玉 山 金 山 関 連 年 表

七四九
西 暦
天 平 二一
八五二
年 号
玉 山 金 山 関 連 年 表
時代
二
玉
山
金
ちょうよう
山
関
係
事
項
くだらのこにきしきょうふく
二月、陸奥国より国内で初めて黄金を産す。四月、陸奥守 百 済 王 敬 福 が小田郡より黄金九百両
り く こ た
と な こ し
を献上する。五月、陸奥国の 調 庸 を三年間免じ、小田郡は永く免じる。(続日本紀)
きぬたて
七月、気仙郡の衣太手神と理訓許段神に従五位下、登奈孝志神に正五位を授けられる。(文徳実録)
天喜
天慶
三
五
九
貞 観 一三
一〇九四
~九五
一〇八九
一〇八三
一〇五七
九四六
八七一
藤原清衡、金色堂造立する。(岩手県史)
この頃藤原清衡、江刺郡豊田館より平泉へ移る。基衡生れる。(岩手県史)
藤原清衡、陸奥押領使となり江刺郡豊田館に住す。(岩手県史)
金為正、比叡山に登り正善坊と号し、後に「長安寺」を創建。(岩手県史)
九月、気仙郡司金為時、安倍頼時を討つ。(陸奥話記)
仁寿
ためかつ
永保
三
一一二四
藤原基衡へ、玉山金山ならびに浜田村茂 重( 倉)金山から出た黄金を献上する。(松坂家文書)
三月八日、安倍兵庫允為雄、気仙郡司に任じられ、金山開発の功により金氏を賜わり横田村に住す。
嘉保年中
寛治
元
一一五六
おうりょうし
(金野家系譜)
天治
元
気仙郡司の金氏が淳祐学匠を勧請して、赤崎村小田の地に「長谷寺」を創建。
保元
31
奈良
時代
代
時
安
平
元
仁安年中
一一七七
一一六六
~六九
そうこく
い おうざん
ぼだい
平重盛、気仙郡より産出された黄金千三百両を宋国(現浙江省)育王山に献じ、自らの菩提を弔
うための小堂を建立した。(源平盛衰記)
たるひやま
気仙郡浜田村の重倉金山から金を、垂氷山からは萩柱 桂( を)海上輸送し、平泉へ送る。(松峰神社記)
文治
六
三
建保年中
建仁
元
元
五
一五七三
一五七三
~九二
一五三六
一四九二
一二九八
一二七七
一二一三
~一九
一二〇一
一一八九
徳川家康、山例五十三カ条を発し、鉱山経営の母法とする。
この頃、砂金から不純物を除去する「灰吹法」という新技術が大陸から伝わる。(みちのく産金小史)
竹駒村玉山に不動院創建。(気仙年代表)
掘子どもの懇望と布教のために、横田村に「長徳寺」創建される。(陸高市史宗教・教育編)
コロンブス、スペイン女王イサベラの援助でアメリカに達する。
(コロンブス、イサベラの援助で
西インド諸島を発見)
マルコ・ポーロが「東方見聞録」を記す。
赤崎村小田の地に卒塔婆(板碑)建立。
(県内三、四、五番目に古いものである)(気仙地方の産金)
世田米村「光勝寺」の本尊阿弥陀像に「建保□年」とあり、
「野尻金山」に祀ったものという。
上有住村小桧山の阿弥陀像も、金山祭りのために作仏されたものであろう。(岩手県史)
一村一ヶ寺の「常光寺」
、横田村に創建される。(横田村誌)
治承
か さ い きよしげ
建治
五
一五八五
六月十日、矢作修理重常、戦功によって晴信より今泉村五千刈を賜り、気仙総旗頭を命じられ、金
の采配を免される。(晴信黒印状)
九月、葛西清重、戦功により岩井・高倉・竹駒・牡鹿・門岡の五郡を賜わる(葛西盛衰記)
。猪川の
正応
元
一五八八
そとうば
いたび
はえふきほう
上千刈家・中里家は平泉より来て、矢作村の松倉沢にて採金する。
明応
一三
天正年間
天文
一六
32
平 安 時 代
鎌 倉 時 代
室町時代
安 土 桃 山 時 代
文禄年中
一九
一五九三
一五九二
~九五
一五九一
一五九〇
金山師安斎万右衛門により、玉山金山の開発が進められる。この頃、臼井囚獄(高田村浄土寺開基)
松坂徳右衛門定久、玉山金山に来住、公儀物書役ならびに御金山御用となり勤める。(松坂家文書)
