日本酒醸造量はピーク1973年 比で1/3、急増した焼酎の半分と なる。灘五郷の企業数は震災に より1/3に急減、完全自動工場で 自社醸造する大手17社に集約 御影郷灘泉の酒蔵、灘五郷唯一の木造酒蔵だったが、この秋、地元 の保存運動(2億円)は市に無視され、撤去された。 灘の酒は江戸期に伊丹(小西)で清酒開発、 寛永に西宮で醸造開始来400年、伝統的な 酒蔵風景も一部残しつつ、酒文化の歴史を伝 えるため資料館や記念館11か所を開設中。 仕込期に「新酒の香り」が漂よい、平成13年、 環境省かおり風景百選 ○適酒長寿; お酒を適度に飲む人のがん死 亡確率はまったく飲まない人の半分、多飲者 は1.5倍: 国立がんセンターの調査(40~50 代の健康な男性19231人を対象、1990~97の7 年間の調査) ○日本のアルコール消費量は欧州の6割! ピーク1973年比、日本酒醸造量は1/3へ、急増した焼酎の半分とな る。灘五郷は震災を機に急衰、自社醸造大手17社に集約 野本、灘の酒蔵、惨状報告(西宮編) 仕事を辞め無職となり、西宮市推奨観光コース、酒蔵めぐりを始めて、景観の変容、日本酒製造業の置 かれている惨状に驚かされています。日本酒の醸造量のピークは昭和45年から3年間高原状態が続き、 以後徐々に減少しますが、昭和60年頃から焼酎ブームが起こり急激に減少しはじめ、現在ピーク時の3 0%程度となっています、醸造蔵も約3300場から1500場と半減しており、特に灘五郷は震災の打撃も 有り蔵の減少は著しく、蔵めぐりというより蔵跡めぐり状態です、その実情の報告です。 灘五郷酒造組合 には、かつて70社加盟していたそうですが、現在今津郷3社、西宮郷10社、魚崎郷4社、御影郷8社、西 郷3社、計28社が登録されていますが!!! <今津郷>阪神今津駅から43号線を超え南に歩くとキリン堂があります、この北側の道路が「酒蔵通 り」です、更に南に進み「大和の湯」の手前を左折します、T字路になり右手手前に粗末な事務所がありま す、これが「金鹿(灘酒造)」2007年会社更生法申請、現在大関の完全子会社で製品は全て大関で醸造 されています(震災前は阪急とJRが交差する北西側に蔵がありました)。 金鹿事務所を右折し更に左折すると酒の楽市、業務スーパーが姿を現しますその一角に「扇正宗(今津 酒造)」の小さな事務所があります、かつてこの全体が酒蔵でした、現在自社醸造せず、委託製造で自社 ブランド扇正宗の販売は続けています。周りは全て業界四位大関の工場群、一応「葵蔵、寿蔵、平和蔵恒 和蔵、正徳蔵」等と名づけていますが、近代的化学工場のような様相、塗料製造工場と変らぬ外観です。 今津東線に出、臨港線との交差点を見ると「今津港町」の表示があります、震災前は「白雪前」でした、交 差点西は「コーナン」とコープ食品館、ここに伊丹小西酒造の西宮第一工場、第二工場がありました。 扇正宗から北に歩き、酒蔵通りを西に向うと、名所今津六角堂(明治15年建造)があり、更に大関のPR ショップ「関寿庵」に至ります、試飲はできるもの、しにくい雰囲気、なんと焼酎の試飲を勧められました。 歴史資料も無く、主に菓子類を売る甘党の店という趣です。酒蔵通りからは見えませんが、関寿庵東側に 大関魁蔵事務所という建物があります、ここは震災前「世界一統」という和歌山の酒造会社の蔵でした、 灘から撤退し今も健在です。他にも「白魂(伊予酒造)」という愛媛の会社の蔵も今津郷に入っていました、 伊藤ハム本社の西隣に有りましたが撤退しています。 <かつて灘の酒でなければ酒でないと言われ、地 方の酒造会社が競って灘に蔵を造り「灘の生一本」の表示を手に入れた時代が有ったそうです> <西宮郷> 関寿庵を過ぎ、通りを道なりに歩いて10分で業界六位の日本盛の工場群が見えてきま す。明治22年創業、大手酒造会社では最も新しい会社です、工場を蔵とは名づけていませんPRショップ は「酒蔵通り煉瓦館」と呼ばれます。試飲できますが、試飲しにくい雰囲気、展示品も無く酒蔵感をあえて 打ち消した施設です。煉瓦館の斜め向かいに、南に向かう小路があり先は臨港線です、正面に「ミドリ電 化(現エディオン)」が現れます、ここが「灘自慢(国産酒造)」の酒蔵跡、近くに山田電気が在りますが、日 本盛りの閉鎖した酒造工場跡です。ミドリ電化の裏に国産酒造の小さな事務所があり販売は継続してい ます。このあたりはかつて酒蔵銀座でした、ミドリ電化南側の巨大マンション3棟、更に南の戸建住宅群の 敷地は「多聞」と「東洋醸造(醸造用アルコール生産)」の工場跡です、西側には東洋醸造の子会社「和 源」の蔵がありました。多聞の南には「徳若(万代大澤酒造)」の倉庫と直売店、その西は「宝娘(大澤本家 酒造)」の直売店と酒蔵、小さく「オンボロ」ですが見学可能、西宮市で蔵らしさの残る唯一の現役蔵です。 徳若は大沢本家から2005年分離独立、灘で一番新しい酒造会社ということになっています。多聞は 2002年に倒産、ブランドは大関が3000万円で買収、東洋醸造と和源は旭化成が買収その後アルコール 事業から撤退、両社は協和発酵に売却され、オエノングループとして再編されています。「和源」の蔵は、 臨港線と用海筋の交差点東南角にありました、その対角の北西角が「共栄酒造」の蔵跡、名称から地方 の酒造会社が共同で設立したもののようです、震災よりかなり前に解散、撤退しています「金亀、辰鷹」と いったブランド名の酒を販売していたとのこと、金亀は現在、滋賀の酒造会社{(株)岡本本家}で生産され ており、この蔵はかつて彦根藩御用達の酒蔵だったそうです。交差点から少し西に酒蔵風デザインの大き な倉庫があります、和歌山の酒造会社「日本城」の蔵跡、震災後撤退、今も健在です。「日本城」の南東に は「花房酒造」があったそうです、どうなっているかは不明。臨港線を道なりに西に進むと、業界12位白鹿 の酒造博物館、酒蔵館があります、どちらも有料です、博物館は美術品展示と笹部桜資料室というのが 主体で、私には全くおもしろくない施設です(大半の方がそうだと思います)。一方酒蔵館は灘で唯一入場 料の要る酒造資料館で試飲できませんが、酒1合瓶をお土産にくます、入場料400円に対し、280円位 の酒です、展示内容も明治期の酒蔵の様子が良く分かり、酒造工程の説明も豊富で、一見される価値は あると思います(倒壊した酒蔵館は今のより倍位大きく内容も良かった)。更に東に進むと「えびすさん筋」 の交差点に、ここの北東角に「東鶴マーケットスクエア」があります、ここは東鶴の酒蔵跡、スーパーマー ケットですが、さすが酒コーナーは充実しています、今も佐賀で細々醸造を続けているとかこの南には、埼 玉の酒造会社「文楽」の蔵もあったそうです、埼玉では、最近老朽した酒蔵を建て替えています。 「えびすさん筋」を北に進むと白鹿乾蔵、戎蔵、左側には白鹿本社、新田蔵、六光蔵といった工場群、やがて酒蔵通りの交差点に でます、この北東角に酒蔵らしい建物が見えます、「灘一(松竹梅酒造)」の酒蔵でしたが、今「ウオ―ルデコ」という古木材販売会社 の倉庫として使われています、敷地東隅に小さい事務所があり、入口に松竹梅酒造の看板もあり、販売は継続しています。