第 1 回 平成 27 年 11 月 14 日 ( 土 ) 平成 27 年 9 月 27 日 ( 日 ) ~ 11 月 12 日 ( 木 )
第 2 回 平成 28 年 1 月 30 日 ( 土 ) 平成 27 年 12 月 11 日 ( 金 ) ~平成 28 年 1 月 29 日 ( 金 )
第 3 回 平成 28 年 2 月 13 日 ( 土 ) 平成 28 年 2 月 1 日 ( 月 ) ~ 2 月 12 日 ( 金 )
その他 事前研修会あり(後日連絡)
〈平成28年度入学に関する日程〉
ソウル…殉教地、
司教座ミョンドン聖堂の巡礼
募集人員 / 男子 30 名 選考方法 / 審査・保護者面接
定 員 30 名(11 月 5 日、もしくは定員になり次第締め切り)
児童募集中
17
校訓:①自由と責任 ②ポスムス (POSSUMUS)
③英雄的瞬間
訪問先 ソウル大司教区、
テグ大司教区
80
祈る
本校はカトリックの教育理念に従って全人格的な成長を促し、
本当の幸せを知り、味わい、そして周りの人々にその幸せを
与えることのできる子供たちを育成します。
日 程 12 月 23 日(水・祝)~ 12 月 26 日(土)
85
その後、1968年には東京の下町・江 よ っ て、日 本 で の ア ウ グ ス チ ノ 会
戸川区の工場地帯に小教区を建て、現在は、 の活動も幕を閉じました。
23
精道三川台小学校(男子校)
長崎大司教区主催
16
!?
55
ディズニーランドに近 い 同 区 の 葛 西 に 移 転
68
石 碑
文字彫刻
墓地工事
リフォーム
墓地分譲
韓国巡礼募集のお知らせ
!?
64
56
10 月1日(毎月1日発行) (2) 2015年(平成27年)
カトリック教報
1032 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可)
第
10 月1日(毎月1日発行)
年の沖縄平和学習
の空には戦闘機が飛び
えているようでした。
マ教皇庁立グレゴリアン
り ま し た。 沖 縄
難な始まりとな
と交流し、資料館(写真) と を 聞 き、そ れ ぞ れ が 平
ンセン病の元患者さん方
だいた沖縄愛楽園ではハ
下 ろ し、宿 泊 さ せ て い た
の公園から米軍基地を見
者がこの学習で学んだこ
日 程 は 未 定 で す が、参 加
総 会 中 は、ブ ラ ジ ル と
国内の全修道院に「総会
討議が繰り広げられた。
題 に つ い て、熱 く 真 剣 な
年 が 明 け て 発 表 し ま す。 に、今 後 取 り 組 む べ き 課
ん だ こ と を さ ら に 深 め、 現 在 の 分 析 資 料 を も と
大 学 教 授、教 会 法 ) の 同
交っていました。高校生
伴を得て、
修道会の過去・
に到着してから
を毎日発信し、
会となると思いますので、 ニュース」
を 見 学 し ま し た。 ま た、 和について考 える良い機
使われ今も保存されてい
丸記念館、首里城、戦中に
さ や 愚 か さ な ど を、対 馬
からも代表者が参加)の
で、代議員・オブザーバー
会本部(長崎市三ツ山町)
8月 日(月)から
日( 木 ) ま で、純 心 聖 母
戦後
参 加者は3つのグルー
プに分かれ、
この学習で学
の平和学習はガ
沖縄の豊かな自然にも触
た ち は 空 を 見 上 げ、高 台
イドの方と参加
高校生9人が参加、戦争の悲惨さを実感
者の協力のもと
8月 日(月)から
日( 木 )、 3 泊 4 日 で 沖
る数々の防空壕(ガマ)、
出席を得て第 回総会が
日、髙 見 大
としての支えを励みに進
ジ が 届 け ら れ、修 道 家 族
に、力 強 い 応 援 メ ッ セ ー
修道院からは祈りととも
ぜひお越しください。
