ユ 日 本 統 計 學 史 考 −森林太郎博士の統計観につ いて− 文 彦 本考においては、まづ﹁統計﹂と﹁統計學﹂の詳字考、衣に﹁統計學﹂を國家の顯著事項を記述するいわゆる國扶 かを考察するのもあながち無駄ではたいと老え、ここにそれの史的考の一端を示さんとするものである。 ある。いまふりかえつて﹁統計﹂及び﹁統計學﹂がどの様な形で叉いかなる名稽を以て輸入當初において迎えられた 統計學が輸入科學として日本に渡來してここに九拾饒年、統計學は科學一般に種々適用され甚大な効果を攻めつつ その三は十六世紀頃イタリヤに端を初し、のちフランスにおいて大成された確率論である。 た國扶記派望墨a寿⋮宗、その二は右と殆ど時と同じくして英國に創始された政治算術勺o二ま巴彗一苧昌go、 ウェスタiガードによれぽ、統計學は三つの源泉をもつといわれている。一つは十七世紀に主として濁逸に勃典し 林 記述派的たものとして輸入された事實、最後に方法論的立場から、 ﹁統計學﹂を把握認識した森林太郎の統計観を叙 述するものである。 81] 序 2 ﹁統計﹂及び﹁統計學﹂の議名の老誼には穂積陳重、岡松径及び下出隼吉の三氏があげられる。 まづ穂積蟹によれ、㌻・スタチスチ一クス一の薯が﹁統計學・と定葦享には多の筆がある。始め慶廠 o o 〇 三年四月に出版せられた紳田孝平氏謬﹁経済小學﹂の序には、スタチスチツクスを課して﹁會計學﹂としてあるが、 明治三年二月護布の﹁大學規則﹂には﹁酢数靴﹂とある。⋮⋮同年十月の大學南校規則にも﹁國務學﹂となつて居る。 世良太一君の直話に擦れぽ、國勢學を一時﹁知酢斡﹂とも言うたことがあるが、これは多分杉亨二先生の案出であろ うとのことである。津田眞道先生がオランダのシモン・ヒツセリングの著者を課して明治七年十月に太政官の政表課 から出版せられたものに﹁釦紗捨粋一名疎知軸熱﹂といふのがある。 ﹁西周偉﹂に擦れば、津田先生は學名としては ﹁練紗塾﹂と言ふ語を用ひられた様である。世良太一君の話に擦ると、 ﹁政表﹂といふ語は、此後明治十年頃までも 用ひられたといふことである。 此の如くスタチスチックスに封する詳字が從來厘々であつたので、寧ろ原語其儘を用ひた方が好からうといふこと で、明治九年頃、杉亨二博士、世良太一氏等の創められた學會には、﹁スタチスチソクス肚﹂といふ名稽を附し、﹁ス スタチスナク タチスチックス雑誌﹂といふのを襲刊せられたが、嘗時スタチスチソクスといふ原語に宛てる爲に﹁移等袈﹂といふ 漢字をも案出創造せられたといふことである。:⋮・然らぱこの﹁統計學﹂といふ名稽の創始者は抑、何入で山のろうか。 O O O o o 明治四年七月二十七日大藏省の申に始めて置かれた役所に統計司といふのがある。これは翌八月十日に至つて統計 o o 熱と改められたが、官署の名に統計の名を附したのは之が始めてである。この﹁統計﹂の二字は、恐らくは﹁英華 宇典﹂にスタチスチックに封して﹁絆紐﹂といふ課字を用ひて居つたのに擦つて案出したものであろう。此後明治 8i2 七牛六月になつて、箕作麟洋博士が佛人モロー・ド・ジョンネの著書を翻課して文部省から出版せられたものにば ﹁統計學;國勢賂論﹂といふ標題を用ひられた。學名として﹁統計學﹂といふ名稽を用ひたのは蓋し此書を以て初 OOO OOOO 、、、、、 、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 めと爲すべきである。而して前にも述べた如く、此後にも﹁國勢學﹂、﹁知國學﹂、﹁政表學﹂叉は﹁表記﹂﹁移升玖﹂ などの名構が存在したにも拘らず、後には﹁統計學﹂といふ名構が一般に行はれて、絡に學名と定まるに至ったので ある。﹂ この考護のでている﹁法窓夜話﹂の序は大正四年七月である。ところが岡松樫の﹁統計譲字の略考﹂は穂積博士の 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 考讃と深い闘運がある。すなわち﹁本年︵大正四年−筆者註︶五月二十六目阪谷會長閤下は書を径に寄せられて目く 穂積博士より統計學と言ふ詳語は誰が始めて用ゐたるやの尋あり調査して一報を願ふと因て煙は統計界の香宿たる本 會︵東京統計協會−筆者註︶評議員世艮太一君に面﹂明治四年より十年一月まで大藏省に統計寮存在のことを撃て當 時大藏省に於て誰が統計の課字を選定せしや定て御記憶あらんと述べました虚同君答て目く統計寮最初の頭は申村清 行君︵後國立銀行頭取︶でしたが暫時にして罷め深江順暢君代られ嬢寮の時まで從事されましたが統計命名のことは 爾君ではたく明拾三四年頃各省の職務章程を立案せL委員様の人輩が協定したものと老へますが誰が選定せしと言ふ 記憶はありません幸に本雪監事石橋重朝君は永く大藏省に居られたことがありますから多分承知のことと思ひますと 是に於て樫は石橋君を訪間しました虚同君多忙の時聞を割かれ快く奮時の記憶を話されましたので樫は是の談を記載 の左の通會長閣下に答申致したのであります。 石橋重朝君目く僕の知る虜では本邦に於てスタチスチックを始て統計と翻課し命名せるは明治二年開成所英學致師 ︵営時年齢三十歳位と見受く明治三年肺病にて死去L奮幕府の人と琵ゆ︶其の編纂にて統計入門と愛ゆ或は統計便覧 とも覧ゆるが凡そ十行二十宇詰にて三四十放の出版物あり之を統計命名の創初とすべきか此の小冊子は僕が明治二年 813 開成所の學生たりしとき一度闘覧せLことあり復た此の轡言中に謬字不完全と考ふるも暫く懐定し置くと言ふことも ︵ 二 ︶ 記憶して居る只今一寸其の氏名を思ひ出せま身、ん此の事に加藤弘之辻薪攻君に尋ねうれたら知れるだらふと思ひま す。Lとある。 