前田斉広夫人真龍院の漢詩 - 東京成徳大学

東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 18 号(2011)
まとめられた。真龍院が、長年暮らした江戸屋敷から、初めて国元へ
歌 を 残 し て い る。 真 龍 院 の 事 跡 は 近 藤 磐 雄 氏 に よ っ て 早 く に 調 査 が
夫人(通称夙君)は、未亡人となって真(眞)龍院と号し、多くの和
加賀の前田家と言えば、百万石の城下町・金沢をすぐに想起する。
その第十二代藩主、前田斉広(齊廣)へ、鷹司家から輿入れした隆子
はじめに
での湯治」の許可が幕府から下りたと、『越の山ふみ』の冒頭に書か
し天保九年(一八三八)、五十二歳の年の三月、宿願であった「越路
(一八二四)、三十八歳で夫が没した後も江戸の藩邸で過ごした。しか
ば な ら な か っ た 為、 嫁 ぎ 先 の 領 国 を ま だ 見 る こ と な く、 文 政 七 年
、
真龍院は天明七年(一七八七)に京都で生まれ、文化四年(一八〇七)
行 年 二 十 一 歳 で 前 田 氏 に 嫁 し た。 藩 主 の 正 室 は 江 戸 に 住 ま な け れ
一 漢詩作品の1「熊谷堤上吟」
前田斉広夫人真龍院の漢詩
直 井 文 子
向かった時の旅日記『越の山ふみ』が残されており、この江戸から金
れている。その後の記述によれば、さすがに長年住み慣れた江戸を急
*
沢までの旅の行程と、和歌作品については、皆森禮子氏に先行研究が
に離れるのも心細く、また義理の息子である第十三代藩主前田斉泰の
(注1)
ある。本文は漢字仮名混じりの草書体の和文であるが、この旅日記の
夫人の諧子とも仲が良くて別れ難く、孫たちの行く末も見たい、など
こし
中に五首、漢詩作品が含まれている。本稿は、数少ない女性の作であ
とあれこれ迷いながらも決心したようである。
(注3)
る真龍院の漢詩作品に焦点を当て、その内容と語彙とを検討しようと
(注2)
するものである。
大勢の見送る中、八月四日に江戸を発ち、昼に平尾(現在の東京都
板橋区)の別荘に着き、まだ沢山の人々と別れを惜しみながら蕨(埼
玉県蕨市)に宿泊する。中山道を通り、
六日に熊谷宿(埼玉県熊谷市)
で昼の休憩を取った頃、最初の漢詩を詠んでいる。
)
NAOI Fumiko
国際言語文化学科( Department of International Studies in Language and Culture
テキストは、金沢市立玉川図書館近世資料館所蔵の『越の山ふみ』
史料番号「090/512」の写本を使用する。
*
170 (1)
前田斉広夫人真龍院の漢詩
朝來風靜日晴時
朝来 風静かに日 晴るる時
熊谷堤上吟(くまがやの堤にてのうた)
堤上行々寄客思 堤上 行き行きて 客思を寄す
しば
廻首數看連岑影
首を廻らせて数しば看る 連岑の影
清輝幽勝十分奇
清輝 幽勝 十分に奇なり
(七言絶句 上平声四 支韻)
(現代語訳)
朝から風は静かで、
日も照っている。堤の上を行きながら、
旅の思いを寄せる。振り返って、連なる峰の姿をしばしば見る。さわ
やかな陽の光もひそやかな良い景色も、十分に珍しくて素晴らしい。
体詩の作法通りである。もしも「連岑」の語を、平仄を無視して敢え
て使用したかったのであれば、典拠があると考えたいが、未詳である。
二 漢詩作品の2「碓氷山上作」
第二作は八月九日、今の群馬県と長野県との境にある碓氷峠で詠ま
れている。
こう
碓氷山上作(うすいの山の上での作)
らん
吹笛山路硤 笛を吹く山路 硤たり
わだかま
