無 足 人 家 の 家 来 に つ

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大和国添上郡田原郷大野村 山本家 │ │
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年之通一 一テ 相 述 元 御 坐 候
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保足人家の家来について
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所 管 の 奉 行 所 へ 差 出 す こ と に な っ て い た か ら 、 山城 大 和 両 国 の 無 足 人 た ち は 大和 市
古 の域和奉行にあてて
語 十 二 月 の 改 に 際 して 、大 和 国 添 上 郡 田 原 郷 大 野 村 の 山 本 平 左 衛 門 震 が 出 し た 衆 文 を 左 に
掲
これは願書の形式をとり 、所 持 の 武 具 類 の 員 数 お よ び 召 連 れ て 馳 参 ず る 家 来 の 人
ル牒帰一落偵内の無足人が無足 人 改 の 行 わ れ る 度 ご と に 提 出 す る 書 式 に 定 法 が あ っ た こ と は 、 既 に 紹 介 し た と こ ろ で あ る 渇
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時 無 足 人 が 家 来 も し く は 下 人 と 称 す る 隷 属 者 を 擁 し て い た こ と は 、無起 人 改阪を通じて 、 一般に認めることが出来る。こ
れ に は 譜 代 ま た は 年 季 の 家 内 奉 公 人 が 含 ま れ た の は 勿 論 で あ る が 、 さらに被官とよばれた名子 的な 身分に 相当する者も あ
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っ た よ う で あ る 。 宗 国 史 に 採 録 さ れ た 慶 安 四 年 正 月 の 条 々 に は 、山 屋 被 官 ・地 下人被刊の前が凡えるので 、江 戸 時 代 の 初
則には藤堂藩領内の村々に隷農である被官がいたことは推知されか o
o
田 原 の 山 本 家 は も と 古 市 氏 ま た 筒 井 氏 に 属 し て 明 応 ・大、氷の頃から知られる在郷武士の家筋である。はじめ郷 中 の中貫
⑦
⑧
に住したが 、慶 長 十 年 に 故 あ っ て 男 系 が 絶 え 、家 女 に 同 郷 の 蔵 主 新 左 衛 門 の 二 男 九 兵 衛 弘 盛 を 迎 え て 名 跡 を 相 続 さ せ た
こ の 九 兵 衛 が 慶 長 十 二 年 に 中 貫 か ら 隣 村 の 大 野 に 移 り 、爾 来 明 治 初 年 ま で こ の 村 に あ っ て 無 足 人 の 家 格 を 伝 え た 。 弘 盛 の
子 は 九 兵 衛 政 信 、 そ の 子 が 乎 左 衛 門 忠 辰 で あ る 。 平 左 衛 門 は 家 督 を 相 続 し た 延 宝 四 年 以 か ら 日 記 を つ け は じ め 、 八十才で
命 を 終 え た 享 保 五 年 秋 ま で 四 十 余 年 の 間 刻 明 に 日 並 の 記 事 を 書 き つ づ け た よ う で あ る 。 その大半は子孫が没落し て田原を
退転して後に失われたが 、幸にして三分の一に当る十六年分が現存している。これらの記事によって以下に無足 人 山 本家
の 家 来 に つ い て 小 論 を 綴 る こ と に す る 。 大 野 村 は も と よ り 田 原 郷 巾 村 々 に は 文 献 が 現 存 す る こ と 少 く て 、検 地 帳 、宗
ロ円人
別帳その他の村方簿冊で重要な史料となるべきものはまだ知見に入らない。従って元禄前後の数十年に亘る村落生活を記
録 し た こ の 私 日 記 は 、 ひ と り 平 左 衛 門 個 人 の 動 静 や 山 本 家 縁 辺 の 事 情 を 窺 う に 足 る ば か り で な く 、 また大和東 山中 にある
一郷の生態を観察する上にも重要な位置を占めることは明らかであろう。
山 本家 は平左衛門の代になった頃から家運が漸く衰微しはじめたようである。もっともこれは山本家のみの特殊な事情
に よ る も の で は な か っ た 。 村 々 の 旧 家 に 共 通 し て み ら れ る 傾 向 と も い え る 。太 閤 検 地 以 後 の 新 し い 大 名 傾 知 制 に 応 ず る 郷
⑥
村的村落構成の 変 質 期 に お け る 避 け 難 い 現 象 で あ っ た 。 ま た 寛 文 ・延 宝 以 米 水 損 ・口干損が続いて凶年がしきりに襲ったこ
(九四五)
と は 宗 国 史 の 大 通 公 ・了 義 公 の 両 譜 に も 見 え 、平左衛門日記にも記されたが 、 これらの災害は村方の困窮のみならず 、 古
無足人家の家来について
同
無足人家の家来について
凶
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前代到子今、以仁和為責 、依之諸方之以力、如形営世支ハ延宝五 ・間士一・二五﹀
o 頼 母 子 は 法 度 で 製 摂 さ れ て い た が 、 とくに願出て許されたのである o
(九四六)
を山口庄一千戒を通じて古市大庄屋に提出し 、十一月に至って奉行所から合力米二石と拝借米四十石とを脳うこともあった 。
⑬
めにとった便宜の手段であった。正徳五年八月には﹁所持之 領地徳分叉借銀以下之支﹂を載せた ﹁当家相続之願望 之一巻﹂
⑫
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Z保にかけて老残の身を度々法隆寺中院や伊賀上野家中の梅原家など縁者の許に身を寄せたのも負債を弁済 し難した
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凶)とあった
返介之儀者元銀一 一テ十年切一一相済シ可申筈一 一御坐 候 、 余程之銀子利ナシニ借用仕申儀 、 身上相続之事一一御坐侠﹂(同年九 ・
正徳五年十月完了したゆまた元禄
﹁勝手不如意一 一
付借銀済シ侯儀難成御坐侯一 一
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、 親類等共外無如在者共方 ぷ、銀 子少宛宍相応一 一
合力致シクレ 可申ト申候、
き、 これを支え家名を存続させるために平左衛門は種々苦心の策を立てた。元禄十二年十月には振上銀助成川を催 した。
必められるところであり 、 江戸時代の親方百姓に引継がれた伝統でもあった 。 しかしながらこの川にも家辺は傾いてゆ
世上一般の凶年に困窮しながらもなお郷民に救済の手を差しのべている。このよ5な性格は名主的な旧家にはしばしば
山原中依困窮、予田畠之年税不収故、借銀如約束難令済(元禄九・十。八)
一・七)
ぃ米旧原困窮故、依貢・米不足而、予飯米之内貸之、中貫村三石・大野村三石・日笠村二有貸之骸一勧州誠一
h ハ元禄五 ・十
市 部 紺 屋 ・油 屋 ・ 鹿 屋 ・問屋等銀子払之 、当年世間以外困窮甚 、殊当家之困窮不可勝計 、近未飢之支也 、雌然当家者従
去年世間因窮故、祝儀令停止、卯 ・辰 ・巳 二一ヶ年如斯、難然礼者一匹々来(延宝五 ・一-一
一
)
(延宝三@四・五年)
山本家の窮迫した事情を平左衛門の筆をかりて一二引用すると、
で家来の人数が元禄から享保にかけて半減したのも同じ理由によっ
い郷土家の大手作経営の慣行を動揺させ解体させるのにも役立ったようである。先に分析した山辺郡小山ド仙の無足人家
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かては往時の人七一
盛をしのんで慨歎することもしきりであった。宝、氷七年正月八日には﹁当家節口祝 、今日令沙汰 、家
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人之外無客、全盛之汗不忘脚而己﹂と才一円いた七十翁の平左衛門は 、同十一日には﹁亡父之代 、今日半日当家為節山梨応 、 m.
