図録「歴代藩主と佐賀城」 - 公益財団法人鍋島報效会 徴古館

ご あ いさつ
勝
︵平
・ 茂の時代﹂展
鍋
・ 島勝茂が入城して四〇〇年の節目にあ
︵慶長十六︶年に新築された佐賀城
今年二〇一一年は、一六一一
本丸御殿に初代藩主
たります。これを記念した企画展
﹁鍋島直茂
鍋
・ 島勝茂父子による築城経過を辿りました。そこで、築城
成二十三年五月三〇日∼七月三〇日︶では、藩祖 鍋
・ 島直茂と初代
藩主
四〇〇年記念の第二弾となる本展では、
二代藩主・鍋島光茂から最
後の藩主十一代・鍋島直大まで、
佐賀城で過ごされた歴代藩主と御
一家をご紹介します。
藩主の年譜を中心とする文書類を読み解くことで見えてくる歴
代藩主や御一家の佐賀城での暮らしぶりを、明治七年
︵一八七四︶
に佐賀城を舞台に起きた佐賀の乱などの戦災をくぐり抜けて伝来
した鍋島家の品々を通じてイメージしていただければ幸いです。
平成二十三年九月二十六日
財団法人 鍋島報效会
目 次
ごあいさつ
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ 1
目 次・凡 例・略 系 図
︱︱︱︱︱︱︱ 2
︱
2代
3代
6代
図
版
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ 3
初代
出品リスト
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
略系図
藩祖
直茂 勝茂 忠直 光茂 綱茂
4代
吉茂
5代
宗茂 宗教
7代
重茂
8代
9代
代
10
︵建 子︶
筆姫
︵松平慈貞院︶
貢姫
代
治茂 斉直 直正 直大
11
35
凡 例
興・地域活性化事業﹂として、財団法人鍋島報效会が主催し、平成二十三年
一、こ の 図 録 は、平 成 二 十 三 年 度 文 化 庁﹁ 地 域 の 文 化 遺 産 を 活 か し た 観 光 振
九月二十六日
︵月︶から十二月三日
︵土︶まで徴古館において開催する
﹁佐
賀城築城四〇〇年記念
歴代藩主と佐賀城﹂展の解説付き総目録である。
ない。
一、資料の順序は各テーマに従って配列し、陳列の順序とは必ずしも一致し
一、資料解説の表記は、出品番号、名称、員数、時代・年代、作者︵銘︶・所用者、法
量︵単位はセンチメートル︶、品質・形状、指定名称、解説の順に記した。
一、財団法人鍋島報效会が所蔵し佐賀県立図書館に寄託されている鍋島文庫
資料については、その旨と請求記号を付した。
一、編 集・執 筆 は 財 団 法 人 鍋 島 報 效 会︵ 主 任 学 芸 員 藤 口 悦 子、学 芸 員 富 田 紘
次、嘱託学芸員 宮原香苗︶が行った。
一、図版の写真撮影は、久我秀樹
︵久我写真事務所︶
、株式会社とっぺん、富田
紘次が行った。
2
御城分間絵図
寛政八年︵一七九六︶
竪一五六㎝
横一六六㎝
紙本着色墨書
一舗
佐賀城は四周を広大な堀に囲まれた平城である。その
并小路町図︶
。ところが次第に土手を抑える
堀幅は江戸初期には最も広い地点で五十間であった
︵寛永御城
板 が 朽 ち 始 め、堀 端 の 土 が 崩 落 し 堀 幅 が 広 が っ て い っ
た。そこで享保十九年︵一七三四︶、五代藩主・宗茂は﹁御
開鑿之後百年有余ニ及ひ、岸々崩﹂れたため幕府へ補修
許可願いを出しており︵年譜︶、六代藩主・宗教が一部を
修復したが財源を確保できず完遂しなかった。
