① 春 日 野 ロ イ ヤル ス ク エ ア 集 合 場 所 の目 印 のオレンジ色 の事 務 所 は、 東亜地所の総合案内センターです。東亜祇園 ニュー タウン﹃春 日 野 ﹄は、平 成 十 二 年 十 月 、 団 地 造 成 工 事 が始 まり、平 成 十 五 年 十 月 に 街 開 きが行 われました。五 つの工 区 に分 けて 現 在 も造 成 が進 められており、す べての工 区 が完 成 す ると一 万 人 規 模 の大 きな街 になり ます。団地内には中央公園、せせらぎ広場な ど公 園 が整 備 さ れ、平 成 十 七 年 には自 治 会 も誕生し、日々賑わいを増しています。 新 しく誕 生 した町 です が、ここで育 つ子 ど も達にとってはここが故郷︵ふるさと︶ です。団 地を囲む武田山、火山、丸山の豊かな自然や 歴史、伝説に触れ、故郷に対する誇りと愛着 を育んで欲しいと願っています。 堰堤から山道に入り杉林の中を進みます。 途 中 、椿 の大 木 が一 面 に林 立 す る谷 を通 り 過 ぎ登 り詰 めた峠 が権 現 峠 ︵ごんげんだお︶ です 。古 くは毛 利 輝 元 が広 島 城 を築 城 す る 際 の用 材 が運 ばれたという この峠 は、佐 伯 郡 湯木町水内や沼田町の戸山・伴の方から広島 に出る人や、広島方面から魚や呉服・乾物等 を背 負 ったり天 秤 棒をかついで行商す る人 達 が往 来 し賑 わっていました。水 内 方 面 の筏 流 しの船 頭 が三 メー トルもある櫂 をかついで通 ③権現峠 モリアオガエルは、体長四∼五㎝の緑色をし たおとなしいカエルで、木 に登 るための指 の大 きな吸盤と赤い目が特徴です。四月から七月 頃、池・沼・水田などの水面に張り出した木の 枝や水辺の草むらなどに、黄白色の泡状の卵 塊を産む珍しい習性があります。産卵の際に は雌 一 頭 に対 して複 数 の雄 が抱 きつき、雌 が 産んだ卵 塊を後肢でかき回して、泡 状にしま す。産卵数は三〇〇から五〇〇個ほどで、孵 化 したオタマジャクシはそこから水 面 へと落ち て行 きます 。県 内 では加 計 の吉 水 園 ︵よしみ ず えん︶のモリアオガエルが県 の天 然 記 念 物 に 指定されており有名です。 産卵しやすいように池の周りに木を移植し たり、池 に流 れ込 む土 砂 を定 期 的 に取 り除 く作 業を続 けています 。六 月頃 には木 の枝 に 卵塊をきっと見つけることができるでしょう。 権現峠で一息ついたら、武田山から火山を 経 由 して西 へ延 びる尾 根 道 を 進 んで行 き ま す 。アップダウンを繰 り返 す とや がて岩 が屏 風のよう に立ち並ぶピークに出 ます 。地 図に 名前ものっていない所ですが、岩の上からは安 佐南区が一望でき、ここからの眺めは今回のコ ー スの中 でも随一です 。山本から沼 田 方面は 車 で武 田山 を迂 回 してず っと遠 くのイメー ジ があります が、この岩 山 に立 つと尾 根 を挟 ん です ぐ隣という ことがよくわかります 。堂 々 ④岩山 る姿も見られ、一 時は頂 上に茶店もあったそ うです。 大正の末、伴から安川に沿う道 西国街道 が整 備 さ れ、伴 から自 転 車 で広 島 に出 る時 間と、徒歩で権現峠を越えて広島に出る時間 がだいたい同じであったことから広島に通う中 学 生 や 女 学 生 はこの峠 を利 用 していました。 昭 和 十 六 年 には山 本 村 在 郷 軍 人 会 がこの 峠 を通 って火 山 山 頂 に現 在 も建つ﹁神 武 天皇 烽 火 伝 説 地 ︵じんむてんのう ほう かでんせつ ち︶﹂の石碑を運びました。