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「洛陽伽藍記序」剳記
神田, 喜一郎
東洋史研究 (1947), 9(5-6): 229-252
1947-08-15
http://dx.doi.org/10.14989/145837
Right
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Journal Article
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Kyoto University
ト洛陽伽藍記序﹂別記’
はしがき三則
一フこの桐記は﹁洛陽伽藍記﹂を校談するに際して
いささか備忘のために書き留めておいた曼え書
廿
く・
ト
榊
田
喜
T
清臭若準﹁集澄﹂本︵道光十四年原刻本︶簡
碍’﹁集謄本﹂
ヤ同上︵光緒ニナ九年次創斎刊本︶簡栴冊上特
く
簡孵﹁合校本﹂
。
郎
゛
。
I
’に必要勿る場合の一″﹁呪剣本﹂と孵し前者と叢別す。
民國張宗祚合校本
﹃/'-﹁
\龍路精舎叢書﹂所牧、民國唐晏﹁鈎沈﹂本。
九
I
I
ぐ
簡稀﹁鈎沈本﹂
︿
r1
ノ0
く
’
!”
コ﹁四部叢刊第三編﹂所牧本簡栴﹁四部本﹂
。。
ぐ
︲
j
簡搦﹁周注本﹂
民國周延年注本
・三
j
ぐ
ー
rノ
簡栴﹁大截本﹂
Ξ﹁大正大蔵経﹂所牧本
’
く
一。本文として標出するものは、凡て如露堂本に従
った。
洛陽伽藍記序
−
i
一
︲
`
` ゛
-
71
-
の一部である。
︿
ふ、わたくしの使用した﹁洛陽伽藍記﹂の各本はち
lの!i-=>である。
簡柵﹁逸史本﹂に
ヤ、明如隠堂刊本︵但t原刻本未見ヽ董氏誦碁宝
ぐ
簡栴﹁如隠本﹂
景印本に拡る︶
﹁古今逸史﹂所教本
簡鵜。∼魏本﹂
泰、。
簡‘
搦﹁津逮本﹂
簡稀一﹁學津本﹂
﹁學津討原﹂所牧本
I
− %
﹃
﹁翼意堂三種﹂所牧本簡搦み意本﹂
﹁津逮秘書﹂所牧本
﹁廣漢魏叢書﹂所牧本
(六)(五)(四)j三)ノ(二)
2S9
230
逸史本・漢魏本には﹁洛陽﹂の二字が無く、序の字
洛陽伽藍記五巻バ皿一
右一部五巻。期城郡太守陽街之撰。
とある外、唐の道世0﹁法苑珠林﹂巻一百・傅記篇・
の下に﹁例﹂の一字がある。
この序は全文が隋の費長房の﹁歴代三賓記﹂巻九に
雑集部にも
洛陽伽藍記一部五巻。元魏副都期城郡守楊街之撰
引用せられてゐる。後人が﹁洛且`伽藍記﹂を引用し
とあり。同じく道宣り﹁績高曾傅﹂巻一〇元魏菩提
たものとして、おそらく最古に腿すkIであらうが、
校勘に資する所が斟くたい。また唐の道宣の﹁大唐
流支傅の中にも
期城郡守楊街之撰洛陽伽藍記五巻。
内典録﹂巻四にもこの序文の大要を摘録してゐる
が、同じく參考にたる。猶ほ﹁歴代三賓記﹂や﹁大
とあり。ま次﹁大唐内典録﹂巻四にも
携具四町扁載五巻詔
唐内典録﹂を引用する場合は。特に注記する以外、
凡て大正戴経に櫨つだ。
後魏とは言ふまでもたく元魏を曹魏に對して便1 上
逸史本・漢魏本には魏の字の上に﹁後﹂の字がある。
のとは思はれたい。いつたい楊街之の官歴として古
としてゐるoは、本書の元末の署名に見えてゐたも
とあるから、ここに楊街之0 官街を以て撫軍府司馬
右期箆守揚︵四。︶街之撰
匹別するために、後人のつけた名将である。それを
書に見える所は、この期城郡太守の外に、唐の道宜
魏撫軍府司馬楊街之撰
魏の萄臣次る楊街之が用ゐろ筈はたい。彼れはこの
へ
o﹁廣弘明集﹂巻六・辨惑篇二に
一所﹂に下に
・︲
とあるのと、揚街之自ら本書巻一の﹁果林南有石碑
楊街之。北平人。元魏末鴛秘書監。
序文の中に、魏のことを﹁皇魏﹂と将してゐる位で
よる。逸史本や漢魏本の﹁後﹂の字は明らかに後人
−III
﹁歴代三
の加峯である。然し元来こ0署名の一行は果して本
床かうあつたものかどうか甚だ疑はしい。
賓紀り巻九を見ると
― 72 ―
331
。奉朝請’
三未詳。北史固傅稀有五子。’長休之。。休之傅云弟
祓之・玖俊之・輿街之名字排行頗鳥相近。休之且
長於文學。篤史官。︲有聾営時。則北干陽氏以文學
と言ってゐるの■AJQ4であ﹃る。その撫軍鹿司馬差な
っなといふのは、宋の陳振孫o﹁直斎書録解題﹂倦
’
傅家。已可概見。賢之若果鳥陽姓。其篤休之之弟
及族昆弟。必無疑矣。
八に
洛陽伽藍記五巻︲
とあるのを以て初見とする。陳氏の見た、﹁洛陽伽藍
べ。きであり、また唐の劉知幾0﹁史通﹂泰六補注篇
るまいか。さうすると楊街之0楊は宜しく陽に作る
との新説を提出してゐる。おそらく従ふべきではあ
記﹂には、おそらく今本に見る゜が籾き署名が既忙存
や宋の晃公武の﹁郡棄読書志﹂倦二の﹁洛陽伽藍記﹂
後魏撫軍司馬楊街之撰
在したの、で、それに本づいたのであちうが、古い史
415>”-&’少くとも楊街之が﹁洛陽伽藍記﹂を著した
六・鮮惑篇の本文には陽街之に作ってゐるが、必挙
高麗蔵本に依捷した大正大蔵鰹本o︲﹁廣弘明集﹂泰
の條などに羊’作ってゐ・の帖。同音通川・といへな
時いこの官に在ったものとするには疑問を懐くので
しも偶然とは言へなからう。’︵大正大蔵経第五十二
なったごいふ踪捷は見富
ある。
泰・第ブ二三及び第一二八頁。但し第一二面頁には
料に楊街之が撫軍府司馬
楊街之。委しい’傅記は分らたい。近時周延年は﹁洛
楊に作ってなる。︶’
いことは’いがノ誤であ・Vこいふことになご。褐り
陽伽藍記注﹂り末に﹁楊街之事変考﹂を載せ、そO
狙ほ楊FZが本書を撰した主旨についてバ唐の道宜
らたい。わたくLはこれを否定しようとすらのでは
中に楊街之の出自について
見寺宇壮麗。損費金碧。王公相競。侵漁百姓。乃
は﹁廣弘明集﹂の同じ條に’
北史及魏書。楊氏達者。鱗北平籍。而魏書陽固傅。
翼洛陽伽藍記。言不慎衆庶也。
抑元魏之時。11閥方盛。街之殆亦名家子。プ詳考
固宇敬安。北乎無終人。。有三子。長休之。次詮之・
73
-
212
の記事に熊る≒唐の太史傅突が古来の王臣で佛法
であったと考へてゐたからかと思ふ。﹁廣弘明集﹂
したかといふと、元来道宜は楊街之を以て排佛論者
いやうである。何が故に道宜が斯くの如き言路を弄
序に言ふ所には、何等さういふ意味は現はれてゐな
と説明してゐる。然しこれは疑はしい。楊街之が自
を載せ、そこに
