見る/開く

佐々木:新田義重一族伝雑々
新田義重一族伝雑々
これまで筆者は秋田県立公文書館佐竹文庫(宗家)蔵の北酒出本
司源氏系図﹄の記載・記事を考証し、編纂書としての限界もあるが、
﹃尊卑分脈﹄に比し記事が正確で、平安鎌倉初期の清和源氏、更には
中世史・文学の研究に貢献する所がある事を述べてきた TE 本稿では
同系図の新田義重一族の記事について検討したい。上野国新田荘の開
) 現地の遺構の
発・展開については﹃長楽寺文書弓)・﹃正木文書﹄ (3や
分析より研究が蓄積されてゐるが︿ 41 その他の事績については、頼朝
挙兵時、自立の動きがあり警戒された事 E、対して早くに頼朝に参じ
た子孫の山名・里見氏が頼朝に厚遇された事(旦が確認される。近年は
義国・義重の在京奉公の側面が指摘され︿工、鎌倉時代の山名・里見一
・
(
9
v
族の様態、足利氏・平賀氏等の掘族との関係も明らかにされつつある
がE、その基本的な伝記は、史料の不足から依然不明点が多すぎる。
﹃東鏡﹄、京都の公家日記に散見する記事以外では、﹃尊卑分脈﹄
﹃鍵阿寺新田足利両家系図﹄(辺、また長楽寺本﹃源氏系図﹄・﹃新田岩
一、司尊卑分脈﹄の問題
佐々木
新田氏の伝記の考察に最も利用されてきた系図が ﹃尊卑﹄ である
(適宜略)。
加賀介従五位下
式部丞帯刀長
義国 I l l i - - - -
義範義節│││1重家
号山名三郎平氏追討源氏
伊豆守受領六人内重田舎弟也
右馬助従五下新田太郎承明門院蔵人
新田太郎三郎早世新国三郎蔵人
或記云、久安六年月日参陣之時不測市於
路次参会大炊御門右大臣︹干時右大将実能公︺被称為
狼務以侍随身等被打落防郎従等合償勤
向本所焼払畢依之勅勘簡居下野国畢
仁平四一ニ十六出家、号荒加賀入道
久寿二六廿六卒篭居下野国足利別業
号新田太郎
九条院判官代
左衛門尉
大炊助従五位下
住上野国
号足利式部大夫
母中宮亮藤原有綱女
或本一再安芸守藤原有継女一五々
義重│││
一義節一男也
一承明門院蔵人
一山名太郎
﹁重国
宮院
代蔵
人
松系図﹄gが従来利用されてゐるが、前二者の史料的価値には疑問、か
号里見
号竹林
新田太郎
母上野介敦基女
建仁二年壬戊正月十四日上西卒
出家法名上回
卒六十八載
指摘出来るのであるが、若干の考証をなし、新たな問題を提起する事
義俊
美里殿
あり、後二者も注目すべき記事があるが簡潔で、検討の必要がある。
己
高
置見
富
判門
北酒出本﹃源氏系図﹄の関係記事も限られ、且つ編纂史料故の誤りも
は可能であると思はれるのである。
警覧芸
協警守
11
義房
新国蔵人太郎
政義
新国太郎
上西門院蔵人
小三郎
新国次会己郎
皇嘉門院蔵人
大炊助或改l 廉
について、騎合相官めから家人が徳大寺実能の﹁本所﹂を焼打した勅勘
とするが、武士の従者が公家の邸宅を焼討すると云ふ前代未聞の事件
だが、当時の 古記録、史書に言及されない。久安六年(一一五O
)は
り、史料の残存状況は十全ではないが、事実とすると当然あった事後
義兼
の処分が、一切見えない。鍵阿寺蔵﹃新田足利両家系図﹄では、
﹃台記﹄gが通年、﹃本朝世紀﹄は七月より十 二月の記事が存してを
下野守
得川四郎涛川四郎太郎
h
の当月記に記載がない。
﹃帝皇系図﹄ 8では、
と、徳大寺との紛争を示唆する簡単な脇書があり、 事件の年月が記さ
蒙勅勘了
与徳大寺珍事
衛院御宇有故龍居足利別業﹂とあり、詳細は記されず、尊経閣文庫蔵
﹃尊卑﹄と長楽寺本の記事を併せ持つ﹃新田岩松系図﹄では、 ﹁
近
司
本朝世紀
頼長とし、その経過を詳細に記オが、同様、当事者頼長の﹃台記﹄や
として関東下向の原因とはしないが、乗合事件を同二年正月、相手を
同六年九月下野国足利之別業 ェ
下向ス
失
罪不浅旨、蒙勅勘塾居、其後無罪之由、因申披而勅免皐、(中略)
其夜頼長公之館有出火、是我之所為有風間、終達天聴、此軽上之
村大怒、而既及刃傷、急宥之、頼長公拝謝、伺双方為穏便、然所
体、因之髄身舎人等与恥辱乎、郎等梁田弥太郎重房・大町四郎兼
近衛院久安二年正月内大臣藤原頼長公参陳之時、路次行会有無礼
義季1111頼有
一 参川守
一世良聞弥四郎
長 長
筆者は﹃尊卑﹄の義家子弟の脇書の信濃性に問題のある事を指摘し
-2-
﹁頼氏
na-
占岬 岡 国
氏
とあり、新田足利両氏成立の契機である義国の足利荘下向の事情が脇
母信潰守有房女 為 殿上検非違使
義康
陸奥守治部少輔鳥羽院北画
伊予(権)守兵庫助昇殿保元元七十三︹聴昇殿︺
蔵人上野(総)介左馬允叙留昨日合戦賞
保元々八六叙留
九
れてゐないから年時が別であるとしても、他書に 言及されない不審が
女
i
i
i
i
:
:
:
:
:
光
量
書に詳しく述べられ、義康・義重の経歴が記されてゐる。
重義
語
国
正
嫡
たがg、此処でも義国親子の注記には疑問が多い。義国の下向の理由
従式式足
五 部 部 和l
佼大 丞 式
上下輪
部
イ イ
大
夫
奴額合
義
戸
戸
=五
義哲
義合
佐高
第4
7号
山形県立米沢女子短期大学紀要
佐々木:新田義重一族伝雑々
は、別に真名本﹃曾我物語﹄巻一の清和源氏系譜記事の、
三男式部太夫義国被下移サ上野国新田庄、今世新田源氏ト申、此人
残り、事件の実在未確認はその偉で、寧ろ白井信義氏の指摘通り、史
実としては久安五年正月の義国郎等の乱闘の潤色である可能性が高い
末8
べきであるが、何らかの外部的事情が介在したとする伝承が存在した
として﹃曾我﹄と異なり 8、典拠と思はれる﹁印鋪記﹂の確認を待つ
此人末也
三男式部大輔義国下野国新田庄ニ移ラレ今ノ世ニ新田源氏ト申、
の末尾に同記事が付加されてゐる事に気付いた。但しそこでは
同系譜部の成立については論じた事があるが 8、他に田中本﹃剣巻﹄
