挑戦的萌芽研究 『南インドのヴェーダ儀軌「チャダンガ」の基礎的研究:古代と現代を繋ぐ新資料の解明』 (H28~H30) 研究課題番号: 16K13155 研究代表者: 総合社会学部・教授・手嶋英貴 研究分野: 中国哲学・印度哲学・仏教学 研究の背景: 南インドのケーララ州は、ヴェーダ祭式が生きた形で残っていることで知ら れる。家庭で行われるグリヒャ祭のみならず、アグニチャヤナ(火壇建造祭)など複雑な 過程を持つシュラウタ祭も挙行され続けている。ただし、その挙行マニュアルとして古代 サンスクリットの祭式文献が直接用いられる訳ではなく、実際には「チャダンガ」 (caṭaṅṅgŭ 「祭事」の意、16~18 世紀頃に成立)とよばれるマラヤーラム語の儀軌が参照される。チ ャダンガは、古代の祭式文献に規定される挙行手続きを解説したものだが、その細部には 独自の要素も含む。各ヴェーダ学派はグリヒャ、シュラウタ双方に固有のチャダンガを備 え、それに基づいて祭式を行っている。従って、現代のヴェーダ祭式を理解するために、 チャダンガ文献の研究は不可欠だと言える。 ところが、その読解にはヴェーダ祭式の知識とサンスクリット、マラヤーラム双方にま たがる文献読解力が要求されることもあり、これまで本格的なチャダンガ研究はほとんど 行われてこなかった。現地には四種のチャダンガ刊本があるが、いずれも家庭祭を扱う「グ リヒャ・チャダンガ」に限られる。また先行研究としては、ジャイミニーヤ派のグリヒャ・ チャダンガを同派のグリヒャ・スートラと比較した Asko Parpola “Codification of Vedic domestic ritual in Kerala”. Travaux de symposium international: le livre, la Roumanie, l’Europe (2011 Bucarest), pp.261-354 が、目下唯一のものである。そして特に留意すべきは、ヴェーダ 研究において最も重要な位置を占めるシュラウタ祭のチャダンガが未公刊であり、かつそ れを対象とする学術研究も存在しないことである。 こうした状況を踏まえ、申請者は 2009 年以降、現地でヴェーダ文献写本の収集・調査を 行うとともに、チャダンガ写本を所有する複数のブラーミン家系と密接な関係を築いてき た。また専門のサンスクリットに加えマラヤーラム語も継続的に学習し、チャダンガ読解 に必要な能力の獲得に努めてきた。 研究目標: 上述のアドヴァンテージを生かし、本研究ではまずシュラウタ、グリヒャ双方 にわたるチャダンガ写本を写真画像として収集し、テクストデータ化する。同時に、チャ ダンガに則って行われるヴェーダ祭式の様子もヴィデオ撮影する。これにより、文献と映 像からなる新形式の「チャダンガ研究資料集成」を構築する。さらに、新資料を用いて学 界初となる「シュラウタ・チャダンガ校訂テクスト」の作成に着手する。とくに本研究期 間では、最も基本的なシュラウタ祭であるアグニホートラ祭の部分について、校訂テクス トを完成させることが目標となる。 研究の特色と予想される結果: 従来のヴェーダ研究では、古代の言語や文化・社会の解明 に力が注がれる半面、その成果を現代的事象への洞察に活かす道が十分に拓かれてこなか った。本研究は、チャダンガを学術的調査の対象とすることで、上述の課題に応える新た な研究領域を開こうとする点に特色がある。近年の急速なグローバル化への反動もあり、 現代インドでは自国文化の源と言えるヴェーダ祭式への関心が高まっている。一般市民の 喜捨が追い風となり、祭式の挙行も増加傾向にある。こうした「ヴェーダ復興」という事 象の根底には、ケーララの祭式伝承が、チャダンガという地方語テクストに再編されたこ とで広く受容され、その基盤の厚みによって断絶の危機を乗り越えてきた歴史がある。チ ャダンガ研究は最終的に、世界最古の宗教伝統を今日まで生命あるものとした、注目すべ き「文化システム」の構造を理解することに繋がる。 本研究が持つ斬新性と挑戦的側面: 中近世に成立したチャダンガは、古代ヴェーダ文献と 現代のヴェーダ祭式とを結ぶ、いわば歴史上の「結節点」をなしている。