伴から安川に沿う バスが開 通 す ると、権 現 峠 を越 える者 はいな くなり、今は峠にある小御堂が静かにたたず んでいます。この御堂にはノートが置かれ、訪 れた参 拝 客 や 登 山 者 が思 い思 いに鉛 筆 を走 らせています。どの文章を読んでも山への愛情 が感じられ暖かい気持ちになります。 ( ) ② モ リ ア オガ エ ル の 池 ロイヤルスクエアを出 発 し、神 武 天皇の烽火 伝 説 や 保 勝 会 で整 備 した中 世 の見 張 り櫓 跡 と考 えられる﹁ひょう たん岩 ﹂、す ばらしい展 望の八畳岩など見どころいっぱいの火山︵ひや ま︶を間近に眺めながら、舗装路を登っていく と、や がて砂 防 ダムが見 えて来 ます 。平 成 十 五年に完成した権現川砂防堰堤です。この堰 堤の山側に小さな池があります。団地造成の 際の県の環境評価でモリアオガエルの生息地が 見 つかり、生 息 環 境を保護す るために県の指 導で造られた人工の池です。 とした荒谷山や尾根に連なる火 山・武 田山、 遠くは可 部 方面の眺望を満 喫でき、ここはま さ に﹁安佐 南 区 のヘソ﹂と呼 べるポイントです 。 安佐南区にお住まいの方にはぜひ一度は訪 れてほしいものです。 ⑤ 観 音 山・ 大 塚 峠 岩 山 を過 ぎてしばらく進 むとや がて高 圧 線 の鉄 塔 の立 つ開 けた場 所 に出 ます 。ここが 標高四二六メートルの観音山です。山本の町 から眺 めても尾 根 を歩 いてみてもピー クらし いピー クの見 あたらない山 です が、登 山 道 か ら少し離れた尾根には巨岩が累々と横たわっ ており、観音信仰の対象となっていたのかもし れません。観音山からもなだらかな尾根道が 続きます 。途中 ピンクテー プの巻いてある右へ 分 かれる分 岐 に出 会 います が、ここは平 成 十 二 年 に整 備 さ れた道 で、十 数 分 で広 島 市 立 大 学 上 の西 広 島 福 祉 学 院 ︵安 佐 南 区 大 塚 東 三 六 一︶前に出ることができます。 道はやがて、春日野団地の西端の大塚谷と 市立大学を結ぶ峠︵大塚峠は仮称です。正式 な名 前 をご存 じの方 はご教 示 下 さ い︶に出 ま す。二万五千分の一の地形図には道が記載さ れています が、現 在 はどちらの下 山道 も道 が 荒 れて一 般 の通 行 は困 難 になっています 。山 本 側を少 し下 った山林〇.一七ヘクタールは、 大 正 元 年 にカナダのバンクー バー から帰 国 し た堀田佐六氏の寄付した学校林です。当時の - - 児童達がここにスギ・マツを植林し、太 平洋 戦 争の時に伐採されました。戦後再び児童達の 手 でヒノキが植 えられ、今 は広 島 市 の管 理 に なっています。 歴史ある学校林をこのまま眠らせず、林業 体 験 を通 じて子 ども達 に自 然 の大 切 さ を学 ばせる教 材 として活 用 す ることができないか 検討していきたいと思います。 ⑥ 丸 山横 断 道 峠を越えて二〇mばかり進むと左側に分岐 が現れます。今年春草刈りをして復活させた 岩 観 音 へ通 じる﹁丸 山 横 断 道 ﹂です 。これまで 火山・武 田山 方面から岩観音に向かうには、 大 塚 峠 から急 に険 しくなる坂 道 を上 り詰 め て左 手 に折 れ、今 登 ってきたのと同 じ距 離 の 急 坂 を下 っていくしか道 がなく、武 田 山 から 畑峠、あるいはもっと足を伸ばして鈴が峰まで 縦 走す る人がちょっと立ち寄るという 場所 に はなっていませんでした。 