に、﹁移サル﹂と他律的理由があると解される本文があるからである。
と思はれる 80
次に義重の官職であるが﹃東鏡﹄建仁二年正月十四日条の義重の死
亡記事の、
入道従五位下行大炊助源朝臣義重︹法名上西︺卒、年︹陸奥守義
家朝臣孫、式部大夫義国一男、母上野介敦基女︺
を見るに極官が大炊助であり、この任官は保元四年の除目の、
大炊寮
助正六位上源朝臣義重︹女御藤原朝臣珠子去年御給︺
更にそこでは義国が新田荘に移ったとあり、その開発が義固まで遡
可能性を指摘できるからである。
あり、大炊助より格上の官であるから、任官の言及がないのは不審で
る事になるが、同様の伝承が他にもあった。田中塊堂氏所蔵﹁大般若
に確認出来るが 8、﹃尊卑で﹃新田岩松系国﹄の左衛門尉は未確認で
ある。また義康の極官も右衛門尉検非違使でありg、﹃尊卑﹄の国司、
vの蹴文で、足利義清が、父祖の供養の為に書写或は奉納したと
経
﹂a
奉供養
﹁奉保修仁治元年朔日、此経山城之園山背野中西寺之経蔵也﹂(追筆)
鳥羽院北面有房
中宮亮藤原基綱女
加賀介従五位下義国
上野国新田住式部大夫
為供養
足利矢田判官義清(花押)
寿永二年十月朔日
解される。
左馬頭の任官の脇書は史実ではない。
これは室町以降に源氏将軍の先祖の官位を高くした作為であると思
はれる。義国の逼塞に繋がる不祥事のあった事までを否定するもので
はないが、﹃尊卑﹄の顛末をその侭史実とする事には問題があると思
はれる。義国を﹁荒加賀﹂とするのも武門の棟梁に相応しく 8、その
勇停を強調する後世の作為、或は誇張が存すると解するものである。
一一、源義国入部伝承
﹃新田岩松系図﹄・﹃帝皇﹄の前掲記事も寧ろ﹃尊卑﹄の記事を鵬化
した可能性があると思ふが、義国の東国逼塞自体を否定しない理由
9d
山形県立米沢女子短期大学紀要 第 47号
とあり、﹃塵荊紗﹄八﹁源家之事﹂に、
又為義ノ連枝義国公ハ十三歳ノ御時、康和 三年辛己正月七 日ニ七
とある。この波線に依り峰岸純夫氏は新田荘の開発は義国に遡るとす
る8。
十三代堀河院ノ勅命ニ正四位上式部大夫判官ニ叙シ、常陸国佐武
冠者追討ノ為ニ足利太郎基綱ガ宿所ニ下着シ、佐武ヲ訴伐シ給、
(関係者系図)
義家
次男義康ヲパ足利新判官、武蔵守ト申(古典文庫)
子孫新田、山名ノ一流也、大館、鳥山、岩松、里見等是ヨリ出給、
彼義国ニ抑子二人御座ス、嫡男義重ヲパ新田左衛門ノ佐ト申、此
TI--義康│││義清
l骨
有綱女
下
一
vにも見える説であるが、﹃尊卑﹄を見るに、
本﹃足利氏系図﹄a
にも詳しく、関東系﹃御成敗式目抄﹄ 8 ・佐竹氏系図諸本8 ・読耕堂
有房女
確かに傍線部は﹃尊卑﹄の義国・義康の祖先・官位に一致する。し
問題の﹁基綱﹂の説明も可能であると思はれる。室町時代の東国文
認出来ないS。この追討自体史実と異なる事は江戸時代に既に指摘さ
と、後代にこそ基綱はゐるが、義国と同時代に同名の人物は目下、確
関しての従来の史料の記載には問題があるとせざるを得ない。
義清願文の信恵性にも疑問、かあり、義国の東国下向、新田荘開発に
文も影響を受けてゐる可能性が高いと思はれる。
献中の足利氏起家説話に、義国の男として見える藤姓足利氏の人物が
拐又式部大輔義国、康和年中常陸国佐竹冠者追討の大将軍として、
下野国足利太郎基綱の館に下着有て、基綱の息女を最愛すと云々、
其御腹に 子 二人出来給ふ、嫡子大炊助義重法名上西、二男足利判
官義康(続群書類従)
4
太郎
郎
かし﹃尊卑﹄の義国母は﹁中宮亮有綱女﹂とあり、日野流藤原氏に有
足利太郎足利出羽守同文太郎
l成綱││!?俊綱│││忠綱
基隼
綱菜
するが、仮にさうだとしても奉納主の署名、結縁者の書式に違和感が
有星
綱宅
岡田七郎岡田太郎伺次郎園田太郎
上野国住人
室長程
│
太
住
郎
人
基綱﹂と異なる。峰岸氏は義清が誤ったと
綱が存するが 8、政文の ﹁
ある。義清は史料には﹁足利判官代﹂ 8とあり、系図にも女院判官代
とあるから、検非違使の通称﹁判官﹂を意味する事になる﹁代﹂の省
略8は当人の署名とするならば通常あり得ない。次に抑も姓ではなく
在名による通称を署名するか、また父の義国についても通称の﹁式部
大夫﹂を先に挙げ、次に官途・位を後に記すのも通例ではなく、結縁
痢司孫国
!成実│││成澄│││成基│││成家
夫
│
れてゐる様に 8、室町時代迄に成立してゐた足利氏起源伝承に先の蹴
感品書
基網である。﹃永享記﹄によれば、
者の女性を、父の名を冠して表すのも極めて異例と思はれる 8。
f
丁大・-r
佐々木:新田義重一族伝雑々
住号差大従蔵
亀田一二郎
義綱
里見五郎
I義清││(略)
段福門院判官代
│ 義 直11(略)
略
二、北酒出本司源氏系図﹄新田氏関係独自記事について
少ない史料にも問題がある中で、検討が必要ではあるが幾っか新見
を与へるのが北酒出本﹃源氏系図﹄である(論末掲載)。本系図を見
るに﹃尊卑﹄他との異問、か少なくない事に気付くが、義国・義重・義
康の脇書の官位は古記録に確認出来、﹃尊卑﹄よりも史実に近いと考
号大上総介
従四下
上総介左馬頭
※﹁安芸守有綱女﹂
へられる。これは東大史料編纂所蔵﹃古系図集﹄ 8でも、
号足利陸奥
夫歎昇段従五下
式部大翰従五下使判官代
母熱田大宮司
野田豆主助位所
国入 1
下雑
道 │ 色
親よりも子の生年が早い事になり、北酒出本の記事の信湿性が問題と
康は大治二年(一一一一七)の生まれとなるのである 80 但 し こ れ で は
天治二年(一一二五)、義重は永久三年(一一一五)の生まれで、義
が久寿二年(一一五五)享年三十一で没したとすると§、その生年は
北酒出本では義国・義重・義康の生没年が明らかになる。即ち義国
所雑色は未確認)。