ついで 一、統計なる譲字 二、政表なる諜字 三、表紀なる講字 四、形勢なる議字 五、國勢なる詳字の五つ にわけて考察し、 ﹁最初スタチスチツクスを統計と課せしは英華字典を折衷せしものかと推察するのですあります今 英華字典を見ますとω蟹茅まωを國紀、國志としω9昌80︷ωけきωまωを國學、國知とし與ω冨弍、ユ。叫一>8。自目片を 。 。 ︵三︶ 統紀としてありますから我邦統計の謬字は此の統紀の紀を計と換えたのではありますまいか﹂と述べている。 下出隼吉の﹁統計﹂及び﹁統計學﹂に就いて﹂によれぼ、﹁﹃萬國政表﹄は萬延元年に出版され、岡本約博卿︵古 川政雄と同人︶の諜になり本邦に於ける統計に麗する文献としては誰程古いもの∫様に思はれる。此の書の凡例に擦 れぱ始め幅澤先生︵筆者註−幅澤論吉︶が同書の翻議に着手⋮⋮政表なる詳語は多分幅澤先生が渡米前即ち安政年問 O O O O O O に新案されたものではなからうかと思はれる。之に綾いて謬された言葉としては、望きωまωを表書、表紀、形勢、 O O O 蜘紐、齢詐︵明治八年司法職制章程に毎歳刑事民事綜計表を上り言々とあり︶、 製表︵東京統計協會は最初製表耐と 言へり︶、 國勢等に講﹂てあり、更に叉國紀、國志、國知等にも謬されて居り、此の様に色々と議し直された様では O O O O O O あるが、比較的多く用ひられたしは﹁政表﹂の二字の様であつた。︶とし、更に﹁統計學﹂については、﹁箕作麟鮮氏 O O O が統計學と改め謬されし迄にも、甑に學としての oo蟹豪まωは色々と講されて居り、例へぱ経國學︵ヒイツセリン ー o o 。 。。。 。。。 O.O .O。 昨 グ致授の西、津田雨先生に與へた覧書の魏議文にあり、ホフマン致授叉は西先生の伺れかが謬したと言はれる︶、政表 學、綜紀學、形勢學︵明治二年の大學々制中にもあり︶、 國勢學︵明治三年謹布の大學規則申にあり︶、 國務學、矢 節敷︵杉先生の課とも言はれる︶、 表摩︵慶腰三年出版加藤弘藏譲﹃西洋各國盛衰彊弱一覧表﹄にある津田員適の序 814 α ひ o 丈⋮⋮費は柳河春三の筆なりとも言はれる−:−にあり︶、倉計學︵慶膝四年三月版刻の梯田孝牛譲﹃西洋経涛小學﹄ の序文にあり︶、 表紀學などと呼ぼれしが、共の多くは之に類するもの二多く、家第に統計及び學の軍なる政治的意 O O O 味のみを有するものに非ずして、芙の本義の如何が邦人に知らる﹄に至りしと共に、之等の課は何時しか忘れらる㌧ に至りしが、あとに残りし統計及び統計學に樹しても筒暫らく議論のあり、了解されざれしことは言ふ迄もなく、箕 作先生の謬本に﹃一名國勢路論﹄とあるを見ても、杉先生が﹁統討﹂は英の眞意を表はさずとして、﹁移升畝﹂叉は ﹁移響契﹂或は﹁移対玖﹂なる言葉を創造案出せられ、明治九年に創設せられし統計學泄は最初表紀學耐と構し、後 o o o o ﹁スタチスチックス杜﹂と改め、統計學耐と改構せられしは二十五年たりしを見るも譲語に就いては色々と異存のあ ︵四︶ り、容易に一定の學名としてかたまらざりしは窺ふに足る⋮⋮Lと記している。 ︵一︶穂積陳重 法窓夜話 一九一−一九四頁 四八−四九頁 ︵二︶ 岡松 径 統計譲字の路考 統計集誌第四百十四號 四七頁 ︵三︶ 同 右 ︵四︶下出隼吉 表紀提綱解題 二二−二三頁 明治文化全集経済篇所牧 、 、 政表という語を用いて﹁統計﹂を示した最初のものは、萬延元年︵一八六〇年︶十一月、幅澤論吉が校閾し、岡本 博卿が詳出出版した﹁萬國政表﹂であろう。こればオラソダ人プ・ア・デ・ヨソグの蘭文﹁世界國勢一覧表﹂であつ て、慶藤三年加藤弘藏︵後の弘之︶によつて謬出された﹁西洋各國盛衰彊弱一覧表﹂と芙に日本最初の統計麗係書で ︵五︶ 815 二 ある。しかし共にその内容からおして明らかな如く現在の﹁統計藪字﹂のことである。 Lかし何等かの意味において肚含科學としての﹁統計學﹂を意味するものとしては種々なる課語が用意されたので あるo 文久二年︵一八六二年︶オランダに派遣された日本最初の留學生、津田眞道︵當時眞一郎︶と西周︵鴬時周助︶と が和蘭ライデンH。①旨窒大學の致授フ4セリングωぎ昌≦ωω邑轟に師事したが、同致授の﹁津田員一郎西周助爾 君二業ヲ授ルコトニ就テノ書付﹂の第一條に次の五科目にわたる名稽を筆げている。 ︵六︶ 其一 天然ノ本分 乞算⋮⋮品g 其二 民人ノ本分 <o寿g冨囚g 其三 邦國ノ本分 ω冨gω亮αqg 其四 経済學 望竃ま三争o目o穴自目ま 其五 経國學 卑算一邑県 芙五にあげてある﹁経國學﹂が﹁統計學﹂の謬語であり、その日付は一八六三年六月十六目となつている。 フィセリング致授によつて授けられたこの﹁経國學﹂を後年すたわち明治七年︵一八七四年︶十月津田眞遣は﹁表 紀提綱一名政表學論﹂として詳出している。 ︵七︶ 一方西周は﹁五科口訣紀略﹂に爽の如く記している。 一目 性法學 二日 萬國公法學 三目 國法學 816 四目 経済學 五目 政表學 ︵八︶ 政表學とは﹁第五論政表學。是察一國之情扶如何。而致其詳密之術也。﹂ とあり、統計學を國扶記述派的た内容を もつたものであつたこと中が窺われる。 表紀提綱の序によれぼ﹁凡ソ土地人民ヨリ法慶學間致化財政守禦及ヒ農業工作貿易物産航海運輸等二至ルマテ其愛 ︵九︶ 更事實ヲ表章シ或ハ彼此ノ比較二因テ其利害得失ヲ明耕スル者ヲ政表トス﹂とあり、表紀の本義については﹁表紀ノ 原語ヲスタチスチキト講フ其義ヲ直詳スレハ邦國叉ハ形勢卜謂フ事ナリ蓋一國鼓國乃至萬國ノ人民互二相生養スル實 ︵十︶ 際ノ形勢ヲ知ル學術ナリ此形勢ヲ名ケテ人間倉砒又人間伸問ト謂フ﹂とあり、表紀の目的としては、﹁表紀ハ人間伸間 ︵十一︶ ノ事實ヲ知ル學間ニシテ其事件ノ現二存シ實二有ルヲ表章スルニ在リ﹂とし全く國扶記述派的な内容のものである。 