山内啓輔助祭
れ る こ と で、沖 縄 が 抱 え
ている基地問題の現状と
で特に大きな問
題もなく、自分た
本当の平和とは何かを考
縄 平 和 学 習 が 行 わ れ、長
沖 縄 平 和 祈 念 資 料 館、ひ
行われた。
髙見三明大司教司式の
開会ミサに続いて梶山義
第 回 大 村殉教祭
50人余が参加した。
ミサに先立って行われ
たプレゼンテーションで
区の有志による劇が上演
さ れ た( 写 真 )
。参加者
の一人は「殉教・迫害だ
れば被害者意識
だけを持ちがち
な私たちの信仰
を見つめ直す良
年は9月4日シーハット
今年度で閉鎖される大
村 市 民 会 館 に 代 わ り、来
祈りをささげた。
れ、多 数 の 参 加 者 が 共 に
みことばの祭儀が行わ
虎 原 殉 教 地 に 移 動 し て、
こ ばる
に よ る 記 念 ミ サ の 後、放
ほう
た。髙見三明大司教司式
い機会になった」と語っ
劇を通して歴史を振り返る
ただき、
総会は終了した。
9月6日(日)大村市
民会館において第 回大
サの中で激励と祝福をい
挙 が 行 わ れ、次 の 会 員 が
総 長 山野アヤ子
総顧問・副総長
木村美由紀
山田 幸子
山田 房惠
村殉教祭が開催され、6
は、植 松・ 水 主 町 両 小 教
選出された。
村川 貞子
総顧問
け で な く、潜 伏 キ リ シ タ
ンや教会による迫害につ
ベルナルド
冷水義美神父
が急変し亡くなったことを知ら
友 人 を 見 舞 っ た 1 週 間 後、容 体
よ。」 と っ さ の こ と で 返 す 言 葉
の 信 徒 に 呼 び 掛 け、日 曜 日 ご と
え て い た だ い た。 そ の 後、数 名
さい。そして祈りなさい」と教
配せんでもいいよ」と言われた。 全な痛悔を起こすように勧めな
に困っていると、「すまんな、心
に自宅に集まり一緒に祈り始め
で す。 あ な た も 緊 急 の 場 合、完
聖母の騎士へルルドの水を汲
壁に張った。
宿老は毎月一度、
は ● 印 を 付 け、一 覧 表 に し て
き な か っ た 人 は △ 印、欠 席 者
し た 人 は 〇 印、仕 事 で 参 加 で
と出欠を取った。祈りに参加
願 っ た。 こ れ が『 完 全 な 痛 悔 』 暗唱していた。祈りが終わる
い て も 演 じ ら れ、と も す
(純心聖母会)
ヒルデガルダ
生田洋子修道女
8月 日聖フランシス
〒 852 - 8114
お知らせ
▼日本カトリック難民移
佐世保『一つ
住移動者委員会主催全国
〈長崎カトリック神学院〉 研修会
町教会。
月
の船に乗って行く』
日 ㈭、三 浦
本紙6月号1面既報の
神学校創立150周年記
日㈰
月
時、
牢屋の窄
(五
日㈫~
念 ミ サ の 日 程 は、
「いつ
日)
▼牢屋の窄殉教祭
月
くしみの特別聖年」開年
ミ サ の 開 催(
日㈰に変
更となりました。
に 伴 い、 月
ぶどう園
▼第137回クルシリヨ
月 9 日 ㈮ ~ 日 ㈪、
イエズス会立山修道院。
問合先・永山悦子。
℡095‐879‐3611
▼島原・天草殉教福者記
念 ミ サ『 剣 を 鋤 に、槍 を
鎌に』 月 日㈰ 時、
原城本丸跡。悪天候時は
島原教会。
問合先・島原教会。
純心聖母会島原修道院。
℡0957‐ ‐2952
℡0957‐ ‐2092
島市久賀島)
。
もらいました。笑顔で迎
し、以 来 よ く 声 を か け て
年 佐 野 教 会、 年 栃 木
年 長 崎 修 道 院、聖 フ ラ ン
教会、 年大田原教会、
たものがたくさんありま
せ て く だ さ っ た り、受 け
でオルガンを弾いて聴か
都 宮 修 道 院 付 教 会 主 任。 だ さ っ た り、音 楽 が 好 き
会(さいたま教区)で司