と、義国・義康の官職に誤りがあるが、義重は正しいのである (蔵人
有罪
義 兼I
l--(略)
│賢│
義国lJ│義康││
母同義一蔵或保
号足利一
範忠女
号足利蔵人
一従五下山名
一新田大炊助皇嘉門院蔵人
九条院判官代号山名三郎
政主
回
各
関係
重喜重器
国民家附
頼尋
氏等
﹁義重││義憲或範
左衛門尉
義俊│││義成里見冠者
汁九日卒年舟一
保元三年五月
義康││(略)
号陸奥新判官
上総守従五下
昇殿
とあって、義重の ﹁左衛門尉﹂ 8以外は北酒出本にほぼ一致し、 更に
﹃渋川﹄では、
使号足利三郎
式部大輔従五位下 母中宮亮藤原有綱女
義国
一一一国力
田
│
義州
氏等
義生
義型書
成尋下
fR
直秀附
r
判
P
界俊叩
義高哲
雲義思
京義聖書
右範寺証
主義盗
上新三三炊五人
義思
佐州
RU
第 47号
山形県立米沢女子短期大学紀要
八七)の生まれ、四男の為義が永長元年(一 O九六)の生まれとする
二十三才で没したとあるから(﹃尊卑﹄は二十六歳)、寛治元年(一O
一 O九)に
なるが、北酒出本によれば義国の兄の義忠は天仁二年(一
北酒出本のみ聞に ﹁
得河入道﹂某を挟む。義季は﹃東鏡﹄文治四年
﹃
帝皇﹄・続群書類従本・﹃新田足利両家系図﹄)全て親子とするが、
十︺
同庄世良田郷内田ご町四段、在家 一宇︺ 頼 氏 康 元 ︹ 二 、 二
(中略)
十五︺
同庄内女塚開山檀那︹新田次郎義季法名栄勇︺寛元四︹十二
新田庄世良団長楽寺領目録
一八八)から建久六年(一一九 五)の記事に見え告、 ﹃
長楽寺文
一
(
書﹄二 O ﹁足利尊氏寺領安堵注文﹂(観応 三年三月)によれば、
とを、義国はその聞の生まれと推定されるから、北酒出本の義国の享
年に誤りがあらう 8。さうすると﹃新田町誌﹄や須藤氏論①の指摘通
り義重の生まれを永久三年として不自然ではない。
対して司尊卑﹄では義重の享年を﹁六十八﹂として北酒出本よりも
二男義
二十下げるが、その時は ご 男﹂(前掲﹃東鏡﹄)の義重が ﹁
康
﹂ の弟となる問題が生じ、また孫の里見太郎義成が﹃東鏡﹄文暦
怨
︽
元 (一二三 四)年十 一月二十八日条からすると保元元年(一 一五六)
の記事 の当否は保留せざるを得ない。
で芸、当該時代の別の藤原有綱の実在も未確認であるから、北酒出本
権守)、或は﹃尊卑﹄のイ表記の有継の安芸守任官の事実は目下不明
有綱﹂と官職が異なる事も注意される。日野流の有綱の安芸守(安房
出本のイ表記では安房権守)として、﹃尊卑﹄他の日野流の﹁中宮亮
また義重の外祖父を北酒出本・﹃古系図集﹄が﹁安芸守有綱﹂ (北酒
た後8、﹃東鏡﹄に頻出するが ︻ 長楽寺本の脇書 によれば文永九年
、
旬
(一二七 二)に流罪に合ふから、それ以降の没であらうを。仮に寛元
子頼氏は寛元 二 年 (一
二 四四)の無断出家が原因で新 田政義が逼塞し
すると、文治四年には 二十 一歳、寛元四年には七十 五歳となる。その
の﹁らいわう﹂が義季にあてられ 8、義季が仁安二一年に当歳、だと仮定
六八)、義重が所領の一部を﹁らいわうこせ﹂の母に譲渡するが、こ
﹃長楽寺文書﹄一二三﹁新田義重置文﹂によれば、仁安三年(一一
二 四六)まで生存し
として、次郎義季の法名が栄勇8、 寛 元 四 年 (一
北酒出本は新田一族を鎌倉中期までしか釣らない点、他の源氏系図
二年の頼氏が二十1三十代と仮定すると、義季四十1五十代の子とし
の誕生とある事とも両立し難い。﹃尊卑﹄は北酒出本の﹁八十八 ﹂ の
と異なるが、義重子の合田義明は諸系図(長楽寺本・﹃帝皇﹄・続群書
てあり得ない事ではない︿宅義季・頼氏の姻族と年齢を比較しても必
てゐた事が分かる。
類従本)では合土五郎(額戸三郎)経義とあり、子孫共々記事が一致
ずしも一代挟む必要はなく(旬、北酒出本は新田入道某と義季を別人と
街であらう§。
しない。他の資料より何れが正しいか確認出来ないが、寧ろ北酒出本
誤ったか 8。
以上からすると、北酒出本の独自記事には問題点も多く、そのまま
の義長・義宗の官職、が 一族中、高い点が不審である。
次に得河義季と頼氏の関係を他系図(句尊卑﹄・長楽寺本・﹃渋川﹄・
p
o
佐々木:新田義重一族伝雑々
史実と認める事には鴎賭されるのである。
回、北酒出本による新見
それでも北酒出本に検討すべき新見を幾つか指摘出来る。一つは里
見二郎義直の生没年月日、享年が判明する事(一一六01一二一八)
源重清﹁為重匝被諒了﹂
頼家卿子息
源義忠﹁天仁一一二三為郎従鹿嶋三郎被殺害了、同五日卒去升三﹂︿訂)
宇野有治﹁為舎弟頼基被打了﹂§
源実朝﹁建保七正月升七日於関東若宮拝賀之問、為若宮別当阿闇梨
切頚
公暁被打了﹂(田)
石川義盛﹁為郎等被殺了﹂(印)
とある如くで、特に合戦で討たれたと解される例を挙げれば、石川義
で、先述した里見義成の生没年(一一五六1 一二三四)からすれば両
者の関係は﹃尊卑﹄(・続群書類従本)の作る親子ではなく、北酒出
基に﹁養和元二九為平家被切了﹂、佐竹昌義に﹁治承四為源卿被諒了﹂
(むとあり、加害者に﹁与﹂を付し、﹁合戦之時﹂と続けるのはこの義
本(・長楽寺本・﹃帝皇﹄・﹃渋川﹄)の作る兄弟が適当となる。
次に、早世したと考へられてゐた(久保田氏論①)、義重子義俊の
俊の脇書のみ。また関係者が他にゐる場合、
案配した清音寺本の脇書﹁為足利太郎俊綱訴﹂は俊織に殺害されたと
大内惟基﹁相具子朝雅同死﹂白︺
野辺光義﹁相具子源義賢為義平被訴了﹂
G1
源義経﹁文治五回升九依頼朝卿之命、於奥州泰衡殺之﹂
﹁与足利太郎藤俊綱合戦之時被打了﹂の注記が注目される(日︺。この
解してゐる。源姓足利氏と藤姓足利氏の聞には所領争論が存在し 8、
﹁与﹂を﹁と﹂と読む事は可能で、実際、北酒出本を元に他の系図を