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中之僧来 、千 巻 之 心 経 読 一 鑓 慨 ゲ 大 野 ・巾 究家並 、共一外郷中有由緒出入 之者 、
一 門中男女等 、都市上下二百余人之客 4刊
距限饗応口口群令官版之処 、 延{果七己未伍 正月十一日町代之式之通令遂行 、以後令停止也 、口口口衰故如此
、 某亡父之北
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円
老保難押市巳﹂と回顧した。零落すれば引やかな過去を偲い 、老衰すれば 壮んな 年代を懐うのは 人 の世の常とはい いなが
ら、まことに同情すべき感慨であった。ことに下男下女の家内奉公人は元禄頃には七八 人抱えていた のに 、空保三年 十二
月十三日の出替には﹁十余年有使 、諸式知宗門﹂った下 人 までもすべ て暇を 遣して無人となり、 ﹁予家令零落 、老後之歎
不及 口
語 、只恨存命巳﹂と記した 。
一
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右の如く動揺窮迫した村山治生析のうちでも山本家の家栴はかなり高か った。城和無足人の筆頭と称され 、平左術門は伊
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賀 ト 旬 の 御 屋 敷 に お い て 滞 公 に 一 謁 見 す る 広 礼 を す だ い た 家の持高は貞享一一一年の由緒蓄には六六石八斗六升一一一合と
ある。この高にはその前後に多少の増減はあったとしても 、無氾人として家来十 人 を召連れて馳参ずる家格を元禄年聞に
維持させるものがあったのである。
宗国史によると 、同村大野は村口一一同行八斗七介 、家数二二戸 、中貰村は高五五石四斗九升 、九
一
戸、 口笠上村は高二
O三石八斗五升 、 三二 一
戸、同 下村は高四九石川斗一升 、八戸のいずれも小村であった。もと主り 山本家の持高は大野村の
みにあったわけではない。検地帳や名寄帳その他の土地関係の記録が見られないので 、 田畠山林屋敷などの所在と反別と
を知ることは出来ない。ただ平左衛門日記に見えるものは 、大野村をはじめ中貫 ・日笠 ・此瀬 ・横田・南回原・若荷など
⑬
郷小の村々に亘っており 、また山野苑村や自宅寺村な ど にも持地があった。これらの田畠の経営が手作自営と下作とによ
ったことはいうまで もない。しかも手作地は必ずしも何年きまっていたわけでもない 。元禄十年の春には﹁田原辺頃年表
微之処、別而 去年困窮叫故、氏家元力市耕作難成 、予下作之田元作人故 、辰行子本家板 、可令作之旨決定也﹂(同年正 ・二四)
九四七﹀
(
氷二年二月に上野の栴以 家 一退問中に人を回以に遺したが 、 これは﹁回地共宛作之用途也﹂とあった 。宝、氷七年
とある ο宝 、
無足人家の家米について
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橋之東石垣、川列一間程崩故、 三家来役儀一臨⋮淳一殺⋮一日一訴か桝﹂(正徳五 ・九 ・一七)などの如く 、供人 ・依汗または雑用に
も奉仕する義務を負っていた。 もっとも﹁左助宅晩炊有之 、 上分之者当家悉行﹂(貞享三 ・正 ・一わ)とあるのをはじめ 、
その二十二日には家来清次郎 、 二十六日には家来六右衛門もそれぞれ正月口祝の夕食を設け 、山本家の家放を招待する 慣
例もあった。
元秘五年の歳末には 、祝儀の酒宴に参集した家来たちに対して 、平左衛門は次の如く巾被した‘。これまで家来共はその
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家族とともに山本家において越年する先例があったが 、今度亡父政信の遺言によって 、明る正月からは左助夫婦のみは当
、
家で越年し 、その他はそれぞれの家で越年して 、元旦の賀詞を述べに来るようにと巾付け また山本家の一家衆に路辺で
、
出会った時 、家来たちは﹁脱木履可尽恭敬朝一抑碍粒 箱一﹂とも巾付けた o 一家衆とは表家日笠村の検問長助忠明 東家
岡村の横田平蔵重頼および此瀬村の吉田八左衛門長経の家族のことである。かつ公儀法一皮の条々とくに防突停止の禁令を
守るべき旨を命じ﹁於違犯而者可令放出也﹂と申渡し 、また正月のうち他家へ夜遊びに行くことも停止したが 、山本家へ
年寄から丙触せず 、平左衛門を通じ て申付け
の出入のみは制の外とした。下の二条は村方の禁令であるが 、家来には庄屋 ・
たのである。家来たちは百姓の身分でなかったことはいうまでもない。明らかに 山本家に隷属した被官であったが 、それ
にも拘らず村内の生活慣行では百姓並に取扱われることもあったようである。その事例として﹁当村巾日待 、為年預久作
、 ﹁当村者共奈良講春日祭也 、 論宿あわ跡作恥問山﹂(
延宝五 ・二 ・
延宝四 ・八二二 O)
・長次郎 ・動か伶杯 ・当家四人営之﹂ (
L臥 ・予、於当家営之﹂ (天和二二ニ ・二一﹀ 、﹁当村春日請 、於久四郎宅而尚之 、出坐 也、
一一)、﹁夜高野講、頭役三四郎-
頭役左一郎 ・号、一勝 ・内骨骨再也﹂(貞享三 ・二 ・一﹀など 、講巾の頭役を家来の人々も勤めた場合が数多く見出される。
三家来の家族関係を考証すると次のようになる。
十二
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治次郎この
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大ある 家である。
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主木
次と