雪沢金山・玉山金山、この頃盛んに開発され、豊臣秀吉の御直行となる。(陸高市史産業編)
今出山より金盛んに産出す。猪川村大野の「大屋」
、竹駒村壺 坪( の)沢より移住して金掘りとなる。
十月、葛西・大崎の旧臣の一揆。金山の掘子が胆沢に起こしたのに始まり、気仙・磐井・東山・玉
造・登米・志田等全域に波及する。(宮城県史)
葛西晴信、小田原参陣不参加のため没落する。葛西家臣逃れて、金掘りになるもの多し。
天 正 一八
二
一五九四
うすいひとや
(気仙地方の産金)
(気仙地方の産金)
三
が御本判大肝入を勤める。(陸高市史産業編・下)
気仙郡の本判数は五百三十二枚とある。菊月吉日発行の横沢金山採掘鑑札あり。(岩手県史)
豊臣秀吉は金山の直行に当り、金山奉行の大橋八蔵、西村左馬助、鯰江権右衛門の三人を気仙・東
山・本吉地方の主要な金山に派遣し、管理させる。(陸高市史産業編・下)
日頃市村の坂本沢金山、この頃より慶長年間まで金が盛んに掘られる。日頃市村石橋の中島家では
「大天姥神社」
(鍛冶屋の神)を勧請する。(陸高市史産業編)
十月、御本判持ちの役金(税金)が年一回から三回の上納に増えたため、千厩村にて三千人の金掘
達が金山一揆を起こす。一揆の頭取三十八人は六道長根(現千厩町)で礫にされる。(白石家文書)
33
代
時
山
桃
土
安
安 土 桃 山 時 代
江 戸 時 代
文禄
慶長
四
元
一五九五
一五九六
十月、東山・気仙の金山採掘権、伊達政宗の御直行となる(岩手県史)
。松坂徳右衛門定久、仙台領
内の御金山見分役となり領内の鉱山を巡廻する。
伊達政宗、竹駒村玉山地内にある竹駒神社が焼失したため、これを再建す。この頃より玉山付近の
金掘りが盛んになる。(気仙年代表)
(気仙年代表)
か ご
くらうま
竹駒村玉山地内にある浄土宗「荘厳寺」を松坂徳右衛門定久が開基。開山は良住一白上人である。
やり
はさみばこ
松坂徳右衛門定久、御金山下代になる。気仙郡内の金山大盛になる。御金山下代に、駕籠・鞍馬・
仙台領の産金税収は、七百七十両六十四匁二分五厘。うち気仙郡が二百十六両二十匁で領内で最高
の産額であった。(陸高市史・産業編・下)
一五九八
一五九九
矢作村雪沢金山の金山師小野寺源太郎、竹駒村字壺の沢および玉山金山の金を盛んに採掘する。
三
四
一六〇七
鑓・ 挟 箱 が許される。(松坂家文書)
慶 長 一二
一六一一
伊達政宗の遣欧使節支倉常長、月浦を出帆する。
セバスチャン・ビスカイノ、仙台湾から岩手県三陸町までの沿岸を測量。
(気仙年代表)
一六一三
気仙郡第一の金山にて運上金を上納する。(松坂家文書)
一六
一六一五
~二四
十二月、雪沢金山の山師斉藤右馬之助と草野又十郎が、藩役人川村孫兵衛に、雪沢金山の運上金を
上納する。(陸高市史産業編)
(吉田家文書)
松坂徳右衛門定久、矢作村に住居。矢作村得花倉金山を見立てる。その後、得花倉金山大盛になる。
えばなくら
元和年中
一六一五
「玉山の砂金四拾四文目かけ仁枚請取候」但気仙年貢金済候と大肝入吉田家文書にある。
一八
元
一六二三
九
34
五
一六三二
一六二八
三月、世田米村小股の内膳、南部領境赤坂山にて金採掘を行い境界紛争となる。十月、今泉村矢作
久右衛門外一名、赤坂山境の談判のため遠野に出張。 (気仙年代表)
一六五五
一六五三
一六三七
気仙郡竹駒村の玉山、矢作村の升内・雪沢、日頃市村の坂本沢の四カ所で、畑の切り起こしをする。
この頃気仙郡の本判数は五百二十三枚で、御本判大肝入に釜石清太郎がなる。(陸高市史産業編)
御金山下代松坂十兵衛定成、御荒鉄方御用も命じられる。(松坂家文書)
浜田村重倉金山より、運上金二百五十両を上納する。(松坂家文書)
六月二十三日から二十六日までの大雨で大洪水となり、郡内の金山で山沢一面が押し流されるなど