この横断道を通 るとほぼ水平に岩観音へ向 かうことができ、ルートの途中には、張り出し た岩 の上 に一 本 の松 の木がはえ、眼下 に春 日 野 団 地 を見 おろす 素 晴 らしい展 望 台 もあり ます。ルートに近接した山中には奇岩が林立 し、神秘的な竪穴の洞窟も見つかっています。 きます 。見 上げるほどの大岩の上にまた大 岩 が乗っかっていて、この大岩の下はかなり広い岩 屋 になっています 。この岩 屋 が﹁岩 観 音 ﹂で、 ﹁古 観 音 ﹂とも呼 ばれており、小 さ な祠 が三 社と、古 い石 地 蔵 が一 体 安 置 してあります 。 道 はありませんが大 岩 の裏 へ回 り込 んでみ ると、下の大岩も山の斜面から傾いて立ってい るのがわかります 。文 章 だけで説 明 す るのは 難しいのですが、岩全体が実に微妙なバランス で﹁落 っこちず に﹂立 っているので、受 験 生 がこ こに参 れば試 験 に﹁落ちない﹂こと間 違 いなし です。 ⑧上観音 岩 観 音 から道 を下 ると高 圧 線 の鉄 塔 があ り、眼前には宗箇山がひろがり広島市内のデ ルタが一 望 できます 。この鉄 塔 のす ぐ下 にあ るのが上 観 音 です 。境 内 はおよそ五 〇 坪 ︵一 五 〇㎡ ︶の広さで、高さ 一 .五mの石積みの壇 に入 母 屋 造 りの小 堂 と、そばに鐘 楼 が建 って います。この地は昔、西念寺︵さいねんじ︶とい う寺がありました。 上 観 音 の由 来 、沿 革 は詳 しくはわかってい ませんが、宝永三年 一 七〇六 の創 設と伝え ている本 尊 は聖 観 音 の小 像です 。もとは立 派 な仏像が安置してありましたが盗難にあいま した。鐘 楼 は昭 和 三 十 七 年 に再 建 さ れまし た。昭和四十八年に、宗教法人﹁西倉寺︵きい ぞうじ︶﹂と改め、高野山真言宗に属すること 木居の膨大な俳諧の資料、村役人として万 延元年一月から明治二年一〇月までの間の、 二 度 の長 州 征 伐 、飢 饉 ・疫 病 の流 行 、村 落 の 第一 浄山の花見 遠里は眼鏡によせる花もかな 第ニ たわら隠しの凧 吹戻す木枯しなるや穴の口 第三 雌雄岩の春色 あちら からハこちら霞むやめおと岩 第四 園崎社雄 子 羽釦も太鞍に響くきぎすかな 第五 伝仏池の水鳥 鐘の音ハ池を辷るに浮寝鳥 第六 荒神社の紅葉 神風も添えて早まる紅葉かな 第七 田中の芝塚 つミ切た葉もなし塚に茂る草 第八 古城跡の名月 俤に旗ちらつくや月今宵 第九 大利社の藤花 根ひとつに森木からむや藤の花 第十 観音の清水 病ぬ眼もひたしに通ふ清水かな 第十一 八ツ面の蕉花 むせる程花の香かよふ社かな 第十二 八幡社の水蛍 行水も宮も隅なき蛍かな 景として俵かくしが登場します。 ) ⑦岩観音 横 断 道 を抜 けると岩 観 音 のす ぐ上 に出 て さい︶ が、ずっと気になっていました。 今 の保 勝 会 のメンバー ではただ一 人 、村 越 顧問が戦前、上観音の祭りの際に若者同士で この俵かくしに行ったことがあると話してくれ ま したが、ご 高 齢 で現 場 に行 くこと が難 し く、気になりながらも二年近くが経過しまし た。 今 回 の登 山 会 にあたり、祇 園 公 民 館 運 営 委員長の佐藤陽祐さんに、大塚 にお住まいの 河本武彦さん、市本正信さんを紹介していた だき、両氏が伴小学校大塚分校︵昭和三十三 年三月に閉校︶の四年生の時に仲間四人で放 課後俵かくしに登 ったお話を伺うことができ ました。また、大塚峠を越えた山本 側に大塚 村 の入 会 地 ︵いりあいち= 農 耕 に従 事 す る村 落 の人 たちが、自 給 肥 料 や 燃 料 を確 保 す る 場 所 として共 同 利 用 していた土 地 ︶があ り、 山本村の役場に税金を納めていた話しなども 伺 い、山本 にあるのに﹁大塚 谷﹂と呼ぶ理由が こういうことであったかと得心しました。 