更に慶癒三年︵一八六七年︶楴田孝干は、英國の経済學者オ・里=ωの著、、O鼻=屋o︷ωoo邑厚昌o昌く、.のオ ランダ議からの重詳として﹁経済小學﹂を出版したが、その序に﹁西洋諸國學校ノ致國各其法アリト難小異大同之ヲ スタナユチツク 、 、 、 、 要スルニ五科二轟ク五科一目致科二目政科三日理科四目馨科五目文科各科亦門類ノ別アリト難具鋒ニアラス今特二政 科ヲ詳ニス凡政科分ツテ七門トス一日民法二目商法三日刑法四日國法五日萬國公法六目會計學七日経済學皆國家ノ急 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 ︵十二︶ 務ニシテ學者ノ忽ニスヘカラサル所ノ者ナリ⋮⋮﹂ ︵傍賭筆者︶とある。 ﹁経済小學﹂は日本最初の経済學の翻課書であるが、六日會計學とはスタチスチックとふりがながつげてあること によつても明らかな如く統計學のことであり、その統計學は経済學等と共に﹁國家ノ急務ニシテ學者ノ忽ニスヘカラ サル所ノ者﹂として考えられ、いうところの國状記述派的統計學を指していたものと思われる。 明治七年︵一八七四年︶六月箕作麟群によつてフランスの竃ε①gま﹄gま署里①昌gけ伽急ω$茅巨毛①、・&・一 817 818 HOO蟹が文部省編として課出され、﹁統計學一名颪勢略論﹂と題されている。この課書こそ統計學の學問名として罵い られた最初であるが、その詳序ともいうべきところに、 ﹁此學原名ヲスタチスチツクと言ヒ芙講ク所ハ皆算藪ヲ以テ 國内百般ノ事ヲ表明シ治國安民ノ爲メ最モ緊急ノ者タリ⋮⋮−⋮我國未タ此撃科ノ書ノ世=翻課ヲ経シ者アラサルカ 故二今者瓶メテ此書ヲ謬シ以テ官梓二付スト難モ其科名呈填スル講字ノ如キモ從來或ハ政表國勢等■字ヲ用ヰテ亦末 ︵十三︶ タ一定普通ノ稽アルヲ見ス因テ此二改メ謬シテ統計學トス﹂とあり、﹁統計學の緯義及吉趣﹂として、﹁統計學トハ天 然、人口、政事等ノ實件ヲ算藪ヲ以テ解明スル學科ヲ言フ而シテ其吉趣ハ人民■性種、情態、進歩ヲ明ラカニ知得ス ルニアリ﹂とし、その大綱領として、 ︵十囚︶ ﹁第一 國ノ人種、人口及ヒ富盛ノ源ヲ誼明スル事 第二 土地ノ肥療、往來ノ便利、外冠ヲ防禦スル要害、郊野都府ア問ハス水土ノ善悪及ヒ地形ノ寧否ヲ検査シ共地 ヲシテ都テ 良 好 ナ ラ シ ム ル 方 法 ヲ 施 設 ス ル 事 人民ノ蓋カヲシテ得タル政穫及ヒ民灌■執行ヲ確然不抜ノ基礎二從ヒテ規定スル事 貧困ノ民叉ハ犯罪人ノ爲二設ケタル貧院、病院、獄舎、懲治場等ノ法則ヲ立テルニ付キテ官府ヲ賓助スル事﹂ 人民ヲ文明開化ノ域二進メ芙心ヲ善艮ナラシムル爲メ國中致育ノ盛衰ヲ知ル事 ︵十五︶ 犯罪ノ多寡ヲ考へ以テ刑罰ノ軽重ヲ適宜ニシ准國ノ基本ヲ制スル事 商業ノ盛衰ヲ検硯シテ其障碍ヲ知ル事 農業及ヒ百エニ因リテ生スル諸物品ノ分量卜債額トヲ知ル事 政府ノ用二供スル租税ヲ公平二定ムル事 外冠ヲ防禦シ以テ國ノ濁立不轟ヲ保有スル爲メ兵士ヲ調護スル皇付キテ芙人員ヲ公干昌全園二科分スル事 第第第第第第第第 十九八七六五四三 と列記し“ ﹁統計纂ハ琶二厨政ヲ掌ル者ノ霧ノミニ井ス法葎家、経済家、歴吏家等ノ爲二宅亦不可鉄ノ學科﹂と老 r ︵十六︶ えられている。が、きする所、その内容は依然政治算術振的、國状記述派的なものである。 以上明治初期前後に﹁統計學﹂として老えられた内容はその表現に若干の相違はあるとしても國家學の一とLての 統計學であつたのである。 幸田成麦和蘭夜話八六−八七頁 ︵五︶ 尾佐竹猛 萬國政表解題 二頁 明治文化全集纏済篇所牧 ︵六︶ ︵七︶ 森 鶴外 西周傳 五〇頁 鶴外全集著作篇第十一巻 三頁 シモン・ヒッセリソグ著・津田眞遺譲表紀提綱序 ︵八︶ 同 右 五一頁 ︵九︶ ︵十︶ ︵十一︶ ︵十二︶ ︵十三︶ ︵十四︶ 巻之一 本文七!九 巻之一 本文一 統計學 凡例一 経済小學 序一 五頁 同同同箕碑同同 右右右麟孝右右 藤平 課議 巻之一 本文七 8i9 ︵十五︶ ︵十六︶ 作目ヨ 10 あるが、同五年︵一八七二年︶十月四目地誌課政表係に縮小さ九、同六年︵一八七三年︶更に五月日闘内史財務課 一方、中央統計機麗としては明治四年︵一八七一年︶十二月廿四日付太政官正院に政表課を設置されたのが最初で えられる。 きものであつたと言ふ﹂ことからも明らかな如く名は統計學であつてもその實態は國赦記述派的なものであつたと考 ︵二十四︶ 者︶ ﹁芙の統計學の講義は今目の統計學とは違ひ、各國の國勢を叙述﹂たやうなもので、 望墨a巨邑①とも言ふべ のカールニ7ートゲンは﹁明治十五年來朝し二十三年蠕國して、濁邊マールブルク大學の致授となつた人であるが、 、、、 ︵二十三︶ 彼は漏麹で歴史學派経済學の影響は受けてゐた。東京大學の講義は行政學、國法學、統計學等であつたが﹂ ︵傍難筆 四年九月東京大學文學部に入學し、同十八年七月卒業した金井延は、同年十一月ラートゲン致師の助手となつた。こ るものにして、第二年の課程に薪に統計學を加へ﹂とあり、一年間毎週二時問の授業であつた。 ︵傍難筆者︶明治十 、、、 ︵二十二︶ 下つて﹁明治十五年九月及十二月に於て、夫々學科課程の改正あり。九月に於ける改正は政治學及理財學科に闘す ではないか。それと、も⋮別に里ハ文猷があつたのであろうかo ︹謹︺ 穂積博士の法窓夜話には﹁國務學﹂とあるが行丈からみて︵同年十月の大學南校規訓一にも﹁國務學﹂︶﹁國勢學﹂であるの 、 、 ヲニ⋮四ノ四等トス共學科ハ大凡左二示スカ如シ﹂とあり、法科の學科中に同檬﹁國勢學﹂とある。 明治三年閨十月、大學規則に基いて、薪に大學粛校規則が制定せられ、その大學南校規則第廿五條に、 ﹁專問科分 ︵二十︶ ︹謹︺ ︵二十一︶ あり、中・小學規則の﹁中學﹂の部、法科の專間學にも同様﹁國勢學﹂とある。 ︵十八︶ ︵十九︶ ︵十七︶ ﹁明治三年二月、大學規則及中・小學規則を護布せられ﹂、その﹁大學規則﹂における法科の學科名に﹁國勢學﹂と 三 820 ︵﹁此課ハ一切財用二闘係スル事ヲ勘査ス﹂︶に附麗と再縮小され、同七年︵一八七四年︶三月五目外史所管の政表課 となり、同八年九月二十五日日太政官の内外史および諸局課が慶され、五科が置かれるに至つて、 ﹁政表課ヲ慶シ尋 テ第五科ヲ置キ政表事務ヲ管ス﹂ことにたり、同十年一月十八目﹁太政官中二調達局ヲ置キ政表事務ヲ管ス﹂ことに なり同局中の政表掛とたつた。更に同十三年三月三月太政官中調査法制の爾局が魔され、法制・奮計・軍事・内務・ 司法・外務の六部が琶かれるに至り、政表掛を改めて統計課として雪計部に所麗せしめた。以上種々その機構上の位 ︵二十五︶ 置及び名構がが愛更されたが、明治十四年五月三十日付太政官申に統計院を設置し、統計機構の一大接充を見るに至 つた。 、 明治七年の政表課規程第一條によれぱ、﹁夫レ國家法ヲ立テ政ヲ行フヤ其効蹟ヲ察セサレハ焉ソ能ク事物ノ利害得 失及國民安寧ノ域二進ムヤ否ヤヲ知ラγヤ而シテ其効蹟ヲ察セγト欲セハ全國ノ事實計藪ヲ総括スル虚ノ政表二依ラ サルヘカラス・⋮−﹂とある。 、 ︵二十六︶ 政治上其他諸般ノ事物二關スル統計表ヲ編製公布スル事 報昔書及ビ統計ノ材料ヲ徴集スルノ期附ヲ定ムル事 各官廃其他ヨリ徴集スル報告書ノ様式ヲ定ムル事 統計表ヲ編製スルノ材料ヲ各官騒其他ヨリ徴集スル事 統計表ノ様式ヲ定ムル事 統計表二擦テ政治上其他諸般事物ノ結果ヲ誼明スル事 第第第第第第第 七六五四三二一 條條條條條條條 統計二調スル薪十ロノ書類ヲ集テ之ヲ保管スル事 821 ︵二十七︶ 続計院事務章程は吹の如くであつた。 11 12 第八像 各官露二於編製スル統計ノ匿域ヲ定メ英統計表若ク︿統計二麗スル書類ノ様式ヲ改良セシムル事 この様に統計院の設置に件い、統計事務所管機構に飛躍的接充がなされたが、これというのも家の如き参議大隈重 信の統計治國の建議、があずかつて力あつたのである。 、 、 、 、 、 ﹁現在ノ國勢ヲ詳明セザレバ政府則チ施政ノ便ヲ失フ過去施行ノ結果ヲ鑑照セザレバ政府其政策ノ利弊ヲ知ルニ由 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ナシ故二現在ノ國勢ヲ詳明シ過去施行ノ結果ヲ鑑照スルハ是レ政府二在テ嵌クベカラザルノ務ナリ、現在ノ國勢 ヲ一目二明瞭ナラシムル者ハ統計二若クハ莫シ叉現在ノ國勢ヲ以テ之ヲ銑往二幸較シ過去施政ノ得失ヲ誼明スル者ハ 亦ハ紛か^替ハ州ハハ是ヲ以テ政府夙二其大要アルヲ察シ太政官中二政表課ヲ設置セラレタリー・⋮⋮抑モ統計ノ業タ ル施政ノ賓務二遠離スルノ外観アルガ爲メニ其材料ヲ有スル講官衛二於テ報告徴集ヲ等閉二付スルノ弊ナキニアラズ 叉統計課二在テハ其仕組ノ挾少ナルガ爲二充分ナル編製ヲ遂ルコト能ハズ是則チ完全ナル統計表ナキ原因ノ大ナル者 ナリ故二願クバー⋮⋮一院ヲ設ケ鏡意統計ノ業二從事セシメー⋮⋮其規摸ヲ大ニシ且ツ内閣重官ヲ以テ其首長ヲ粂務 セシメラレンコトヲ新ノ如クンバ完全ナル統計総表ノ製出ヲ望ムベク政府始メテ現在ノ國勢ヲ容易二鑑照スルノ便ヲ ︵二十八︶ 得テ叉過去施設ノ結果二就キ政策ノ利弊ヲ護見スルノ端緒ヲ得ベキナリ⋮⋮⋮﹂︵傍鮪筆者︶ 以上綾述した如く明治初頭前後における﹁統計學﹂は翻講書においても官府においてもまた學校致科にその内容は 國扶記述派乃至政治算術派的であつたのである。 しかしその謬語、あるいは國勢學、あるいは政表學、表紀學等々と容易に統一を見なかつた。 ここにわが國統計學史上最初の開拓者として名を留める人、杉亨二博士に言及Lなけれぼならない。 博士は﹁軍に統計と言ふことに封しては政麦とか形勢とか言ふ譲宇を當てはめたが、一の學問を現はす名構として ︵二十九︶ はスタチスチックなる語を其儘用ふべしとの読を長く主張したのである。﹂ 822 明治十九年四月﹁スタチスチツクの話﹂と題する講演の中で博士は、 ﹁スタチスチツクと言ふことは我國には耳薪 しき言葉なれぼ世人に聞きとりやすきやうに課字を作て政表とか統計とか名構を付けたり此議字は支那の文字なれぼ 文字の鑑に護み下して解する者多し政表と言ふは支那の書には見えずして其字面も亦穏富ならず統計の方稿々解し易 し統計は合計の意味もあれども文字の通り統べ計るの義にて可ならんなど⊥牽彊附會するより學問の道理を誤り事業 を妨害するの甚だしきに至らんとす目に硯て名の付げ方のなき物には原名を唱へて︺フンプ﹂と言ひ﹁テーブル﹂と 言ふ目に硯えざればとて學問上の原名には必ず詳字を付けると言ふ道理は聞えず叉事物の遣理さえ知れぼ課名は何に てもよし勝手次第なりと言ふ妄論者あり文明世界の薪學問たるスクチスチツクといふ立派たる原語があるに何の嬢や ある馨學にては病名や薬名は多くの原語を用ふ叉佛者の菩薩、彌陀と言ふが如き類も梵悟なり其意味深く詳字の當つ 、べきものなきを彊て附會せば本義を失ふて大なる誤りを來さん叉統計なり人口なり之を英語や佛語に直講したらぼ如 ︵三十︶ 何なる奇語となりて文明世界の笑とならん﹂と論じ統計學たる課語に反封したのである。 ︵三十一︶ かくの如く﹁謬字排斥.原語探用論者であつた﹂榑士は明治六年五月太政官参議宛の建議書中に﹁夫政表全國之形 勢也、歓州名目須多知藪知以久⋮−﹂︵傍購筆者︶と原晋にあわせて造字し、﹁明治十二年頃印刷せんとしたる雑誌の 、、、、、、、 ︵三十二︶ O O O 題號には寸、多、知、寸、知、久、を合綴して移響袈を用いられんとし叉明治十六年七月より十八年十二月まで共立 ︵三十三︶ 統計學校の致科目には移響変の薪字を用ひ其の講義に於ても原晋を使用した﹂とのことである。