更に北 に進むと創価学会西宮平和講堂が見えます、その西側にネオハイツ宮前というマンション、これが「甲陽鶴」の蔵跡、ブランドは沢 の鶴が継承、北隣は43号線に面してジャパン西宮宮前店があり、ここが「島美人(北山酒造)」の蔵跡、片隅に小さな事務所があり 酒林が吊るしてあります、販売は継続しています。43号線を右折(東方向)して行くと酒蔵風デザインの小さな建物、奥のマンショ ンの自転車置き場です、このマンションが「ツル正宗」の蔵跡、次の小路を南に行くと老人ホーム「メヌエット」、「寿海」の蔵跡です、 左手に「白鷹」の看板が見えその方向に進み、白鷹の蔵とメヌエットに間の道を南進すると、酒蔵通り、正面に巨大マンション「クレ オフォート」と保育園、ここが「富貴」の酒蔵跡、そのまま南進すると臨港線にで、右手が白鹿酒蔵館となります。「鶴正宗」というブラ ンドは今も伏見に在りますが、ここの「ツル正宗」と同じ会社かどうかは不明、灘から撤退した酒蔵は会社案内や会社沿革にさえそ のことをほとんど記載していません。 札場筋と酒蔵通りの交差点の北東角、白鷹の東向かいに「ハーバースタジオ43」というモダ ンな建物があります、洋菓子製造工場で販売店、喫茶が併設されています、ここは「金鷹(本野田酒造)」の蔵跡、スタジオの北向 かいに本野田酒造事務所もありますが、震災以後「休造中」とのことです。その東隣は「西宮酒造会館」、「宮水記念公園」、更に東 に行くと市役所筋の交差点に出ます、北東方向が、灘の酒造メーカーほぼ総てが「宮水井戸」を構える、宮水地帯です、その一角4 3号線と交差する手前に幽霊ビル状態の「多聞ビル」があります。宮水記念公園を東に進むと右に「喜一宮水井戸」の看板が見え ます「喜一(木谷酒造)」の蔵跡、井戸の裏に事務所があり、販売は継続しています。西宮郷からはるか離れた「鷲林寺町」にかつ て「福徳長(灘誉酒造)」の西宮工場があり、工場跡記念碑が残っています。福徳長、富貴は西郷の「富久娘」を含め、オエノング ループに吸収され、いずれのブランドも継承され販売されています、グループは醸造量業界5位、主力工場は旧富久娘の工場です。 寿海は元々「沢の鶴」の子会社、ブランドは同社が引き取りました。 「白鷹」は「白鹿」の分家で経営者はどちらも辰馬性です、白鷹家は北辰馬、白鹿家は辰馬本家、又は南辰馬と呼ばれています。本 家の方は事業拡大、経営多角化を進め、明治30年代には醸造量日本一になっています、海運業(山下新日本汽船→商船三井)、 損保会社(興亜火災→日本興亜)設立を、又甲陽学院を辰馬本家単独で作っています。(灘高校は3家共同) 「白鷹」は逆に規模は追わず、品質第一の堅実経営に徹し、大正13年、伊勢神宮の「御料酒」に全国の清酒の中から唯一選ば れました、現在も奉献が続けられています。白鷹は「緑水苑」というレストラン、ショップ、イベントホールを設けています、江戸期の 家具の展示もあり、無料ですので暇が有ればのぞかれてはと思います、コンサート、落語、展覧会等多彩な催しを行っていま す。 阪神大震災の打撃ですが、大手は震災前に鉄筋コンクリートの近代蔵を完成させており、長期操業停止というような大きな 被害は無かったのですが、大関は古い平和蔵が倒壊、1蔵半壊、白鹿は双子蔵と酒蔵館が倒壊、日本盛は本社施設に被害とだけ 発表され、倒壊は無かったようです、もともと蔵は造らず酒造工場に徹した会社の性格が出たようです。それに比べ白鷹はほとん ど被害がなかったとのこと、さすが伊勢神宮に奉献を続けているだけあり、御神徳の賜物と言われています。 震災で西宮市から7 社が撤退し、現在13社あることになっている酒造会社ですが、実際に醸造しているのは5社、酒蔵らしい建物は白鹿酒蔵館、ウオ ―ルデコの倉庫、宝娘の蔵の3箇所のみで、現役蔵は1箇所だけという状況です。 