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破したので家造が行われた。この普請に平左衛門も相談にあずかつて指閃を作り、析始には両人に竹木・米などを遣わし
無足人家の家来について
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無足人家の家来について
本家で行われた
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いで清次郎も善右衛門に 、また左助の弟権助も彦二郎になった
前一之趣申波畢﹂({王、氷
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八 ( 九 五 O)
﹀ と あ る oTI徳五年の正刀祝儀に﹁清五郎養子少七初市否﹂と見えるのは円以古の改名と
家に釆り 、平左衛門の兄今に入った。﹁此竜往々・ 4m
可為養子飲之口川巾上置之 趣申之故、甘穴子見届皐、不可相変之行也、珍
立しなかった。それゆえ平左衛門は清五郎が﹂家来を隊れるのを喜ばなかったのである。清五郎の妻は宝、氷二年間 四月に死
に、 その年の冬に後妻が郷内の若荷村から来た。この女も男児を連れて来た 。翌る正月に清五郎は継子長吉を 作って山木
銀三百匁で買得しようとして、平左衛門の許可を求めたが 、 これに対して平左衛門は﹁公事役令勤者元用也 、於不動市者
可買取之旨令免許也﹂︿同年三・六)と巾波した 。屋敷を所持して公事百姓役を勤めることは 、山 本家の被官の'身分とは両
時、田原の本邸の留守を預ったのは清五郎であった。その問元禄九年三月に庄司五郎は大野村杉水の百姓長五郎の屋敷を代
⑫
った。善右衛門は元禄四年の盆過、ぎに死んだので清五郎が代替した。元禄十年まで数年の間平左衛門が法隆寺に費居した
る。姉妹ともやがて善右衛門の娘になったので 、山木家の家来として宗旨帳に書加えられた。妹娘は後に清五郎の妻にな
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翌八月には後妻が来た。これは横田村道後の彦一郎の姉 、南田 原村の久四郎後家で 、娘二人あった。百姓の家柄の出であ
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三政者改名清五郎也 、権助者彦二郎也 、予子消五郎 彦二郎両人遣肩絹 ・袴、 先子清五郎遣 、
是者彦二郎脈甥惣領故遺
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之、次遺子彦二郎也、酒宴於当家寝間台所市尚之 、九入 ・予 ・忠 兼着坐 、村者不残出座﹂(同川
年一了二三)、﹁於左助宅市有
子共改名祝儀之酒宴也 、客者自的場 ・田中 主人下之女・也﹂(同年二 ・二四﹀。これより先貞享二年七月に善右衛門の妻が死に 、
その関係は明らかぐない。﹁今夜於当家市家来北ハ改名之有酒宴祝也 、
、酒肴共清二郎 ・左助賄也 、清二郎者改名苔右衛門也 、
o清二郎と左助とは血縁者で 、清次郎が本家筋であったが 、
た o 立柱上棟以下落成まで詳しく日記に書留めたのは 、二 軒とも山本家の持屋敷だったがらであろう o
﹁惣而当屋敷江当
家移之節者 、伝助屋 敷猶以 山也 ﹂(延宝五 ・三 ・
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、 ﹁当屋敷之内伝助﹂(向上)とあるから伝助の屋敷は山本家の持地であ
り、清次郎の家も同様に考えられる o
貞
字
三
年
正
月
十
五
日
に
清
次
郎
の
嫡
男
三
蔵
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名
替
し
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て
清
五
郎
と
改
め
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この儀式は山
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大和東山中の村々には成年に達した男子が正月に改名する習俗があっ て、近年まで伝承されていた 0 つ
•
思われるが 、 この年十一刀には清五郎、は深 川村の平次郎の弟平五郎を養子入家させ 、平 左 衛門 に謁見させた。
に
ら に亨保
二年の春には養子少六を迎え 、 娘の 墾 として婚礼を挙げた。少六は卯之助ともいい 、奈良の 紺屋小兵衛の子 であっ た。先
の両 人 は死亡または不緑になったらしい。的礼の宴席には平左衛 門 も家族とともに列なり 、大 野村 中も 出 坐 した 。 この席
、
酢 打 此者予自二 才 令奉公 、旧 功之 者 也﹂
ah.
上名替も行われ 、情五郎は韮門布衛門と称し 、卯之助は善太と改めた。善右衛門は 亡父の名であった。 な お拝太 は市山 の郁
o室、氷二年九月九 日条に﹁家来左助去五 日死
⑬
奉行横 山善大輔に制作って源八と一円び伴えている 。
左助左助は家老とも称された
とある。平左衛門は享保五年に八十才で放したから 、逆算すると左助が 山本家 に奉公 した のは寛、氷 十 一年 で、当時十一才
であった 。 この男は清次郎の弟か従兄弟か 、 いずれにし ても近親者であって 、譜 代 の家来筋自のゆえに 召抱 えら れた と推
定 さ れ る 。 し か も 譜 代 奉 公 人 として成 人 の後には屋敷を貸与され 、 なお奉公を続 けた ら しい。 家老 と記され たのは別家し
ても主家の家務を勤めたためと思われる。妻は北野村の生で 、平左衛門 の亡 母に 召仕 われ 、﹁累年受厚恩 而令嫁 也﹂ハ 元禄
t
九 ・一・一一)とあるから 、 名 子 分 家 に 際 し て 下 女 を 嫁 に し た 場 合 と 認 め ら れ る 。 天 和 二年ま で左助の名 は見えず 、 勘右