叉明治九年二月博士 を申心として設立された學杜は、初め表記學肚と構していたが、同十一年二月スタチスチツクス肚と改名し、その機 關雑誌の名稽をスクチスチックス雑誌としたのである。 伺雄副祓長世良太一の名で護表さ丸た﹁本誌政題種言﹂によ丸ば衣の如く記さ机ている。 823 ところが明治二十五年第六十九號より﹁ズタチスチツク難誌﹂は﹁統計學雑誌﹂と改題したのである。改題に際し 13 14 ﹃﹁スタチスチヅク﹂は一箇專間の學科にして人問耐曾凡百事物の現象を探討彙集し算藪を文鮮を以て其眞形を蔦 出して以て盛衰利害優劣を審定し現象の如何に擦て芙原因を捜索し寛に進化の秘藩を護見せんと欲するものなり ﹁スタチスチック﹂の主旨此の如くたるか故に之に適當する所の謬字を得ること甚だ難しとす嚢に政表表紀統計等 の稽を下せりと難僅に其一端を撃くるに過ぎす 我輩耐を結ひ此學を講究し後叉難誌を護刊するに當り其謬字の爲めに世人の本義を課認するものあらんことを恐れ 常に原語を存して其主旨を明らかにせんことを務めたりしなり 然るに統計の構年を経るに從い大に世に行はれ官府編纂に學校致科に其他新聞に報告に皆之を用ひさるはなし原語 の如何に拘らず薮に一定の名稽となり復た働かすべからず時運銑に此に至る我輩同志は盆々之を輔翼し其護達を謀ら ざるべからざるなり 我輩夙に碓を緒ひ講究する所を載せて雑誌となすもの亦此學の接張を糞ひ普く其主旨功用を世間に偉へんが爲なり 然るに廣く世に行はる﹄所の名構に依らずして凋り拘原語を固守するは善及の方便を得たりとせす且や萬一世人統計 ︵三十四︶ と﹁スタチスチック﹂と岐して別物となすが如きことあらば實務の進歩を障碍すること無きを保たず﹄として原語探 用論者の主催する學耐も途に時運にかてずここに最後の牙城もくずれさり、ここに統計學についての學問的名構は統 一を見るに至つたのである。 しかし事態がそこまでゆく一動因として、明治二十二年同耐の幹事今井武夫と森林太郎との聞に統計の議語につい 東京帝國大學五十年吏上 六〇頁 て敦攻に亘る論争のあつたことを見逃すことはできない。 ︵十 七︶ 824 ︵三 十︶ ︵二十九︶ ︵ヱ十八︶ ︵二十七︶ ︵二十六︶ ︵二十五︶ ︵二千四︶ ︵二十三︶ ︵二十二︶ ︵二十一︶ ︵二 十︶ ︵十 九︶ ︵十 八︶ 世良 太 一 編 葡 掲 書 附 錘 四 〇 頁 高野 岩 三 郎 葡 掲 書 二 五 二 頁 世良太一編 杉先生講演集 ニニ七!ニニ八頁 商野岩三郎 改訂増補 杜會統計學史研究 二五〇頁 総理府統計局八十年史稿 一五−一六頁 法規分類大全第一編文書門 二!三頁 法規分類大全第一編丈書門 四九頁 総理府統計局八十年史稿 五−九頁 同 右 八二頁 河合榮治郎 明治患想史の一断面 八二頁 河合榮治郎選集九巻 同 右 七〇二頁 同 右 一四一頁 同 右 一四〇頁 同 右 六五頁 同右 大二頁 岡松 筏 葡掲論文 四九頁 ︵三十一︶ ︵三十三︶ 続計摩雑誌 第六十九號 六頁 ︵三十二︶ ︵三十囚︶ 四 明治二十一年より二十二年に亘り濁逸のエステルンの論説を英秀三が﹁恵氏醤學スタチスチツク﹂と題し詳出した 825 16 ものをスタチスチック雑誌に蓮載した。これを軍行本﹁殴酉學統計論﹂としてスタチスチツク杜より褒行された。 間題は森鴎外こと林太郎が﹁馨學統計論の題言﹂とLて明治二十二年二月﹁東京馨事薪誌﹂第五百六十九號に掲載 したことから始まる。 ﹁余が馨學統計論の璽言を作りし後、書を東京警事新誌局に寄せて、何故に余がスタチスチソ クと云はずして統計と云へるかを間ふものあり。間ふものは名を匿したれぼ誰やらん知るに由なけれども、近來課字 の選揮なども追々軽忽にせぬ様になりて、冤角議論あるは喜ぶべきことなれぼ、思ふが儘に左に述べん﹂と記し、論 箏の火端を切つた。﹁余が統計と云ひしは、必ずしもスタチスチツクと云ふを欲せざるが故に然云へるにあらず。芳 漢異君が馨學統計論の首に藪語を題してよと需められしより、同君の使はれたる課を使ひしまでなり。然れども若し 余にして統計の謬を悪しと思ひならば決して之を襲用せざりしならん。余はスタチスチツクを統計と譲するの不可な るを見ざるなり。﹂ として原語探用論者に封して家の如く反論する。 ︵三十五︶ ﹁今の世の統計家−否、スタチスチシヤンと構する人々の統計の語を不可とする理由を問えば、 ﹁統計は合計の意 味もあれど、文字の通り統べ計るの義にて可ならんなどと牽彊附會するより、學間の道理を誤り、事業を妨害するの 甚だしきに至らんとす﹂と。是に慮の遠きに過ぐると云ふものなり。理學と云へぼ勃牽理窟の學間と思ひ、化學と云 へば妖怪愛化の學間と思ふと唱へ、此謬字を排斥せば誰か之を笑はざらん。若し反封者の位地に立たば、 ﹁スタチス チックは國家の字より轄じ來れぱ、國家q義叉は政治家の義にて可ならんなどと牽強附倉するより﹂云々と駁論する ことを得べし。Lとし、﹁若しスタチスチシヤソ諸家に一歩を譲りて、理化學等には課解の弊少なく、統計には此弊多 ︵三十六︶ し。故に統計の語を避け、此穫謀を以て流俗の弊を救はんとの意なりとせんか、余は、其穫謀の能く其目的を達する ︵三十七︶ や否やを知らざるなり。﹂ 原語探用論者が﹁スタチスチツクの字を用ゐる理由を間えぱ、則ち日く、 ﹁目に見て名の付け方のなきものには原 826 17 名を唱へてラムプと云ひテェブルと云ふ。目に見えざれぼとて學問上の原名には必ず譲字を付げると云ふ道理は聞さ ず。Lと。叉目く、﹁馨學にては病名や薬名は多く原語を用ゐる。叉佛者の菩薩、彌陀と云ふが如き類も原語なり。英 意味深く謡字の當つべきものなきを彊いて附奮せば、本義を失うて大なる誤を來さん﹂と。