それから数十年を経た寛政八年︵一七九六︶、八代藩主・
治 茂 の 時 代、本 格 的 補 修 の た め に 作 成 さ れ た の が 本 図
である。堀幅補修にあたっては、初代藩主・勝茂が正保
二年︵一六四五︶に幕府へ提出した城絵図︵現存せず︶が
基準とされており、現状の絵図上に朱線で﹁正保二年
公 儀 上 リ 御 絵 図 御 堀 幅 ﹂が 示 さ れ て い る。 ま た 局 地 的
に 現 状 と 正 保 期 に お け る 堀 幅 が 注 記 さ れ て い る が、中
には五間近く広がっている箇所もある。このほか護岸
の石組や樹木、城内各所の塀や門などの表現も詳細で、
表紙
城下絵図や文献資料では分からない佐賀城の詳細を知
ることができる好資料である。
3
1
吉茂公御年譜 文政二年︵一八一九︶
竪二六・三㎝
横一八・七㎝
紙本墨書
冊子装
鍋島文庫一一三︲八
巻六
一冊
四代藩主・吉茂が前日から白石へ狩りに出かけ佐賀城を
留守にしていた享保十一年
︵一七二六︶三月四日の昼四
ツ 時 す ぎ の こ と。火 元 は 佐 賀 城 東 の 武 家 屋 敷 街 で あ る
片 田江 竪 小 路に借家住まいをしていた加々良久五郎宅
だった。
火の手は
﹁東北の風、
以てのほか烈しく﹂
、
四十間
堀と称された広大な城堀を越え城内に飛び火した。そ
5
の結果、天守閣 本
・ 丸御殿の焼失をはじめ、本丸 二
・の
﹁御家残らず﹂
ほぼ全焼し、
さらに
丸 三
・ の丸はいずれも
火の手は南堀を越えて武家屋敷約四十軒に類焼。
火が鎮
まったのは日暮れ前、
藩主の帰城は翌日のことだった。
享保火災の類焼範囲 絵図は元文佐賀城廻之絵図/元文5年
(1740)
3
歴代藩主のすまい ①
︱十八世紀前半
四代吉茂 ︱元禄九年︵一六九六︶頃
二代光茂・三代綱茂 西御屋敷
︵ 観 頤 荘 ︶を 好 ん だ 三 代 藩 主
︱江戸時代初期
藩祖直茂・初代勝茂 寛文二年
︵ 一 六 六 二 ︶二 代 藩 主・光 茂 は、御 東 に 向 陽 軒 御 社
綱
・ 茂が宝永三年
本 丸 御 殿 は、今 か ら ち ょ う ど 四 〇 〇 年 前 の 慶 長 十 六 年
て 使 わ れ る 程 度 で、別 宅 と し て の 機 能 は 薄 ら ぐ。年 譜 に は
を 建 て、貞 享 四 年
︵ 一 六 八 七 ︶に は
﹁光茂公ならびに御子様
方、向陽軒御屋敷ヘ移﹂って
﹁東御屋敷﹂と称し、
﹁御政務の
︵一七〇六︶に没した翌年、四代藩主 吉
・ 茂は西御屋敷を解
体して藩士に拝領せしめ、残存部分も石火矢の稽古場とし
節 は、時 々 御 本 丸 に 於 て 聞 召 ﹂し た
︵綱茂年譜︶
。元 禄 八 年
︵一六一一︶に完成し、初代藩主 勝
・ 茂が入城した。三の丸に
は藩祖 直
・ 茂夫妻が居住した時期もあったが、やがて多布
施に隠居し、元和四年
︵一六一八︶に没した。のち、寛永十五
した際も二の丸に入っている
︵このとき本丸には、綱茂子女
﹁ 綱 茂 公 ま で は 御 本 丸 御 住 居、公
︵ 吉 茂 ︶は 二 御 丸 御 住 居 な
茂は二の丸を政務の場としていたが、こうした中、享保十一
のうちただ一人存命中だった伊勢峰が住居︶
。その後も吉
り﹂とあり、宝永五年
︵一七〇八︶
、家督相続後はじめて入部
宅として本丸 二
・ の丸を譲り、翌年、隠居後初めて江戸から
佐賀に戻った光茂はすぐに東御屋敷に入った。
年
︵ 一 七 二 六 ︶の 火 災 で 本 丸 二