之が達磨に西天五印の師承・岨道を質した問答0語
本づくもので。同書巻三の菩提達磨傅の中に、楊衡
であったといふのは、宋の道原の﹁景徳傅燈録﹂に
れたものであるAJす答誕がある。楊街之が崇佛論者
って﹁洛陽伽藍記﹂も佛斡を宣揚するために著はさ
全く反對に、楊街之を以て崇佛論者であるとし、従
とありi>4た楊街之その人お言葉として畢げてゐる
有期城太守楊街之。早慕佛乗。
を拍膀した者二十五人の名を挙げて﹁高識傅﹂一軟
いふ。さうして道宣は更に楊街之が佛教o虚誕を述
一節にも
十巻を作った中に、楊街之の名が列せられてゐたと
べた上書を引用してゐるのであるが、果して楊街之
ではあるまいか。近人余嘉錫なども、そ9﹁四庫提
主旨から著はされたものとするのは、いささか曲解
考へ紅y。従っ7道宜の如くこの書を以’w排佛の
見た所では、寧ろ佛駄に好意をもってゐたらしくも
ないのでょくは分らたい。﹁洛陽伽藍記﹂を通じて
附會虚構したもの。で、。固り信するに足らぬ妄誕であ
’街之が西域o沙門菩提達磨に’會ったといふ記事を9
来これは﹁洛陽伽藍記﹂巻一永寧寺の條に、偶々楊
恂の践などIではこれを信じてゐヽるやうであるが、元
は篤信の佛教徒とたる・誕剣本﹁集詮﹂に見える李芦
とも見えてゐるIこの記事を信挙るな占ば、楊梅之
弟子鄭心三賓。、亦有年矣。
要辨澄﹂の﹁洛陽伽藍記﹂a條町いろいろ楊梅之
I
r
一
﹃ j
の事蹟を考誼して、道宣の脆に従ってゐ藻が、わた
る。況んや﹁洛陽伽藍記﹂をば佛教を宣揚するため
がそれ程の排佛論者で。あったかどうかは他に徴誼が
ぐし0 濾に左楓しかねる所である。それからまたか
に。著したといぶ芦如きぐ前0佛齢を陶膀するために
こしてゐるところから、後世達磨の傅記を書く者が
ういふ道宣のtつu脆のある一方に於てJそれとは
74
に著したといふ茂ど共に、万決し7著嗜の意t塵た私∼
十六。E國史部︼。ご・採撰第二に
︿
及び﹁唐書﹂’齢文志に著録せられてゐる・が、それに
楊術之撰洛陽伽藍記五倦・廟記一巻
i kr
﹄″
を著した1 恚ヽ串直忙彼れ自ら序文に陳べIなる﹃
︱
i F %♂
−
所紅共催信挙べきで、往時繁華を極めた洛陽の荒慶
ば著者め名か記るされてゐtや
ので雌奮いと息ふ。要するに楊梅之が﹁洛陽伽藍記﹂
し・た惨状を羞しく貝撃し7、轄た懐奮の情鈴廓べ
の唐であるか否かは分らないし、畦。た固り現存して
郊・梁天監二十八年庚申の條に
、それから獅喋一つ元の念常の﹁佛組歴代通載﹂春
と見えてゐるブ﹃廟記﹄’といふ書伎﹁隋書﹂屁謄志
I
I■
%I
丈六逡に本書を著’1 たと5 4に過ぎ・ly-Rらう・≒四
をらない。
“
庫全書提要﹂しなどもさう輯てゐる。近人唐晏が`﹁洛‘
陽伽藍記鈎沈﹂の序に。更に委しぺ茂明して
ソ
︲佛咀傅法偶。按倆門太守楊貨之銘系記云。﹂石弓
嵯乎匍之良史才笥に彼蓋身丁元魏之季。見夫胡后
貪糧。慶長立少。諸王雛篆。縦欲1 矯。大臣無元
として、楊街之の∼﹁銘系記﹂といふ書を引用してゐ
街之に仮託して作ちれた偶書であ’つて、ご決してこんJ
J
良之佐。。宦寺逼城此之威。文士優柔。武夫欧尨。
健夫喩轄考行。元折遷鄭・元氏之局告経パ励海之
な著書が楊町之にあづたなはtい・常盤大定募士
1
−I
る。然しこれも楊恥ごと達磨との関係から、後世楊
基方肇ノ而貴之叉所匯晰。黍離之悲。無丿可寄慨。
ぽ宋の貧嵩の﹁正宗麻﹂の中に引用せら心てゐる﹁各
4以醸成河1 之鵬。故此書於爾朱之胤。三数意焉。
乃於洛陽伽・藍記託其懐奮之思焉。豊薦篤彼歌之助
て示寂したとあるか今少ぐともこの登晋詑宋フノ
希七に凛る大奥嵩は宋o煕寧五年把年六十六を以
︵﹁驚彗聡釜品`﹂発陳答﹁琵筆sヤ
。に契嵩0時代に存在したことを指摘せ’られてゐるが
’系記﹂をnて﹁銘系記七と同IQ書と考へ、その既゛
<
ヂプ。
と言つてゐるのは’正しい見解である。
因忙楊梅之の著書には﹁洛腸伽藍記﹂の外に
廟記一﹃聾コ
﹄や∼■MSふ■7S>のが吻つたらしい。﹁冊府元亀﹂巻£百五−
-
7!S
-
傅に、達磨が楊街之に會った場所を萬門の三聖寺と
聞かたい。意ふに﹁景徳傅燈録﹂巻三の菩提達磨の
らたい筈であるが、古来そんな郡の存在ひだことを
る。太守といふからには、倶門は郡名でなければな
を掲門太守などとしたの帖何等根捷の無いことであ
中葉に既に作られてゐたごととたる。楊街之の官衝
叢書何鐘4 。並作人。﹂
ある。猶は集謐本は、その校記に﹁宸。毛斧季本・
てゐる所に深い意味があるも0声感ぜられるからで
と對してゐて、そp﹁天﹂と﹁人﹂と。の二字が對し
あらうと思ふ。こ0一句は﹁義蒙天外﹂といふ下旬
またそれに従ってゐるが、おそらく集鐙本の妄改で
集澄本に﹁人﹂の字を改めて﹁宸﹂に作り・鈎沈本
と稀してゐる。いっIたい集
してゐる。この地名も寺名も虚構に出たものであ
復旁及于御覧・廣記・
と言ってゐるのに披ると、大鼓は’
堂本。所參考者何氏・モ氏本
澄本の本文は、そ0朱紫貴0序に﹁大略所櫨者如隠
j
るが、それから附9 して楊街之を萬門の太守とした
rであらう。
法苑珠林所引。﹂
如隠本に依捺したと見るべきで、これといまの校記
忙言ふ所とを併せ考へる﹃恰も如隠本には﹁宸﹂
に作ってあるが如くに解せられるのであるが、賓は
-
76
-
三墳五典之誕
各本いづれも同じであるが、唯だ﹁歴代三賓紀﹂O
高麗蔵本だけには﹁脆﹂の字が﹁記﹂に作ってある。
’
さうではなく、わたくしの參照した限り﹁賓﹂に作
九流百代之言
各本いづれも同じであるが、﹁歴代三賓紀﹂及び﹁大
るのは集誼本を以て最初とする。
而義殼天外
唐内典録﹂肥は﹁代﹂の字を﹁氏﹂に作ってゐ名。
意味の上から考へて’宜しべ従ふべきである。﹁代﹂
﹁外﹂の宇を集澄本には﹁下﹂に作ってゐる。これも
集誼本り妄改に相違たい。その他比各本いづれも同
の宇では通じたい。いはゆる諸子百家のことを百氏
といふ例は_v.夙O'﹁漢書﹂の斂傅などにも見えてゐ
ビであるが、﹁粂﹂の字を﹁歴代三賓紀﹂には﹁無﹂
に作少、﹁大唐内典録﹂。には﹁非﹂に作ってゐる。
’る。’
並理人匹
Z;4
特鯵
ことの一文意を察すると、楊街之ぱ儒教を抑︿で佛教・
︱揚げよヶセして<<3沸q;であるから、わだくしは﹁歴
代三賓紀﹂ぶト﹁大膚丹典軋トの本文の方が正しい?