蓋し目に見える物却ちコ ンクレエトの物にも、目に見えぬ物即ちアプストラクトの物にも、講の行はるる物と行はれ難き物あり。彼のラムプ を燈と譲する事の行はれざるは、行燈と混ずる憂いあれぽなり。テェブルを机と詳する事の行はれざるは、我邦に有 ︵三十八︶ り鰯れたる机と混ずるの憂いあればなり。統計に至つては此等の憂いなし。﹂とし統計學の輸入科學としての性格を彊 調し、更に原論採用論者が意味をもつとしてもシラブルの長い語は共儀にては行はれない黙に言及し、﹁スタチスチ ックの字も長きに過ぎては行はれ難し。彊いて之を行はんとすれぱ訊穆をなさん。 ﹁學問上の原名には必ず課字を付 ︵三十九一 げると云ふ道理は聞えず﹂という原語探用論者に封して、﹁詳字を付けぬと云ふ道理も聞さぬなり﹂と皮肉つている。 攻で﹁統計に隈りて何とやら銀澁たる意味あるの念をなすは、意味の愛遷と云ふ事を知らねばなり。古代の用語は 依然として存ずるに、學問の進歩は止む時なく、新しき意味を古き語の中に権し込むこと是なり。統計に六十乃至百 の緯義ありと云ふは、統計の事に就きて古來、様々の愛遷ありて、様々の意味をスタチスチツクと云ふ語の中に推し 込みしと云ふに過ぎず。﹂スタチスチシヤンが、﹁スタチスチツクを統計たりなど云い張らんとする學者あらば、百藪 ︵四十︶ 十年の前に潮りてスタチスチツクの歴史に就て其義を探究して、藪多の學者をば一々論破して、是れぞ我が持論なる ︵四十一︶ 統計なりと、讃を引き質を撃げて、己の主義を主張するの螢を取られねぱならぬ事と思ふなり﹂との論述に封して、 ﹁スタチスチツクを統計と譲したるの可否を定むるには、之を今の統計の一澤義に照らして共吻含するや否を見て可 ︵四十二︶ なり。伺を苦しんでか叉古來の藪百家に費して論耕を邊しうるするの煩を取らんや。﹂ と、その消極的批判を終り、 森林太郎自身の統計観を吹の如く述べている。 827 ㎎ 牙プチ晶クチ’フ ﹁今の統計の一馨義は句如。目く、オソケソ所謂物的蠕納の一理法、乃ち是たり。・:⋮⋮スタチスチシヤγぱ以爲 へらく、 ﹁スタチスチツクの學間は實地経験の學科にして、其方法にて穿襲﹂たる現象卸ち事實を読明し、其原因を 捜求して天法を知るを目的とす﹂と。所謂天法は余其何等の法たるやを知らず。然れども統計にて顯象の原因を捜ら んとするは猶木に縁つて魚を求むるがごとし。西洋大家の申にも、道徳統計にて人意の自由を探求せんと企てし人た 一τ、ポィチツク ︵四十三︶ ︵四十四︶ きに非ず。治療統計にて方薬の効能を覗知せんと望みし人なきに非ざれども、皆今の學者の層とする所に非ざるな り。Lと論じ、﹁統計の理法たるや、或る徴侯即ちシュワィグの所謂分性に就て物を計へ、之を統べて藪門とす。﹂とそ の積極的見解を披歴している。 以上の如き鴎外の論文を讃んだスタチスチツク耐幹事今井武夫は、七項目に分つて反論に努め、特にスタチスチッ クを以て﹁現象の原因を知らんとするは木に縁て焦を求むが如し﹂を杜撰の暴言と極めつけ、 ﹁原因を探ろ能はずし て法則の存するところを知るを得んや凡ての科學に法則なきはなし芙法則は原因結果より出で來るものにはなきか論 者少しく學間上の順序に注意したらんには思ひ牛ばに過ん然して新學の方法に由りて原因を探求し法則を護見し得た ︵四十五︶ るもの古釆鮮少にあらざるなり﹂と反論した。 ところが.麗外はそれに醤して、 ﹁統計は方法なり。故に是を藤用するには到る虚に其地面なからずやは。統計すべ き材料によりて統計の難易は生ずる事言ふまでもなし。−::⋮統計方法といふ金鍾にて買ふべからぬものは世にあり とも愛えず。﹂と反論、﹁古今統計家相互の聞に起りし争論は、燭り今井君と余とのみならず、理論を主とするもの ︵四十六︶ は、計致を主とするものと罵りて表奴↓き①=gぎ①o睾といひ、これはかれを罵りて無味の饒舌者守まωg婁賢N胃 といひ、−⋮・⋮。今其源を窮めて見れぼ畢寛旗鼓相封したる人々が、材料と方法との差別に心付かざりしなり。古今 の統計家は固より彼の百藪十家に止まらざるべけれど、要するに材料をして編勝せしめた古義家と、方法をして偏勝 828 ” せしめし薪義家のほかに出でず。⋮⋮−・余は寧ろ古義を棄てて薪義に就かんとす。﹂ と述べ、統計學の性格として、 ︵四十セ︶ ﹁統計は一つの理法なり。理法は何れの虚にても薩用すべきものなれぼ、統計に專問家はあらずもがなと云はんか。 是れ決して然らず。言語の統計は語學家に打ち仕せ、疾病の統計は醤士に打ち任せて善からんなれど、國家學のある ︵四十八︶ 鼠域にて計藪を役すること尤も多き所にては、専間の計藪的國家學者却ち所講統計家を置くこと必要なるべし。﹂ と その統計家の存在債値を認めつつも、統討を理法、方法とみる鴎外にとつては、あくまで ﹁㈹統計は以て原因を探求すべき方法に非ず。 ︵四十九︶ ㈲統計の方法にて探求したる法則は決して因果と闘係するものに非ず。﹂ であつた。 從つて﹁統計家の臼く、産勇の推薮はO・五一なりと。是れある所にて、ある時に得たを計敦に依れぼ一千の産藪 中に五百十五人の産男ありと講ふに過ぎず。このO・五一五の推数は果して伺の原因ありて然るや。統計家はこれを 示すこと能はず。渠は叉産男の推藪の何れの國にても未來永劫O・五一五なるを護すること能はず。他年此藪の愛ず ることもあるべし。その愛じたるや、統計家は叉その佃の原因あつて愛じたるを知ること能はず。到底原因といふも ︵五十︶ のは統計法の得て探求する所にあらざるなり。﹂ であり、叉﹁蟹中の統計家云く、菜國の軍険は兵に給するに姿飯を 以てし、復米飯を喫せしめず。然るに統計表に微するに、その頃より脚氣病の比例数若干%減ず。是れ﹁給奏﹂の原 因にて﹁防脚氣﹂の結果を得たるなり。即ち知る脚氣の原因は米飯にあることをと。