の被害がでる。(気仙年代表)
寛永
九
これなき
十月、 竹駒村玉山御金山下代松坂徳右衛門定久歿す(六十九歳)
。嫡子十兵衛定成、御金山方御
用となる。(気仙年代表)
ひさしく
「御分領中御金山久敷相捨て、其の上金掘摺切、御金山取立申者無之様に、上意御耳に相達候ニ
つきて
一六三五
一二
付而」とあり、川村孫兵衛に領内の金山を廻らせ、金山開発に努めさせた。気仙郡では、矢作村雪
沢金山師小野寺源太郎をその任に当たらせた(陸高市史沿革編・上)
。九月、雪沢の金山師右馬之助・
二
一六六一
~七二
同年より六年まで竹駒村玉山住の御金山下代松坂十兵衛定成、金山人夫を使役し、同村の北平に、
総面積七町八反二十四歩(約七.八ヘクタール)を開発する。(気仙年代表)
半七より、横田十三枚山・三十一枚山の普請願いが出される。(陸高市史産業編・下)
承応
元
一六六三
一四
寛文年中
明暦
三
35
代
時
戸
江
二
五
二
延宝年中
一六八三
一六八二
一六七七
一六七四
一六七三
~八一
気仙郡の本判数、五百九枚である。(陸高市史沿革編・上)
二月二十八日、竹駒村玉山松坂十兵衛定好、今泉村に転居する。(気仙年代表)
矢作村升内金山より運上金三百二十五両上納する。(気仙年代表)
十月八日、松坂十兵衛定成歿す(陸高市史沿革編・上)
。嫡子利兵衛定好(後に十兵衛)
、宝永二年(一
七〇五)まで御金山方御用を勤める。(陸高市史産業編)
松坂十兵衛定成、矢作村升内金山より金百五十両上納する。(気仙年代表)
この頃、玉山金山をはじめ、領内の金山の産金量が減少する。玉山金山の鉱夫達も離散するように
なった。(陸高市史産業編)
天和
三
一六八八
~七〇四
一〇
一七三六
一七一六
~三六
一七二五
気仙郡御金山廻り検断勘兵衛、諸役御免となる。(気仙年代表)
御金山御本判御定の御触が示される。(気仙年代表)
松坂新右衛門定宣、私財を投じて同十三年までに、今泉松原に数千本の松を植栽する。
元禄年中
元
一七四三
横田村山師平治右衛門、今出山の金を地払一切に六分五厘、江戸払一切に六分ずつ売り払う。
玉山金山の掘子達が里へ下りて生活するようになる。(松坂家文書)
元文
三
一七五六
享保年間
寛保
六
(気仙年代表)
(気仙年代表)
宝暦
(吉田家文書)
気仙郡御金山迴りならびに古御金掘検断、竹駒村の百姓利兵衛が両役を勤めたとある。
36
代
時
戸
江
37
宝暦
明和
一四
一〇
九
八
一七六四
一七六四
一七六〇
一七五九
一七五八
一七五七
草飼山論山の一件で、不動山の不動院の社地一部が玉山の玉御前宮の社地の一部になり、境塚を
立てた。(吉田家文書)
御金山御山例を定める。伊達重村(徹山公)気仙郡に出駕する。(気仙年代表/気仙沼市史)
気仙郡横田村百姓安内、同郡矢作村の升内に金山を新しく見立て試掘を始める。(吉田家文書)
不動院八世光政、玉御前宮の境内に石碑(玉山碑)を建てる。(気仙年代表)
松坂徳左衛門定直、玉山金山を普請する。新金鉱の発見と旧金山の復興に努めるも休山。七月、
竹駒村玉山金山地内の玉御前宮の社地を拡張して堂宇が再興される。(陸高市史沿革編・上)
坪分御本判取立帳に三拾壱切、代壱貫八拾九文とある。(陸高市史)
今出山金山、三月より十ヶ年の期限をもって、横田村の松田屋喜三郎・平左衛門、矢作村の村上
屋彦兵衛の三人が金山掘方を願うも資金が続かず、休山となる。(陸高市史産業編)
七
元
一七六九
しんしゃ
六
ひるこだて
気仙郡世田米村の種山御林之内、蛭子館金山古敷の辰砂掘方の願いが仙台領に出される。
越喜来村今出山金山の普請をし、新な鉱脈の発見と旧金山の再興に努める。(陸高市史沿革編・上)
一七七七
一七八二
~八七
今出山の金鉱業を始める。十月、世田米村百姓伊兵衛、久根山にて金山一カ所発見。(気仙地方の産金)