石窟似蛇蟠
石窟 蛇の蟠るに似る
日下無雲意
日下 雲の意無し
層巒不覺難 層巒 難きを覚えず
( 現 代 語 訳 ) 笛 を 吹 く よ う に 風 が 吹 き す さ ぶ 碓 氷 峠 の 山 道 は 険 し い。
(五言絶句 上平声十四 寒韻)
よく知られた『文選』の詩に重ね合わせたのであろうか。「行行」の
石の洞穴は、まるで蛇がとぐろを巻いているようだ。陽の光のもと、
「客思」など、
『文選』巻二十九の「古詩十九首」第
承句は「行行」
(注4)
一首「行行重行行」を思わせる。親しかった人と離れて旅する心情を、
詩のように、江戸に残る嫁や孫たちに、せめて食事をしっかり取って
雲の漂う気配もない。重なる山々を超えるのにも、難儀を感じない。
起句の「吹笛」は、地名と考えれば「笛吹」となるが、語順が逆で
ある。その為に二字目が仄声の「笛」となり、近体詩の平仄の決まり
うすい
身体を大事にして欲しい、との思いはあるであろう。しかし作者の情
趣は、
『文選』の心ならずも別れ別れになっているものほど寂しいの
を楽しんでいる様子が窺える。この詩の前後にも、風景を詠みながら
に 合 わ な く な っ て し ま っ て い る。
「吹」が二字目であれば平声で規則
ではなく、後ろ髪を引かれながらも、むしろ晴れ晴れとして旅の風景
思いを込めるような和歌が続いている。
「笛吹」は固有名詞であり、和習ともなる。漢文法から言えば、「笛
を吹く」の語順は当然、「吹笛」になる。真龍院が所謂「和習」を意
に適うのであるが、作者は何故、語順を反対にしたのであろうか。
味 の「 嶺 」 の 略 字 で あ る「 岺 」 の、 書 写 の 誤 り か と も 言 え る。「 嶺 」
識していたかどうかは定かではない。地名通りに表記する方が絶句の
七言絶句としての平仄を調べてみると、転句の六字目の「岑」が平
声であり、そこだけ規則から外れている。しかし、同じ「みね」の意
或いは「岺」であれば、仄声であり、問題がない。この箇所以外は近
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もしれない。しかし単なる地名としてではなく、実際に風が吹きすさ
は自身が学んだ語順と異なる地名表記に、一種の違和感を覚えたのか
平仄にも合うのに、敢えてそこから外れ、語順を逆にしている。或い
や「白雲(隠逸・隠遁)
」や「浮雲(漂泊・懐郷)
」などのイメージが
「雲意」は詩語としてあまり見当たらず、「青雲意」など、雲に色の
つく用例が多い。「雲」には「青雲の志(立身出世や脱俗を願う気持ち)」
ている。
の要塞のように用いられている。必ずしも必須の教養書ではなかった
起句末の「硤」についても、単独で使われる例は珍しいと言える。
(注5)
「硤路」ならば『淮南子』兵略訓にあり、「龍蛇蟠」の語と共に、天然
ない、雲一つない晴天を、第三句で言いたかったのであろう。
されるすべての意味合いをこめて「雲意」の語を使い、それが表され
雲意を看るに、依依として帝郷に入る(今日、雲行きを見ると、慕
うように帝王の郷へ入って行く)」とある。真龍院は、雲によって表
(注6)
んでいる様子を伝えようとして、
「笛を吹く」と読ませたかったので
ある。唐の李商隠の「商於」の詩に「今日看雲意、依依入帝郷/今日
であろう『淮南子』を、作者が読んでいたかどうかは確定できない。
結句は前後の和歌を併せて読むと興味深い。
(注7)
はないであろうか。
しかし、地名の「硤石」以外にはあまり使われないような「硤」の字
を敢えて使用しているならば、