で壮あ名まい`’と思ふ。’﹁無﹂叫しても﹃非﹄’にし
て'^’要ずるにぐこの句は、儒教では民生彝倫︲の理
苔言iぷまjべjy卜なI
少でざる。プここに一束といふのは、即ち﹁法華
`ど。叱脆かれてゐ名所の、一切の衆生は皆佛性を
I
具べてが。る故に∼影阪。・縁膏馴倶に菩薩と旦い。0 1 果に到り稗るといふ、いばゆる﹁唯有一宗﹂の教理
斟指すご一諦といふ・のは、即ち﹃成賞論﹄に世俗阪︲
第一義諦0二義を立てで諸法皆空を箇く思想であ
る。
三明六通之旨
﹁三明六通﹂‘を﹁歴代三賓紀﹂及び﹁大唐内典録﹂に
雌﹁六通三逡﹂。に作ってゐる。三明と三達とは、佛
家の脆に攘ると大観同じことらしい。織田得能師O
I
−
︷
﹁佛教大辞典﹂の﹁三達﹂の條に
三達。羅漢に在て三明と云ふを佛に在て三達を云
ふ・‘。天眼’宿命’漏轟なり。天眼は未来の生死因
果を知り。宿命は過去の生死因果乞知り、漏轟は
現在の煩悩を知りて之を断壷す。之を知ること明
らかなるを明と云ひ、之を窮轟するを達と云ふ。
とあり、典櫨として﹁大乗覆章﹂二十本及’び﹁大部
一
ふ
補註﹂入を引いてゐる。従ってコニ明六通﹂を﹁六
通三達﹂に作っても、意味の上にはさうたいした相
違はない抄けであるが、文章o上からいふと、言一明
六郷の﹁朋﹂及び﹁通﹂の字がいづれも平誓である
∼
I
-
t庶ぐばかs>。で。天外o義ヅ即ち佛教で読く三界二
’
−
一
壽、
十天Q如含天上の問題には説き及ばない、∼といふ意
車ごとしH奪建れだ。その事変は塚本善隆氏り
てこc研二ば華什二時J
やIにトo究れ‘一系代
房れたる佛教﹂の︼淮に詳しく論設やられtゐ
﹃支無佛教史研究・飢魏篇﹄め中バ特に﹁北魏石
脆る
る佛・しは特り
j熹
・佛教7
れと教史奪ソ法白羅,た・
・77
味。に解曹られる。各本0 ﹁象﹂の字はいその異観を
一
4ゝゝ t一
/
﹁兼﹂に作るところから、無の字を書音誤つ尭もの
であちう。
ヤ果[一諦之原
仮から特に羅什系統の大乗佛散が柴えた。さう
≒を
り二現……]斤ノ中丿j`鍍し係jl
,。楊・,
ξ¨で「/れじ家ノ心レ典\かヽ肯ぐ
柘・畜た那,と,で回ら之,
罷奔では﹁法華﹂・、﹃維摩﹄。朧部では﹁放賓﹂な・
n拡づ出I
﹃原﹄め学を﹁大唐丙典録﹂には﹁源﹂に作つてゐ
″j
¥t、r − ︱
t・︼柵脊之の。出た玲代か洛陽では、その1 史的地理
フ笹……sフ:羞)゜J万1
236
作った方が盤調がよい。然しI.歴代三賓紀﹂や﹁大
から、三明の﹁明﹂の字を入魯である﹁達﹂0字に
である。脆話の出典としては、﹁四十二章紅﹂の序・
と傅へられてゐる所から、﹁項目感夢﹂と言ったの
の明帝0夢に見た金人には、項に日光が耀いてみた
ってゐるも0もあるが、いま問題とする﹁洛陽伽藍
この﹁項有日光﹂の句は、他書に﹁頂有日光﹂に作
蘭※石室。
陽門上頴節陵所。圖佛立像。並四十二章郷。絨於
寺。書壁千乗萬騎喘塔三匝。叉於南宮清涼崔及高
竺。乃造使往来。備獲経像及俯二人。帝乃焉立佛
有日光。憲。己問諸臣下。傅毅對詔。有佛出於天
傅云。明帝永平十三年。上夢榊人。金身丈六。項
を引いておく。
﹁廣弘明集﹂巻一に載せてある﹁漢法本内傅﹂の文
巻第壹我所載︶等の諸論文がある。ここには便宜上
大定博士め﹁漢明求法脆0研究﹂︵﹁東洋學報﹂第拾
d'Extr&me-Orient." tome. X. 1910.︶
や、我が常盤
ssade de l'empereur Ming. ︵Bull。 de l'Ecole frans.
佛蘭西0H. Maspero教授0”Le songe et l'amba-
法本内傅﹂等頗る多く、それを専ら研究したも0に
﹁牟子理惑論﹂・﹁化胡経ト・﹁後漢紀﹂・﹁魏書﹂・﹁漢
唐内典録﹂の如く﹁六通三達之旨﹂に作るのは、上
句0﹁一乗二諦之原﹂に對してどうであらうか。前
の﹁三墳五典之読。九流百氏之言。﹂といふ對句か
らいふと。ここは﹁三達六通之旨﹂に作りたい所で
ある。
−因に三明六通といふことは、常時0佛敦界ではいろ
いろ問題とせられたも0と見え、後趙0佛圖澄の門
下に出た名偕竺法汰が﹁六通三明関節。正異名耳。﹂
。と解憚し穴ことが、わざわざ﹁世論新語﹂の文學篇
’に一條として畢げてある。
自頂日感夢
﹁頂﹂0宇をヽ﹁歴代三賓紀﹂には﹁頃﹂に作ってね。る
が、固り誤であご・﹁大唐内典録﹂には﹁項﹂に作
ってゐる。これが正しい。各本いづれも﹁頂﹂に作
ってゐるが、わたくしは誤であると思ふ。いふまで
もなくこの旬は、後漢の明帝が夢に金人壹見て、始
めて佛陀の教の存在を痴p、印度に使を泣して法を
求めしめたとしふ名高い論話に本づいたもので、そ
-
78
I
記﹂の﹁頂狂感夢﹂心﹁頂﹂の宇と共に同じぐ誤で
I I■
S
♂
ある。何故たらば、明帝が夢に金人を見たといふO
は、おそらぐ拵書や離刻に頴一不せられた頭光背嗜具
Ij1
`
つた、のでありう・前記0Masp6ro歌授め論文には。
漢明求法脆を載せた古書に﹁項有日光﹂と﹁頂有呼光﹂
との二っの異文のあることを指摘﹂、いづれが正し
いか判定し難いと言ってゐる0に對し、。佛蘭西Q
p. Pelliot教授は﹁牟子理惑論﹂の謀、’即ち”Meou-
一想して生じた聡j
した所の憚尊の像を猿
話に相違たい
からである。現に﹁洛陽伽藍記﹂巻四に見える白馬
Tseu ou Doutes levfes”︵。'T'0ung Pa0≒'vol. 19. 19
20. Q注二九八− p. p.-^5-386.︶に於て、わたくし’
とは全く根櫨を異にするけれども、やはり﹁項有りJ
光﹂0正し5>^Jとを主張し、てゐる。
れた憚尊の傅記ともいふべき後漢の竺大力・康孟群
1
寺の條に、︲楊街之自ら漢明求法の傅脆をIべて
‘帝夢金人。長丈六。噴背日月光明。︲
と記してゐる。項背とあるからには、その意極りて
明瞭で、営然﹁項有日光﹂でなければたらたい筈で
海月流光
憚尊はその身に三十二相・八十種好といふ特殊な徴
妙の相貌を臭へてゐたと傅へられる。その名目にっ
いては、海種の経論によっていろいろ所脆を異にす・
共謀0う修行本起経︸を見。ると、そ0岩上・・菩薩降
るが、それはともかくとし﹃漢土で最も早く詳さ︷
日光﹂ではあり得ないと思ふ。尤も﹁頂有日光﹂と
身品に、悉途太子の誕生した時、香山の道士阿夷と
