数学教育史の歴史

10l089
野入 成規
数学教育史の歴史
室町、戦国時代にそろばんが輸入され、商業が盛んに
なってきた。
つまり、商業のために数学が普及していた。 そのた
めでもあって、そろばんが、急速に普及してきた。
江戸時代初期、、毛利 重能が、「割算書」を、ま
た、吉田 光由が、「塵記」を著した。
特に、後者は、楽しく学べるように、絵入りの問
題集で、問題と答えは、記載されてはいるが、何故、
そうなるのか?の計算導出過程は、記載されていな
かった。
だから、子供たちは、寺子屋に通って、勉強してい
た。
当時の、学校は、寺子屋であり、現在の学校とは、
大きく異なっていた。
寺子屋では、学年、クラスはなく、勉強は、人によ
り、まちまちであった。
子供たちの年齢、能力も学力もまちまちで、勉強
で、解らないとこは、先輩(今とは違って、その単元
を学んだ人)に聞き、それでも解らなかったら、先生
に質問していた。 いわゆる、自主学習、個別教育の
時代であった。
現在のように、同一年齢の子供たちを集めた一斉授
業ではない。
時は流れて、明治5年、学制が敷かれ、和算廃
止、洋算専用と決まった。
この和算廃止令は、当時の教育に大きな影響をも
たらした。
同時に、そろばんも禁止され、筆算中心の授業
を行わなければならなくなった。
明治13年に数学3000題という受験用問題集が出版され
た。
この問題集は、上、中、下の3冊組となっていて、各巻に
1000題記載されていて、各巻末に答が記載されているの
みであった。文章題でもあった。
現在の受験戦争は明治10年に始まっていた。
明治13年に尾関 正求の数学3000題という受験用問題集
が出版された。その問題集はベストセラーになった。
菊池 大鹿は9年間のイギリス留学を終え、明治10年に
我が国で初めて、数学専門家となり、数学教育の指導
者となった。
明治20年代前半に、初等幾何学教科書と、その解説書
幾何学講義を出版した。