作者は『淮南子』兵略訓の知識があり、
ゆく人も駒の蹄もやつれなむ 我のみ易くこゆる山みち
[前の和歌]
する為に使ったとしか考えられない。
(歩く人も馬のひづめも疲れ果ててしまうでしょう。私だけが楽
をして越える山道ですね)
古代に関所が置かれた交通の要地である、この峠の道の険しさを叙述
屈し」の意味にも取れる。「(龍)蛇蟠」も、
承句の「石窟」は「石、
石よりは樹木の曲がりくねった幹や根などの形容に使われることが多
いと思われる。しかし、「蛇がとぐろを巻いているような石」や樹木は、
十分に考えられる。それよりも「岩穴」で蛇のように見えるものの方
皆ひとのふかき情にかくはかり やすく越こしけふの山みち
輕井澤に暫し休らひて
[後の和歌]
が、作者にとっては珍しく、ずっとインパクトが強いのではないであ
公家や武家の庭園にも存在し、作者がこれまでに目にしていることは
ろうか。虚構の洞穴であっても実景であっても、「石窟」の語で詩と
( 人 び と 皆 の 深 い 情 に よ っ て、 こ ん な に も 容 易 に 今 日 の 山 道 を 越
えてきましたよ)
しての印象が強まっている。
下」の方が、明るさを感じられて良いと思われる。この日の朝の記述
んでもらい、申し訳ないような気持ちと感謝とを述べ、漢詩の方では、
その次の和歌にも、東の江戸の人に、同様の思いを告げたい、と詠
んでいる。和歌の方では周囲の人々への配慮、自分だけが乗り物で運
転 句 の「 日 下 」 の 上 部 に は「 一 本 ニ 目 下 」 と 朱 署 が あ る。「 目 下 」
として「今、目に入る限り」とも取れる。しかし「太陽の照っている
にも「夜明け前からくまなく晴れ渡って嬉しい」ということが書かれ
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前田斉広夫人真龍院の漢詩
叙景に明るい気持ちを込めていると言える。
三 漢詩作品の3「發五智驛到名立驛路次之吟」
第 三 首 は 八 月 十 四 日 に 詠 ま れ て い る。 既 に 中 山 道 か ら 北 国 街 道 に
入っており、日本海沿岸に出た。
發五智驛到名立驛路次之吟
(五智駅を発して名立駅へ到る途中のうた)
低頭初見浪濤連
旅行幾日山村路
旅行 幾日 山村の路
仰望層々絶壁巓 仰ぎ望む 層層たる絶壁の巓
た
頭を低れて初めて見る 浪濤の連なるを
漸過又通北海邊 漸く過ぎ 又通る 北海の辺
(七言絶句 下平声一 先韻)
(現代語訳)見上げてみれば重なる絶壁の頂き、下を見ればいくつも
の大波の連なりを初めて目にする。この旅では幾日か山あいの村の道
を段々と過ぎゆき、更にまた北の海辺を通る。
を思う)」とある。この「低頭」は必ずしも下を見たとは限らないが、
おうしかん
かんじゃくろう
対句のお手本となろう。また頭を上下する表現が無くとも、視線を上
(注9)
方の山、下方の川や海に向ける対句は、唐の王之渙の「登鸛雀樓」の
詩に「白日依山盡、黄河入海流/白日 山に依りて尽き、黄河 海に
入りて流る(輝く太陽は山に沈んで行き、黄河は彼方の海に流れ込ま
んばかりの勢いで流れている)
」 と あ っ て よ く 知 ら れ る。 い ず れ に し
ても真龍院は、盛唐の詩の要素をうまく取り入れ、旅で珍しい景色を
目にする感動を近体詩に詠った。この作品も、孤平がある点を除けば、
絶句の作法に適っている。
この詩の前後にも、やはり和歌でこまやかに江戸を懐かしむ気持ち
などを詠んでいる。婚姻で京から江戸へ向かった時には東海道を通っ
たが、その時の景色と日本海の荒波とでは大いに異なる印象を持った