衛 門 が あ っ て 正 月 の 年 児 を 勤 め て い る の は 、同 一人 で名替したのであろう。享保三年十二月 十六 日 の節分に﹁当家京 、十本
J
のちに凡の養子となった。元禄五年十二月に彦二郎は清五郎の 仲 人 で嫁を
公人元之﹂とて 、年男の役を家米長内郎に助めさせたが 、 これは﹁長四郎養祖父左助動来 由緒 也 ﹂と記された。左 助 の弟
権助は貞享三年の春に改名して彦二郎と称し
迎 え た 。 妻 は 中 貫 村 の 甚 七 郎 の 娘 で あ っ た か ら 、山 本 家 の 縁 放 に つ な が っ て い た 。 こ の 年 凶 年 に 加 え て 忌 中 で あ っ た が 、
イ
・
ノ
平左衛門は彦二郎に米一斗門人口を 、妻女に足袋一足を 、甚七郎には茶二斤をそれぞれ贈って祝儀の品とした。彦二郎の名
叫には代って又七が出るので 、 こ の 間 に 名 替 が 行 わ れ た の で あ る 。 元 禄 十 六 年 の
は元禄九年まで見え 、 つぎの同十二年の 一
同年士 了二 八 ) と 後 事 を 托
歳末に借銀のため平左衛門は再び家を山て 、 法隆寺に寄宿したが 、 ﹁予家之留守叉七居之﹂ (
(
九 五 一)
している。主家の衰微は被官が分立する機会であったが 、 三家人とも相変らず 山本家に属していた 。 ただ左 助 の死後はν ︿
無足人家の家米について
九
、
無足人家の家来について
(
九五二 ﹀
宝永三年十月に﹁家来又七屋敷辺境
近 年 少 々 依 令 違 ﹂ っ て 、 平左衛門は又七らと立会検分して﹁古来之通石立正之果﹂ (同年十 ・一五)とあるから 、
七は清五郎同様に賦役を勤めるばかりで 、 養父に代って奉公することはなかった。
同門
姉は長四郎の
o 叉七の家放は養子長四郎と実子二女とがあり 、
の屋敷も山本家の持分であったことがわかる。叉七は宝、氷二年正月二日に死んだ。﹁此者父左助当家為譜代 、 共子叉七
程 一 嗣 之 、 累代居此家旧好之者也﹂と平左衛門は追想した
妻となった。長四郎は大野村の彦四郎の弟である。これも百姓の家柄であった。享保五年法隆寺に寓目して老病に悩んだ
三家来の一 人は延宝五年の伝助である。天和二年以後の家来六右衛門と同人であんう 。 ただし元禄五年ま
一千左衛門が故郷に帰って八十歳の寿を終えるまで 、長四郎は父祖同様に忠節を尽していた。
六右衛門
でに死んでいる。この年二月に平左衛門は家人たちを集めて、博突禁止を申渡したが 、招集されたのは左助 ・賀次右衛門
・金 助 ・市助・彦次郎 ・清 五 郎 ・三太郎 ・道八の面々であった。左助以下市助までは家内奉公人であるから 、六右衛門の
家族は三太郎と道八との二人と推定される。これは兄弟であった。元禄九年 ・十年に道八は平左衛門に従って法降寺にあ
った。元禄﹂ l一年冬から菩提山普門院に奉公した﹁予家来半ア﹂は三太郎のことである。家来が他家に奉公するのは 、平
左術門の許可があったのであろうが 、 主家の無力を示すものである。この頃まで弟道八は山本家に未公して 、名を一﹃ノと
改めたが、元禄十二年冬の出替に暇をとって兄の家に帰った。たまたま半六は病気になり家で養生することになって 、
、 子 此方長屋来
八が代って菩提山へしばらく奉公したこともある。しかしながら元禄十六年には﹁一八支兄半六依令折 艦
4Af
一方半六は宝、氷二年夏には大野村にして 、又七らとと
居、半六元憐心故飲﹂(同年四 ・三一)ということもあって 、 十二月に一八は五年の年季で此瀬村古田家に奉公した 。年
ちF
.養父の死後宝永三年には年寄役を継いだ。この両家は﹁有同家之凶也﹂ (元禄十ムノ ・十二 ・二五)とある。然るに小八郎は
て山本家の家人の列を離れたことになる。なお忠右衛門の実子叉六は元禄十六年に岡村年寄的場の久れ衛門 の養子となり 、
もに山本家の賦役を勤めたが 、前年から同村的場の忠右衛門の養子に入り 、その娘を妻とし 、名も小ノ郎と改め た。従っ
の満ちぬ宝、氷三年五月にこの男は逐電して行方不明になっている。
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。
宝氷二年十一月に養家を立退して山木家の屋敷に還住じ 、 その妻子をもやがて引取って 、一
川
びγ光向門の山本米となった。
小八郎の男子に平左衛門は頼まれて三太郎と名づけたが 、 ﹁是父童名也 、即旧之﹂(ん止、水七 ・二 ・一一二﹀とある。家来の下
無足人家の家来について
J
ハ九五三)
は凡られなかった。また三家来の如く主家と親密な交渉をもっていたともいえない。大野村同住の家米と他の村々にいた
可州迷之旨申付故、令領掌述礼詞﹂(同年七 ・二七)とあった。ただし与八郎父子が 山本家の家人として賦役を勤めた明EX
M
以如前一代令助、依之祐式如代々不
山北ハ当夜所領也、彼者代々預来為家来 、父与八郎一研一関⋮一 ︿去正月死、嫡子又次郎⋮継父近 日
が問れられて怠状を書いて落着した。宝、氷二年になって与八郎の子又次郎が八朔の祝,儀を持参したが 、 ﹁此者居屋敷廻
月 十 与 八 郎 が 去 年 法 令 を 犯 し て 博 突 の 仲 間 に 加 っ た こ と を 詮 議 し て 、屋敷山ともに召上げようとしたことがあり 、詫 言
屋敷地を借りて家来となった者はなお見出される。日笠村の与八郎の屋敷と山とは山本家の飢地であった。天和二年三
正徳五年までに清九郎と名替して 、屋敷を与えられ 、妻を得て被官になったのである。
年一返聞にも、平左衛門に随従した 。宝永七年二月に岡寺へ厄除詣をしたから 、 この年ニイ五才であったことが知られる。
家人として由緒あるものであった 。 この菩右衛門は元禄十六年冬の法隆寺世居にも 、宝、氷二年伊川以上野の栴原頼母家に越
右衛門の名は 山本家の
ハ
意 、〆父奴家 、 小童名改善右衛門﹂とあるのと前後照合される。主 m