義重の乱妨が訴へられた上野国園田郷(御厨)も、藤姓足利氏一族の
不明の合戦時に戦死した事を表現するもので、端的に﹃平家﹄の治承
さればこの﹁与﹂は﹁くみす﹂と読み、脇書は俊綱に味方した年月
と、その状況を別に表現してゐる。
はせる記事があって(号、両氏が協調より対立に至った可能性も想定さ
四年の宇治川渡河の際、足利忠綱の口より語られる藤姓足利氏と新田
圏田氏が居住してゐた可能性が高く 8、﹃平家﹄にも両氏の競合を窺
れるから S、義俊の脇書を両氏の軍事衝突と解釈する余地があらう。
僧寛賢﹁寿永二八升八為源義仲被訴了五)
者)被(訴・殺・切・害)了﹂となる。即ち、
る場合、合戦・暗殺・処刑何れにしろ、﹁(年月日)(場所)為(加害
テ、トネ河ヲ五百余騎ニテサト渡シタル事モ有ソカシ(延慶本二
タラムハ、弓箭取ル甲斐アルマシ、水ニ溺レテコソ死トモ死ナメト
シニ、新田ノ入道、敵秩父ニ船ヲ被破一テ、船無ケレハトテ此ニ引ヘ
昔秩父ト足利ト中違テ、父足利、上野国新田入道ヲ語テ、関手ヲ廻
義重の共闘を示すのではないか。即ち、
源重茂﹁治承乱為平氏方被訴了﹂
中﹁宮南都へ落給事付宇治ニテ合戦事﹂)
しかし北酒出本の脇書の他殺記事の形式を見るに、加害者を明記す
源重国﹁為時清被諒了、訴重清之後三ケ日也﹂
-7-
は俊綱を指すからである。逆に脇書、が﹃平家﹄の影響を受けた可能性
﹁山名太郎義範﹂(﹃源平盛衰記﹄)(坦と別掲され、四部本巻十二﹁源氏
一方誰から義範に近い人物は関手に﹁山名三郎義範﹂(延慶本)白)・
行が見えるからである。
が浮上するが、現存﹃平家﹄には渡河の記事のみで義俊他の参戦者や
受領﹂では﹁伊豆守源憲義︹山名三郎是也︺﹂として、仮名を﹁太(三)
とある新田入道は北酒出本・司渋川﹄から義重と目され白)、﹁父足利﹂
新田側の被害についての言及がないから、目下、﹃平家﹄とは無関係
郎﹂とする系図がある。岡部本・南都本はこの二者を案配した形であ
長清・山名次郎教義・同三郎義行(巻九﹁一二草勢揃﹂)
(大手範頼)相伴人々、武田太郎信義、鏡美次郎遠光・同小次郎
るが、覚一本では、
に、利根川渡河の合戦を伝へる史料と見るものである。
司平家物語﹄の山名義範
と、二人の仮名が入れ替はり、更に一族と見て並べたと思はれるが(宅
この二人の関係は如何なるものか。
o
義行は一部系図では、義範の子の山名太郎義節と同一人とされるg
しかし﹃尊卑﹄(司帝皇﹄ほぼ同)でも、
山名小太郎山名又太郎
1朝家││義行﹂
義範│││義節│重国│丁重村﹁││行氏│1俊行
号山名三郎一一
新国太郎三郎新田太郎山名太郎一一山名孫太郎山名太郎二郎
と、備中守平師盛の首を挙げたとする。師盛の討手は諸本区々で、四
一山名八郎一被召捕被諒了
早世一一正安三八廿五依有謀反風間
﹁義行﹁︽行直︾
がある。四部本では源氏の大手の侍大将として、﹁山田小太郎重澄・
確かに詩は転倒したと説明出来るが、仮名﹁小次郎﹂には些か問題
義節を義範と重国の間に挟まない中世系図があり 8、﹃東鏡﹄や軍記
義行﹂を釣り、義行の詩を孫・曾孫が襲ふ点柳か不審であるが、抑も
更に吋尊卑﹄・﹃帝皇﹄では重国の子に﹁八郎義行﹂、孫に﹁又太郎
とし、義節の前(改)名に義行を載せず、仮名も一致しない(巴。
山名小次郎則義﹂(巻九﹁一二車勢揃﹂)とあり、他本の該当箇所を見る
物語にも義節は登場しない。﹃尊卑﹄では義節を﹁早世﹂とするが、
﹃東鏡﹄では文治元年(一一八五)十月二十四日条に頼朝随兵とし
に、﹁山名小次郎義行﹂(延慶本)(回)・﹁山名次郎義幸﹂(長門本)・﹁山
十﹁源氏調討手事﹂)とある事からも首肯出来る。
てらる 80 これは南都本の一の谷合戦の交名に﹁山名小次郎義範﹂(巻
部本の由来は不明だが、﹁山名小次郎則義﹂には義重の子の義範が宛
師盛云生年十六歳ソ
己不三キソ名乗一ル、只取レ首言ヶレ、執後見レスレ人、小松殿五男備中守
見、薄気装、課黒若上購、和君上鵬、名乗玉へ言へ、悪ヒ奴哉、合ヒ
カネクロ
上野国住人山名小次郎則義奉引上備中守、欲界ヵン首、引キ仰背奉
する﹃平家﹄伝本がある。四部合戦状本巻九﹁師盛最期﹂を見るに、
は殆ど不明であるが、実は新田一族の中で、山名氏が殊勲を挙げたと
東国の安定以降、西留で展開した源平合戦に於ける新田一族の活躍
五
野小四郎義行﹂(﹃源平間語録﹄)として、韓を異にする山名小次郎義
-8ー
第4
7号
山形県立米沢女子短期大学紀要
佐々木:新田義重一族伝雑々
て、﹁山名小太郎重国﹂ が登場する事を見ると、 その聞に一代挟む事
T
I
-
北酒出本ではこの源平合戦期の義節の説明が可能になる。即ち義重
の異母兄弟関係及、び義兼嫡子取立と無縁ではないと思はれるが、残念
里見義成と山名義範の頼朝早期帰順と頼朝の山名・里見優遇は、こ
義兼(太郎)下義範(一一一郎)
一
原一一一一
親広女﹁義季(二郎)﹁義俊(四郎)
の子に山名太郎義時が掲載され、時・節(トキ)の訓が同じであるか
ながら義時と義範の関係は両想定何れと断定出来ない。しかし少なく
は聯か窮屈である 80
らg、山名郷は太郎義時の早世後、弟の義範に継承されたと説明が可
とも﹃尊卑﹄の様に義範と重国の聞に義節を挟む事には問題があり、
一案は吋一平家﹄の義行を源姓以外の山名氏と見る事である。﹃姓氏
﹃平家﹄の山名義行を義節に宛てる事には筆者は疑問を有する。
能になる。﹃東鏡﹄で重国が﹁小太郎﹂を仮名とし(﹁伊豆﹂を冠さな
い事も)太郎義時の子に相応しい。
(想定一)(想定二)
家系大辞典﹄にその旨注意が成され、須藤氏論②の中で源姓山名氏の
成立との関係が示唆されるが、東国には別系の有道姓山名氏が存在し
たからである。﹃党家系図﹄﹁児玉﹂に号、
遠峯││経行保義││行家権守
平武者
必4
,A1
平治乱於中御門討死廿五歳
12ιJdZ1.