す」と語った。
年浦和教
祭叙階。 年ローマ聖ア
シスコ病院チャプレン。
年グロッタフェラ
本原教会出身の中野健
通 夜 は8 月 日、葬 儀
一 郎 師( 大 野 主 任 ) は、 ミサ・告別 式は8月 日
本原教会で執り行われた。
6月末には一般病棟から
「冷水神父様とは私が大
ホスピスへ移動した。病
た。 病 状 の 進 行 が 速 く、
た。何事にも熱心に取り
年 本 会 修 練 院 に 入 所。 スタとして誠実に活動し
生 ま れ。 大 曽 教 会 出 身。 仕や八幡町教会のカテキ
学修了。
タ聖アントニオ大学教育
了。
ントニオ大学学士課程修
日荘厳誓願。
学生の頃に初めてお会い
そ の 後、聖 フ ラ ン シ ス
コ 小 神 学 校 舎 監、北 浦 和
えてコーヒーを入れてく
歳。
修練院、
本原教会助任、
同
年初誓願。 年7月
1927年新上五島町
折島生まれ。 年フラン
シスコ会に入会、
着衣式。 主任、
長崎修道院院長、
宇
去。
で開催される予定。
おおむら・さくらホール
長崎カトリック神学院
(フランシスコ会)
された。友人の言葉が耳から離
れなかった「告解をしたか」。
そのリズムに合わせるかの
イ エト スピリトゥス サンク
テ ィ」 宿 老 は 自 筆 捺 印 し、洗
「エゴ バブチゾ イン ノミ
ネ パトゥリス エト フィリィ
する教会に必ず提出するよう
ように体を前後に大きく揺
たものだった。
に助言した。
神ノ島教会 木場田友次
礼 証 明 書 を 渡 し な が ら、所 属
日曜日の祈りのメニュー
を 紹 介 し よ う。 ロ ザ リ オ の
悔 の 祈 」「 救 霊 に 係 る す べ
ざ る 時 の 祈 」「 完 全 な る 痛
後、「 ミ サ に あ ず か る を 得
ら し な が ら、夢 心 地 で 祈 っ
宿 老 の 先 唱 は、長 く 尾 を 引 く 父 様 か ら 指 導 を 受 け 流 暢 で
よ う な 独 特 の リ ズ ム 感 が あ り、 あった。
ラテン語文は聖母の騎士の神
8月 日胃がんのため
み に 行 き、聖 水 代 わ り に し て
い た。 そ の 水 で 洗 礼 を 授 け、 聖フランシスコ病院で逝
今回は6年ごとに開催
さ れ る 総 会 で あ り、菅 原
リ ス ト 像 に し た と こ ろ、好 意
ンチリサンを唱え神に赦しを
禁 教 時 代、キ リ シ タ ン た ち は コ
の こ と を 話 す と、「 司 祭 不 在 の
たのが「軍艦島の家御堂」の起
裕二師(イエズス会、ロー
を示されたので、以来、宗教行
《問合せ・祝賀会申込》
源だ――
夫師(イエズス会日本管
五島・水ノ浦小教区の 巡 回 地
事はキリスト像を使用するよ
――あるとき親友が病に倒れ
数を明記し、
下記へ申込
聖母の騎士修道院に知り合い
の 神 父 様 が い た の で、亡 き 友 人
区 長 ) の 講 話 が あ り、会
で あ っ た「 山 ン 田 」( 現 在 の
行ったことがある。そのとき
司教主司式による派遣ミ
議は審議・選挙・ め ら れ た。
審議の順で進行
「総会ニュース」を毎日発信 し た。 日 に 総
長と総顧問の選
純心聖母会総会
ちが今享受して
い る 平 和 が、 年
前の尊く大きな
犠牲の上に成り
立っていること
を 実 感 し ま し た。
崎教区各地から高校生 9
めゆりの塔などを巡りな
また、戦争の悲惨
人 が 参 加 し、平 和 に つ い
がら数々の資料やガイド
人(ブラジルの共同体
て考える機会をいただ き
ました。
平 和 学 習 中 に も、沖 縄
で感じました。
日 の 出 発 か ら 大 雨、 の 方 々 の 話 を 聞 く こ と
その影響からか飛行機が で、参 加 者 が そ れ ぞ れ 肌