さ らに市 本 さ んには、幕末 ・維 新 期 の大塚 村 の豪 農 で酒 造 業 を兼 営 し村 の庄 屋 役 を勤 めた小谷雄右衛門︵一八〇八∼一八六九︶と いう 人物についても教えていただきました。十 八 世 紀 後 半 から農 村 の地 主 富 裕 層 の文 化 活 動として俳諧が流行し、雄右衛門は白池庵木 居︵はくちあん もっきょ︶と名乗り、沼田町域 で積 極 的 な活 動 を展 開 しました。嘉 永 五 年 ︵一 八 五 三 ︶夏 、木 居 は﹁当 村 ︵大 塚 村 ︶十 二 景﹂を選び句を詠んでいますが、この中の第二 ( になりました。春日野団地造成にともない中 国 新 聞 祇 園 春 日 野営 業 所 の少 し上 に移 築 さ れた下 観 音 と交 互 に観 音 祭 りが毎 年 行 われ ています。 ⑨ 丸山 足 に自 信 のある方 は上 観 音 から丸 山 をめ ざ します 。岩の間の険 しい道 を数分 慎重に登 っていくと四角い大きい板が向かいの峰に見え てきます 。これがめざ す 丸 山 です 。武 田 山 か ら連 なる尾 根 筋 に出 る少 し手 前 の足 元 に穴 が掘 ってあります 。この穴 は鹿 落 としとも昔 西 念 寺 に詰 めていた僧 が使 っていた水 がめと も 言 われています が真 偽 はよくわかりませ ん。 尾 根 道 に合 流 して左 に数 分 歩 くと標 高 四 七 八 mの丸 山 の山 頂 に到 着 します 。四 角 い大 きな板 の正体 はJRの無線 中 継板です 。市内 方 面 の眺めの良 い山 頂です が、中 継 板 に占領 されて広いスペースがないのが残念です。 ⑩俵かくし 岩観音のそばの木にプレートが掛かっていた のに気 づかれたでしょう か? ﹁岩 観 音 ﹂と赤 い ペンキで書かれた字はほとんど消えかけ、その 下 に、﹁盗 賊 の埋 蔵 伝 説 から俗 にたわらかく しと呼 ばれる奇 岩 は丸 山 の南 西 に﹂と書 いて あります 。いつ頃 どなたが取 り付 けたものか わかりません︵ご存じの方は、ぜひお知らせ下 動 静などを詳細 に記 した日記は、﹃俳諧資料 編﹄﹃延命録﹄として︵株︶溪水社などから出版 さ れており、市 立 図 書 館 にも蔵 書 があ りま す。 日 を改 めて、市 本 さ んが所 属 す る沼 田 歴 史 散 歩 の会 の皆 さ ん︵会 員 二 十 一 名 、会 長 善 甫 利 憲 さ ん︶にもお話 を伺 い、前 会 長 の堀 内 保 範 さ んには、昭 和 三 十 年 から昭 和 三 十 七 年 まで伴 中 学 校 の校 長 を勤 めた丸 本 進 さ んの著作物を貸していただきました。 丸 本 進 さ んは山 本 の人 で、伴 中 学 校 在 職 中 に沼 田 町 域 の歴史 や 伝 説 を精力 的 に蒐 集 されました。俵かくしについては次のような記 述が残っています。 ﹁伴 村 大 字 大 塚 大 東 にあ り 、高 さ 九 尺 ︵二.七m︶、奥行き二間︵三.七六m︶、横幅三 間 ︵五 .六 四 m︶余 りの石 穴 で、春 木 山 ︵注 ⋮ 現 在 の丸 山 ︶の中 腹 にあ る。古 昔 、盗 賊 が米 俵をかくしていたのでかく名付けているらし い。この付 近 には亀 甲 岩 ︵き っこう いわ ︶、甑 岩 ︵こしき いわ ︶、股 潜 り 岩 ︵ま た く ぐ り い わ ︶、女 夫 岩 ︵めおといわ ︶等 があ って異 観 を 呈している。太古の民族居住跡か?