・ の丸 三
・ の 丸 が ほ ぼ 全 焼。
住まいを失った吉茂は二年後に二の丸を再建するが、一時
︵一六九五︶
、藩主の座を三代藩主 綱
・ 茂に譲った際には本
︵一六九八︶西御屋
それに対し三代藩主 綱
・ 茂は元禄十一年
︶の造営を命じ、ここで政務をみるこ
敷
︵大名庭園
﹁観頤荘﹂
的に多久屋敷・諫早屋敷、さらには神代屋敷を借上げ、中で
年
︵一六三八︶には、天草 島原の乱から帰陣した鍋島家の
・
面々は高伝寺で直茂の位牌へ戦勝報告の後、元茂
︵勝茂長男
ヨリ帰城﹂
︵年譜・元禄十三年十一月二十六日条︶
とあり、
本
時期もあったようだが、あくまで納涼など余暇を過ごす場
も多久屋敷 神
・ 代屋敷は、こののち数十年に渡り、長らく隠
居や世子の住まいとして利用されることとなる。
小
︵勝茂三男 蓮
・ 城鍋島家の祖︶は西の丸へ、直澄
・ 池鍋島家
の祖︶
は三の丸へ、
そして藩主勝茂は本丸へ入っている。
慶長十三年
︵一六〇八︶の佐賀城総普請に先立ち、慶長十年
宅である本丸造営に伴い一時的に西御屋敷を利用していた
た。勝茂も、その泉水に泳がせる鯉二〇〇匹の捕獲を成富兵
として御東を利用していた初代 勝
・ 茂の時代とは別宅の使
ともあった。﹁御本丸御普請ニ付御逗留、十二月二十一日、陸
家臣たちを召し出して
﹁ 夜 咄 ﹂を 語 り 聞 か せ る こ と も あ っ
﹁御
︵一六〇五︶には本丸 二
・ の丸から堀を隔てた東側に、
東﹂
という別宅が建設された。ここで藩祖・直茂はたびたび
庫茂安に命じ、島原の乱帰陣後には風通しの悪い本丸を避
元文佐賀城廻之絵図 元文5年
(1740)
い方がやや異なっている。
元文佐賀城廻之絵図 元文5年
(1740)
けて御東で納涼するなど、
﹁リゾート﹂施設として殊のほか
気に入っていた。
佐嘉小城内絵図 江戸時代初期(慶長年間)
8
7
コラム
9
雨中の伽
主・斉 直 ま で 師
一冊
片山傅七 屋敷地 片田江竪小路東側六番
文化御城下絵図/文化年間
(1810年頃)
範 し た。歴 代 藩
本丸
主による能の嗜
二の丸
み は、各 代 を 通
じて概ね盛んで
あったようであ
る。
○
みで、重茂お抱えの片山傳七は八代藩主・治茂、九代藩
の こ と と い う。六 代 藩 主・宗 教、七 代 藩 主・重 茂 も お 好
装 を 全 備 し、能 役 者 も 数 人 抱 え た の も 綱 茂 の 時 代 か ら
だ。綱茂は参勤交代の船内でも能を観覧し、能面や能衣
り は 行 わ れ て い た が、特 に 三 代 藩 主・綱 茂 が 深 く 好 ん
能
︵ 猿 楽 ︶に つ い て は、初 代 藩 主・勝 茂 の 時 代 か ら 一 通
ついて四十八項目と附録からなる。
三味線・歌舞伎など︶、武︵兵法・弓術・鎗術・釼術など︶に
︵文学・楽・書・画・和歌・連歌・俳諧・猿楽・茶道・生花・琴・
藩 主 の 嗜 み 具 合 や 藩 内 で の 流 行 な ど を 記 し て い る。文
佐賀藩での文武について、九代藩主・斉直の時代までの
文化九年︵一八一二︶自序
堤 範房 著
竪二五・〇㎝
横一六・六㎝
紙本墨書
冊子装
鍋島文庫〇七〇︲二
6
10
白繻子地花車鉄線模様縫箔
14
一領
江戸時代︵一七 ∼一八世紀︶
丈一四四・五㎝
裄六七・五㎝
︿前期展示﹀
豪華な刺繍文の縫箔は、女性
役の衣裳。白繻子地に金箔で
霞 文 を 摺 り 込 み、鉄 線 唐 草