限年季可召抱之旨申入之処 、応北一
今昼飯令饗応﹂とあるのと 、一冗禄十二年十二月十二日条ゴ一一ヶ谷村又次郎主力謀四一人携米 、即 為恥公人於先口口 支 者 、
中平
↓一
川、
て新に加っている。この男については京保五年八月三日条ヨ万ノ谷村又次郎為予病訪昨日米朴州 一
子手下前九郎方一退問 、
n~
正徳五年ムー一月田麦を蒔く時分に 、 小八郎の安が慌我をして入手が足り、ず難渋した
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女に名を授けた例は他にもあった。
﹁的場以西家並助之﹂ (同年十一 ・一)とて各自一日手伝に出たのは百姓並の附 A円であり 、 またな保二一肌
刀
れの三家の外に正徳五年正月一日条には﹁三家来並清九郎妻子相兵来 、年玉如例進上﹂とあり 、爾米約九郎が家米とし
四
は ﹁依令借銀超過身﹂って頼向子を興行した時も 、銀三十匁掛で三十二人が集った。
時
無足人家の家来について
家来とには区別があったのであろうか。
(九五四 )
その父久蔵はも
その縁故で枠市助が召抱えられたので
日笠村の市助の場入門は少しく事情が聞大なる o この児は点字三年正月祝儀の交名に奉公人の列にあった o
と中貫村の産で 、 ﹁此者当家却一川代之家人筋川之右﹂(元禄五 ・内 ・二 ) とあった。
あろう。日笠村は平左衛門が﹁此村元来居村同支市岡畠所持 、共上日笠村所持之農山
、 白予家以理運苅之 也 ﹂ (
元禄五 ・
十
二 ・七﹀と記したほど山木家とは深い交渉があったが 、﹁日笠者先年市助支 巳後、対予為敵手﹂(同上 )と痛憤させている。
ど の よ う な 紛 争 が あ っ た か 詳 か で は な い が 、 そのために平左衛門は元禄五年夏に中貫村に所有した四辻薮を開発して屋敷
とし、市助の家を建て・
させた。 ﹁中貫市助昨日日日笠大稲葉 、子四辻新宅令徒移﹂ (同年八 ・八﹀とある。市助が奉公数年
にしてこの恩遇を得たのは譜代家人の筋目のゆえであったに相違ない。ところが平左衛門一家が分散し 、清五郎が留守を
O冗禄九
・八
預っていた田原の木邸には元禄/年の冬に二度までも盗人が入り 、そのうち十二月廿五日に茶二俵を奪ったのは市助であ
った。 ﹁此市介儀 、常々小盗仕 、万事見町不印候者一一御坐侯故 、去年義絶願申上 、追出申タル者一一而御坐侯﹂
-二二)とあり 、 既に春以来召放したが、 九年八月九日の夜 、市助はまたまた 山本家に侵入して 、平左衛門の嫡一子儀平太
o助三郎と伝吉とについて
﹁中庄清五郎四辻家等預之支令決定故 、証文一通受取支済詑﹂ (同年二 ・二六﹀とある。この契約の内界は明
辰行に切殺された。市助の跡屋敷はその追放の直後中庄村の清五郎が借用を望み 、平左衛門も預証文をとって貸与するこ
・
とになった。
らかでないが、 この男も家来並になったのであろう。
宝永二年五月二日条に﹁家米共均一ぷ匹敵十一空間山長朝之問召集 、庭之掃除申付畢﹂とある
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b一語紙幣⋮引亡﹂ (宝、水三 二一・ 二七)とあ
記すと 、助三郎は﹁門番助三郎出門子故郷福住別所帰削減桝耕一語むハ畑任期
、 、. ﹁家来三家男女 、
ノユ﹀︼
昔、 1AV
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王
、
氷
三 ・一・一 )とあ って 家人
助三郎 ・伝吉等年玉持参 、酒肴令沙汰﹂ (
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え﹄しヵ
オ、カ
り、宝永元年から山本家の門番を勤めていた 。故郷に帰ってもしばしば田原に来 て平左衛門の用事に侠われることがあっ
た。伝吉はよ
の列であった。﹁伝汁松川枯渇去比死﹂(正徳五 ・十二 ・二六)は同人であろう 。 また享保二年には家 人孫兵衛があった。正
o
o
o然るに﹁家人孫兵衛中貫宮竹買損之旨歎故 、
また﹁当村道作四一禁消却炉枇一語山町一旬尉⋮盟細川倣﹂(同年八 ・二五 )ともある
O
いだム人のようでも
﹁件僧日笠帝釈之新助子也 、彼先祖当家累代之家人忠節之者之末也 一とある 。 これは﹁口十三 日帝釈新
l
(延宝五 ・四 ・一五)と関係があると見るべきであろう。 さらに正徳五年の歳末に
が郷小および近郷にもあったが省略する。郷中の多くは出入であったに相違なし。
二七﹀であった。これらの人々には名替した同一人があるかも知れぬが列挙した。
この外に﹁代々山人之島﹂と称する家
祝儀の昆布一把持参した奈良笠屋町の吉右衛門も 、 ﹁日笠住人也 、今困窮故去比南都居住、累代予力被官人﹂(同年十二 ・
脳ノナ譜第抱之、彼亡迩之屋敷田等買之﹂
米運が米訪した。
った。山本家がもと中貫に居住し 、 この老女は家女であったことは先に述べた。また宝永三年三月一日に柳生村土佐堂の
'
Kの葬送の時に役人を勤めた。これは ﹁彼二人者山本累代之家人忠節者之嫡孫故也 ﹂(延宝五 ・閤十二 ・一一三﹀との縁故であ
もと家来であって当時は既に百姓となっていた者もある。中貫村の三蔵および吉兵衛の両 人 は、一半左衛門の祖母貞寿信
ゐるが、竹入札を行うのは家来のようでもある。家人の由緒により奉公したものでもあろうか。
午也二一)ともあった
、
月十凶日 正月の慰みに山木家で下人たちが庭竃を催した
仲
間
で
あ
る
が
こ
の
年
正
月
に
A
京宮の政什を入札允した時に 日
中
山
以坐巾談合八丈口二分伸一話之遣 之 ﹂ (同
笠村の孫兵衛が一部を落札した
以足人家の家米について
(九五五 )
只川したものであるから、代々所持して来たが既に出作とされている。しかし別に日十石余の凹地は 、検地以前から持来
の別山は同日大庄屋まで提出した口上書に明らかである 。 すなわち横田村にある山本家の持高の一部は光年の検地以後に
村の.