︲’
‘’︱
/
いふのも、全然佛典に根捷0無いことではない。蕭
゛
79−
-
ある。その他唐の慧琳0﹁一切経音義﹂省八十五の
﹁煌正論﹂省三の音義にも
’・
漢明帝感夢見佛。項後有日光。飛行殿庭o佛榊カ
ヒ也・、。ゝ
4
斉0曇摩伽陀耶の譚した﹁無量義経﹂には、明らか
いふ仙人が、太子を相して作ったといふ儡を載せて
とあゑ項背と’いひ、項後込ある以上、到底﹁頂有
にこれを憚尊の三十二相の第九に阜げてゐる。さう
。髪色紺玩璃。欲度一切故。是以法隆
ゐる中忙’
頂特生肉檻■<*
いふ所から雨者0間に混雑を生じた上に、﹁項﹂と
’﹁頂﹂とは字形が近似してゐ名0で、一塩に後世間違
j37
238
’如明珠。
盛。面光如満月。色像花初開。是以眉間毫。白浮
を八十種好0中に散へ、その第四十に
び同経0憚諭たる﹁大智度諭﹂巻八十八には、これ
面澄満如月
と言つてをり、また唐の玄奘の詳した﹁大般若経﹂
といふ一段がある。また同経巻下・出家品に、魔王
が稼尊を襲はうとして却て退散せしめられた時に作
巻三百八十一にたると、これを三十二相0中に散へ、
その第五十七に
と言ふのみならす、更に八十隨好0中’にも数へてノ
世尊面輪。其猶海月。眉相鮫浄。如天帝弓。
そ0第三十に
ったといふ偶を載せてゐるが。その中にも憚奪を讃
’嘆して
面如海月色従容。名聞十方徳如山。
とある。これと同じやう互ことは呉0支謙の鐸した
世尊面輪。修廣得所。咬潔光耀。如秋満月。
﹁太子瑞鹿本起経﹂省上や酉晋0竺法護0謙した﹁普
逸見梅柴博士が廣く各種の経典に見えた三十二相の
と言つてゐる。但しこれ童二十二相に数へた0は。
れた所である。ここに﹁満月流光﹂と言ったのは、
名目を一覧表に作られたも0︵﹁印度に於ける破秤
曜経﹂省六などにも見えてゐて、憚尊の面が浦月の
全くこれに本づく。楊街之と殆ど時代を同じうした
像の形式研究﹂所載︶に挨ると、唯だ一つ﹁大般若
如くであった。といふことは、夙くから漢土に傅へら
北魏0文豪温子昇が本書巻四に見戈る洛陽0名刹大
経0あるばかりのやうである。
﹁豪﹂0字を逸史本・流魏本・合校本及び﹁歴代三賓
陽門飾豪眉之像
受寺のために撰Lyた碑文︵﹁蔀文類聚﹂熹咤十七︶の中
にも﹁顔如満月。心若盈泉。﹂の句があるし、梁O
簡文帝0揮迦文佛像銘︵﹁芸文類聚﹂省七十七︶に
る。かういふ毫毛0意味に用ゐる場合ノ
紀﹂・﹁大唐内典録﹂には。いづれも﹁毫﹂に作つてゐ
用例がある。因にこ0憚奪の面のことは、姚秦の鳩
は﹁毫﹂に作る?
﹁満月篤面。青蓮在眸。﹂とあるなど、常時0文學に
摩羅什の譚した﹁摩詞般若経﹂倦二十四・四築品及
80
S39
迦像記︵﹁金石葦編﹂省二十六所載︶に﹁求豪光東照
非是。﹂と注してゐる。北魏の魏庭蔵藤法紹等造憚
﹁茂文﹂の﹁濠﹂の字の條に、宋の徐鉉当今俗別作毫。
蝉字であっミ賞咤豪﹂に作るのがEしいのである・
像を書いたといふ程の意味に解すべきであらう。
門に特に白豪相を雀いたといふ0ではたく、ヽ旱に佛
致して傅へる所であ﹃る。然しここでは必ずしも開陽
く、・古来い轜ゆる三十二相を箆く各縫術の斉しく一
も斟くたい。ら歴代三賓紀﹂も大正蔵本の校記に挨
あるなど、常時﹁豪﹂の字を毫毛の意味に用ゐだ例
陽寺碑︵﹁金石翠編﹂巻三十所載︶に︻預拾︼豪﹂と
之資﹂谷おりご果魏の天平二年に建てられた中岳嵩
いづれも﹁夜壱﹂に作ってゐるとある。
で、大正蔵本の校記に姉ると、宋・元・明0各本は
但しこれは大正蔵本の依誉した高麗蔵本の一本文だけ
﹁夜盗﹂を﹁大唐内典録﹂には﹁涼盗﹂に作ってゐKl
夜喜圖紺髪之形
は後に委しい記事がある。但し﹁漢法本内傅﹂に高
陽門は洛陽0開陽門のことである。この門について
法本内傅﹂0一節を見れば、自ら明瞭になると思ふ。
あって。明帝が生前これを替んで、そこに佛像を重
の事賓を言ったのである。頴節陵は明帝自身の陵で
佛像を書いたことが見えてゐるが、この句は即ちそ
る。前引り﹁漢法本内傅﹂に後漢の明帝が頴飾陵に
士
ると、正倉院聖語蔵尊蔽の古妙本には﹁豪﹂に作っ
夜壷は長夜盗の略で、即ち墳墓のことである。魏の
ノ
てあるとある。
阿珊の七哀詩に﹁冥冥九泉室。漫漫長夜豪。﹂とあ
コ
この句の意味は﹁頂日感夢﹂0條に引いておいた﹁流
陽門とある﹁高﹂の字は﹁開﹂の誤である。﹁牟子
いたことは、﹁牟子理惑論﹂にも
明帝存時︲。預修壽陵。陵日炭節。亦於其上作佛圖
理惑論﹂には正しく開陽城門とある。豪眉の像とい
ふ0は、祥奪の白豪相0ことである。憚奪の雨眉の
と委しく記るされてゐる所である。﹁大唐内典録﹂
像。
行本起経﹂の偶に﹁是以眉間毫。向浄如明珠。﹂と
に涼盗に作ってゐるのは、﹁漢法本内傅﹂に明帝が
間忙は向い細毛があ’つたといふ。これは前引の﹁修
あるのを見ても分るが、憚尊の特異り相として名高
-
81
-
240
︲
清涼喜にも佛像を重い。たことを傅へ・てゐる0で、そ
王侯貴臣棄象馬如脱展
る。
﹁晟﹂の字を逸史本・漢魏本には﹁履﹂に作つてゐ
紺誕の形といふ0は、これ亦だ佛像のことである。
象馬を棄てるといふのは、須大奪太子の本生譚に本
れを用ゐたっである。
鐸付の頭髪ぼ紺色をしてゐたといふ。これも前引O
性仁慈にして布施を好み、自國第一の窟と 6て父王
づいたものである。葉婆國に生れた須大卒太子は、
て知れるが、やはり排尊0特異0相として、古米こ
の愛重する白象を敵國o王に施輿したために、父王
﹁修行本起紅﹂0偶に﹁髪色紺琉璃﹂とあるのに蛙つ
れをいはゆ二二十二相若しくぱ八十種好0一に数へ
の怒にふれ、妃及び二見と共に檀特山に遠論せられ
及び妃までも施輿してしまふ。然し太子はこo布施
てゐる経典もある。﹁太子瑞態本起経﹂巻上を見ると、
あるから、漢土で夙くこの経o諒された三國時代か
行o徳によって、やがて故國に迎へられて王位にっ
る。その道中、太子はまた自分o乗る車馬を始め、
ら、︲少くとも紺髪が白毫と相拉んで三十二相0一と
く。これが拶奪の前生であるといふoである。こO
悉達太子0誕生を述べた條に﹁披盛相太子。見有三
して知られてゐたことは確かである。然しここも頴
本生譚は、夙く臭の康偕會が﹁六度集経﹂省二の中
身に挑へる一切の財賞を施輿しっくし、途には二兄
節陵に特に紺髪の相を書いたといふのではなく、前