﹂ この記 述 に出 てくる、亀 甲 岩 、甑 岩 、股 潜 り岩がどの岩を指す のかは、残念ながら堀内 さ んにもわからないとのことです 。沼 田 歴 史 散歩の会では八年前に俵かくしの現地調査さ れたそうですが、当時道案内をされた会員の ⑪湯つぼ跡 丸 山 から引 き返 し、上 観 音 まで戻 ってきま す。鐘楼下の下山路が二手に分かれています が、湯 つぼ 跡 の標 識 を 頼 りに右 手 に進 みま す 。シダの茂 る開 けた山 道 の右 側 には丸 山 の 岩肌がまるで水墨画のように広がっています。 春 には丸 山 一 面 にコブシの花 が咲 き乱 れ山 の 斜面が白く染まります。山道をくだった谷間 に到着するとプールのような石組みが現れま す。ここが江戸時代から明治の中期まで栄え た温泉だった﹁ 湯つぼ跡﹂ です。 昔この谷に湯がわき、それを浴びて上観音 で祈願すると、霊験あらたかに病気が全快す ると言 い伝えられ、これが世 に広まり参詣者 が多くなったため、小屋がけの湯つぼが造られ ました。湯 つぼの大 きさ は、縦 四 七 〇 ㎝ × 横 八五㎝×深さ五五㎝で、中が仕切られて二つ の浴槽になっています。 広 島 市 史 ︵三 ︶に、﹁文 化 五 年 ︵一 八 〇 八 ︶ 八 月 八 日 、藩 府 、沼 田 郡 西 山 本 村 桶 湯 ︵鉱 泉 ︶を公 然 場 所 と為 し、士 人 の請 ひてここに 赴き浴することを許す。﹂とあります。ここが 繁盛してくると土産物を売る茶屋もできて、 その敷 地 跡 の石 垣 も残 っています 。明 治 三 十 年︵一八六七︶頃までは、年馬をつれてやん谷 道を登り、入浴して上観 音 に参り、茶屋で休 んで帰 る人 で賑 わったと語 り伝 えられていま すが、今は、湯水が涸れて石垣の跡だけになっ ています。 一 昨 年 六 月 に保 勝 会 で崩 れた石 垣 を積 み 直したり底に厚く積もった落ち葉を取り除く などの周 辺 整 備 を行 い、この際 に湯 つぼの源 泉と思われる場所や守り岩、湯つぼの排水孔 の穴 な ど が見 つかり ま した。な お 、﹁温 泉 ﹂ ﹁湯 ﹂という 書 き方をしましたが、温 かい水 が 湧 き出 していたわけではなく冷 泉 だったよう です。 湧き出した水と信仰の力で病気が治るとい う 話 しは、﹁ルルドの泉 ﹂が有 名 です 。一 八 五 八 年 、フランス南 西 部 ピレネ ー 山 脈 の麓 の小 都 市 ルルドの洞 窟 で、十 八 回 に渡 り十 四 歳 の 少 女ベルナデッダの前 に聖母マリアが現れ、少 女 の掘 り返 した土 中 から病 気 を治 癒 す る聖 水 が湧 き出 したといいます 。これが﹁ルルドの 泉﹂として知られ、人口一万五千人のルルドは 毎 年 数 百 万 人 が奇 跡 を求 め巡 礼 に訪 れるカ トリックの聖 地 になっています 。湯 つぼまさ に 日 本 版 の﹁ルルドの泉 ﹂です が、宗 教 上 の聖 地 という よりも、お伊 勢 まいりのよう に娯 楽 の 少ない昔の農民のレクレーションの場だったよう です。 方が体調を悪くされ、その後 他の会員の方で 丸 山 に登 った時 にはもう 道 がわからなくなっ ていたそうです。 俵 かくしの場所 について教えていただいたの は、市 本 さ んの知 人 の梶 田 忠 司 さ んです 。三 十年ほど前まで春の花見に青年団で俵かくし によく登っていたということで、広島市立大学 上 の運 動 公 園 まで連 れて行 っていただき、運 動 公 園 からよく見 える大 岩 の右 あ たりだと 指 さ して、当 時 は神 棚 が祀 られてあったとい うことも話してくださいました。 二 年 近 く抱 えていた謎 がこれでや っと解 け ることになりました。