の 中 に 松、牡 丹、杜 若、菊、紅
葉など四季の花木が花車を
飾っている。襟が黄変するな
ど実際に使われた痕跡があ
る。
裏地は紅平絹。
三代藩主・
綱茂所用と伝える。
15
胴箔地花車散銀杏模様縫箔
17
一領
江戸時代︵一八 世紀︶
丈一四九・八㎝
裄六八・〇㎝
︿後期展示﹀
枝垂桜と牡丹を載せた源氏
車。また、大きな銀杏の葉は
神域からの届け物を意味す
る の で あ ろ う か。 つ い つ い
物語世界へと誘われる作品
で あ る。﹁ 御 能 御 面 其 外 御 道
具﹂︵資料№ ︶
によれば、
﹁御
綱茂所用と伝わる。
る。裏地は緋練絹。三代藩主・
に見立てたくなるのも頷け
な銀杏の表現は、将に鴨の足
は銀杏の別称だが、この大き
胴鉑
地金牡丹桜鴨脚車縫
模 様 ﹂と 記 さ れ て い る。鴨 脚
10
18
五十首和歌 并飛鳥井雅豊卿追詠 一帖
宝永三年︵一七〇六︶
竪四〇・五㎝
横一〇・八㎝
彩箋墨書
折本装
法華の経題を用いて詠ま
家を通じて京の公家衆に依頼し、
二代藩主・光茂七回忌の追善のため、
三代藩主・綱茂が中院
れた和歌短冊を手鑑にしたもの。
折本の銀製金具は牡丹に
蝶、
鳥を彫出する。
歌人としても知られ、
二代光茂継室の甘姫の兄にあたる中
院通茂を筆頭に京の公家衆、
三代・綱茂自身、
弟の矩茂
︵の
ちの四代・吉茂︶
ら計五十人の詠歌が収録されており、
さら
に飛鳥井雅豊による追詠和歌一葉が添えられる。
筆頭の中
院通茂の子息で、
のちに娘の貞が五代藩主・宗茂に嫁する
久世通夏、
娘の綱が六代藩主・宗教に嫁する中院通躬も詠
者五十人に含まれている。鍋島家と、中院家をはじめとし
21
銀製金具
関係略系図
た公家衆とのつながりを物語る貴重な資料。
五十首法華経
題と作者を記した折紙付き。
飛鳥井雅豊卿追詠
20
光茂公譜考補地取 天保十五年︵一八四四︶
竪二五・七㎝
横一八・二㎝
紙本墨書
冊子装
鍋島文庫一一三︲一三
巻三
一冊
元禄四年
︵一六九一︶五
月二十三日、二代藩主・
光 茂 の 六 十 賀 を 祝 し、
のちに三代藩主とな
る嫡男綱茂は
﹁銀細工
鳩ノ御杖﹂を贈呈し、親
類 家
・老 着
・ 座の家格
を有する諸家には御料
理 の 拝 領 と、光 茂 の 御
前で御杖の拝見があっ
た。この杖は現在は失
わ れ て い る が、四 代 藩
︶が現存
主・吉 茂 伝 来 の 木 製 鳩
の杖
︵ 資 料№
している。
23
22
鳩之杖
四代藩主・鍋島吉茂 伝来
江戸時代中期
全長一一四㎝
竹製
23
一本
四代藩主・吉茂伝来の、
先端に木彫
の鳩をつけた竹製の杖。鳩は食す
るとき咽せない鳥であるとして、
これにあやかるため老人用の杖の
握りの部分に鳩をつけたとされ
る。
本品の鳩は木製であるため、
二
代藩主・光茂六十賀に嫡男の綱茂
が贈った
﹁銀細工鳩ノ御杖﹂
とは合
致しないが、吉茂も六十七歳と長
寿だったため、本品も家族からの
贈りものかもしれない。
22
龍造寺系図
鍋島系図
享保元年︵一七一五︶浄書
享保三年︵一七一八︶装丁
竪三六・二㎝
横二四・三㎝
紙本墨書
折本装
26
一帖
一帖
に
﹁古今之士庶、
親
て製作した両系図は、
年譜
︵資料№ ︶
のちに五代藩主となる宗茂が十七歳から十五年をかけ
に尽力した京都の経師屋・若井利左衛門の手になる。
みた両系図は、
高伝寺大涅槃図を模写し佐賀へ納めるの
戊
歳
戌
十一月吉日造之
京都室町通松原上ル町
若井