に梗概を詳し、ぞの後また西奏の聖堅が﹁太子須大
十二相。﹂として、そこに﹁其髪紺青。眉間白毫。﹂と
の白毫相と同じく草に佛像を書いたといふ程の意味
挙経﹂を詳したので、漢土では一般によく知られて
陽餌にもその圖を刻した東魏映武定元年の造像碑が
洞にもそ0圖を刻したもoがあるし、洛陽に近い泌
残ってゐる。例へば北魏芸術の精華龍門石窟o賓陽
ゐたと見えて、これを石刻にあらはした遺物なども
に解すべきである。
法救愈盛
﹁愈﹂の字を逸史本・流魏本・肩意本・集謐本・鈎沈本・
合校本・周注本及び﹁大唐内典録﹂にはいダれも
﹁途﹂に作り、﹁歴代三賓紀には﹁踏﹂に作つてゐる。
-
82
-
241
物をわけもたく簡単に棄て去ってしまふことに喩へ
況脱といふのは履を況ぎすてる意味であるが、凡て
撃太子0本生譚に本づいたち0である。
無悋。衣襄是拾。﹂とあるが如きも、全くこの須大
五張寺経蔵碑﹂︵﹁慶子山集﹂巻十三所載︶・に﹁象馬
︼八四・一八五頁參照︶北周の良信の﹁映州弘農郡
ある。︵水野・長廣二氏o’﹁龍門石窟o研究﹂廓エサ
邑第舎。略篤寺矣。﹂とある。
旨陰之酷。朝士死者。其家多捨居宅。以施俯尼。京
る。﹁魏書﹂の祥老志を見ると︰
5はゆる河陰0役以後はプ珊甚しくなったやうであ
に貧都して以来盛に行はれた所で、殊に武泰元年O
賓塔1 羅。﹂とあるが、かういふ事変は元魏の洛陽
若遺跡。﹂・の後に、直ぐ語をついで﹁於是招提櫛比。
猶ほこの﹁王侯貴臣棄象馬如脆展。庶士豪家榜資財
憚尊が舎衛國の祇園精舎に移られた翌年、天上に更
﹁天下喪既。加以
て用ゐる。﹁斟海﹂の﹁脱胎﹂の條に
圃耳。按諦履也。如況圃者。言其至軽易也。漢書
生した生母摩耶夫人0 ために切利天に上って論法せ
争寫天上之姿
郊祀志作況脱。字久作脱誤。淮南子主術。尭雄天
られた不在中に、篤信0嘴賞味國0優填王が造らし
史記封祚書。嵯乎吾誠得如黄帝。吾硯去妻子如況
下而傅之舜、猶郁行而腕誤也。注。言其易也。
像と稀してゐる・ 0こ9像0ことは﹁塘一阿含経﹂第
めたといふ憚尊の像がある。これを一般には優填王
庶士豪家捨資材若遺跡
二・﹁観佛三昧経﹂第六・﹁大方便佛報恩経﹂第三・
とある0は、最も要領を得た解憚である。
﹁庶士﹂を鈎沈本・周注本には﹁士庶﹂に倒してゐる。
いことに喩へて用ゐる。古詩十九首の中0﹁明月咬
意味で、これまた物をわけもなく棄てて気にとめな
られ、南北朝時代に盛に傅寫し造訓せられた事変を
’の優填王像に由来する憚尊像が。漢土に夙く将来せ
は﹁支那佛散史研究・北魏篇﹂の第三八四頁に、こ
﹁大乗途像功徳経﹂巻上に見えてゐる。塚本善隆氏
夜光﹂の一首に﹁不念捌手好。棄我如遺跡。﹂とあ
考誼せられてゐるが、ここに天︲上之姿といふのも、
遺跡といふ0は、自分の歩んだ足跡を忘れてしまふ
’
る。、
﹃
8 一
j41
即ちその像のことであらうと思ふ。
競摸山中之影
﹁摸﹂の字を逸史本・漢魏木・集誼本・合校本には﹁模﹂
いた沓0ことである。いづれが正しいかは判定に苦
しむが、わたくしはどちらかといへば雲沓に作るO
を可としたい。文王0盛毫については、誰も周知の
山中之影とは、憚璋が摩帽提國に入り、伽関山の苦
ってゐる。
ては、そ0名が既に雲ををかすといふ意味をもつて
いといふ残念を引き鳶こさたい。然るに雲沓につい
いふことを聯想する0が普通0・常識で、必寸しも高
﹁孟子﹂にも見える通り、文王が民と偕に察んだと
行林中で、六年0間、端坐思惟、苦行を修せられた
ゐて、直ぐに高いといふ考をおこす。﹁淮南子﹂O
に作り、鈎沈本及び﹁歴代三賓紀﹂には﹁−幕﹂に作
常時の有様を雀いた像であらうと思・ふ。印度のガン
倣面訓に﹁雲沓之高。堕奢折脊倅騎。﹂とあり、そ
の高誘の注に﹁嶺高際雲。故日雪沓。﹂と茂明して
ダー・フの遺物にもさういふ離像が焚ってゐる。
昭提櫛比
霊いた所の雲毫も、かういふ意味で名づけられたも
用ゐたも0と想はれるが、後波0明帝が功臣の像を
ある。こ0﹁淮南子﹂の雪壷は軍に普通名詞として
も﹁招﹂に作ってゐる。﹁比﹂0字を﹁大唐内典録﹂
がに相違ない。わたくしの雲毫を可とする所以であ
﹁昭﹂0字は明らかに﹁招﹂の誤である。各本いづれ
には誤って﹁批﹂に作ってゐるが、それは大正蔵本
がある。然しい全問題とする所の墜盗を以てこれに
趾雖鎖。摘高五丈除。即是漢武帝所立者。﹂との記事
因に本書巻三の大統寺の條に﹁寺東有峯盗一所。基
一如き軍たる普通名詞としては受取れないと思ふ。
偶になつてゐるので、これを﹁淮南子﹂に見えるが
る。撒ほこ0雲憲は、いまの場合、後句の阿房と對
の依櫨した高麗蔵本の本文だけで、宋・元・明の各
本は﹁比﹂に作づ・てゐる。
金刹輿重蔓比高
各本いづれも同じであるが、唯だ﹁歴代三賓紀﹂に
は﹁重盗﹂を﹁雲壷﹂に作ってゐる。重盗といへば
周0文王の作った盗のことであり、雪沓といへば後
湊の明帝が永乎年間に中興の功臣二十八将の像を書
S4
-
24jヽ
って。さI解しては。ここ0・文章が全く無意味とか’
陽各寺o塔に’は、この婁壷よりも畢に高いものがI雀
雷てることは出来ない。、j本書に記載せられてゐる洛
た≒以前廳篤佛殿。後堂燧講堂。﹂といふ記事があ
であらうと考へる。本書巻一の建中寺の條にはバま
たくし轜講堂と言ふべき所をわざと講殿と言ったり
房の字とが轟顔とたって、却て誓調。がよくないツわ
る。普通には講堂といふのか例ではあるべ必寸し
4からである。
廣殿共阿房等壮
`もそれに拘はらないことを見るべきである。尤もこ
こも逸史本・汝魏本には講堂に作ってあるが、やは
﹁廣殿﹂を逸史本・浚魏本・員意本・集謄本・鈎沈本・
周注本に怯いづれも﹁宮殿﹂に作り、また﹁歴代
豊直木衣梯繍土被朱紫而己費
り後人のさかしらに出るものと思ふ。
と對して佛寺のことを言ってゐるのであるか心、宮
﹁木衣緑繍被朱紫﹂0八字は、後湊0張衡の西京賦
三賓紀﹂にぱ﹁講1 ﹂忙作ってゐる・ここでは金刹
鮭では少し浮乏に過ぎるし、廣殿でも特に佛教とは
るのを、僅に一字だけ﹁錦﹂0字に易へるに﹁繍﹂
︵﹁文選﹂巻二所載︶に﹁木衣練錦。土被朱紫。﹂とあ
れる。さうすると講殿といふことになるが、わたく
0字を以てし、殆ど其俊踏襲したのである。
開係0あ・る字面ではないので、果してどうかと思は