その読理あるに似たれど、 ﹁防 脚氣﹂の威積は﹁給黍﹂と同時に起りたること明らかたるのみにて、これより直ちにクム・ホック・エル中コオ・プロ プテル・ホックとは謂ふべからず。若し夫れこれを實験に徴し、即ち一大兵團を申分して、一牛には黍を給し、一牛 には米を給し、爾者をして同一の地に佳ましめ、爾他の生活の扶態を齋一にLて、食米者は脚氣に罹り、食黍者は罹 829 20 ︵五十一︶ らざるときは、方綾その原因を説くのみ。是れ亦統計の原因を示さざる一例なり。L と考えるのである。 かくて欧外にとつては﹁統計は人の實験を催起して闇接に原因を探求するに至ることあるべけれど、統計共物は決 ︵五十二︶ して原因を探求すること能はざる﹂ものであり、 ﹁統計は實に事定を揖撫すれども、原因を探求せず、事實と原因と ︵五十三︶ は、固より全く相殊なればなり。﹂と彊く確信するのである。 ︵四十三︶ ︵四十二︶ ︵四十一︶ ︵四 十︶ ︵三十九︶ ︵三十八︶ 今井武夫統計に就て スタチスチソク雑誌第三十七號 二五八頁 同 右 九三頁 同 右 九三頁 同 右 九三頁 同 右 九三頁 同 右 九二頁 同 右 九一頁 同右 九〇−九一頁 森 鴎外 統計に就て 八九頁 酷外全集著作篇第二十六巻所牧 ︵四十四︶ 森 鴎外 統計に就ての分疏 一〇三頁 鴎外全集著作篇第二十六巻所牧 ︵三十五︶ ︵四十五︶ 同 右 一〇三−一〇四頁 同 右 八九−九〇頁 ︵囚十六︶ 同 右 一〇囚頁 同 右 九〇頁 ︵四十七︶ ︵三十七︶ ︵四十八︶ 同右 一〇七頁 ︵三十六︶ ︵四十九︶ 830 21 ︵五 十︶ ︵五十一︶ ︵五十二︶ ︵五十三︶ 一〇八−一σ九頁 一〇九頁 一一〇頁 一一〇頁 以上の鴎外の所論に蟄してスタチスチツク耐幹事今井武夫は﹁再び統計に就て﹂と題し目己の所読を述べた。この 論文にっきスタスチック杜幹事河合利安は﹁左の一篇は今井自ら明言せらる∫如く氏一家の持論にして固より耐読を 代表せるものに非ざれぼ其心して讃み玉はんことを但余輩も此事に就ては多少の所思たきにあらざれども牙は今後の ︵五十四︶ 蔵行に仕すこととし裁には一つの助言を加へずと云爾﹂と断書が記されている。 さて今井武夫は鴎外の前論文の主旨は概括すれぼ攻の如くであるとした。すなわち、 Hスタチスチックは科學にあらず方法たり ⇔スタチスチックは統計といへる詳字にて意義通ぜり 目スタチスチックは原因を探り法則を知り得べきものにあらず 今井はHに蟄して、 ﹁スタチスチックは人聞耐會の現象を研究する科學なり然して其懸用上より方法となることあり 廣義に用ひらる∫と狭義に用ひらる工とに由りて此厘別を生ず方法たる場合︵廣義︶他の科學を補助し叉は魔用せら ︵五十五︶ れたる時、科學たる場合は︵挾義︶濁立して人間赴會の現象を研究し共原因規律を探求する時なり﹂としてエンゲル 及マイヤーの所説を引用して立論し、 831 同同同同 右右右右 22 θについては、 ﹁統計といへる語には合計といへる意味の外なし支那の書に併列し來りて甲何箇乙何箇﹁統約﹂何 箇といふことあり彼の王輻が普法戟記にも欧洲大國の兵員を墾げ歩兵何人騎兵何人砲兵何人﹁統計﹂句人と書せし箇 所数多あり叉世に行はる∫英華字典に就いても旨冒の字の講を見るに共計、合計、合脹、総脹、﹁統計﹂、﹁統算﹂ 総共、合共とあり、8邑にも共係、共計、共算、﹁統計﹂、﹁統算﹂、とあ久却ち統計といひ統算といひ悉く﹁シメテ﹂ といふ意に用へり馬琴の著作裏見葛の葉と題する書の目録の都に巻一何々篭二伺々とし絡りに統計︵﹁ツガウ﹂と俊名 を附し︶五巻と書げり是等も擦る所あるを知るべし唯﹁統﹂の字形立派に見ゆれども意味は合の字と異たることなし ︵五十六︶ 萄も人間姓倉の事實を研究する科學の定義に如伺に言語に乏しとはいへ含計學とは鰭分情けなき衣第ならずや﹂と辮 じ、 目に關しては、﹁スタチスチックは何故に法則を知り能はぬか伺故に原因を知り能はぬか﹂と設問し、﹁或一定の年 蒔に於て一定の領域内に於て産男の計藪は千につき五一五の割合なるを探求し年々歳々同一の事實を得然るときは莫 地の出生は常に男藪女藪に超過する法則を知る延ひて同一の方法に依り金麗に及ぼし同一の結果を得るときは此法則 は益々確定すべし近來進んで男藪女藪に超過するの原因を研究せり︵父母の鵠質により︶叉菜國の兵卒全麗を同一の 有様を保たしめ之れを二分して一方には米食せしめ一方は黍食せしめ脚氣病に罹る者米食者多く黍食者に無きことあ るべし此調査を久しく積まば米食者は脚氣に罹り奏食者は罹ることなしといふ法則を知る叉進んで脚氣病に罹る者は ︵五十七︶ 米食者に多しといふ原因を知り得べし﹂と論じ、更に﹁芙他死亡事實を年齢の關係、配偶の關係、職業の關係、物債 の闇係等と串生の事實を経済上の事項と相違絡して探求するときは種々様々なる影饗を見る從つて原因を探り得べく 法則を定め得べし勿論優定的のものなきにあらず然しながら懐定的のものは逮に確定するものにして法測にあらずと ︵五十八︶ 爲すべきものにあらず﹂として、鶴外読に謝して攻の如き修正案を示した。 832 23 ﹁㈹纏ての法則は因果の闘係より襲見せらる二ものなり 1 ︵五十九︶ 恒スタチスチックの法則も亦因果の關係よヶ護見せらる∫ものなり﹂ これに蟄して鴎外は湖上逸氏の署で﹁統計三家論を讃む﹂と題して、 ﹁今井武夫と名乗り玉ふ人は、蓋し一人には あらざるに似たり﹂として﹁前今井氏と後今井氏とを厘別することの止むべからざるを見る﹂と論じ、前今井氏、森 氏、後今井氏との三家論を比較一覧表に作成して今井氏の論理的不一致を指摘してこれに揖した。 \ ﹁紫詮氏や曲亨翁が統計といふ熟語を合計と同義に便ひしが爲に、スタチスチツクを統計といふは非なりとの読﹂ に蟄して、鴎外は﹁奇なる哉論や。