本研究が持つ斬 新性とは、まさに今まで空白となってきたこの文献領域の実態を初めて明らかにする点に ある。まずシュラウタ・スートラ、グリヒャ・スートラといった「ヴェーダ祭式文献」と チャダンガとを比較することにより、古代から中世にかけて生じたヴェーダ祭式の形態変 化を具体的なレベルで確認することが出来る(下図中「①」)。次に、チャダンガの記述を 実際に行われる祭式と照合することで、前者の記述内容を明確に理解するとともに、近代 以降に生じた変化(例えば動物犠牲を代替する手続きなど)を知ることが出来る(下図中 「②」)。このように、チャダンガを中軸とする双方向的な比較研究を通じて、古代以来の 一貫したヴェーダ伝承史を明らかにするというアイディアは全く新たなものと言える。 なお、本研究の推進にあたっては、インドを対象とする諸学問分野の研究者とも積極的 に連携していく。例えば、「シュラウタ・チャダンガ」校訂テクストの作成においては、記 述内容(祭式)の理解だけでなく、その言語的側面にも注目する。マラヤーラム語はドラ ヴィダ系諸語の中でも特にサンスクリット由来の語彙を豊かに持つものであり、チャダン ガは同語の生成過程を探るための重要資料でもある。こうした視点から言語学、文学の専 門家とともにチャダンガ文献のもつ意義を検討したい(下図中「A」) 。さらに、チャダンガ 写本を所蔵するブラーミン家系を中心として、ヴェーダ伝承とそれを保持するブラーミン 集団がもつ「現代的意義」を探る現地調査を進める。さらに、その成果を社会学や人類学 の研究者と共有することで、現代インド社会に対する理解の深化へと繋げていく(下図中 「B」)。本研究期間では、上記の視点によるシンポジウムないし学会セッションを、複数回 開催したいと考えている。 本研究が示す新たな方法論と期待できる成果: 本研究では、チャダンガを媒介とすること で得られる「文献と映像との相互補完性」を生かした、新たな研究手法を提案する(下図 中 ※印)。上述のとおり古代のヴェーダ祭式文献が示す規定はチャダンガによってほぼ忠 実に踏襲され、さらにチャダンガの記述は現代のヴェーダ祭式において、一部の例外を除 き忠実に実行されている。したがって現代のヴェーダ祭式は、古代文献が述べる祭式を完 全に再現するものではないとしても、古代祭式(特に個々の祭事行為)の実像を推測する 上では重要な手がかりを提供する。 この点に着目し、本研究では前頁の「②研究目標」で述べた「チャダンガ研究資料集成」 を作成する傍ら、それにヴェーダ祭式文献の参照機能を加えた先進的なデジタル・コーパ ス「映像版ヴェーダ学事典」の作成に挑戦する。具体的には、動画編集ソフトの分割画面 設定を用いて、左画面にヴェーダ祭式文献とチャダンガ文献のテクストを、右画面にはそ のテクストに対応する祭式場面の映像を提示する。祭式全体のプロセスのほか、用具や所 作等の名称を検索することで、それに該当する部分の文献テクストと映像を閲覧できるよ うにする。このコーパスの実現によって、古代文献の研究者はテクスト理解に資する新た な視点を確保し、また現代インドの研究者は今日行われている祭式を歴史的視野で捉える ことが可能となる。本研究期間内では、まず前述のアグニホートラ祭を取りあげ、デジタ ル・コーパスの試作版を作成したいと考えている。 古代 ① ※「文献と映像の相補性」に着目 → 新手法のデジタル・コーパス作成 ヴェーダ祭式文献 ・シュラウタ・スートラ ・グリヒャ・スートラ 紀元前 6~3 世紀頃 ① スートラ文献の原 記述との比較研究 チャダンガ文献 (マラヤーラム語) 主に 16~18 世紀頃 A.チャダンガ校訂テクストの作成 言語学・文学 の研究者と連 ② 撮影した祭式 映像との照合 現代 現代インドの ヴェーダ祭式 (チャダンガに依拠) B.現代ヴェーダ伝承組織の調査 サンスクリット 語彙のマラヤー ラム語化に関す る知識の蓄積 社会学・人類学 の研究者と連 ヴェーダ伝承と ブラーミン集団 がもつ現代的意 義の理解
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