一
丁
川
山
尚
と、同時代に﹁行﹂を片詩とする山名氏がをり、﹃東鏡﹄にも﹁山名
義重│1義兼(太郎)
﹁山名弥太郎行佐﹂が見える§。この中、俊行は前掲﹃尊卑﹄に源姓
日条)が登場し、﹃建治三年記﹄八月二十九日条に問注所公人として
中務丞俊行﹂(建長三年四月三十日条)・﹁山名進二郎行直﹂(同六月五
丁義季(二郎)
-9-
山名太郎小太郎山名(太←一一一)郎(太←一一一)郎
義重11義時││重国義重│1義範(節)││重国
一山名三郎伊豆守一太郎
﹁義範﹁義兼
しかし当時誇として一般的でない﹁節﹂と、﹁範﹂の草字が似る事
二太
一丁変
SEpti--
古島一二郎大夫山名大夫四郎島名刑部丞
1行遠││!親行│││家親
丁行義四郎大夫
からすれば義範←節←時の誤変で、仮名が先の﹃平家﹄諸本の如く、
﹁太郎﹂と﹁一一一郎﹂と二説あるものを別人と見た結果、北酒出本に同
下行保吉島五郎
俊範富
平
重
綱
養
子
姓
平
一人物が重出された可能性も想定出来る。北酒出本義範の脇書に﹁イ
警行繋
﹁行高竹沢二郎
」
2
事
事
本義重嫡子百︺・義兼に﹁或太郎﹂とあるが、新田家嫡は﹁当腹﹂太
郎義兼(長楽寺本)が継いだ事が原因で、重複してゐた義重の当腹及
び他腹︿哲の息子達の仮名が、後に義兼を太郎として整理された為(前
掲円渋川﹄参照)、諸系図問で混乱したと説明出来ると思はれる。北
義義
酒出本の太郎義節と三郎義範の並存はその一例と見るのである。
一一義
一一重
山名氏の 一族 として釣られるが、不審な事は建長 三年 (一
二 五 一)に
成人した人物とすると﹃尊卑﹄の注記の正安 三年(二ニO 一)謀反記
事と五十年の間隔があり 、何より源姓山名氏の系図として世代を建長
に設定出来ないのである。この﹃尊卑﹄の記載は、須藤氏論②によれ
ば同族化してゐた影響も考へられるが、その他の史料に確認出来ない
現在、山名義行の系統を源姓山名氏系留に後世、貫入させた結果と見
るべきではないだらうか。俊行を建長の人とするとその祖父義行は事
ろ源平合戦の頃の人物とするのが妥当であるからである。
以上からすると四部本の山名小次郎則義は源姓の山名三(太)郎義
範と、有道姓の山名小 二郎義行を合はせた、もので、他本に比して後出
従五下
大炊助叙出家
住上野国八
号新回入道
建仁一二止汁四死八十
九条院判官代
山名太郎
義時
イ本義重嫡子
義範││
山名三郎
政義
-10
ー
言盟義
山承言言
署壁義
名 明 言三
義房
l
従五下
前伊豆守五位
人
の本文である。宗鏡寺本・大明寺本︽想・諸家系図本﹃山名系図﹄に義
或太郎
母信乃綴守有房女
義康
蔵
範を小次郎とするが、これは﹃平家﹄の合成に影響を受けたものであ
ル
ら
'
つ
。
おはりに
新田義重・子弟の事績を 主に北酒出本﹃源氏系図﹄より考証した。
仁平二六汁三使別皆
保元々七十二聴
昇殿芸人勲功
亮と
使
右衛門尉従五下
号足利大夫判官
検非違使
語頼
守氏
富と
賞
同八月六日叙露元
一
m
保一冗二五汁九卒 m
夫
蔵
人
専道│
在
下 三 入
需
国
成
三 門 陸l
郎院
棄 言従属伊 i
新 京
」
断片的な知見に留まるが、今後も追究が必要である。
出家イ本
式部散位従五下一耳
久 寿 二六汁五品川
号足利式部大夫
│
大
1
i
│
z
j
1
i
i
i
i
E震
語義
毒要警
季
;
葬含義
笛吉明
(北酒出本系図)
住下野
国
義吉
国主
第4
7号
山形県立米沢女子短期大学紀要
佐々木:新匝義重一族伝雑々
(4) ﹃新田町誌四特集本編新田荘と新田氏﹄(昭和五十九年)、
遺文﹄所収による。
(3) ﹃群馬県史資料編五﹄所収。本稿では﹃正木文書﹄は﹃鎌倉
(2) 史料纂集司長楽寺文書﹄による。前者を長楽寺本と略。
学紀要﹄四十五、平成二十一年十二月)に利用。
照。その後は﹁源義忠の暗殺と源義光﹂(司山形県立米沢女子短期大
沢女子短期大学紀要﹄四十四、平成二十年十二月)の注(日)参
(1) 拙稿﹁﹃平家物語﹄の中の佐竹氏記事について﹂(﹃山形県立米
(孔)共に﹃群馬県史資料編五中世一﹄の翻刻による。前者を長
中期以降の写しと思はれる。
の宝物﹄(平成十六年)﹁新田・足利古系図﹂の写真を見るに、江戸
(叩)円新田義貞公根本資料﹄の翻刻による。同系図は図録﹃鍍阿寺
(9) 新訂増補国史大系による。以下﹃尊卑﹄と略。
される。
本では平賀義倍をも義重と同じく﹁九条院判官代﹂とする事が注目
│﹂︹﹃米沢国語国文﹄三十七、平成二十年十二月︺参照)。北酒出
(拙稿﹁頼朝流離時代困窮の虚実i ﹃吉見系図﹄の史料的価値一考
氏論②)猶、新田氏と平賀氏との婚娼は北酒出本よりも確認出来る
峰岸純夫氏﹃中世の東国地域と権力﹄第二章﹁上野国新田荘の成
楽寺本と略。
士
占
立と展開﹂(平成元年、初出は昭和四十五年)・久保田順一﹃中世前
(臼)﹃台記﹄は増補史料大成、﹃本朝世紀﹄は新訂増補国史大系に
(ロ)﹁源義忠の暗殺と源義光﹂(﹃山形県立米沢女子短期大学紀要﹄
よる。
期上野の地域社会﹄第一部一章﹁平安末期の新田一族﹂(平成二十
(凶)紙焼写真による。以下﹃帝皇﹄と略。猶、その他参照した中世
四十五、平成二十一年十二月)
(
5
) ﹃山塊記﹄治承四年九月八日条・﹃東鏡﹄同三十日条。
系図に司渋川系図﹄(以下、﹃渋川﹄と略。冷泉本による。拙稿﹁司渋
一年、初出は同十四年)。以下久保田氏論①と略。
(7) 須藤聡氏①﹁平安末期清和源氏義国流の在京活動﹂(﹃群馬歴史
(6) ﹃東鏡﹄治承四年十二月二十二日条
h
二十三年、前掲﹃上野新田氏﹄所収)、久保田順一氏前掲書第一部
(8) 須藤氏論②・④、甲中大喜氏﹁中世前期上野新田氏論﹂(平成
その内、①・②・④は田中大喜氏編﹃上野新田氏﹄所収による。
ざる下野の中世﹄所収、平成十七年)。以下須藤氏論①の知く略。