ら し い。「 心 細 さ 」 が 和 歌 に は 表 わ さ れ て い る。 こ の 漢 詩 第 三 作 は、
そうした心情よりも、これまで学んだ漢詩の手法を使用するのにまさ
に適した風景に出合い、作られたと言えよう。
四 漢詩作品の4「於糸魚川驛亭賞十五夜月」
第四首は八月十五日、ちょうど仲秋の明月にあたって詠まれた。
桂華光満一輪秋 桂華 光満つ 一輪の秋
「仰望」は『孟子』離婁下にあり、「尊敬して慕う」の意味になるが、
ここは文字通り、見上げた光景を述べている。承句の「低頭」は、う
「仰望」とも対になるように、下方を見る意味で使用したのであろう。
明月團々問客愁 明月 団団 客愁を問ふ
於糸魚川驛亭賞十五夜月(いといがわの宿で十五夜の月を鑑賞する)
そして起句と承句とで対句になるよう、試みている。視線を上下に向
此夜驛舎傾樽酒 此の夜 駅舎に樽酒を傾くれば
なだれたりお辞儀をしたりする動作を言うことが多い。しかしここは
けて対句にする手法はよくある。例えば唐の李白の「静夜思」の詩に
た
(注8)
「擧頭望山月、低頭思故郷/頭を挙げて山月を望み、頭を低れて故郷
頻懷東都故郷遊 頻りに懐ふ 東都 故郷の遊
(七言絶句 下平声十一 尤韻)
を思ふ(頭を上げては山の上の月を見上げ、頭を垂れては故郷のこと
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 18 号(2011)
とが思い出される。
傾ければ、頻りと東の、私の第二の故郷とも言える江戸での宴遊のこ
が丸丸として、旅の愁いを問うて慰めてくれる。今夜、宿舎で樽酒を
(現代語訳)桂の樹があるという月に光が満ちる秋の季節、明るい月
ば第二首の「吹笛」にも言えるが、平仄の決まりからはずれても、実
れたのは、実際に樽の酒を傾けたからであろうか。そうであるとすれ
前後の関係上、仄声が入らなければならないが、敢えて平声の字を入
絶句の形としては「孤仄」になってしまっている字が二箇所ある。
更に転句の六字目の「樽」は平声で、規則からはずれている。ここは
景に合わせて詠もうという意図が見える。
しゅ き
まど
とが な
但し「樽酒」にもっと重要な意味を持たせている可能性もある。『易
(注 (
かん か
そん
経』の坎卦に「六四樽酒簋、貳用缶。納約自牖。終无咎/六四は、樽
い
「桂華」は月桂樹や木犀などの木の花とも考えられるが、承句と併
せて月のことを述べていると考えられる。「明月」と「團團」との組
酒簋あり、
弐すに缶を用てす。
約を納るるに牖よりす。
終に咎无し(六四
もっ
み合わせは、前漢の班婕妤の「怨歌行」に「裁爲合歡扇、團團似明月
としては、一樽の酒と一皿の穀物に飾りのない甕を添える。正面から
ほとぎ
/裁ちて合歓の扇と為せば、団団として明月に似たり(白絹を裁って
ではなく窓から差し入れるように尽くせば、苦労をしても遂には咎め
ま
合わせ貼りの円扇を作れば、まるまるとして満月のようだ)」とある
なく済む)」とある。このような「飾りない誠の心」の意味を込めて
(注 (
ことでよく知られている。班婕妤は、やがて捨てられる円扇に、寵愛
いるとすれば、『易』に関する教養も相当高かったであろうことが判る。
はんしょうよ
を失った自己の境遇を重ね合わせているのであるが、真龍院はその満
この作の前後の文や和歌では、地元の人々も交え、各自が歌を作る
などし、話もはずんだようである。その後、休む際の和歌には「月に
たびねのうさを語らむ」と詠んでいる。この辺りも和歌作品では自己
と離れたことはもちろん寂しい。その上、忘れられてしまうのではな