一
川分は新法を立てたものであるから 、山本家としては古法によって前々の如くに取計らわれたいというのである。そ
に一ル叶えていたのである 。 これに対して平左衛門は二月二十一日に古市へ赴いて奉行所の役人に巾人を行った。今ハ反の横田
地 に 附 し て 元 禄 十 六 年 の 春 、横 田 村 か ら 出 作 免 を 徴 収 す る と 申 入 れ て 来 た 。 こ の こ と は 前 年 の 幕 か ら 机 回 で は 古 市 奉 行 所
山本家の下人についてはつぎの如き特殊な場合もあった。この家は隣村横田にも回畠山林を所持してした。これらの土
五
無足人家の家来について
(九五六)
一一企右之通一一て木作一一紛無御座
- Ab
上 と 奉 存 侯 所 、 横 田 村 庄 屋 須 山 村 仁 兵 衛 ・日笠村平蔵唆一一而下一一て相すまし見可中と被巾侯一一付 、此 方 ぷ 両 人 へ い か 様
己 下 相 動 さ せ 侯 市 、 本作一一紛無御座候処 、 此度被相企出作一一可仕と被巾掛候義 、迷惑至極一一奉存 、悦 以 御 公 儀 御 断 可 申
一 右 団 地 支 配 人 之 末 只 今 又 五 郎 ・長五郎と申者迄代々先祖ぷ仕米侯通一一諸事改不申 、先 鋭 之 通 支 配 致 さ せ 、御 公 儀 ・村 役
一一奉存侯御事
哉 、 古来ぷ木作之道理分明ニ御座侯一一付 、是迄も木作一一仕米侠川位 、此度新法を被相企侯而出作一一可仕と被申義迷惑至根
地出作一一仕侯節 、 右本作之団地高十石余之所も出作一一可仕道理有之候はは 、 何として共節ぷ只今迄本作一一仕置可被申候
味之上一一て出作一一可仕道理一一御座侯故 、 此 方 ぷ 何 之 申 分 も 無 之 、此団地斗ハ横田村ぷ上中侯通一一出作一一仕候 、然者此同
一 右 岡 村 之 内 ニ 而 字 は ば と 申 団 地 高 二 石 八 斗 六 升 之 所 、 是ハ御検地以後四貝得仕候田地之由ニて 、代 々 持 米 候 へ 共 、先 年 吟
侯事
名 請 に 仕 、御 検 地 請 さ せ 、 御 公 儀 役 ・村役以下も村並一一相勤させ 、 代々共通一一仕 、只
一 横 田 村 之 内 ニ 而 田 地 高 十 石 余 、 先 祖 ぷ 持 来 口 口 、 此 方 ぷ 与 左 衛 門 と 申 も の 入 置 支 配 仕 ら せ 、ー
御検地之時も表向与左衛門
口上之党
ては迷惑だというのである。
て村並に勤めさせた。今日まで与左衛門の子孫が代々相続したのであるから本作に紛れない。今さらとやかく申懸けられ
っ た 土 地 で あ る 。 か つ て 横 田 村 の 与 左 衛 門 に 支 配 さ せ 、 検 地 の 時 も 与 左 衛 門 が 表 向 の 名 請 人 に な り 、 公儀役も村役もすべ
四
噌EaEE4
体昨・
二月
奉
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付
山本一半左街門印判
北ハ相まかせ可申と内証一一て申入侯一一付 、 右両人去冬唆被中侠得北ハ 、村衆向心不参侯一一付 、此 皮 如 此 御 断 申 上 侯 問 、先 規
同
1
栄
之通本作一一罷成侯様一一与仰上可被下候 、 以上
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右 に 対 し て 横 田 村 で も 直 ち に 年 寄 弥 五 郎 ら 数 人 が 惣 堂 に 会 合 し 、支配圧屋の仁丘ハ衡を交えて応訴することもあった 。 そ
の解決がつかぬうちに夏を迎えて 、問題の田地の農事も無事に行われ 、収穫期に入って再び相論となった。 十 一月 には 台
市 代 官 稲 垣 儀 兵 衛 や 大 庄 屋 広 瀬 佐 次 右 衛 門 ら の 意 見 と し て 、一両の四分を出作免に出して訴訟を取 下げるように申入があっ
ρ
、平 左 衛 門 は も と よ り 承 知 し な か っ た o 先 年 日 笠 宮 需 に つ き 出 先 ノ 分 を 増 徴 さ れ た 苦 い 経 験 も あ っ たからであ
鋭
る。 その後大圧屋から種々 質疑があり 、 たとえば山本家の横田高が木作ならば 、 その作人 の長五郎 ・叉五郎 両人 が借銀
な ど を し た 場 合 、 山 本 家 で そ の 負 債 を 引 受 け る か と の 聞 に 対 し て 、平 左 衛 門 は 承 知 の 旨 を 答 え た 。 そ の 覚 書 に ﹁ 横 田 村 長
五郎 ・又五郎一一支配致させ置申候横田村領私団地 、右両人一一御検地以来支配仕らせ置、諸事木 作 並
一一
相勤させ置申候 、然
上 者 右 両 人 引 負 借 銀 仕 出 し 申 侯 共 、右両人自分之田地 、私支配仕らせ侯田 地 一一て相さばき可申候 、 それにても不足在之侯
一 ・二O) と見える。ここにいう検地は何年の場合か明らかでないが 、当時
ハハ村わきまへ一一被成可被下侯﹂(元禄十六 ・十
一 ・二三)
の名請人.の与左衛門は現在下作人の一人長五郎の父久右衛門が﹁我等曽祖父也 、彼田地之名請実正﹂(元禄十六 ・十
なりと答えたとあるから、天正の古検であったかも知れぬ。
イ 二 月 二 十 三 日 に 至 っ て 、 横 田 村 方 な ら び に 山 本 家 方 は 古 市 大 圧 屋 宅 に 召 寄 せ ら れ 、郡 奉 行 の 御 怠 と し て 申 渡 さ れ た の
-
⑫
は平左衛門の主張通りであった。﹁件団地 、長五郎 ・又 五 郎 預 巾 、自分之物諸支取捌之上者 、面向両人之支配也 、両 人 未
進 借 銀 於 令 出 来 者 、 件 団 地 売 払 可 令 皆 済 ﹂ と あ り 、 両方取替の証文にそれぞれ捺印して退出したのである。
この木作 ・出作の出入をめぐって知られることは 、与左衛門の子孫両家が数代の間百姓として公儀役・村役その他の役
ちであったことである。もしこの高が出作と認定されると 、 山本家は
を勤め来った本作の団地は 、実は 山本家の持高のう.