利左衛門﹂の墨書がある。享保元年
︵一七一六︶に完成を
事な装丁である。
龍造寺系図の裏表紙紙背には、
﹁享保三
を表紙に貼り、
四隅には家紋入りの唐草金具を配した見
菱形に卍を織り出した上に宝 相 華文をデザインした布
享保元年︵一七一五︶浄書
享保三年︵一七一八︶装丁
宝暦三年︵一七五一︶まで書継ぎ
竪三六・三㎝
横二四・四㎝
紙本墨書
折本装
27
暦年間まで書き継いでいる。
家は赤線、分家の分家は黒線の色分けがなされ、以後宝
す﹂とあるように、充実した内容である。本家は金線、分
疎・遠近・貴賎を択ばず、
老若男女・僧尼の輩、
皆悉く筆記
25
龍造寺系図 裏表紙紙背
24
龍鳳餝墨
34
紫圓硯石
33
蝋石筆洗
32
唐蝋石筆架
31
吉茂所用文房具
江戸時代
四代藩主・鍋島吉茂 所用︵高伝寺返納品︶
を 巧 み に 表 し た 唐 物 の 筆 架 と 筆 洗、
や わ ら か い 蝋 石 を 彫 り、中 国 の 風 物
ま た﹁ 文 房 四 宝 ﹂の 一 つ と し て 愛 玩
さ れ た で あ ろ う 紫 円 硯、龍 鳳 を 彫 っ
た墨のいずれも四代藩主・吉茂所用
の も の。菩 提 寺 の 高 伝 寺 に 納 ら め れ
た が、大 正 時 代 に 鍋 島 家 へ 返 納 さ れ
た。
28
佐賀城御本丸差図
一舗
果に基づき、
その一部を復元した建物である。
館は、本図をはじめとする文献資料や発掘成
︵二〇〇四︶
に再建された県立佐賀城本丸歴史
際に再建されることはなかった。平成十六年
ているが、
天守は
﹁御天守台﹂
とあるだけで、
実
や現存する鯱の門などには間取りが記載され
練られていたことがわかる。なお、本丸御殿
などの行政機能を本丸に取り込む再建計画が
﹁日記
るが
︵鍋島文庫〇二一 二
-五
御年寄手
許﹂
︶
、
その図が現存する本品であろう。
請役所
したいとの直正の見解の調整がはかられてい
密に連絡をとる必要があるため、差図通りに
の先代藩主・斉直の見解と、両役所は業務上、
て、請役所と目付方は二の丸に設置すべきと
十一月十一日には、
﹁御城普請御差図﹂
につい
ている
︵年譜︶
。
閣も再建する旨を述べ、差図の取立てを命じ
も御建て﹂
、
すなわち本丸御殿のみならず天守
かった。そのため、﹁以前の通り、
御天守・櫓を
かれ候処、
享保御火災後御再興御行き届か﹂
な
、
泰盛院様
︵初代藩主 勝
峯様
︵藩祖 直
・ 茂︶
・ 茂︶
御心力を尽くしなされ、御天守其外御築き置
方針を述べている。それによれば、
﹁総て、
日
月後の二十八日、
十代藩主・直正は早くも再建
天保六年
︵一八三五︶
五月十一日の火災から半
天保六年︵一八三五︶
竪一四〇㎝
横一二四㎝
紙本彩色墨書
36
30
筆姫所用
御道具
黒漆塗葵紋食籠
41
江戸時代後期︵一九世紀︶
高三〇・五㎝
口径三六・九㎝
木胎漆塗蒔絵
十代藩主・鍋島直正夫人 筆姫所用
一対
黒漆塗杏葉紋盥・湯桶
江戸時代後期︵一九世紀︶
︵ 盥 ︶高二〇・二㎝ 口径五一・二㎝
︵湯桶︶高十九・四㎝
蓋径二一・二㎝
木胎漆塗蒔絵
42
文久三年
︵一八六三︶
四月十二日に佐賀城三の丸に入城した筆姫所用の御道具。
一対
実家である田安徳川家の葵紋や、
鍋島家の杏葉紋があしらわれている。
黒漆塗葵紋行器
江戸時代後期︵一九世紀︶
高四九・九㎝
口径四二・三㎝
木胎漆塗蒔絵
十代藩主・鍋島直正夫人 筆姫所用
三点
33
40
歴代藩主のすまい ②