治承・寿永の乱以前の実情l﹂(橋本澄朗・千田孝明氏編可知られ
五十四ノ六、平成十四年六月)・同③﹁下野国中世武士団の成立│
を以下、白井氏論と略。
│頼氏・家時年代考│﹂(﹃日本歴史﹄二五七、昭和四十四年十月)
(日)﹃本朝世紀﹄久安五年正月二十日条。白井信義氏﹁尊氏の父祖
和源氏系図﹄(以下、続群書類従本と略)がある。
成二十二年三月・同二十三年三月︺参照のこと)、続群書類従﹃清
立米沢女子短期大学付属生活文化研究所報告﹄コ一十七・一一一十八、平
川系図﹄の成立とその史料的価値について(上)・(下)﹂︹﹃山形県
民俗﹄二十六、平成七年)・同②﹁北関東の武士団﹂(﹃古代文化
第三章﹁新田一族の家の成立と女性﹂(初出平成二十一年、久保田
tEム
1i
第4
7号
山形県立米沢女子短期大学紀要
(凶)﹃兵範記﹄仁安二年正月六日条裏書に従五位下に叙せられた源
義重がゐる。
修寺本)の同文では正しく﹁判官代﹂とする。円太平記﹄諸本の中、
﹁矢田判官義清﹂(巻九﹁高氏篠村八幡に御願書の事﹂)とする伝本
(四)勉誠社の影印吋真名本曾我物語﹄による。訓読本(新編日本古
アシカガ﹂の略とするが如何。
藤原尊霊
惟宗氏尊霊
惟宗尊霊
がある(天正本(小学館︺・義輝本(勉誠杜)・竜大本︹思文閣))。
典文学全集﹃曾我物語﹄)も同。
正五位下行兵部大輔
(げ)円兵範記﹄保元二年五月二十九日条。
(却)﹁﹃王年代記﹄と﹃平家打開﹄・妙本寺本﹃曾我物語﹄・﹃平家
兼三河守藤原
(幻)平安末期の題蹴・金石文を見るに、施主は、
族伝抄﹄との関係について(上)﹂(﹃国語国文﹄七十二ノ十、平成
朝臣園長
(四)加賀介任官も未確認。﹃新田義貞公根本史料﹄がこれを﹁アラ
十五年十月)
(お)﹁足利荘と足利氏I﹂(栃木県立博物館繍﹃足利氏の歴史l尊
刻、がある。
(辺)田中塊堂氏編﹃日本写経﹄。﹃平安遺文題股編﹄二九七四に翻
ノ七、昭和四十二年七月)に全文翻刻。此処では後者による。
該部、及、び同氏﹁田中本平家剣之巻(翻刻ご(司国語国文﹄三十六
惟宗氏
藤原氏
惟宗朝臣遠清
従五位下
道守口尊霊
比丘尼源氏
藤原氏
氏を生んだ世界lR 平成三年)
内閣圃氏(﹁錦田村出土陶壷銘﹂、﹃平安遺文金石﹄三一九、以下
l 物語諸本の研究﹄第五章第三節﹁剣巻﹂に当
(却)高橋貞一氏呈 家
(M) ﹃御産部類記﹄﹁代々浴殿読書役例﹂(図書寮叢刊)
宮代﹂(岡田﹁水嶋津合戦事﹂)・﹁足利ノ矢田ノ判官代義清﹂(南部本
官代義清﹂(延鹿本一二末﹁把後守貞能西国鎮メテ古川上スル事﹂)・﹁矢田判
である。特に願主は、﹁願主散位従五位下大江朝臣忠氏﹂(﹁円頓寺
臣)誰が挙げられ、女性の場合は姓(氏)女のみが挙げられるから
とあり、結縁者を掲載する時も、官人の場合は位、官位、姓(朝
﹃平安金石﹄と略)
巻九﹁同﹂)とある(汲古書院)。
経筒銘﹂、嘉応二年九月、﹃平安金石﹄四O七 ) 、 或 は ﹁ 願 主 紀
(お)﹃山塊記﹄治承四年五月二十六日条。猶司平家﹄でも﹁足利判
(部)﹃一代要記﹄(東山御文庫本の紙焼写真)寿永三年間十月一日
成盛﹂(﹁大山寺鉄製厨子銘﹂承安二年十一月、円平安金石﹄四二
h(
京都大学総合博物館蔵勧
条では﹁野多判官﹂とするが、﹃皇代暦
唱Bム
η
r
ω
佐々木:新田義重一族伝雑々
元年九月七日条と矛盾し、正宗寺本﹃諸家系図﹄(東大史料編纂所
挟むが(内閣文庫蔵﹃本朝皐胤紹運録﹄所収による)、﹃東鏡﹄養和
(出)﹃百姓系図﹄では﹁兼行│成行│俊綱基綱忠綱﹂と基綱を
(叩)米沢市立図書館蔵。此処ではフィルムによる。
長山本﹃佐竹系図﹄(共に秋田県公文書館佐竹文庫(宗家︺蔵)。
(却)清音寺蔵本﹃佐竹井諸家系図﹄(以下清音寺本と略)、酒出本・
京都大学総合博物館蔵池内義資氏寄贈史料の紙焼写真による)。
(お)藍雪本(﹃中世法制史料集﹄別巻)・温古堂本・達蔵可本(共に
付加されるが、官・姓・誇が記入される(﹃近代足利市史﹄三による)。
従五位上左馬頭源義兼﹂とあり、奉行人も別筆でこそ名字、通称が
姓名が記される。﹃鍵阿寺大御堂棟札写﹄(天福二年)では﹁大旦那
月、吋平安金石補遺﹄四九)とあり、在名・通称ではなく、官位、
四)・﹁大壇越散位平朝臣季将﹂(﹁宗像町出土経筒銘﹂大治五年十
寺千手観音像及胎内木札名銘﹂治承三年十月、﹃平安金石﹄四八
安二年二月、﹃平安金石﹄四一五)、﹁大施主平朝臣盛家﹂(﹁太平
五)、﹁前筑後守従五位下藤原朝臣季助﹂(﹁松崎神社金銅宝塔銘﹂承
ス時、義明カウタレシ時﹂(下巻﹁為義降参事﹂も向。未刊国文資
(幻)半井本﹃保元物語﹄上に﹁新院為義被召事﹂に﹁為義十四ト申
日条に義康死亡は確認。
月二十九日卒、一二十一歳﹂とある。﹃兵範記﹄保元二年五月二十九
(部)﹃山野辺系図﹄(続群書類従)の義康の脇書にも﹁保元二年五
読不明)。米沢市立図書館蔵司須田系譜﹄では﹁三十五﹂とする。
(部)清音寺本向。但し﹁異ニ云天治五図汁四日卒﹂とする(図は判
義重の宮職が一致。
(担)明太平記系図﹄(﹃国文註釈全書﹄一一)の﹁新田足利之系図﹂の
流系図﹄も同。
(お)紙焼写真による(以下﹃吉系図集﹄と略)。書陵部蔵﹃源氏諸
(犯)拙稿(臼)参照。白井氏論でも藤姓足利氏出自は否定される。
書類従)。
する。﹃喜連川判鑑﹄では義康の母に﹁田原基網女﹂とする(続群
蔵謄写本)の寛延二年の書き上げでは基綱が後に俊綱に改名したと
始・古代・中世﹄)では俊綱とし、﹃鍛阿寺文書﹄(東大史料編纂所
んだものであらう。同様﹃築田氏家譜﹄(司総和町史資料編原
は七十三歳、﹃士口良系図﹄(続群書類従)では七十二歳とする。いず
で妥当であるが、何によったか不明。﹃由良系図﹄(続群書類従)で
利両家系圏﹄では久寿二年に享年六十五歳となり寛治五年の生まれ
(お)先の﹃塵荊紗﹄では寛治三年(一 O八九)の生まれ、﹃新田足
十四歳之年従之為合戦趣近江国﹂とあるのも同じ。