「えびすさん筋」を北に進むと白鹿乾蔵、戎蔵、左側には白鹿本社、新田蔵、六光蔵といった工場群、やがて酒蔵通りの交差点に でます、この北東角に酒蔵らしい建物が見えます、「灘一(松竹梅酒造)」の酒蔵でしたが、今「ウオ―ルデコ」という古木材販売会社 の倉庫として使われています、敷地東隅に小さい事務所があり、入口に松竹梅酒造の看板もあり、販売は継続しています。更に北 に進むと創価学会西宮平和講堂が見えます、その西側にネオハイツ宮前というマンション、これが「甲陽鶴」の蔵跡、ブランドは沢 の鶴が継承、北隣は43号線に面してジャパン西宮宮前店があり、ここが「島美人(北山酒造)」の蔵跡、片隅に小さな事務所があり 酒林が吊るしてあります、販売は継続しています。43号線を右折(東方向)して行くと酒蔵風デザインの小さな建物、奥のマンショ ンの自転車置き場です、このマンションが「ツル正宗」の蔵跡、次の小路を南に行くと老人ホーム「メヌエット」、「寿海」の蔵跡です、 左手に「白鷹」の看板が見えその方向に進み、白鷹の蔵とメヌエットに間の道を南進すると、酒蔵通り、正面に巨大マンション「クレ オフォート」と保育園、ここが「富貴」の酒蔵跡、そのまま南進すると臨港線にで、右手が白鹿酒蔵館となります。「鶴正宗」というブラ ンドは今も伏見に在りますが、ここの「ツル正宗」と同じ会社かどうかは不明、灘から撤退した酒蔵は会社案内や会社沿革にさえそ のことをほとんど記載していません。 札場筋と酒蔵通りの交差点の北東角、白鷹の東向かいに「ハーバースタジオ43」というモダ ンな建物があります、洋菓子製造工場で販売店、喫茶が併設されています、ここは「金鷹(本野田酒造)」の蔵跡、スタジオの北向 かいに本野田酒造事務所もありますが、震災以後「休造中」とのことです。その東隣は「西宮酒造会館」、「宮水記念公園」、更に東 に行くと市役所筋の交差点に出ます、北東方向が、灘の酒造メーカーほぼ総てが「宮水井戸」を構える、宮水地帯です、その一角4 3号線と交差する手前に幽霊ビル状態の「多聞ビル」があります。宮水記念公園を東に進むと右に「喜一宮水井戸」の看板が見え ます「喜一(木谷酒造)」の蔵跡、井戸の裏に事務所があり、販売は継続しています。西宮郷からはるか離れた「鷲林寺町」にかつ て「福徳長(灘誉酒造)」の西宮工場があり、工場跡記念碑が残っています。福徳長、富貴は西郷の「富久娘」を含め、オエノング ループに吸収され、いずれのブランドも継承され販売されています、グループは醸造量業界5位、主力工場は旧富久娘の工場です。 寿海は元々「沢の鶴」の子会社、ブランドは同社が引き取りました。 「白鷹」は「白鹿」の分家で経営者はどちらも辰馬性です、白鷹家は北辰馬、白鹿家は辰馬本家、又は南辰馬と呼ばれています。本 家の方は事業拡大、経営多角化を進め、明治30年代には醸造量日本一になっています、海運業(山下新日本汽船→商船三井)、 損保会社(興亜火災→日本興亜)設立を、又甲陽学院を辰馬本家単独で作っています。(灘高校は3家共同) 「白鷹」は逆に規模は追わず、品質第一の堅実経営に徹し、大正13年、伊勢神宮の「御料酒」に全国の清酒の中から唯一選ば れました、現在も奉献が続けられています。白鷹は「緑水苑」というレストラン、ショップ、イベントホールを設けています、江戸期の 家具の展示もあり、無料ですので暇が有ればのぞかれてはと思います、コンサート、落語、展覧会等多彩な催しを行っていま す。 