遅れるというアクシデ
ン ト に 見 舞 わ れ、前 途 多
司祭不在の軍艦島で
信仰を支えたコンフラリア
繁 敷 ) に 教 会 は な く、村 落 で
うになった」次第を語った。
「家御堂」という言葉に郷 『お寺に十字架は似合いませ
愁が蘇った。第2次大戦の後、 んね』とお坊さんに言われキ
一番大きかった我が家 が 家 御
仰 い だ 後、お も む ろ に 語 り 始
堂 と し て 7 年 間 使 用 さ れ、亡
軍艦島の家御堂の経緯につ
き 父 が 宿 老 を 務 め た か ら だ。 い て 尋 ね る と、し ば ら く 天 を
このことを軍艦島の宿 老 に 話
すと、一気に親近感が生まれ、 めた。
てくれた。
思わぬ言葉を耳にした。「告解
場所浦上教会信徒会館
1937年新上五島町
10
24
することなく徹底してい
願。 初 誓 願 宣 立 後 か ら、 組 み、あ ら ゆ る 面 で 妥 協
態でも常に感謝を口に
床で身動きのできない状
年 初 誓 願、 年 終 生 誓
本会の使徒的活動の場で
し慕われた。
通 夜 は 8 月 日、葬 儀
ミサ・告別式は8月 日
し、苦 し み を 最 期 ま で 十
6 月 中 旬、体 調 不 良 を
訴 え、聖 フ ラ ン シ ス コ 病
本部聖堂で執り行われ
字架上のキリストと共に
高 等 学 校 で 長 年、教 育 に
院 で 受 診 し た と こ ろ、全
た。
ある純心女子学園
(長崎・ た。 反 面、細 や か な 心 遣
携 わ り、家 庭 科 と 宗 教 を
身性転移性がんと診断さ
鹿 児 島・ 東 京 ) の 中 学・ いで生徒たちや父母に接
担当した。
れ、そ の ま ま 入 院 と な っ
年の誓
退 職 後 は、石 神 井 の イ
エズス会無原罪の聖母修
願生活であった。
ささげていた。
道院(黙想の家)での奉
15
独身の私をよく夕食に 招 待 し
家 御 堂 に、十 字 架 で は な く
キリスト像を置いた理 由 を 尋
ての恵みを求むる祈」など、
99
日時記念ミサ終了後
84
日時12 月 20 日(日)16 時
* 写真は長崎市の許可を コ病院で逝去。 歳。
87
長崎神学校創立150周年
得て撮影
22
23
55
14
た こ と を 伝 え 聞 き、見 舞 い に
ね る と、「 葬 儀 に 多 く の 仕 事
仲 間、隣 近 所 の 人 た ち が 多 数 ( ゆ る し の 秘 跡 ) を し た か。
ほとんどの方が長い祈りを
82
20
参列するので、お寺で行った。 何 十 年 も 告 解 を し と ら ん と
申し込みは所属小教区へ。問い合わせは教区本部事
務局(松尾)まで。
10
TEL 095-842-4450 FAX 095-842-4460
院長 眞浦健吾
14
70
17
in
13
20
締切)
締切)
締切)
締切)
日㈬ (10/28
日㈬ (11/25
日㈬ (12/23
日㈬ ( 1 /27
18
16
20
17
日㈭~
日㈭~
日㈭~
日㈭~
12
10
14
11
月
月
月
月
11
12
1
2
⃝
⃝
⃝
⃝
13
12
13
25
カリタス大槌ベースボランティア募集
20 12
11
62
62
メール catholicseminary
@yahoo.co.jp
52 51
69
祝賀会(要申込)
◆
記念ミサ
◆
12
10
Fax 095 - 840 - 0750
46
10
Tel 095 - 844 - 1096
54
記念ミサと祝賀会のご案内
40
長崎市橋口町 10 番 7 号
88
場所浦上教会
40
20
申込氏名・連絡先・電話番号・人
23
13
57
20
14
聖水入れ
47
10
70
締切11 月 15 日(日)