六
天明年間
一七八五
御金山下代仮役松坂源二左衛門定静、御金山下代になる。(気仙年代表)
安永
五
一七八六
(吉田家文書)
六
38
代
時
戸
江
五
八
七
一七九四
一七九三
一七八八
一七八七
玉山金山で露頭より掘り入ったところ、所々に味噌玉程の砂金を、ホッキ貝に油を灯して掘り取
った跡が見つかり、百年以上前のホッキ貝が多数あった。(陸高市史産業編・下)
当時気仙郡内の金山として、世田米村の片桐金山・清水金山・小又入沢金山・蛭子館金山が記さ
れている。(陸高市史産業編)
気仙郡世田米村の荷沢実吉金山の試掘を、岩谷堂の宇蔵・南部領嶋常右衛門が行う。(吉田家文書)
幕府の巡見使が廻村のとき、
「当郡に金山は御座なく候」
(鎌倉家文書)と答える。(陸高市史沿革・上)
気仙郡の金山が次第に衰微し、玉山金山の人家も減少する。そのため竹駒神社も明神平より現在
地(赤畑)に遷座される。
天明
六
一八〇四
~一八
竹駒村古金掘の預り地願いに、玉山町検断ならびに組頭として市右衛門の名前が見える。
寛政
文化年間
一八一二
一八一六
八月に記された「気仙郡竹駒村玉山金山来歴綴」に、
「浜田村茂倉金山より大分の黄金掘出、その
黄金を以光堂御建立相成候由」とある。(陸高市史産業編・下)
十一月、黒川郡吉岡天王(皇)寺家中瀬戸(勢登)和右衛門、玉山金山に来て慶長年間の旧鉱を
(吉田家文書)
三月中、気仙郡世田米村野尻古御金山所の古鋪を普請し、試掘願を申し上げ許可された。
一八二一
一八一八
(吉田家文書 )
九
一三
一五
四
気仙郡下有住村の金沢山から砂金が掘り出された。(吉田家文書)
文政
い さ ば
開坑する。和右衛門坑を開坑する。玉山御金山所へ、今泉町や高田町から賃馬・賃夫の御定めが
一八三四
八月、世田米村の菅野伊太郎が気仙川筋の大渡で「稀有の金塊」を拾った。二十三匁六分二厘(八
出る。この頃、同山で用いられる諸品や五十集物等が玉山へ駄送される。(吉田家文書)
天保
一八九〇
五
明 治 二三
39
代
時
戸
江
一八
一九四四
一九四三
一九三五
「世界大遺跡玉山霊域塔」太平洋戦争による敵機の攻撃目標とされるため撤去する。
十二月、日本鉱業株式会社、雪沢金山の採掘権を帝国鉱業株式会社に譲渡する。この頃、
「金山整
備令」によって休山又は事業縮小した金山もあった。
(玉山金山・太子金山・升内金山・琴平鉱山
など)(陸高市史沿革編・下/産業編・下)
太子鉱山、鉱区内に精錬所建設。湿地搗鉱機、青化精錬所設備を完了し、二又大瀧地内に自家発電
所を設け、盛んに採掘する。また、児玉好正、雪沢金山の採掘権を日本鉱業株式会社に譲渡し、日
本鉱業が鉱石八百トンを日立精錬所に売鉱する。(陸高市史沿革編・下)
三二
三〇
二四
一九七六
一九五七
一九五五
一九四九
第一回「玉山金山まつり」が開催され、合せて玉山神社祭典が行われる。玉山金山遺跡に標識柱
三十三本建てる。
気仙川に架かる垣の袖橋(世田米)の改修工事で、全国三番目の大きさの川砂金(二十二.四グラ
ム)の塊発見。
矢作町升内金山、日本鉱業株式会社が採掘に着手する。
(陸高市史沿革編・下)
この頃から四・五年間、玉山金山で硅石や金の採掘も行なわれ、一時盛んになる。
帝国鉱業株式会社、雪沢金山採掘権を陸奥鉱業株式会社に譲渡採掘する。(陸高市史沿革編・下)
一九
五一
一九八一
「世界大遺跡玉山霊域塔」が再建される。高さ十五メートルで、以前のものより四メートル程高い。
(陸高市史産業編・下)
五六
一九九二
竹駒町の「 の会」によって、玉山金山遺跡の整備事業を起す。
〈遺跡の案内板の設置、道路の草
刈他〉 (陸高市史産業編・下)
(陸高市史産業編・下)
四
二〇〇八
40
昭 和 一〇
平成
二〇
21
代
現
~
代
近
41