阪神大震災の打撃ですが、大手は震災前に鉄筋コンクリートの近代蔵を完成させており、長期操業停止というような大きな 被害は無かったのですが、大関は古い平和蔵が倒壊、1蔵半壊、白鹿は双子蔵と酒蔵館が倒壊、日本盛は本社施設に被害とだけ 発表され、倒壊は無かったようです、もともと蔵は造らず酒造工場に徹した会社の性格が出たようです。それに比べ白鷹はほとん ど被害がなかったとのこと、さすが伊勢神宮に奉献を続けているだけあり、御神徳の賜物と言われています。 震災で西宮市から7 社が撤退し、現在13社あることになっている酒造会社ですが、実際に醸造しているのは5社、酒蔵らしい建物は白鹿酒蔵館、ウオ ―ルデコの倉庫、宝娘の蔵の3箇所のみで、現役蔵は1箇所だけという状況です。 灘の酒蔵 惨状報告―2(神戸編) <魚崎郷> 魚崎郷は住吉川最下流両岸に酒蔵が密集していた所です、西宮郷の酒蔵銀座をはる かに上回る規模、酒蔵銀座と酒蔵新宿が川を挟んで隣り合っている風情でした。今その面影は有りません、その盛衰の状況を報告します。 酒造組合で魚崎郷に加入している蔵に、異色の蔵がある、場所も魚崎から離れた深江の旧岸壁沿いにある「金紋道灌(太田酒造)」です。 オーナーは太田道灌の子孫とか、先祖が結城秀康に仕え、徳川幕府成立後越前に移り家光の代、子孫の一人が幕府隠密となることを命じら れ、東海道草津宿に旅籠(人馬継ぎ立てが主、本陣ではなかったとのこと)を開きます。“オソラク“幕府の支援もあり繁盛し、金融、米仲買等 も始め、やがて大庄屋、「関守」という存在になった、江戸末期には酒造業も始め、維新後、幕府隠密というのがバレなかったのか、寝返った のか? 今も酒造業は続けている。本社は草津、ホームページは草津主体に記載され、深江の蔵(千代田蔵)は瓶詰だけと思われる(HP沿 革に千代田蔵の瓶詰設備更新の記載あり)。蔵の近くには深江文化村と呼ばれる、白系ロシア人が多く住み、西洋館の建ち並び、阪神モダ ニズムを担う地区がありました、現在、当時から残る西洋館は2軒しか残っていません。 更に西に進むと、旧神戸商船大学(現神戸大海事 学部)、新明和工業と続き酒蔵風デザインの大きな白いビルが現れます、これが業界3位宝酒造白壁蔵、震災前は魚崎第二工場と呼ばれて いた、場所は青木です、魚崎の第一工場は完全に倒壊し、ここに集約、最新鋭酒造工場が建設されています。深江、青木地区は43号線が 最も海岸に接近し、後に埋立地が造成され、道路は全て埋立地に向かう自動車優先で出来ており、特に東西方向の徒歩、自転車による通行 は非常に困難な場所です、基本東西南北全て横断歩道橋を使用しないと移動できません、そのため自転車用スロープが設置されています が、横断歩道は無いやっとの思いで白壁蔵に着ます、そこから先も埋立地に通じる産業道路優先で出来ており、西に向かう道は複雑で説明 不能、阪神魚崎駅から案内します。 阪神魚崎駅出ると右に酒蔵案内板があり、そこから住吉川河川敷に下り南に進みます、右手上方には六 甲ライナーの高架軌道、43号線を抜け次の橋近くで堤防に上がる、橋付の袂に再度灘の酒蔵案内板、ここを左(東)に行くと直ぐに剣菱魚崎 蔵、地震で完全に倒壊も再建、東隣は元宝酒造魚崎第一工場、完全に倒壊し、今は県営魚崎南高層住宅、更に東隣は「桜正宗(山邑酒造)」 の桜喜蔵、鉄筋コンクリートの近代蔵で、震災1年前に完成し倒壊を免れ会社を救った蔵です、1717年池田で創業、その後灘に移転、西宮 と魚崎に蔵を持ち、西宮で醸造された酒のほうが旨い、6代目山邑太左衛門は原因を突き止めようと原料、製法等々様々に試し、最後に西宮 の水を魚崎に持っていき醸造したところ、ようやく同じ味の酒が出来た、これが宮水の発見、1840年のことです。桜正宗は灘でも老舗中の老 舗で、酒名に「正宗」を最初に使用した、震災で多くの木造蔵と山邑家住宅が倒壊、現在醸造量を震災前の三分の一に減らしている。