出 作 免 を 増 徴 さ れ る こ と に な り 、両作人は他に自分の回畠があれば栴別、さもなくば下作人となって百姓の身分を失うこ
とになる。検地帳を分析して村落構成を考察する場合には兄叶浴されることになろう。
一
五
(九五七)
この横田村の田地というのは貞享三年三月十二日条に凡える﹁凶八所仰幅八口合高二行五斗九介六合端山恥横田口巴
同州足人家の家米について
以足人家の家米について
⑧
一二ノ
-.¥
(九五八)
川山右御門.・久右衛門預所也﹂とあるものであった o元禄五年に助右衛門が死んでその子助三郎が代替し 、
久七衛門の子長
五郎も父の 譲 をうけて 、 四月二十八日に両人共に連判の代替証文を平左衛門に差出した o これは ﹁
山之支為一年作 、白予
力 預 也 、何 時 成 共 可 返 上 草案 也 ﹂ とあるから一作預の形式であった。元禄十六年の作人又五郎は助三郎の養子である o ま
た長五郎は相論のまだ解決しないうちに十一月に死んだ。その病中に枠新太郎を伴って山本家に参上 、平左衛門は新太郎
に査を与えて ﹁行末当家出入可為長久﹂(同年九・二ハ)と挨拶した。長五郎の死には﹁当家家米伏 、 別市令ぃ民情 、 遺弔
侠﹂(同年十一 ・一一﹀と日記に書いている。さて十二月二十四日に平左衛門は両作人らを召寄せて﹁諸支先制川之通之団地
山、一年預之証文献畑一脚両入居一判﹂させた o この時叉五郎に対しては﹁常々虚言申 、対祖母点乎行之働元之 、折々金問突
云 々、以 後 右 之 悪 行 於 有 之 者 、 団地山可取版也﹂と厳重に申入れた 。
室、水二年に叉五郎は養家を離別されて和田村の実家に帰り 、助三郎の亡跡は翌年養子吉兵衛が相続した。新太郎の分は
立保三年には平助が耕作しているが 、新太郎と平助とが同人か否か不明である。この年の森山木家は凶窮のため両人の下
作した横田村の高を取返して,
治却しようとした。吉兵衛と平助とはしきりに愁歎して 、当年一作を限って延則を許された
が、 ﹂l一月には再び平左衛門は春の申入を繰返している。これに対して横田村からは﹁白吉兵衛 ・平助方取返於令売市 、
・ 二一)とて右田地の買却は御免を業りたいと申出でた。公支屋とは役屋すなわ
公支屋二軒令断絶支 、為難儀也﹂(同年十 一
た事実は郷内では知られていたのである。このような関係は当時としても必ずしも多いものではなかったろう 。他に
ち本百姓を意味する。その後の成行きは不明である。いずれにしても与左衛門とその子孫とが山木家の凶旧村高木作地を
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斗
﹃
寸
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類例があるのを知らない。恐らく前代以来の下作慣行が、検地による新しい領有制度が確立して後も 、相川記入 山本家の繁
栄の一卜で存続されたのであろう。
一
証
①拙稿﹁大和の無足人についてll 山辺郡小山戸組改阪を中心として﹂ 人 文 研 究 六 巻 九号
②山本平左衛門日記元禄五年十二月十四日条
③ 上 野 親 類 は 知 行 千 石 、鉄砲頭の梅原勝右衛門武厚を指す o平左衛門のほ方の祖母は武厚の祖父の姉妹に当る o
なお桁原氏の預手形には
﹁鉄飽二挺﹂とあり、それぞれの寸法も明記した。
平左衛門日記元禄五年十一月二十日条﹁御領中有元足人改 、古市組者子大庄屋(佐次右衛門﹀方今回会合ハ中略﹀
予者忌 中故不及沙汰﹂
田原郷の村々は東田原 、南田原 、矢田原および和田に分けられ 、村ごとに年寄を置き 、庄屋は四人も しくは 六人であ った。必ずしも世
襲しない。当時大野村は庄屋日笠村の平蔵支配であった o横田平蔵重頼は 山本家の 一門で、平左衛門の再従
父弟に当る o
宗国史国約士山補遺慶安四年一月八日の六奉行の条々に﹁惣一
向地下人被官持来候者 、むかしより我家の高の内を分て作ら せ侯は勿論
被官也﹂とあり 、また﹁庄屋被官は如前々たるべき事﹂ともあった oなお同蓄の元禄三年七月二
十五日四奉行の条々には ﹁
親兄弟子共
井被官たりといふ共 、高を分け別家に成侯はば 、諸役百姓並に相務させ可申事︺ともあった。
⑤④
平左衛門日記宝永五年七月十七日条 ﹁
曽祖父山本太郎八政弘百年忌(実者去年今月今日百年也 ﹀ハ中略)政弘者慶長十 乙 巳年七月十七
日、南都春日社祈雨大躍之節 、於御旅所南辺討穫父之敵猿谷市右衛門得挙名 、
然処以大勢追掛故難逃 、於荒池之上慈明坊之前口井之 辺
令生害畢﹂ o この事件は励範記にも見える。
山本氏系譜に弘盛﹁九兵衛 、実蔵重氏 、為政弘養子 、炭長十二年丁禾初而移子大野村当宅﹂とある。
平左衛門日記﹁年始才祝儀年玉受納入ロ停止 、去年 ・去々年飢飽困窮故 、両年令停止之 ﹂ (延主凹 ・一・ )
⑥
⑦
﹁当村困窮故、来正月祝儀紙以下取遣令停止 、若於違背之輩者科料米五介可出之談定﹂ (宝、水七 ・十二 ・一九﹀
・
﹁去歳依凶年、郷中申合、祝儀往来停止 ﹂ (正徳五 ・一・ 一
一
﹀
﹁中貫宮講今日不営 、是凶年故令止也 ﹂ (正徳五 ・五 ・二五)
無足人家の家来について
t
じ
(九五九)
﹁当御領内大和山城五万石之庄屋 ・与頭 ・平百姓 一人宛 、都合七八百人計 、伊賀御城下仁召之ハ中略 )近一
一
年閑窮伏 、従太守米千俊 、従
久居之太守二百五十俵 、領内か給之 、但四斗俵也﹂(延宝五 ・三 ・十七﹀。この事宗国史にも見える σ
﹁従一昨日郷中庄屋南都行 、問屋倍銀不済故不坂﹂ (
延宝五 ・十二 ・二八)
﹁去年凶年故、郷民之礼者停止也﹂(天和二 ・一・一)
﹁
去冬依困窮 、為礼者往来禁遇﹂ (元禄十二 ・一・一
一
)
⑨ ⑧
無足人家の家来について
四月十二日苗代祭(サピラキ ﹀
平左衛門日記によって手作地の事情を窺うために元禄五年の分を掲出する。
平左衛門日記貞享三年二月二 十 一日条
平左衛門日記正徳五年十二月一日条。この前後に記事がある。
方移居 、同妻 ・同娘吉田方 、町女横団長助方登居﹂
(
九 六O
﹀
前掲拙稿
掛銀三 十日 人数都令四十八
平左衛門日記正徳五年十月十日条﹁当家振上今日相液也 (
中略)此支元禄 十二年己卯年十月三日初之 (
、
)
人也 、右白卯歳当未年至今日十七年之閥 、元滞相調、大慶不過之也 ﹂
出
寸
たとえば平左衛門日記元旅十六年十二月二十八日条﹁当家依簡略(中略 ﹀今日令蛍居、予(善右衛門相従 ﹀中院方移居、辰行十輸
i¥
四 月 十 六 日 十 輪 寺 、重頼等大田栽(忠 明家昨日大田栽)
凶 月 十 九 日 当 家 田 栽、山辺五十苅 、此瀬三十苅 、藤木五十苅但麦田 ・苗代者未栽、栽手女五人 (下女竹 ・左助委 ・三太郎母・問 中