78
60 58
13
30
(2)
17
1032 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可) 第
カトリック教報
(3)2015年(平成27年)
今年3月
と8月に長
見のことについてよく知
か し な が ら、私 は 信 徒 発
て集められました。恥ず
け ら れ、昨 年
うと、
本を読み、
信徒発見
か少しでも理解を深めよ
信仰を守り伝えてきたの
演 じ る 上 で、迫 害 の 歴
史やどんな思いで潜伏し
そのまま決まった。
と思いました。もう〝同
劇のメンバーは教会も
世代もさまざま。「劇のた
しかったです」
えたいと臨んだ佐世保・
めに『みんな神様から集
8月、
信仰の大切さ、
今
め ら れ た 人 た ち な ん だ 』 忘れかけているものを伝
なお恵みでした」
人への感謝が湧き出てく
力になってくれて
て、本 当 に 大 き い
の人が動いてい
その裏でたくさん
なかったです。あのとき
今があるなんて考えられ
出 会 っ た と き に、こ ん な
た。「最初(昨年)
もない人もみんなが泣い
なって」セリフがある人
信徒発見の記念劇で
いる。お祈りや差し入れ
手を上げてよかった」
出 て い る け れ ど、 面 で は、
「思いが一つに
る こ と を 実 感 で き、大 き
崎と佐世
らなかったんです。だけ
月に初め
保で上演
どその日いただいた脚本
聖母平和祈願祭での公
教会で行いました。
され好評を
演。信徒発見の最後の場
交流する場と
あ る こ と、感 性 も 近 い も
博 し た、日 本 の 信 徒 発 見
じる側は表舞台に
志〟ですね。それから演
なっています。
楽しく、そして〝真剣に〟 今 年 は 大 分 教
区 主 催 で「 し ら
が、同 じ 信 仰 の う ち に つ
のを持っている青 年同士
のマリア像がある大浦天
九州青年キャンプ
しんけん~見つけちみよ
を 読 ん で、こ の セ リ フ が
人
う え 新 し い 世 界 ~」 の
1 5 0 周 年 記 念 劇「 そ
キリシタン復活
の お 饅 頭、応 援 の 言 葉 な
いた
主堂に足を運んだ。家族
ど、霊 的・ 物 質 的・ 精 神
青 年 同 士の気 持 ちが近
―
身近に感じました。私は、 し て サ ン タ・ マ リ ア が
このキャンプを通して、
九州という近しい地域で
テーマで開催され、東京・ ながっていることをより
人が参加しました
大阪・高松教区の青年も
含め
区の司祭・信徒らを中心
すごく印象に残りまし
が協力的で、
時々、
夫・哲
所属の西町教会でオル
ガニストとして奉仕。
た も の、カ ト リ ッ ク 史 な
杉本ゆり役を演じた
に総勢 人余が役者と裏
也さんが練習を動画に
的に応援し支えてくれる
物語」(監督・脚本 古巣
より青年同士の絆を深め
方 を 務 め、そ の 中 で「 サ
た。」 芝 居 が 初 め て の 自
方々もいました。劇に関
く、過 ご し て い て 和 む 雰
られる素晴らしい集いで
分に何の役が演じられる
撮って芝居の振り返りが
月に
の 意 味 )。 プ ロ グ ラ ム は
あると信じています。
ンタ・マリアのご像はど
の か と 思 っ た が、単 純 に
グ
小ヶ倉教会 橋本裕紀
テ
際 に 手 を 上 げ た と こ ろ、 は、知 っ て い く 過 程 が 楽
ことも。「大変というより
さ れ て い る こ と、周 り の
わ っ た こ と で、神 様 に 愛
りしゃんの思い」
。
歳。フェイスブック「ゆ
し た。 司 祭 叙
科2年に編入
ク神学院神学
抱負を語った。
謝 し な が ら、次 の よ う に
げで編入できたことを感
なと思っております。し