−−−−宋儒の理學といふことを東洋の學者は曾て唱えたれぼ、此意義に非ざる7 イジツクを理學とは謬す可らず。叉漢土にては明代まで砒石の異名を食騒と唱へたれば、此意義に非ざるクロオル・ ナトリウムを食麗とは課すべからず。叉経済の二字は抱朴子が経世済俗と唱へて、政治を総べたる語より出でしと云 へば、決して今日の定義傲然たる経済學には附すべからず。また衛生の語は老塘が衛生之経と唱へて無爲の域に輻晦 ︵六十︶ することを指したれぼ、決して今日の保健防疫の學には附すべからず。量窮屈ならずや。﹂ と反論し、更に﹁後今井 氏がリュメリンが﹁スタチスチツクは人間耐會の一般の學科に蟄して理法的の補助學雪豪至詔竃ωoξ津となるも の﹂といへるを撃げてリュメリンが統計を理法税せずして科學硯したる誼とせしことに揖して、 ﹁リュメリンが些言 は偶以て其統計を理法硯したるを見るに足れり。渠が、 ﹁理法的の﹂と云へるは扱て置き、渠は此句にて統計の特立 ︵六十一︶ 科學に非ずして補助學なるを明らかにせんと思ひしなり。﹂ と反駁した。 以上の論争の末、鴎外は明治二十二年湖上逸氏と署して﹁統計の詳語は其の定義に負かず﹂と題するいわぼ総拮的 栽述をなしているが、鴎外の統計観を軍的に示している箇所についてみれぼ攻の如くである。 ﹁萄も統計を以て方法的補功學となし、其糟麓を複緩観察︵⊥︿量観察のこと−筆者註︶の方法に揚したるものは皆 833 24 多少、これを理法硯せり。﹂﹁余の統計の事を論ずるや、初より一定の用語例あり、是れ余が牛素の慣熟する所たるを ︵六十二︶ 以て、一々に之を辮明せざりしのみ。 ︵一︶特立科學ω①旨ω房轟邑骨①ミげω窒ωoぎ津︵別に差別の必用を感ぜざると きは科學と稽す︶とは或る方響に向つて物の特性、特機︵必有の性、必遇の機︶を確定し、一定不愛の法則を護明す トエ“芒ツ・,ユ べきものを謂ふ。︵例へぼ哲學、化學、醤學。︶ ︵二︶魔用科學彗血q①冬竃ま①考寡竃ωoぎ︷一とは特立科學を或る比 較的小なる厘域に藤用し、以て物の特性、特機を確定し、一定不愛の方則を護明すべきものを謂ふ。 ︵例へぼ法理哲 學、農事化學、裁判馨學。︶︵三︶方法竃①艘邑寿とは一定不愛の法則に從つて諸科學的の一目的を達せんが爲に用ゐ ︵六十三︶ る手段く異貯草昌なり。語を代へて之室言へぼ、理法的︵論理學的︶方便なり。叉軍に理法なり。﹂とその所見を述 べ、家でエンゲルを引用して、﹁統計︵汎言すれぼ計藪︶はその本麗、一理法なり。エンゲルは之を呼んで﹁複鵠観察 の方法﹂となせり。唯渠は、﹁︵一︶此複麗観察に依りて入間集團及び其;尤時内の制度の扶態を記述し、︵二︶此献態 及び其制慶の愛化を同法により剖析読明﹂せんとせり︵統計學論︶。渠は其︵理法の︶護揮しきたれる知識庄①色争 巨宰彗ω彗αq3害宗睾ぎ目葦巨窃をも併せて之を包拮せんとせり。然れども此般の知識は、固より﹁人闇集團及び 箕;た時間内の制度の扶態及び愛化に局促すべきに非ず。之を法學に膳用し、醤學に膳用すべし。蓋し之を施便すべ き原野は極めて廣漠なり。夫れ統計法を以て人聞集国及び莫一定時内の制度の秩態及び憂化を探求するものは1他の 4ンド一ザイド巾,ル 統計法の探討と同じく1決して物の特性、特機を確定すること能はず。一定不愛の法則を護明すること能はず。その 確定する所は物の各性、各機なり。其護明する所は推測的の緒果峯夢葛O冨邑一9ぎ豪﹃①σq9のみ。 マイルの所謂 ﹁合法﹂O鶉9N昌箒ω厨冨岸のみ。コツチンゲンは﹁経験の法則﹂と名け乍ら、之を﹁天則﹂及び﹁耐會則﹂等の外 に置きし者のみ。臭秀三君の所謂﹁規則に適ひしこと﹂肉品巴彗雰ω釘ぎ斥のみ。故に余は目く、工γゲルの所謂統 ︵六十四︶ 計は理法たる統計の一膝用厘域のみと。また目く、統計︵特立及び慮用の︶科學に非ずと。﹂ 834 25 最後に統計饗の本質とその通用範園について董的に、 ﹁夫れ統計は其本誰、理法なり。而して凡そ理法匿域内に在 るものは萬般の科學の使用に供すべくして必ずしも或る目的︵例へぱ耐會的生活の披尋︶に於てのみ之を私すべぎも のにあらず﹂とその積極的見解を披渡したのである。 ︵六十五︶ 以上綾綾鴎外の統計観を引用Lたが、彼こそ統計學を方法論的立場より把握認識した日本最初の一人であろう。明 治二十年代初頭﹁統計學﹂は殆んど國家の顯著事項を記述する、いわぽ國家學の一部門として考えられた時代に、以 上述べた様な見解を披渥し得た者が果して幾人いたであろうか。 とはいえ、その後も鴎外的立場は主流たり得ずわずかに大正時代の末期に至り始めて方法論的立場の所見が統計學 界の主流を占めるに立つたのである。その理由は璽にわが國賓本主義の襲展段階が低位にあつたというだげで解明議 されるものではない。 。 本老ににおいては、ただ事實について述べたにとどまる。森林太郎がどの様な経路過程によつて統計學に甜して方 ︵五十四︶ 今井武夫 河合利安 三六五頁 三六三頁 再び統計に就て スタチスチック雑誌 第三十九號 三六〇頁 スタチスチック雑誌 第三千九號 三五九頁 法論的立場をとるに至つたかの考護は他日稿を改めて老察することにしたい。 ︵五十五︶ ︵五十六︶ ︵五十七︶ 三六五頁 三六六頁 統計三家論を讃む 一一六−一一七頁 麗外全集著作篇第二十六巻所牧 835 ︵五十九︶ 外 ︵五十八︶ ︵六 十︶ 森同同同同 右右右右 融 26 統計の譲語は其の定義に負かず 一一八頁 一四〇頁 隆外全集著作篇第二十六巻所牧 一四一頁 一四一−一四二頁 一四二頁 836 ︵六十一︶ ︵六十二︶ ︵六十三︶ ︵六十四︶ ︵六十五︶ 回同同森同 右右右 右 鴎 外
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