之甚七郎妻 ・重頼下女杉女巳上五人也 ﹀・ 児二人(賀次右衛門 ・久兵衛也 )
五月二日麦回栽(藤木)
五 月 十 六 日 当 村 祈 穏 (中略 ﹀井村中段休
五月廿 六 日 当 家 農 休
また元禄十二年の分をみると次の如くある。
是以 サヒラキト一示 、不知茸ハ正字 )
凶月廿 五 日 水 口祭 (
四月廿六 日 自 昨日所々早田栽初也
是栽姶也 )
凶月廿八 日 日 笠 谷 尻 田 栽 (
五月 一 日 山 辺 回 栽
五月二日此瀬河尻田栽
五 月 三 日 河 尻 大 黒 堂 前 三 十 苅 、楽田栽ハ女七人見山人 )
五 月 六 日 倉 純 手 間 栽 ( 非 合 純 手 、砂町之通純手也﹀
五月七日所々之端々之取集小旧北ハ栽畢
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五 月 八 日 端 々 之 ,A凹栽(竹川 ・釜之坦内 ・焼餅白田辺也 )
五 月 九 日 倉 純 手 ・十王堂前三十五苅(日笠)両所田栽 、以今日水田為栽終
五月十一日苗代地耕栽(但麦回之苗少々戎置畢﹀
五月十二日旧花壇之筑地致而内外之島為田地 ︹
以下十七日マデ﹁関田如 昨 日﹂ トアリ ︺
五月十八日山辺問中天地令栽用意
五 月 二 十 日 仙 辺 田 麦 地 栽 、昨 日門前之開田栽
五月 廿 一 日 藤 木 支 回 栽 、頃日用人夫数人故 、雇人 ・︿門力人 ・日傭人 ・手前人等移
五月 廿五 日 門 前 之 新 田 栽 、以之為栽終
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六 月 四 日 当 家 農 休 、法印 ・教真 ・左助 AR
饗応
右両年の分を合せて考えれば 、手作地は相当量あ ったこと と推定される。ちなみに三 十苅は一反に相当するもののようである。なお災
作の麦その他は省略した。
これに対して下作に卸した分について 、若干例を挙げておく
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中略)夜万八四人之者共談入門戸山
、
南田原喜右衛門数年預所之当家持領之切付田山之事 、 喜右衛門死去之後迄 、 如前々一迩式支配者預申度旨 、 以日笠孫七郎子予方巾之也
(天和二 ・三 ・
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、 高右衛門はこの年二月三十日に死 亡した。 (
ぃ木一刻一手・忠兼・長五郎 ・空間右衛門等子大政山行 、是者件之山之内分而長五郎預之故 、境目為一ん配
年貢三斗市右大政山之内南切失 、長五郎一年宛而預畢 (
貞享三 ・三・二二)
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子口笠村宗十郎預置処之向井田之境目之杭打 、賀治右衛門 ・金助打之 、予 ・忠兼行見之(貞享三 ・閏三 ・一七)
燦木田麦之地栽之 、韮円十杓衛門令借用麦作之地三角田栽也(貞享三 ・四・一一一一﹀
十王堂河之南北岸之出所之土井雑木多故 、直頼 ・忠辰出人夫市 、自午アトド
切 透也 、是開水道之故也(中略)件所之山者 、南方楽間 一
昨
作、
当時左助預之也(点字三 ・八 ・二O)
(九ムノ一)
当家所持之横田村大窪山令先而於近所司買田地也 、彼山数年彼村長三郎令預之上者 、長三郎令買之旨 、以助三郎巾入(元禄五 ・一・一八)
和田村左兵衛来(未刻﹀ 、是者当家所持之此瀬五十苅田 (
大黒堂之西方)為可預之用也 、五年之間預畢(年貫一石八斗宛)(元禄五 ・
一・一一二一)
山中之回崩口ハ当分預人横田村庄三郎、勿論出也 ﹀筑之(元禄五・三・二 O)
処足人家の家来について
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この直後山本家は家族分散して 、平左衛門は法隆寺に費居したのである。
大久保山一同清右衛門預所也
日高弐石八斗六升長蔵後家預所也
この時次の両人の預地の証文も書改めている。いずれも﹁預所不依何時可反進﹂とあった 。
者令閉口﹂
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(九六二﹀
た智之旨申入之処、弥五郎云御意之通令存知也 、村中披露者元之趣申之 、大庄屋被云者元一益之余談也 、各申分不可立一式々 、依之横田村
謂何国之人、洩宗旨帳之旨申処、助惣同古又申之後 、予日又五郎支四年以前為養子 、入子助三郎家、共節隣家設、酒肴 、弥五郎出席之夏令
平左衛門日記元禄十六年十二月二十三日条に、裁決の時、横田村人はなお故障を申立てた。﹁甚四郎申出者、又五郎蔓非村人、不知
平左衛門日記元禄五年十二月七日条﹁白去年到当年而於彼村予所持之田白田、高分八分之増免取之﹂
平左衛門日記天和二年六月三日条﹁家老左助妻、夜女子平産市己
﹂
平 左 衛 門 日 記 元 禄 九 年 一月十二日条﹁辰行自去五日子本家寝(去冬両度盗賊入故、留守居清五郎妻子恐故、為令安也 ﹀
門為娘之旨 、子宗旨帳可書加之旨、子庄屋弥三兵衛方以手簡申入 、
一 決畢﹂
平左衛門日記貞享三年四月十日条﹁善右衛門妻 、去八月子夫家 ニ
来節 、娘一人相具来、叉娘 一人在子南都 、 両人北ハ予家来 、 叉善右衛
苓荷村助三郎来、婿少六難議之支演説 (
此 方持分横田之回 、少六 ・助三郎下作也﹀(享保二 ・七 ・二六)
中略﹀立合境之石堀入市支済畢(宝、丞ニ ・三 ・二四 ﹀
登中貫大薮山、家来小八郎預山、彼村甚七郎・甚四郎持山之境目 、少々依有所令紛(
中貫大薮山ハ此山預子当村十次郎﹀ (元禄十二 ・二 ・五)
之故 、年貢五斗之内一斗令減故、三人等述謝礼 、四斗之年貢巳後者不可令相違之証文書之 (
元 禄 九 ご 了二七﹀
日笠助七郎 ・大野助三郎(助七郎妻之継父)・十輪寺法印等来入、助七郎前回(予所持﹀年貢高過分故 、可業恩免之旨 、右両人以法印歎
山辺畑田(二 十苅)数年子長五郎(当邑﹀所令預置、長五郎惣身令疹痛不克産業之勤故、今朝令返故 、難為俄請取畢(元禄五 ・四・二八)
楽回之堤崩口 (当分預人横田村長五郎 、勿論出也 ﹀筑之ハ元禄五 ・三 ・二O)
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無足人家の家来について
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天和二 ・五 ・一一﹀ とあるから長蔵の預地も累代預であったらしい。
なお ﹁横田邑長蔵預之田地之堤 、為修覆杭木 ・竹遣之 ﹂ (
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