五六八﹁山内首藤氏系図﹂(大日本古文書)の資通の脇書に﹁為義
料)として、天仁二年(一一 O九)十四歳とある為。﹃山内家文書﹄
大
謄写本)には、
足利大夫阿曽二郎大夫足利太郎
兼行 I成行li家綱ii
イ 俊 綱ili忠綱又太郎為頼朝死
一
1女子足利義国之御台所
一一御当家新田殿御母
一部阿古太郎佐野太郎一此子孫佐野
﹁有綱│││基綱││﹁国綱安一一局守
又
号
足
利
と基綱を子孫の別人に比定してゐるのも、この伝承を系図に取り込
tsi
、u
η
(鈎)﹃本朝世紀﹄久安三年七月二十四日条。
(群書類従)にも、
次にその官途であるが、﹃職事補任﹄﹁後冷泉院﹂の﹁五位蔵人﹂
月が正しい事が分かる︹町中右記﹄同十二日条︺)。
(却)﹃新田足利両家系図﹄では義重 の享年を八十九歳として 一歳異
右衛門権佐従五位下藤有綱︹治暦 三正廿四補、同四正七正五位
れも根拠不明。
なるが、同系図は北酒出本と関係のある可能性がある。乙れは今後
下、四月十九日止蔵人、依帝山朋也︺
同日任受領例﹂
{
O 六九)
一
O七五)
O
(群書類従)には摂津守とあり、陽明文庫蔵﹃勘例﹄﹁左右衛門佐
とあり、﹃摂津守有綱家歌合﹄には﹁承保二年八月廿日、於国合之﹂
(一
コ O六七年)
調査したい。
(4) 日野流の有綱の伝記には問題がある。﹃史料綜覧﹄は﹃尊卑﹄
の記事に附き、有網を父と同じく永保二年三月二十三日に卒したと
する。しかし次の記事からこれが誤りである事は明白である。﹃元
(
左衛門権佐橘為仲︹延久元年正月汁七日選任越後守[得替公文]︺
右衛門権佐藤有綱︹同日任摂津守、使巡︺
一
とあるから、蔵人、右衛門権佐兼検非違使、摂津守と歴任し、承暦
(続群書類従)の年号勘進者を見るに、
秘抄﹄
一
一
承暦五年二月十日改元永保
博士藤行家兼左衛門権佐同有綱兼中宮亮参議左大弁実政大輔
三年七月に大学頭(﹃水左記﹄同十日条)、同五年に﹁中宮亮﹂(﹃帥
(イ本)にほぼ一致する。されば官途は﹃尊卑﹄に従って良いが、
記﹄同正月十五日条・﹃水左記﹄同三月十六日条)と官職が﹃尊卑﹄
七九)
実綱不進
永保四年二月七日改元応徳
大輔藤実政兼参議左大弁博士藤敦宗兼右衛門機佐同有綱
先の﹃不知記﹄によれば、永保四年には中宮亮の任を解かれてゐた
云々﹂が正しいが、司園城寺伝法血脈﹄﹁有観﹂に﹁中宮亮藤原有網
とあり、﹃改元部類(自承平至観応)﹄所収﹃不知記﹄永保四年二月
次年号勘文定、予依仰候御前、定申可否、公卿申 一
玄、実政卿嘉
朝臣子﹂とある様に、中宮亮が通称となってゐる(﹃園城寺文書﹄
事が分かる。されば最終官職は北酒出本のイ注記﹁イ本云文章博士
徳、敦宗治和等可宜、予申云、後漢書帝崩子嘉徳前殿、此文有
七)。その後、安芸(房機) 守に任命されたか不明である。東大史
七日条(続群書類従)には、
禁、治和井有綱応徳等如何、此旨被仰於公卿云々、令申云、応徳
(位)文治四年正月二十日条・同五年六月九日条、建久元年十一月七
料編纂所本﹃最上家譜﹄も﹁母安芸守有綱女﹂とする
とあり、﹃改元部類(自応和至建久)﹄に依ればこれが﹃江記﹄であ
日条・同六年三月十日条。
可被用之
る事が分かるが、永保四年四月十一日の改元の年号勘進者にも見え
(必)﹃長楽寺文書
八 一 ﹁長楽寺寺領目録﹂には栄勇の名はある
るから、﹃尊卑﹄のイ本の応徳 三年没が正しいか(﹃尊卑﹄では有綱
が、義季は見えない。本 目録、及び 北酒出本・長楽寺本・﹃渋川﹄
h
子の実義にも応徳 三年九月没の注記があるが、イ注記の嘉承元年九
14
第4
7号
山形県立米沢女子短期大学紀重要
佐々木:新田義重一族伝雑々
/C
三二
寸三
﹃東鏡﹄・﹃関東評定衆伝﹄︹群書類従︺各人項、北条氏研究会編﹃北
の号
及び吉川本﹃東鏡﹄文治四年正月二十日条には﹁次郎﹂とあるから、
程
空
条氏系譜人名辞典﹄参照)。
書書
久保田氏論②で義季の家系が﹁三郎﹂を仮名にしたとする指摘は、
宇都宮
頼綱(二主 s一
二
五
九
)
』
検討が必要である。
(必)尾崎喜左雄氏﹁新田義重譲状の﹁らいわうこせん﹂﹂(﹃群馬文
化﹄六一了六三・六回、昭和三十七)。但し司系図纂要﹄﹁岩松﹂(名
著出版)では足利義純室の新田義兼女に充てる。
(必)明東鏡﹄寛元二年六月十七日条。
(必)初出が寛元二年八月十五日条。最後が弘長一二年八月八日条。
(訂)峰岸氏は﹃長楽寺文書﹄五一﹁尼浄院寄進状案﹂より、頼氏が
元亨二年(一三二二)に没したとする(﹃新田義貞﹄)。寛元二年に
大江
広元(二四八三ニ一一豆)
足利
室
時北
義氏(二八九三二五宣)
里
若干十五歳であったとても元亨二年には九十三歳であり、些か長命
すぎる。元亨二年は頼氏の忌日ではなく、遺族の寄進の年である。
(必)﹃尊卑﹄他諸系図で、頼氏の兄弟とされる頼有の文永五年の譲
状が残る。﹃岩松文書﹄﹁源頼有所領譲状写﹂(﹃鎌倉﹄一 O二五O)
同文書﹁新田氏本領注文﹂(﹃鎌倉﹄一 O二五一)からすると、この
頼有は﹃尊卑﹄の通り下野守の官途を持つと判断される。﹃長楽寺
文書﹄一一一四﹁源頼行・覚義・妙阿売券﹂(正和三年十二月)の﹁妙
阿養祖父新田下野前司入道﹂が該当するからで、北酒出本の修理亮
が誰に相当するかは不明。
(羽)野辺本﹃北条氏系図﹄(﹃野辺・東条家古文書﹄の一一一﹁平氏系
図﹂)・入来院本﹃平氏系図﹄(山口隼正氏﹁入来院家所蔵平氏系図
は
猶義
季
続の
仁〉
ミミ
三と
ノ、
/
'
-
l
L
9
豆王
群脇
泰
時
時瓦
ν
〈 コ ー -
E
己 さ
ニす
積る
ヌ矢ξ
竺
竺
竺竺竺
三
己
主 主 =
二
二
ニ
ヨ5:ョョ:
も 占 ム J
LJL
n
ロ耳
弘
について(下)﹂︹﹃長崎大学教育学部社会科学論叢﹄六十一、平
成十四年六月︺)の北条氏系図の名越朝時の子に﹁新田三河守頼氏
室﹂が見える。その親族の年齢を標記すると次の様になる︿﹃尊卑﹄・
系岩?