桜喜蔵 向かいの山邑家住宅跡は一部が記念館「桜宴」、大半はコーナン魚崎店です、更に東隣は、「花見盛(辻井商店)」跡、そして「浜福鶴吟醸工 房」と続きます、浜福鶴は震災前「福鶴」で蔵は完全倒壊、業界7位埼玉の「世界鷹小山グループ」の傘下企業となり、小規模ですが近代蔵を 再建した、見学コースを作り、蔵内部、作業状況がいつも見られるようになっている。試飲は蔵の杜氏のほうから勧めてくれ、一番試飲し易く、 たくさん飲める蔵です。コーナンから吟醸工房まで続く通りの南側、広大な敷地に桜正宗の木造蔵群がありました、今桜正宗第二倉庫ですが、 実際には貸倉庫です。桜宴は入場無料、試飲は有料百円で3種類(お得です)。2諧は小規模の酒造用具等々の展示スペース、しかし大きな 液晶ディスプレイでは大正期の酒造り作業の貴重な実写映像が酒造り工程順に映され、全編約20分、この種の映像では長編でしょうが、私 は何度見ても見飽きしません。桜宴の北側は剣菱中蔵、ここは元「都菊(肥塚酒造)」の蔵、震災前、既に剣菱が買収して一部建て替え、その 部分は倒壊を免れています。その東隣が「酒豪(豊澤酒造)」、更に東は「菊千歳」その北東には「金正宗(松尾仁兵衛商店)」の酒蔵が有りま した、金正宗の東南方向には「東洋一」、「辰」というブランドの蔵が有ったとか、そして剣菱中蔵の北にケアハウス「すばる」という施設が有り ます、「千緑(魚崎酒造)」の蔵跡、戦前は「戦力」がブランド名でした。いずれの蔵も倒産、ブランドも継承さていないようです。西に戻って剣菱 の蔵の向かいに巨大なマンションがあります、これが「金露」の蔵跡、その南西方向には和歌山の「大東一(田端酒造)」の蔵、震災後撤退。 「金露」は震災翌年倒産、ブランドはキング酒造が買収。「灘の酒蔵案内板」の所に戻り、住吉川を渡ると業界9位、菊正宗酒造記念館、入場 無料、展示内容も充実しており、雰囲気も試飲し易い所です。西隣は菊正宗主力工場「嘉宝蔵」、北に巨大マンションが2棟、「国冠(久星酒 造)」の蔵跡です、更に北43号線沿いに、菊正宗「千寿工場」と魚崎流通センター、どちらも「千歳鶴(日本清酒)」の蔵跡、その西隣には菊正 宗精米工場、ここも島根の酒蔵が共同で設立した「花川」の蔵跡。今千寿工場は解体中。ここまでが魚崎郷、ここから西は御影郷です。 <御影郷> 嘉宝蔵と国冠の間の道を西に進むと信号の無い交差点、更に西に進むと、業界一位「白鶴」の本社と白鶴酒造資料館、入場無料、資料館では一番大きく展示内容も充 実し、雰囲気も試飲し易い所です、本社の周囲は全て白鶴の工場群、西へ向かうと、T字路、交通量が多いのに信号なし、横断し右折、直ぐ左折し白鶴工場群の中を西へと進むと、やがて 右(北)に菊正宗の工場、左に本社ビルが見えてきます、この辺りの白鶴、菊正の工場は43号線に面しています、菊正宗工場群を通り過ぎると剣菱「内蔵」、しかし元は淡路島の酒造会社 が同で設立した「都美人」の蔵でした。直ぐ西隣が剣菱本社、1505年頃伊丹で創業と称し、江戸期の酒番付では西の大関「伊丹剣菱」となっています。赤穂浪士が討ち入り前夜、蕎麦屋の 二階で酌み交わした酒が剣菱だったと喧伝され、ブランド名は関西より東京で有名です。{東の大関は伊丹「老松」} 今の経営者は江戸期とは変わり、蔵も灘に移転しましたが、ラベルには 「丹穣」と記されています、宣伝もせず、情報開示も一切しないというのが経営方針、かつては桶買い比率業界No1、73%もあり批判されていましたが、次々経営不振の酒蔵を買収し深江 浜には最新鋭の酒造工場を建設、桶買いはしていない、多分?? 