しはとれを講堂のこと・AJ解し。﹁歴代三賓紀﹂の本
と言ったのは、阿房の房の字に對する聾調上の開係
紀﹂ら叙記に捷ると。﹁徒﹂の字が正倉院聖語蔵尊
各本いづれも同じである。が、大正蔵本の﹁歴代三賓
亦輿時徒
であらう。獅嘔本書巻一〇瑶光寺の條に﹁講殿尼房。
戴0古紗本には﹁従﹂に作ってあるといふ。
文に従ひたいと思ふ。その講堂と言はすして、講殿
五百診聞。﹂とある。尤もこ0﹁講殿﹂は如隠本を
各本いづれも同じであるが、唯だ﹁歴代三賓紀﹂に
至武定五年歳在丁卯・
殿﹂に作る0がよやのではないかと思ふ。如隠本を
は﹁至武定元年中﹂に作ってゐ’る。おそらく誤であ
除く各本には﹁講堂﹂に作ってあるが、ここも﹁講
除く各本0如く﹁講堂尼房﹂に作っては、堂の字と
-
85
-
代三官紀﹂に従って﹁農夫耕老﹂に作るのを可とし
の﹁遊兄牧竪﹂に偶對する黙から考へて、ここは﹁歴
城郭面毀。宮室傾覆。寺親友辿。廊塔丘墟。結被同友。
たい。
黍離之悲
巷羅荊煉。
各本いづれも同じであるが、この六旬を﹁歴代三賓
各本いづれも同じであるが、﹁悲﹂の字を﹁塵代三
賓紀﹂には﹁哀﹂に作ってゐる。
れも﹁闘﹂に作ってゐる。清の羅振玉の﹁限學偶得﹂
この﹁開﹂の字は如隠本津逮本を除く外。各本いづ
に作ってゐる。﹁大唐内典録﹂は内の下に﹁外﹂0字
紀﹂には﹁内外﹂に作り、﹁大唐内典録﹂には﹁内﹂
各本いづれも同じであるが、﹁表裏﹂を﹁歴代三賓
’
紀﹂には縮めて﹁結字傾毀。荊煉波林。﹂の二旬に
作ってゐる。
に﹁大戴鵬保傅。過関則下。補注目。即闘字。敢氏
を脱落したのであらう。
京城表裏凡有一千診寺
元照曰。字書不見闘字。疑閲乏認。玉案。五音篇海。
賞讃出来る。
を調べると、羅氏の言ふ所の正しいことが、直ぐに
てゐる﹁龍門石刻録異学表﹂によって閥の字0異殼
水野・長廣二氏の﹁龍門石窟の研究﹂に附載せられ
この字が間0異曼であることが明らかである。猶ほ
聖頌。囲字作間。間叉闘之鱈。﹂とあるのに櫨ると、
作ってゐるといふ。これは﹁寥﹂の字の形を誤った
記に韻る﹃正倉院聖語戴尊蔵の古砂本には﹁寒﹂に
な。いやうであ石。因に大正蔵本﹁歴代三賓紀﹂の校
た例はあるが、この本文の如く寮廓に作づた例は見
音であるの、で誤ったのであらう。寥廓を遼廓に作っ
づれも﹁寥﹂に作ってゐる。﹁寮﹂の字は﹁寥﹂と同
この﹁寮﹂の字は如腿本・津逮本を除く外、各本い
今日寮廓
その他の字は各本いづれも同じであるが、﹁稼﹂の
もoに相違ない。
問即閥字。此補注所本。巌氏云不見字書誤也。唐述
字を﹁歴代三賓紀﹂には﹁老﹂に作ってゐる。上旬
86
-
農夫冊稼語於黍雙闘
744
`。
鍾馨寧聞
﹁鍾﹂0 字を各本いづれも﹁鐘﹂に作ってゐる。
寺数最多。
各本いづれも同じであるが、。﹁最﹂0字を﹁歴代三
賓紀﹂には﹁衆﹂に作ってゐる。﹁最﹂も﹃衆﹄見、
﹁馬﹂。の字o下に、一1 史本・`漢魏本I薦意本には、い
づれ毛﹃異﹄、の字があ。る。また﹁歴代三食紀﹂。には
︹詳︺を﹁祚﹂に作犬且つ﹁諦﹂が字の下に﹁俗﹂
・
0字が嘉る○
。。
‘ ’
。 J
この句は如隠本0ままでは意味が通じない。わたく
しは﹁歴代三賓紀﹂に引く所の本文、即ち﹁取其祚
HJ5ふ意味で、との場
ものが多くあっまってtQK?’
を脱した0であって、それでも意味は通じな、いこと
らうと思ふ。逸史本・湊魏本などは、そ0﹁俗﹂の字
異世諦俗事﹂といふ0が■*そらく楊街之の原文であ‘
4
詰篇に﹁最叢也﹂とあるが、この叢が聚0’義である
る。猶は﹁祚異﹂は﹁詳異﹂に作っても同じことで
たので、鐙に意味が通じたくたってしまった0であ
−
合﹁最﹂の字をもっともといふ副詞に解すべきでは
ない。最0字には﹁聚也﹂とsふ訓がある。﹁公羊
ち
傅﹂の喧公元年の條に﹁會獅最也トとあり、そ0何
ことは。﹁小爾雅﹂0注憚書、例へば清の王勲0﹁小
ある。﹁詳﹂と﹁祚LHJは古来相通じて用ゐられた
はたい。如隠本は更に’﹁異﹂0字をも脆してしまっ
爾雅疏﹂などを見ればい幾多0例謐を挙げて論明し
字で、古書にいくらも例がある。﹁左傅﹂の琥公十
休の解詰に﹁最聚也にとある。また﹁小爾雅﹂の廣、
てゐる所である。従って﹁最多﹂といふ0は、﹁衆
六年0條肥﹁徳刑詳義確信戦之器也﹂とあるが、唐
賓紀﹂’には﹁注﹂に作ってゐ名。とこの文を﹁大唐
各本いづれも同じであるが、﹁著﹂0字を﹁歴代三
余才非著述
してゐる。
の孔頴達は﹁正義﹂に﹁詳者祚也。古字回耳。﹂と憚
多﹂といふのと全く同じ意味0熟語である。
上大伽藍
との﹁上﹂0字は如隠本・津逮本を除ぐ外、各本い
づれも﹁止﹂に作ってゐる。文意から察して﹁上﹂
の字は誤である。
取其詳世諦事
-
87
-
y
内典録﹂には睡括して﹁並選摘祚異以注錨云﹂とし
てゐるが、それでは原文に﹁余才非著述﹂とあるの
と意味が違ふ。原文は、自分は決して著作0才では
ない心で定めて遺漏も多からう、と言ってゐるので
ある。揃ほ楊梅之は木書巻一﹁景林寺﹂0條に、國
子博士翫白頭0ことを記し、そこにも﹁雖在朱門。
以注述焉事。﹂と言ってゐる。注迪といふ語は、他に
・ 用例を見ないやうであるが、或は楊街之0筆癖で・心
つだのかも知れたい。さうすると、ここなども﹁歴
代三賓紀﹂に引く如く、元来は﹁余才非注述﹂とあ
った0を、誰かが後に﹁著述﹂と改めたもの・とも考
へられないことはない。
後魏高祖遷都洛陽
ここに﹁後魏﹂とあるのは、前に本書の巻首に見え
る楊梅之0署名の條に述べておいた通り楊街之の筆
に出たも0としてはおかしい。﹁後﹂0字はおそらく
後人の加筆であらう。
依魏習著名
﹁名﹂の字0上に逸史本・漢魏本に憾﹁門﹂の字が必
る。
各木いづれも同じであるが、哭若準は﹁集澄﹂に﹁按
漢曰東中門
水絵註日東陽門故中東門也。此二字倒。御覧作中東
門是也。﹂七言ってゐる。従ふべきであらう。
次南曰青陽門
各本いづれも同じであるが、これについても﹁集澄﹂
に﹁按水絵註。陽渠水。於城東隅枝分。北迢清陽門。
故清明門也。則凡青陽青明之青字。皆営作清字。各
本倶脆書水旁。惟何氏本。於城内修梵寺作清陽門。
不誤。﹂との脆を出してゐる。然しこ0脆は誤であ
る。青陽0﹁青﹂が﹁清﹂であるべき筈はたい。臭
氏り依披した﹁水維注﹂はいかなる本か知らぬが、
その引く所に誤がある。趙一清の﹁水経注憬﹂にも、