泰一一女一一時
綱一一子一一実
『新頼一一女泰一一女季一一女時教時光
里田氏一一子氏一一子光一一子基時章時
長
会
図
l
L
9
吉松二
も歯一
;ヱ5
i
同
司
竺義
五時
須新二
回国交
朝士三
文で
政条
,
_
. .._,季何
5
15
0 義得
噌Eム
F
L
D
(弘)延慶本﹃平家﹄一一中﹁南都大衆摂政殿ノ御使追帰事﹂・﹃東鏡﹄
(臼)﹃玉葉﹄承安二年十二月一日条。﹃新田町誌﹄四、九四頁参照。
(臼)﹃久志本常辰反故集記﹄所収﹁宮宣旨﹂(﹃平安遺文﹄四七八四)
補任されたとあるが、諸記録に見えないのが不審。
よったか不明。﹃新田足利両系図﹄では建久四年八月に安房守護に
本)、﹃系図纂要﹄﹁里見﹂では﹁元久元年四ノ八卒﹂とあるが何に
家系園﹄所収﹁杖珠院本叶里見系図﹄﹂(イ1 ハは史料編纂所の謄写
イ里見義冬本・口諸家分脈図本﹃里見系図﹄にも見えない。ハ﹃雑
見代々記﹄・﹃里見九代記﹄・﹃里見軍記﹄には同記事が見えない。
は講を﹁親則﹂とする。
(訂)長門本(福武書庖)は講を﹁能教﹂、﹃源平闘詩録﹄(和泉書院)
による。
(侃)五本﹁源氏三草山弁一谷合戦事﹂。猶、田部本は汲古書院刊本
(印)﹃四部合戦状本平家物語全釈巻九﹄﹁三草勢揃﹂
(川町)御橋恵言氏司平家物語証注﹄巻四に義重に該当すると指摘。
(
臼
紀要﹄四十二、平成十九年一月)に翻刻。
(臼)拙稿﹁信濃井上氏の成立と展開﹂(﹃山形県立米沢女子短期大学
沢女子短期大学紀要﹄四十四、平成一一十年十二月)に翻刻。
の拙稿に翻刻。
養和元年九月七日条。但し前者の記事について野口実氏は平家に新
(侃)巻三十六﹁源氏勢汰﹂(勉誠社。蓬左文庫本(汲古書院︺同)。
)(8)
田庄所職を改易する権能が無い事を指摘する﹁橋合戦における二人
(臼)﹃太田市史通史編中世﹄三十四頁。
する。中院本は大手相伴源氏に﹁山名さとみの人々﹂、閣手相伴源
は相伴源氏として﹁山名次郎憲(教)義・同三郎義行﹂を大手に配
(
ω
) 小城鍋島本・竹柏園本・平松本・鎌倉本・百二十句本・文禄本
(回)以下源重清まで拙稿﹁溢れ源氏考証(上)﹂(﹃米沢国語国文﹄
氏に﹁やまなの二郎のりよし﹂、城方本は大手に﹁山名三郎義行﹂、
の忠綱﹂(﹃文学﹄隔月刊第三ノ四、平成十四年七月)。
二十九、平成十二年六月)に翻刻。
﹁﹃神明鏡﹄・﹃壬年代記﹄所引﹃平家物語﹄巻二・四・八本文につ
揚手に﹁山名冠者教義﹂、奥村本は大手相伴源氏に﹁山名二郎義行﹂、
(印)拙稿﹁北酒出本﹃源氏系図﹄の史料的価値について﹂(﹃山形県
いて(上)﹂(﹃山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告﹄
(貯)(臼)の拙稿に翻刻。
立米沢女子短期大学的属生活文化研究所報告﹄二十七、平成十二年
二十九、平成十四年三月)参照。
揚手相伴源氏に﹁山名冠者教義﹂、佐賀県立図書館本では大手相伴
三月)に翻刻。﹁頼家卿子息﹂の位置を誤ったので訂正する。
(刊)続群書類従本﹃山名系図﹄・﹃山名家譜﹄、山名武男氏蔵﹃山名
(回)拙稿﹁溢れ源氏考証補閥﹂(﹃山形県立米沢女子短期大学附属生
(印)次の義基ともに拙稿﹁溢れ源氏考証(下)﹂(﹃米沢国語国文﹄
氏系図﹄(﹃新編高崎市史資料編四中世﹄)。
源氏に﹁山なの二郎かねよし﹂とする。此処の﹃平家﹄諸本は拙稿
三十・一二十一、平成十四年十二月)に翻刻。
(札)続群書類従本・山名武男氏本は系図の︽︾に行直を持ち、続群
活文化研究所報告﹄三十四、平成十九年三月)に翻刻。
(臼)拙稿﹁﹃平家物語﹄の中の佐竹氏記事について﹂(﹃山形県立米
-16ー
第4
7号
山形県立米沢女子短期大学紀要
佐々木:新田義重一族伝雑々
書類従本は山名八郎義行を持たない。
(河)増補続史料大成。猶同日条に同所奉行役として ﹁山名二郎太郎
(河)次の諸家系図本共に東大史料編纂所蔵謄写本による。大明寺本
直康﹂が見える。
ニ﹁足利氏系図﹂(史料纂集円熊野那智大社文書﹄)・宗鏡寺本﹃山
は最終記事は江戸時代迄下がる。諸家系図本は山名豊固まで。
(
η
) 長楽寺本・﹃帝皇﹄・﹃渋川﹄・﹃米良文書﹄九九八﹁諸家系図類﹂
名系図﹄(東大史料編纂所の謄写本。最終記事は天正九年)。
(ね)﹃尊卑﹄の重国の脇書には﹁承久合戦分捕、廿四歳﹂とあり(宗
鏡寺本・山名武男氏本同)、承久コ一年(一二二一)に二十四歳とす
ると、建久九年(一一九八)の生まれとなり、世代的には﹃尊卑﹄
に適当だが、﹃東鏡﹄と矛盾する。﹁山名小太郎﹂は建久元年十二月
二十四日条・同二年二月四日条・同六年三月十日条にも登場するか
ら、﹃尊卑﹄に誤りがあるか。
(は)楽人多時方(﹃殿麿﹄・﹃長秋記﹄康和二年六月十五日条。﹃古系
図集﹄)は節方とも表記される(﹃為房卿記﹄同七月二十七日条︹﹃大
日本史料﹄二一之五、同六月十五日条所収︺・伏見宮本﹃楽家系図﹄
q図書寮叢刊伏見宮旧蔵楽書集成﹄三︺・三条西実隆本﹃楽所系
図﹄︹﹃古道集﹄))。また仁和寺蔵﹃古系図集﹄﹁俗名融通﹂(東大史
料編纂所謄写本)・﹃姓名録抄﹄(続群書類従)﹁トキ﹂参照。猶﹃須
田系譜﹄は義範子とするが、﹁義節﹂とする。
トキ
(拓)続群書類従本の義範脇書に﹁一説一男﹂とある。
(河)﹃須田系譜﹄には義範に﹁母石河冠者源有光女﹂とし、﹃系図
纂要﹄﹁石川﹂の有光脇書に、阿倍貞任追討の思賞に﹁上野足利利
別篇四﹄による。同書所収の﹃四方田系図﹄
根﹂を得たとし符合する如くだが、時代的に無理であらう。注(印)
﹃新編埼玉県史
の拙稿参照のこと。
(
π
)
も向。
t
ヴ
Iム
寸