菊正宗の工場の北側、43号線を超えた所に「世界長酒造」がありました。震災で大打撃を受け、半年後に倒産、工場敷 地は広く、イズミヤ、ミドリ電化ニトリが並ぶショッピングモールになっています、ブランドは沢の鶴が買収したということです。世界長の北には和歌山の「天長(天長島村酒造)」がありましたが 撤退、酒名は大正時代朝香宮鳩彦(ヤスヒコ)殿下が和歌山第61連隊に赴任された時、島村家別荘に住まいされ、その折酒名の命名を依頼し、老子の「天長地久(天長節の語源)」から 「天長」と命名されたとのこと、今も天皇家(HPに皇室と書かず)に献酒を続けていることが自慢のようです。 剣菱本社前、珍しく信号のある交差点を渡り、西に向かいます、下町住宅街のな かから、小さいものの高さの高いマンションが現れます、その向かいには小さな祠と石柱、「掘り出し地蔵」と刻まれています、特に目印になるものも無く見過ごしてしまいそうな箇所ですが、 マンションとその北のビルが「百万両酒造」の蔵跡、震災以前に経営破綻、ブランドは平成3年にメルシャンが買収、しかしメルシャンも複雑な経緯をたどり現在キリンHG傘下、日本酒は? 次の交差点の先に巨大なマンションが目立ちます、マンションの手前が広大な更地になっています、この更地こそ灘の苦境を象徴する場所「瀧鯉(木村酒造)」の酒蔵跡、NHKの朝ドラ「あ まからしゃん」のロケに使われた蔵です、戦災は免れたのですが震災で全蔵倒壊、しかし最小限の工場、倉庫を再建、長屋門や邸宅の一部も再建し「酒匠館」として公開、観光蔵として訪問 者も多く、灘で小規模酒蔵ではあるものの経営者は酒造りに情熱を注ぎ、知る人ぞ知る(震災前から)有名人でした。丁寧な酒造りで定評があり、皇太子殿下ご愛飲の「天乃美禄(純米吟 醸)」を醸し、又大衆酒として神戸灘生協のPB清酒「虹の宴」も製造していました。残念なことに2009年廃業、震災後も頑張っていたのですが、情熱だけでは酒蔵経営は厳しい。昨年4月に 蔵はまだありましたが7月には更地になり発掘調査中でした、現在北半分は豊中の医療法人が施設を建設中、南は戸建住宅のような区割りがされています、蔵人はすぐ近くの泉酒造に再 就職したそうです。右手上方に「戎面」の看板、「えびすかお」と読むそうです、「戎面(坊垣酒造)」震災以後休造中、古ぼけた工場とおぼしき建物は流通会社の倉庫に使われています。 先 ほど記した巨大マンションの西に、酒粕販売会社の建物、その南が「正成(小野楠酒造)」蔵跡、この正面には石屋川を越して「灘泉(泉仙之介商店)」の蔵が木立の陰に見えます「が」、左手 に「ロングステージ御影」という大きな老人介護施設が2棟建っています、ここが白鶴「石屋蔵」跡、震災前、白鶴唯一の木造現役蔵でした、業界一位の白鶴もこの蔵を再建できなかった。道 なりに北に行き左折すると、石屋川にかかる小さな石橋ここから下流右に灘泉の木造蔵が見えます、昔は左にも木造の白鶴石屋蔵が見えたそうです、狭い川の両岸に木造酒蔵が見えた景 観は、後世に残すべき景観ではなかったか? 橋を渡ると直ぐ四つ角、その左に行くとは「灘泉」の木造蔵正面、灘で唯一明治時代からの古い形態を保持した現役蔵で、西宮の2蔵より大き く立派です、国登録有形文化財、蔵二階は小さいがイベントホールにしています。しかし社長と、従業員一人、たった二人で極少量の酒造りを行っており、販売されている酒の大半は委託製 造と思われます、もはやこの蔵は灘地区酒造業者にとっての「客寄せパンダ」状態の蔵と言っていいでしょう。試飲したいと言えば蔵の中に入れてくれ、試飲できます、簡単に蔵の中に入れ ます。 