戴震の校定した武英殿・聚珍版本o﹁水経注﹂にも、
その原文は﹁穀水。於城東南隅枝分。北注連青陽門
東。故府明門也。﹂とあって、雨本いづれも﹁青陽﹂
に作ってゐる。満り楊守敬も。そo﹁水絵注圖﹂の
中の洛陽城圖に、やはり﹁青陽門﹂に作ってゐる所
を見ると、青陽を以て正しとしてゐるのである。そ
れから臭。若準は﹁洛陽伽藍記﹂の各本いづれも﹁清
-
88
-
明﹂を﹁青明﹂に作名が如く言ってゐるが、これ亦
瓊開郵陽懸上言南城門一柱飛去。。光武皇帝使来識
‘
覗良是。鐙堅縞之。﹃因刻記年月日以名焉。
△
た全く事支に相違する。わたくしの見た所では、﹁清
鐙以開錫焉名
﹁鐘﹂の字を逸史本’・漢魏本に吟﹁因﹂に作つてゐる。
明﹂を﹁青明﹂に咋った本は、却て集澄本を以て初
見とし、その他にはこれに依嬢したと想はれる周注
また逸史本・漢魏本・爾意本には﹁開陽﹂o下に﹁駆﹂
。
の字があるが、上文に渉つて誤指したも0と思ふ。。
、漢曰津門
周注本には﹁陽﹂の字がある。津逮本・學津本には
﹁津﹂の字の下に、逸史本・漢魏本こ具意本・鈎沈本・
字に渉って誤ったのであらうと思ふ。上o﹁玖南口
?
字の下に﹁一本多一陽字﹂と0泣がある。
如隠本と同じく﹁津門﹂に作つてゐるが、倶に津の
△陽﹂を﹁清陽﹂に作ってゐる。これは清明門の清の
各本いづれも同じであるが、唯だ漢魏本のみが﹁青
高阻改稿青陽門
本の在るのみである。臭氏の二時の失検であらう。
・・
魏昔曰津陽門
-
89
-
青陽門﹂の句は、漢魏本も正しく﹁青陽﹂に作って
ゐる。
南面有三門
本・周注木には﹁宣﹂に作つてゐる。J匹ほ津逮本に
﹁津﹂の字を逸史本・漢魏本・學津本・賀意本・鈎沈
って﹄ゐる。これが正しい。委しくは後0﹁魏晋曰津
は﹁津﹂の字の下に﹁一作宣﹂との注があり、また
﹁三﹂の字を逸史本・漢魏本・合校本には﹁四﹂に作
陽門。。高1 因・而不改。﹂の條を見よ。
る。
學津本には﹁宣﹂の字の下に﹁一作津﹂との注があ
﹄の門の命名に開する傅脆は、﹁水経注﹂巻十六にも
ここ0文章は如隠本や津逮本の如くでは通じない。
東頭第一日f開陽門
﹁漢官﹂を引いて、これを傅へてゐる。參考0ため
臭若準0﹁集謐﹂にも既に指摘してゐる所であるが、
下旬に﹁高祗因而不改﹂とあるからには、営然どこ
に引用すると次0如くである。
湊官曰。開陽門始成。未有名。宿昔有︼往来在棲上。
・247
24S
ち論理上からすると、ここの本文は﹁次西日宣陽門。
0﹁津陽﹂は﹁宣陽﹂の誤とせたくてはならぬ。即
あるに相違たいと思はれる0であるが、これについ
合はないことになる。従ってここの本文は何か誤が
といふ門は無かった筈であるから、これ亦だ事賓に
言魏時洛陽有十三門。其南面有四門。第一曰開陽。
十二門。此漢晋蓉門也。元魏高岨増承明一門。是
以安陽焉津陽。輿注不合。考陸機絡陽記。洛陽有
按1 本洛陽伽藍記。次西曰安陽。漢曰津陽。是直
ま引用した所0﹁水経注﹂の本文を畢げ、そこに
て楊守敬はそ0名著﹁水経注疏要剔﹂巻十六に、い
漢目津門。魏1 曰宣陽門。高1 因而不改。﹂とあるべ
きである。’従って逸史本や流魏本社どの本文0方が
論理か通るといふことになる。尤も逸史本・漢魏本・
置意本・周注本の本文には﹁漢曰津門﹂を﹁流曰津
陽門﹂に作ってをり、この鮎は問題になるが、とも
かくぺ往0論理だけは通る。然るに﹁水経注﹂巻十
六を見ると、﹁穀水叉南東屈進津陽門南。故津門也。
次西曰乎昌。次西曰宣陽。次西曰津陽。何允中刊
本。其南面貴有四門。而敷之只開陽・干昌・安陽
三門。竟合安陽・津陽篤一。而叉誤以津陽鴛淡門。
此係傅寫者但知洛陽有十二門。逞妄合宣陽・津陽
焉一。営韻此注正之。
-
90
-
穀水叉東進宣陽門南。故苑門也。﹂とあって、これ
門
を分り易く表示すると
陽
百同一
津
に標出した本文﹁南面有三門﹂0﹁三﹂の字が逸史
と述べてゐる。さすがに明快瓦解憚であって、さき
といぷことになる。こ0﹁水経注﹂の記事を信する
本や漢魏本に﹁四﹂に作ってゐることの正しい理由
門
限り、洸0津門は、これを魏1 の時代には津陽門と
も併せて明瞭にたると思ふ。
門︱−−’︱−苑
稀してゐたのであって、今度はいま0改めた本文の
猶ほ。近人張宗鈴も合校本に﹁太平宸宇記﹂などを引
陽
如くでは事賓に合はないことになる。逸史本や漢魏
いて、こ0鮎をいろいろ論じてゐるが、その結論は
宣
囲
4』
本などの本文0如くに作っても、漢の時代に津陽門
M
・49
要するに楊宋敬の言ふ所と合致してゐる。
南頭第一門日西明門
合校本に﹁太干衰牢記。作晋改西明門。﹂と注しyに
ゐる。
有銅漱磯玉一衡
る。
高岨敷詣寺沙門論議
。。
金塘城のことは、本書倦一〇﹁瑶光寺﹂の條に委し
の風習は今日でも奈良の興鯛寺の慈恩會などに多少
典0義理を問答したがら閑明してゆく0である。こ
iM^AJれを誼するに足る事変も同書の
’
早
一 − 一
﹁1 ﹂ の字を逸史本・漢魏本・’鈎沈本・合校本・周注本
にはいづれも﹁義﹂に作ってゐる。また集澄本立
沈本・周注本にはしづれも﹁寺﹂0字が無い。なぞ
この句の意味は、一往卒讃した所では、高阻が屡々
らく誤彷として釧っだ0であらう。
合校本・周注本には﹁上﹂の牢があるJまた周注本
し﹁有﹂の牢の上に、逸史本・漢魏本・賀意本・鈎沈本・
れる。j然しそれでは文章上少し無理があると思ふ。
王南寺に赴いて檜徒と論議したといふやうに解せら
\
には﹁織﹂の牢を﹁旋﹂に作ってゐる。
営金壊城前東西大道
常時偕徒の間に佛典を講輝する一つの方法として論
く見えてゐる。そ0洛陽城0西北隅内に在ったごと
逸史本・漢魏本には﹁営﹂0牢が無い。誤脱であdS
は何等疑たい所であるいが、臭若準は﹁集讃﹂に附載
0であるがごハ朝時代には盛んに行は
残存してゐる
れたも0である。その論義を高祖が聴聞するために
義といふのがあった。二人以上の討論者が出て、佛
してゐる洛陽伽藍記圖に於て、これを誤って洛陽城
屡々王南寺に出かけたも0と、わたく七は解祥した`
えてゐるし’
。に﹁雅好讃書。手不輝巻。︵中略︶尤精輝義。﹂と見
高1 が佛敦に精しかったことは、﹁魏書﹂の高1 紀
い。
の西北隅外胚置いてゐる。
城西有王南寺
こ0﹁城﹂は洛陽城を指す。上。句0﹁高阻往在金壊