あ っ て、う ま く で き る か
い環境に対する不安が
という気持ちから配役の
「 教 会 で『 何 で も い い
から協力して』と声を掛
綾部文香さん
授 業 形 式 で 行 わ れ、ク イ
こですか」という重要な
「このセリフを言いたい」 できるようにしてくれる
いる信仰について分かち
してほしいと思います。
弁で「真剣に・一生懸命」 囲 気 が 居 心 地 良 いの で、 馨 )。 長 崎 中・ 佐 世 保 地
ズをしながら大分県に関
来 年 は、福 岡 教 区 主 催
で 開 催 予 定 で す の で、興
セリフを語る杉本ゆり役
で九州青年キャンプが 開
合いました。
する特産物や発祥となっ
を演じた。
授 業 の 終 わ り に は、「 ど
のように信仰を深めるこ
催 さ れ、長 崎 か ら は 9 人
8 月 ~ 日、カ ト とができるのか?」との
リック鶴崎教会(大分市) 問 い か ら、自 分 が 持 っ て
の青年が参加しました 。
生(写真)は長崎教区へ、
す。神様が私をどんな道
あるはずだと信じていま
で、神 様 の 導 き が 確 実 に
んのために日本に来たの
かし自分自身のためでは
な く、神 様 と 信 者 の 皆 さ
イ神学生は福岡教区へ派
大邱派遣の神学生
大神学院に編入
「まだ日本語も足りな
い し、韓 国 と は 違 う 新 し
姉妹教区締結に向けた
交 流 の 一 つ と し て、昨 年
年の
バーベキューや交流会な
韓国の大邱大司教区から
遣される予定。
階後は
ど、静かに祈ったり、楽し
派 遣 さ れ、福 岡 コ レ ジ オ
任 期 を め ど に、キ ム 神 学
九州青年キャンプと
は、那 覇 教 区 を 除 く 長 崎
た。最後に班メンバーの
岡・大分・鹿児島・長崎) く 語 り 合 っ た り し ま し
教会管区内の4教区( 福
寄せ書き付き思い出写真
教区本部事務局長 下窄英知
ま た、お 題 に 沿 っ た 写
真撮影や発表、ロザリオ、
10
ションセンター」を窓口として、 します。
が毎年持ち回りで開催 す
信仰もあまり深くない
私 で す が、神 様 と 信 者 の
ご協力とご理解をお願いいた
具としてお使いになるか
皆 さ ん の 支 え と 祈 り で、
「長崎の教会群インフォメー
分 か り ま せ ん が、神 様 の
れる主の恵みを思わずにおれま
生きていくことができま
⑧﨑津教会 (天草市)
るカトリック青年の集 い
くださった方々」のおか
なるためにがんばりたい
せん。私たちが、エネルギーいっ
す。これからも私だけで
するための処置です。
キ ム 神 学 生 は、「 神 様
で学んでいたキム・ボム、
と、祈 り を 通 し て 支 え て
日、日 本 カ ト リ ッ
ということがありません。いつ
と思います。
強 制 も し ま せ ん。 い
ぱいのこの光の恵みのような
は な く、一 緒 に 来 た イ 神
⑦頭ヶ島教会
(新上五島町)
イ・ハンウン両神学生が
9月
も惜しみなく豊かに与えてくれ
やなら窓を閉めて光
神 の 愛 に 感 謝 し な が ら、多 く の
の品位を保ち、
また教会堂を保全
作 り を し、浜 口 末 男 司 教
寒さを感じさせる笑い話です。
る の で す。 そ の 恵 み の 活 用 に
今までは日本での生活
の た め の 準 備 で し た が、
道具にふさわしいものに
そ ん な 時、ぽ か ぽ か と 暖 め て
くれる太陽の光のようなぬくも
これからは本当の意味で
愛犬〝愛〟の世話に余念が
な い 奥 様 の 話 で す が、買 い 物
へ 行 っ た 先 か ら 電 話 で「 寒
よ っ て は、さ ら に 大 き な 実 り を
を遮ればよいので
人々にもそのぬくもりを伝えて