を使った。江戸を自身の「故郷」とまで呼び、長年親しんできた人々
頃(午後五時過ぎ頃)に宿泊先に着いたと云う。
後(新潟県)と越中(富山県)との国境の川を渡り、申のなかば過る
最後の第五首は八月十六日に詠まれている。この日はいよいよ領国
に入るということで、主従ともども朝から勇んで出発した。夕刻に越
五 漢詩作品の5「偶述」
の心情を素直に、こまやかに記し、漢詩作品では中国の作品イメージを
十五夜の月に遠く離れた親しい人を思う心は、唐の白居易の「八月
(注 (
十五日夜禁中獨直、對月憶元九」の「三五夜中新月色、二千里外故人
(
((
に膾炙している。しかしそれらの語は使用せず、敢えて「明月」
「團團」
かいしゃ
の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の和歌も人口
(注
る)
」
で名高い。
また阿倍仲麻呂が故郷を思って作ったと伝えられる「天
踏まえながらも、リアリティーを作品に出したいという姿勢が伺える。
月に「客愁」を問わせている。
((
心/三五夜中 新月の色、二千里外 故人の心(十五夜の今宵、出た
ば か り の 月 の さ ま に、 二 千 里 も 離 れ て い る 旧 友 の 君 の 心 情 が 偲 ば れ
((
いか、という漠然とした不安や悲しみが、班婕妤のイメージと重なり、
この語を使用したのであろうか。
166 (5)
((
前田斉広夫人真龍院の漢詩
偶述(たまたま思ったことを述べる)
長在他郷意不休 長く他郷に在りて意 休まず
今霄初入國郡中 今宵初めて国郡中に入る
好兼侍臣廻杯酒
好し 兼ねて侍臣に杯酒を廻さん
乗興題詩喜歳豐
興に乗じて詩を題し 歳豊を喜ぶ
(七言絶句 上平声一 東韻)
(現代語訳)長らくよそにいて、思いは絶えなかった。今夜初めてお
国入りした。よろしい、供の者も皆一緒にお酒の杯を酌み交わそう。
この宿の主人は「いと風雅」で、宴たけなわになり、茶室や由緒あ
りげな露地、古くから伝わる珍しい茶器などを披露してもてなしたら
しい。その後は旅の疲れも忘れて「茶興」で時が経ち、子の刻(午前
零時)になってしまい、驚いて休んだと書かれている。藩領に入り、
心 身 と も に リ ラ ッ ク ス し 始 め た の で あ ろ う か。 こ の 宿 が よ ほ ど 気 に
入ったと見え、翌日は立ち去りがたい心情を和歌で記している。そし
て以後は同じように盃を交わしたり、宿の主人などと様ざまに話し込
んだりしているのであるが漢詩はなく、和歌と和文のみで旅日記を綴
り、八月二十二日に金沢城内の金谷館へ無事到着した。
である。
「国郡」は『資治通鑑』等の歴史書の他、白居易や元稹の作
ようである。承句の六字目の「郡」は、平声であるべきところ、仄声
第一句末の韻を踏み落としている。「休」
形式上は孤仄が二箇所あり、
は下平声の尤韻である。
「やむ」の意味に近い適当な韻字がなかった
の「乗興」は『晋書』王徽之伝にあり、人口に膾炙している。
緒に飲酒をして祝っている。転句の「好し」は唐詩に例が多い。結句
動を率直に述べ、恐らくこれも実際にそうであったか、お供の皆と一
この起句の「他郷」は領国以外の場所を表すか。道中、早く領国へ
という思いが止まらなかったが、今日初めてお国に入った、という感
しており、時には漢詩の作法よりはずれても、使いたい語を使ってい
ただまねるのではなく、自分らしい率直さ、リアリティーを出そうと
はないであろうか。そして既成の語句を使用しながらも、先人の作を
眼前の情況とがよく合い、自然に漢詩としての句が浮かんできたので