先ほどの四つ角の北西角に、木造モルタル造りの粗末な建物が建っていますその方向からなにやら音楽が聞こえてきます、近づくと間違いなくその建物からです、ここが「泉正宗 (泉酒造)」の酒造工場、酵母に音楽を聴かせ醸造しているようです。震災で蔵は倒壊、親戚の四国の酒造会社に製造委託し販売を続けてきたが、2007年ついに醸造再開、その後木村 酒造の蔵人も迎え入れ、200石(一升瓶2万本、売上約5000万円)程醸造しています。更に西に行くと、観光名所、神戸酒心館「福寿(福寿酒造)」ここは本格的に再建された近 代蔵、レストランと田舎の廃業した酒蔵を移設したイベントホールがあり、酒蔵見学も可能、試飲はややしにくい感じ、輸出に力をいれ、各国の高級レストランに納入している、価格は 高価です。浜福鶴の純米吟醸一升2550円、これと同級品(と思う)が2920円です。酒心館斜め向かいに「大黒正宗(安福又四郎商店)」、震災前は2万石を醸造する準大手でし た、木造蔵10蔵が倒壊し廃業を考えたそうですが、倒壊しなかった建物の一部で、規模を百分の一に縮小し再開しています、現存する工場の西側は大きな道路、その向こうに倒壊た 蔵群が在りました、今、貸マンション、パチンコ店(KIKONA)になり、不動産業が主体で経営を維持しているようです。御影郷はここで終わり、先は西郷です。 <西郷>ここの大きな道路も信号の無い交差点、渡るのに苦労します、パチンコ屋を過ぎると、左手にゴンチャロフの洋風デザインの工場、もし大黒正宗の蔵が健在なら見事なコントラ ストで観光客を呼び込めたのではと思います。更に進むと右手に甲南漬けの工場、この北側43号線を渡ると甲南漬資料館がある。左を見ると神戸製鋼の巨大建造物と高い煙突、資料館 には寄らず道を行くと、左右にまたマンション、右のマンションのどれかが、岐阜県の酒造会社「菊川」の蔵跡、その先左に巨大な高層マンション団地、右手はこれまた巨大な「サザンモール 六甲」、いずれも酒蔵跡ではありません、43号線沿いはかつてレンガ造りの倉庫街だった、団地の自転車置き場は純和風の瓦葺白壁建屋、このデザインは昔西国浜街道で江戸期酒造地 帯を貫通し大変賑わった繁華街だった、その面影を残す景観としている。団地西端に付属の小さい公園、しかし、南方向は大きく広がりその先に変な建物、灘浜ガーデンバーデン「プールと スパ」安藤忠雄の設計、その西に再度巨大なスーパーマーケットとコーナン、この敷地は業界2位伏見の月桂冠灘工場跡、北側はオエノングループ「富久娘」の工場、コーナンと工場間は 「西郷酒蔵の道」として綺麗に整備され、若宮八幡宮で広い道に出る、正面はオエノングループ事務所、旧「福徳長」蔵跡、前方上方に「沢の鶴」の看板、ここも信号無し、渡ると左は白鶴大 石工場、旧「忠勇」蔵跡、「マルキン忠勇」となったが、酒類販売していないみたい? 右手上方、43号線を超え「金杯」の看板も見える、富久娘の工場の近くには加古郡稲美町の「栄川」の 酒蔵もあったらしいが、稲美町の蔵は、味醂大手に買収され「キング醸造」の蔵となっている。綺麗な酒蔵の道は沢の鶴の工場で終わり、先は細い汚い路地、沢の鶴資料館に行きたいがど う行っていいのか迷う、思い切って左に行くと、工場、倉庫に塀、門がなく、工場内に迷い込んだような感覚になります。なんとか都賀川に架かる橋を見つけ渡り少し進むと、ようやく記念館に でる。県指定有形民俗文化財、展示は充実、交通の便の悪さか入場者が少なく試飲しにくい、この北に沢の鶴大石工場、元「富久錦」の蔵跡、現在はキング醸造に吸収されている。まだ西 に「本桜」という蔵もあった、蔵跡は本桜事務所、貸倉庫になっている。
© Copyright 2025 ExpyDoc