︱十九世紀半ば∼後半
丸に入りなされ、大殿様
︵五代宗茂︶御始め御兄弟中様へ御
御丸に入りなされ殿様
︵六代宗教︶と御面談、それより北御
る。その時の住まいは、
﹁重茂公御年譜﹂
によると、
﹁先ず二
歳のとき嫡子に定められ、これまでの部屋住みを解消して
誕生したのも二の丸である。寛政四年
︵一七九二︶六月、十三
次の九代藩主となる斉直
︵祥太郎︶が安永九年
︵一七八〇︶に
の鯱の門に建替えている。
入った。寛政二年
︵一七九〇︶には二の丸表御門を、櫓門形式
五代藩主・宗茂の嫡男として江戸溜池屋敷に誕生した七代
︵一七六三︶に家
藩 鹿
・ 島鍋島家の養子となり、宝暦十三年
藩主・重茂
︵右平太︶
は、
寛延元年
︵一七四八︶
十七歳の時、
兄
督 を 相 続 し た。 と こ ろ が 明 和 七 年
︵一七七八︶
、兄 重
・
・ 茂が
三十八歳で逝去したため急きょ本藩を相続して二の丸に
大は本丸へ、直正は三の丸に住居した。文久三年に江戸から
若殿様となる。文久元年
︵一八六一︶の藩主交代で、十一代直
郎︶は弘化三年
︵一八四六︶八月に御部屋で誕生。嫡子届出で
九年までは三の丸に住居した。十一代藩主となる直大
︵淳一
直正は天保六年五月、二の丸焼失に遭い、本丸を再建する同
戸溜池屋敷に住まい、
天保十年に逝去した。
代に住居した三の丸に移り、その後、天保五年に出府して江
着城した。一方の斉直
︵大殿様︶は六月八日、かつて世子の時
十代直正・十一代直大 ︱寛政七年︵一七九五︶頃
面談、七時ころ北御屋形に入らせらる﹂とあり、
﹁北御屋形﹂
新居の三の丸に移り住んだ。寛政七年に正式に嫡子届出が
八代治茂・九代斉直 とよばれた神代屋敷を宝暦十年
︵一七六〇︶藩主に就任する
済み、若殿様と呼ばれる。また、のちには兄弟たちも三の丸
八 代 藩 主・治 茂
︵ 直凞 ︶は 佐 賀 城 北 の 丸 で 誕 生 し、は じ め 支
まで住居とした。またこの記事から、
二の丸には六代藩主・
佐賀へお越しの直正継室・筆姫も増築なった三の丸で明治
九代藩主 斉直の嫡男として江戸桜田屋敷に誕生した十代
・
藩主・直正
︵貞丸︶
は、
天保元年
︵一八三〇︶
十七歳の時に家督
宗教、
北の丸には隠居の五代藩主・宗茂が住居していたこと
に移り住む。
元文佐賀城廻之絵図 元文5年
(1740)
御城分間絵図 寛政8年
(1796)
四年
︵一八七一︶
まで過ごされた。
文化御城下絵図 文化年間(1810 年頃)
を相続し、江戸を発って閏三月二十八日に佐賀城二の丸へ
もわかる。
宗教の養子となり、翌年五月十三日に嗣子として初入部す
︱寛延二年︵一七四九︶頃
五代宗茂・六代宗教・七代重茂
コラム
34
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出品リスト
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佐賀城築城四〇〇年記念
歴代藩主 と佐賀城
平成二十三年九月二十六日
㈱佐賀印刷社
編 集・発 行
財団法人鍋島報效会
〒 八四〇︲〇 八 三一
佐賀市松原二丁目五︲二二
TEL〇九五二︲二三︲四二〇〇
URL http://www.nabeshima.or.jp
発行年月日
印
刷
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○
とを禁じます。
財団法人鍋島報效会
c 二〇一一