十月 二 十九 日 、登 山会 の下 見 の際 に幹 事 八 名 で俵 かくしまで行 って みました。大塚 から登 る道は今 はわからなく なっていますので、丸山の頂上から中腹に向け て下 っていきます 。俵 かくしは両 側 を張 り出 した岩 の壁ではさ まれた高 さ 十 数 メー トルの 崖 と言 って良 い急 斜 面 の上 にありました。頭 上 にも岩 が張 り出 しているので、横 からも上 から行 くことが出 来 ず 、下 から崖 をよじ登 っ ていくしかありません。丸 本 さ んが書 かれた 岩 穴 からは木 に視 界 を邪 魔 さ れながらも大 塚の町並みが一望できます。岩穴の横には高 さ 一 mほどの岩 屋 がひろがりその奥 に子 ども がや っと入 れる幅 の岩 の隙 間 のトンネ ルが5m ほど伸びていました。 この岩屋に盗賊が米俵を隠したとも想像で きますが、木居が大塚村十二景に挙げている よう に大塚 側 からはよく見 える場 所で、しか も米 俵を崖の上に運 び揚げるのは大変です 。 丸 本 さ んが推 理 さ れている太 古 の民 族 居 住 跡説もこの辺りの古墳の立地条件とあまりに 違う ので賛同 しずらい気がします。三十年前 まで神 棚 が祀 られていたよう に、俵 かくしを 含めた中腹の巨 石 群は、山本の岩観音同様、 信 仰 の対 象 の場 であったか、修 験 者 がこの岩 屋 にこもって荒 行を積む修 験道 の霊 場のよう な場所だったのではないかという説を新たに提 示したいと思います。 今回の登山会では、沢山の方を案内するに はあまりにも危 険 という ことで、大 変 残 念 で す が現 地 を訪 れることができません。頂 上か らは一〇分 程度の距離なので道を整備してい つか皆さんを案内したいと思います。ただし、 俵 かくしに登 る崖 に階 段 をつけたりロー プを 張ったりすると、せっかくの風情が台無しにな ってしまうので、崖をよじ登る自信と体力のあ る人限定となりそうです。岩穴から大塚の街 眺 めながら、あなたもこの俵 かくしの真 実 を 推理してみてください。 ﹁大 塚 ﹂という とアジア競 技 大 会 、西 風 新 都 、広 島 ビックアー チと急 速 に開 発 が進 んだ 町 という 印 象 が強 いのです が、古 い魅 力 的 な 歴史も沢山あることを再認識することができ ました。今 回お世 話 になった沼 田歴史 散歩 の 会の皆さんは毎月第一・第三水曜日に沼田公 民館で例会を開かれています 。興味をある方 は、一度お邪魔させてもらってみたらいかがで しょうか。 ⑫ 湯 ヶ 谷名 水 をいっぱいにできそうにはありません。 昨年の五月、丸山横断道の整備作業を行い ましたが、昼 からあいにくの雨 模 様 で、全 線 整 備 のできないまま撤 収 し、翌 日 、稲 田 副 会 長 が一 人で前 日 の作 業 の続 きをおこないルー トを完 成 さ せました。その時 の事 です 。早 朝 より山 に入 ると前 日 の雨 の影 響 か、深 い霧 に 包 まれていました。﹁湯 つぼ跡 ﹂のあるや ん谷 道︵やんたにどう︶を入り、途中でやん谷川の 源 流 を見 ていくことにした副 会 長 は、源 流 と 思わしき場所でカメラのシャッターを切りまし た。その後 丸 一 日 前 日 の作 業 の続 きを行 い、 山から下りてフィルムを現像してみると、朝霧 の中になんとキツネがこちらを向いている姿が 写 っていました。不思 議 なことに、カメラを向 けた時にはキツネの存在にはまったく気がつか なかったそうです。 