城﹂の城を承けるので。はない。城西は洛陽城外の西
である。’さうでたいと承明門を通過せM︵。KJとに*<'
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愕老志に傅へてゐる。
逸史本・漢読本f薦豆本・鈎沈本・周注本には﹁二﹂O
字が無い。前條に學げた﹁集趾﹂の論11 熊ると、。晋
の陸機の﹁洛陽記﹂及び川じぐ陸機が弟0雲に輿へた
謁帝承明翫
魏の曹柱の附白馬王彪詩の一句である。詩は﹁文逡﹂
書には、いづれも大夏門0排を以て高さ百尺として
ゐる。その他、また﹁太平瓦宇記﹂奇二に引く所の
倦二十四に見えてゐる。
北面有二門
﹁魏略﹂にも﹁魏武帝于夏門内立北宮。至明帝叉造
三際排。高十丈。﹂とある。従ってこれら0史料に
逸史本・院魏本には﹁面﹂の字が無い。上の東南西
9二面の記事にはいづれも面の字のあることから推
捺る限り、ここ0﹁二﹂の字吽誤街と見心べきで、
﹁集澄﹂に﹁二字富従何本。彷。﹂といってゐるのは
すと、明かに涙脆である。
嘗造三肝槌
正しいと思ふ。然し座だ一面に於て、こ0﹁洛陽伽
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﹁嘗﹂の字を逸史本・涜説本・原意本には﹁帝﹂に作
茲記﹂には直ぐ語をついで
洛陽城門棲。皆雨重。去地百尺。惟大夏門蔓棟干
ってゐる。これについて﹁集謐﹂に
按李善文選註引陸機洛陽記。大夏門。魏明帝所造。
雲。
と述べてゐるりを看過してはならぬ。もし大夏門が
有三暦。高百尺。叉水親註。穀水叉東歴大夏門下。
故夏門也。陸機具弟書云。門有三駈。高百尺。魏
高さ百尺であるならば、そ0Ξ肝模たる克
少しも豺らないわけ宍ひとり大夏門のみが蔓棟雲
とに拘はらす、洛陽城の他り門接と、高さに於ては
明帝造。矩此則嘗学営従何本作帝。其上睨去魏明
二字。
ヽ
ををかすといふことはあり得ない筈である。さう考
とあるが、従ふべきで画ると思ふ。鈎沈本・周注本
には、そ0誕に従って、直にここ0本文を﹁魏明帝
へると、大夏門の高さを二十丈とする如院本などO
本文0方が論理か通りべ必ずしも﹁二﹂の字を誤彷
造三暦排﹂に改めてゐる。
去地二十丈
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は・ 5づれ心こ0句の下に
ところでどこに逸史本・漢魏本・賀意本・鈎沈本に
わたくしは問題であらう・と思ふ。
とせられなくなる。この間の矛盾をどう解搾するか、
父子二代かかってこれを改築し、二十丈の高さのも
後、元魏の高祖孝文帝とそり子0世宗官武帝とが、
三珊徨をなし、そ0高さ十丈であった。然るにそO
Hj・Sふとゴ尤末大夏門は魏0明帯の・造ったも0ミ
て簡軍に片附けてをり、合校本またその脆に従って
の十三字がある。﹁集澄﹂にはこれを直に彷文。とし
岨と世宗とが大夏門を改・築したといふ事変が、いま
に解鐸出来たいも0であらうか。こ0読の弱鮎は高
ひとり蔓棟雲ををかしてゐるのである。さういふ風
のにし・だ。それで大夏門だけが、他0城門に較べて
ゐるが、果してさう硯るべきであらうか。鈎沈本は
の場合﹁水経注﹂の如き有力な史料となる書に全く
高祖世宗造三警視。去地二十丈。
﹁集鐙﹂とは少丿違って、﹁去地十丈﹂の﹁十丈﹂以
見えないことであるが、わたくしはこ0﹁洛陽伽藍
注﹂の記載り間を補ひたい位に思ふのである。
記﹂乃本文を、いま0やうに解憚し’て、却て﹁水経
下、﹁去地二十丈﹂の﹁去地﹂に至る十二字を以て
彷文としてゐる。さうすると結局は如隠本などの本
文に従ふことになる乃であるが、これは鳶そらく上
廣莫門以西
づ廣﹂0字の上に、逸史本・流魏本・薦意本・鈎沈本・
にわたくしの指摘4 た矛盾に気附いて、’大夏門の高
さを二十丈とした0 であらうと思ふ。それからまた
一門有三道
合校本・周注本には、いづれも﹁自﹂の字がある。
審で正文と認めてゐるやうであ芯。その理由は何等
﹁一﹂の字が學津本には無い。
周注本では﹁集鐙﹂とは全く反對に、この十三字を
脆明してないが、大儒ここの本文の如き短い文章o
この﹁戟﹂の字は﹁軌﹂の誤刻である。津逮本亦た
所謂九軌
いことで、わたくしも逸史本など。本文を其借やは
如隠本え同じく誤刻してなる・逸史本・僕魏本・賀意
中に十三字も行文が生じるといふのは、聊か4%かし
・り正文として信じたいのである。如何に解憚するか
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Z52
追
蓬﹂といふ注を附してゐる。
本・鈎沈本・周注本には﹁辿﹂に作つてゐる。津逮
本・學津本トは﹁一作
記
さきに記しておいた﹁注述﹂といふ語について、そ
の後ご
至漢末安高宣詳紡明。魏初康會注建漸暢。
とある一つの使用例を見出した。康會といふのは康骨
。會のことで、同書に歿る﹄と、康骨會は多くの経典を詳
したのみたらす、法鏡・道樹・安般等0経典の注解を作
ったとあるから、そのことを指して﹁注述﹂といった
ものらしい。﹁洛鴫伽藍記﹂は、元来本文と注とに分れ
てゐたと傅へられるから、その序に﹁注述﹂の語の見
えるのは、或はその原文であるのかも知れない。
それから﹁理在人匝。而義蒙天外。﹂といぶ語は、後
漢書0西域傅の序に
9 述脆異。則理絶人匿。感験明穎。則事出天外。
とある0と措斟の似てゐるととに気附いた。併せて茲
に柿っておく。
附
記
漢土の古典は、経書と正史や諸子の或るものとを
除く外、本文批評や注拶が殆ど出朱てゐたい。これ
は斯學の研究上、市天社訣陥である。然るに我が邦
の學界では、さうした基礎的事業に従ふことを、何
故か閑却し、時には蔑硯さへしてゐるやうに見受け
られる。わたくしはこれを遺憾とし、いろんな古典
を校読するに際して、この剖記のやうなも0を、少
しづっ書いてゐる。いま、かういふ讃んで面白くも
たい剖記を本誌に載せてもらったのは、これを言は
ば一つ0見本として、特にわたくしの校訂なり注据
の態度や方法について、大方の教示を仰ぎたいと思
ったからである。偶々ここに診白を生じた0で、鄙
意を述べて読者諸賢にか願ひする次第である。
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