教養と、漢詩の作法を正しく学び、その通りに作ろうとしたであろう
は、摂関家の令嬢らしい『四書』
『五経』『文選』ほか、幅広く豊かな
作ったのであろうか。わずか五首ではあるが、そこに現れているもの
上述のように真龍院の漢詩を検討してきたが、本人にとってはやは
り 和 歌 が 第 一 の 心 情 表 現 手 段 で あ る。 で は ど の よ う な 場 合 に 漢 詩 を
興に乗じてこの漢詩を作り、今年の豊作を喜ぶ。
品にも使われている。
「領国」にしても仄声になってしまい、他に替
る。できればもっと多くの漢詩作品を作り、遺して欲しかったもので
結び
えられなかったのであろう。転句の四字目の「臣」は反対に仄声であ
ある。
真面目な姿勢とである。恐らくそれまでに味わい読んだ詩の場面と、
るべきところ、平声である。これも「侍臣」の熟語で使用したかった
のであろう。君臣一体となっての酒宴はよくあるものであり、真龍院
は、供の者たちと興を分かち合うことを好んだのであろう。
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 18 号(2011)
に「硤路津關大山名塞、龍蛇蟠卻笠居」とある。
6
〈注・参考文献〉
1 近藤磐雄著『真龍夫人小伝 上下巻(真龍夫人御事跡)』金沢市
立 玉 川 図 書 館 近 世 史 料 館 所 蔵、 史 料 番 号「 1 6、1 2 /( 1、2) /
7 四部叢刊初編、『李義山詩集』巻四に拠る。
清・王琦注『李太白集注』上海古籍出版社、一九九二年刊に拠る。
上海古籍出版社、一九八六年刊李善注『文選』巻二十七に拠る。
佐藤保著『漢詩のイメージ』大修館書店、一九九二年刊に拠る。
118」2冊、下巻中表紙に「大正十四年十二月脱稿」とある。
8
2 皆 森 禮 子 著『 真 龍 夫 人・ 歌 と 生 涯 』 桂 書 房、 二 〇 〇 四 年 六 月。
同 氏 に は『 江 戸 か ら 金 沢 へ 』 二 〇 〇 〇 年、『 加 賀 前 田 家 の 母 と 姫 』
9 上海古籍出版社、一九八六年刊『全唐詩』巻二百五十三に拠る。
かいもり
二〇〇九年、北國新聞社出版局の著書もある。
3 原文の翻字は以下の通りである。
とし頃越路の(右傍に「に」
)湯あミ(右傍に「せ」)む事をおもへと(改
行)公けの御掟とやらむもあれハとみにもゆるされましと空敷月日を
送り侍るに宰相の卿もミつからの心をくみて何くれと(改行)公に禰
き申させたまひけるに天保九つのとし弥生(右傍に「の」)末つかた
漸く暫の御暇を給ひぬとの(改行)仰事くたり侍りぬ(以下略)
四部叢刊初編『白氏長慶集』巻十四に拠る。
『古今和歌集』巻九 覉旅歌にある。
中文出版社、一九七一年刊、清・阮元校勘『十三経注疏』の『周
易正義』に拠る。
面安可知。胡馬依北風、越鳥巢南枝。相去日已遠、衣帶日已緩。浮雲
行行重行行、與君生別離。相去萬餘里、各在天一涯。道路阻且長、會
はじめ、関係諸氏に感謝の意を表したい。
交付を受けて執筆したものである。金沢市立玉川図書館近世史料館を
☆本稿は、日本学術振興会の平成二十~二十二年度の科研費補助金の
4 『 文 選 』 巻 二 十 九「 古 詩 十 九 首 」 の 原 文( 上 海 古 籍 出 版 社、
一九八六年刊本に拠る)
蔽白日、遊子不顧反。思君令人老、歳月忽已晩。棄捐勿復道、努力加
餐飯。
5 上海古籍出版社、一九八六年刊『二十二子』の『淮南子』巻十五
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