この写 真に現れた不思議なキツネに誘われ て、数日後やん谷川の源流を再び訪ねてみま した。途中から踏み跡はなくなり両側を岩の 壁にはさまれた谷間を木をかき分けよじ登っ ていくと、﹁確かここらあたりだったかなあ?﹂ と先 日 、霧 の中 シャッター を切 った場 所 を稲 田 副 会 長 が指 し示 します 。写 真 に写 ったキツ ネは、木の切り株や岩を見誤ったものではない ようです。 さ らに息 を切 らせて登 っていくと険 しい斜 面に石垣が積 んであります。昔 の炭焼き窯の 跡で、その下から水が染み出しています。谷の 中 央 にも水 が流 れた跡はあるのです が、雨水 湯つぼ跡の整備が進むと﹁昔のようにここに 湯 を溜 めてつかってみたい﹂という 欲 が出 てき ます 。湯 つぼの上 の斜 面 の源 泉 とおぼしき場 所は水脈が変わってしまったのか、とても浴槽 の流れがつけた跡で、これより上には水が染み 出している所はないことから、ここがやん谷川 の源流の一つに間違いありません。 手 鍬 で土 砂 を取 り除 き、持 ってきた塩 ビの パイプを差 し込 んで、動 物 が悪 戯 をしないよ う隙間に岩をつめてしっかりと固定すると、パ イプから水が結 構な勢 いで飛 び出 してきまし た。手 をかざ す と、五 月 の陽 気 に似 合 わない 手 を刺 す よう な冷 たい水 でした。さ らにここ から少し下がった水が染み出している所にもパ イプを取りつけました。 八 月 に入 り、病 気 を治した湯 つぼの湯 の正 体 は温 泉 成 分 のラドンではなかろう かという 話 しが出 て、このや ん谷 川 源 流 の水 を検 査 に 出 してみることにしました。残 念 ながら期 待 したよう な数 値 は計 測 さ れませんでしたが、 飲用に適した硬度四という超軟水であること がわかりました。 湯つぼを訪れる登山者 にこの水を飲んでも らおう と湯 つぼ跡 からこの水 場 へ向 かう 道 を 整 備 し、幹 事 会 でこの水 場 を湯 つぼ跡 のある 字 名 を と って﹁湯 ヶ谷 名 水 ︵ゆがたにめいす い︶﹂と命 名 しました。俵 かくしに眠 る盗 賊 の 財 宝 を発 見 し、それを軍 資 金 に、この湯 ヶ谷 名 水 を引 っ張 ってきて湯 つぼを復 活 さ せよう と、大いに盛り上がりました。 ⑬ やん 谷 道 に引き返して下 山します。や ん谷川沿いを進 むこの道をや ん谷道︵やんたにどう︶と言いま す 。道 沿 いには茶 店 のあった石垣 や 縦 五 三 〇 ㎝×横一 九 〇 ㎝×深さ九 〇㎝の牛 馬用の湯 つぼ跡が見えてきます。 さ らに進 むと開 けた場 所 が現 れます 。将 来 、小 川 のせせらぎに親 しめる公 園として整 備 したいよう なロケー ションです が、週 末 はト ライアルバイクがここを占拠して、エンジン音を 響かせています。ブロックタイヤが山肌や路肩 を削 り景 観 を損ねており、狭 い登 山道なので 登山者との事故も心配です。山林の所有者に 現状を知らせ、何らかの対策をとることが必 要だと思います。 ここを過ぎると大きな岩がゴロゴロころがる 決して歩きやすいとはいえない道になります。 想 像 できないかもしれませんが、林 業 が盛 ん な頃は、木材運搬のための三輪トラックがこの 道を走っていました。 ⑭広島県自然歩道︵林道武田山 線︶ やん谷道を抜けると御鉢山墓苑︵おはちや まぼえん︶に出 てきます 。ここから春 日 野 団 地に至る道路を林道武田山線といいます。昭 和 四 十 四 年 に木 材 等 を運 ぶ道 路として着 工 され、山の中腹を切り開いて完成された道路 です 。平 成 元 年 に幅 員 四 mに舗 装 さ れまし た。 