⑥江上教会 (五島市)
メール[email protected]
することで、
祈りの場である教会
FAX095 - 895 - 9690
⑤旧五輪教会
(五島市)
TEL095 - 823 - 7650
れ規模を超える見学者数を抑制
◎問合せ(業務時間 9:30~17:30)
④田平教会 (平戸市)
で、さ ま ざ ま な 地 域 の 青
兄弟なる太陽よ、
暖めておく れ
もたらす無限の可能性も秘めて
の日本教会への派遣生活
りが恋しくなります。聖書には
います。
害 や 困 難 が あ っ て も、面
い か ら 愛 ち ゃ ん の た め に、ス
昇 ら せ、正 し い 者 に
白 く、そ し て 楽 し く 日 本
トーブをつけておいてね」と 「 父 は 悪 人 に も 善 人 に も 太 陽 を
も正しくない者にも
このように思い巡らすと太陽
の光は、神さまの温かい心、
この
だと思います。たとえ障
) 世を照らす光として来られたキ
る」(マタイ5・
雨を降らせてくださ
の生活をしながら乗り越
す。太陽の光は代償を求めませ
学 生 を は じ め、召 命 に 呼
えようと思います。
ん。感謝されようとされまいと
ゆく者になれますように。
③黒島教会 (佐世保市)
年が出会い、分かち合い、 様司式の感謝ミサを大分
秋 風 に 吹 か れ て、木 の 葉 が
散る季節になりまし た 。 平 和
な 国 の 日 本 で も、人 の 心 を 震
撼させる事件がしば し ば 起 き
ています。そのよう な 現 代 社
会にあっては「愛」 と い う 言
リストのいつくしみ深い愛を思
頼みごと。電話に出たご主人
与え続けます。それでいて決し
太 陽 の 光 は、何 者 い起こさせてくれます。いつの
を も 差 別 し ま せ ん。 日も変わることなく豊かに注が
が「俺だって寒いんだよ」と
て尽きることがありません。少
ありがとうございます」
た め に お 祈 り く だ さ い。
ばれているすべての人の
ガチャンと切ってしまったと
*次回からお告げのマリア
か。なんだかどこにでもあり
修道会のシスター
教会で「見学事前申し込み」が
http://kyoukaigun.jp
必要となります。これは、
受け入
(出島ワーフ2階)
②大野教会 (長崎市)
堂を除くすべての世界遺産候補
◎原則としてホームページから申込
①出津教会 (長崎市)
長崎市出島町 1 - 1 - 205
が高まる中、10 月から大浦天主
〒 850 - 0862
なる教会は以下の通りです。
23
51
70
と書かれています。
45
*旧野首教会(小値賀町)の見学申
し込みは「おぢかアイランドツー
リズム」が窓口となります。
見学者の事前予約受付が必要と
葉 は、い ろ い ろ と 使 い 古 さ れ
て、軽 々 し い 意 味 し か 持 た な
くなったような気が し ま す 。
ある家庭の娘が言 っ た そ う
です「愛はいらない 。 親 切 が
ほしい」と。本当は ど ん な 人
で も「 愛 」 が ほ し い の に、う
わべだけの愛に傷つ く こ と が
あまりにも多いので す 。 こ の
ように言いたくなる 気 持 ち は
(本原教会)
なくなったから減らしましょう
「世界遺産候補教会の見学事前申し込み」のお願い
23
10
ど に つ い て 学 び ま し た。 味がある青年はぜひ参加
(「しらしんけん」は大分
47
そうな家族の対話。心も体も
江夏国彦神父
【長崎の教会群インフォメーションセンター】
教会群の世界遺産登録の機運
10
22
分かります。
みことばにふれて 121
10 月1日(毎月1日発行) (4) 2015年(平成27年)
カトリック教報
1032 号 (昭和27年1月12日第三種郵便物認可)
第