畑野 康︶ この武田山線は、南に下ると西区己斐や大 茶 臼 山 ︵標 高 四 一 三 .二 m︶に通 ず るととも に、沼 田 町 へ通 ず る峠 を越 えて、広 島 市 立 大 学 校を右 に見下 ろして大塚 に抜 けています 。 この道を通ると自 然や歴史、文化を、四季を 通じて探勝することができるので、県が﹁中国 自 然 歩 道 ﹂に指 定 し、昭 和 五 十 七 年 にこの趣 旨 を記 した立派 な標 識が建てられています 。 普 段 は人 や 車 の往 来 が少 ないことから、ゴ ミの不 法 投 棄 が大 きな問 題 となっていました が、地元畑組自治会が子ども達の手づくりの ポスターを掲示したり、不法投棄防止用のネ ットを張 るなどの取り組みを続け、効果をあ げています。 また、この道 路 沿 いの中 国 自然 歩 道 の標 識 付 近 の休 耕 田 と春 日 野 団 地 の西 端 に池 をつ くり、ホタルの幼虫の餌となるカワニナを育て ています。祇園西公民館などで育てたホタルの 幼虫を放 流 し、来 年六 月にはホタルの舞う姿 を見 ることができるよう になるかもしれませ ん。 ︵解説文 ※ 解 説 文 作 成 にあたり祇 園 西 公 民 館 発 行 ﹁ふるさ とや まもと﹂の記 事 を一 部 引 用 さ せていただいてお ります。 武田山・火山保勝会のホームページアドレス . y t f i n g o l o c o c . i a k u o h s o h a m a y a t e k a t / / : p t t h 湯ヶ谷名水に舌鼓をうっていただき、湯つぼ / g o l b / m o c よみがえった清水川 よみがえった名 水 は、﹁武 田 の殿 様 のお茶 水﹂ と伝わる由緒ある水場で、清水川︵しみず がわ︶といいます。 わき水 で流 れがないのに﹁川 ﹂と呼ぶのはお かしな感 じがす るかもしれませんが、井 戸 の ことを古 くは﹁∼ 川﹂、もっと古くは﹁∼ 池﹂と 呼んでいました。 現 在 のよう な三 段 に仕 切 られた石 の枡 が 整 備 さ れたのは、百 年 も前 の事 です 。一 番 上 が飲み水、次が野菜 洗い場、次が洗濯物と用 途が決められており、いつもたくさんの人で賑 わう地域の社交場でもあったのです。 戦後すぐは、日照りで周りの田んぼが干上 がってしまっても、三 段の枠を超えて流れるほ ど豊 かな水 が湧 き出 していましたが、宅 地 開 発 が進み水 量が減 り、上水 道 の普 及 もあって 訪れる人もいなくなっていきました。 この水場を最後まで利用されていたご近所 の河本キヨコさ んが、ご恩返しにと、お一人で 花を供えたり掃除 を続けてこられましたが、 昨年腰を痛めて掃除ができず困 っておられま した。 この話しを聞いた水場の上にある祇園北高 校の生徒の皆さんが、ボランティアで掃除をし ようと立ち上がり、十一月十日︵金︶、十名の 生 徒 の皆 さ んが地 域 住 民 と一 緒 に汗 を流 し て、枡 にたまった落 ち葉 や 泥 をきれいに掻 き 出してくれました。 その後も有志が水漏れを防ぐ作業を続け、 十一月十 七日︵金︶、ついに枡を越えて水があ ふれる昔の姿を取り戻しました。 若 い力 を借 りてよみがえった清 水 川 。昔 の よう にそのまま飲 むことができるかどう かは 今 後 の検 査 待 ちです が、地 域 のあたたかい交 流の輪が、この水場を中心にひろがりはじめて います。 登 山 会 の帰 りにぜひ立ち寄 ってみてくださ い。
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