18W-02 勝手読みのメカニズム:生成と中心化 三宅芳雄 (中京大学) 勝手読みというのは一つの視点、言い換えれば「ものの見方」である。認知 科学研究の成果は、普通はこのような「ものの見方」というよりは「理論」で あると考えられているかもしれない。しかし、ものの見方のような理論に比べ ればあいまいで断片的な形であったとしても、それが役に立つのであれば、研 究の成果である。むしろ、積極的に取り上げ、使いやすくするための整理、体 系化を行っていくのがよいのではないかと思う。認知科学に限らずどんな学問 分野であっても、理論が重んじられるのはそれが結局はどこかで役に立つとい うことがあるからだ。例えば、天文学の理論は天体の動きを理解する基礎を提 供し、実際の生活にも役立つ日食の生起を正確に予測する。しかし、実際に理 論を役に立たせるためには、言葉や記号の体系としての理論だけでは不十分で ある。実際に理論を現実の問題に応用するには、関連する多くの知識が必要に なる。関連する知識というより、身についた「ものの見方」が習得されていな ければ、理論を使いこなすことはできないと考えるのが普通だろう。人の知能 に匹敵する有用な人工知能が実現できないのはこのようなものの見方を十分に 明らかにできないためだと考える研究者も少なくない。他の理由もいろいろつ けられるが、 「ものの見方」を研究の成果として前景に持ち出すことは認知科学 の発展に役立ちそうだということを言いたい。 さて、勝手読みという視点は実際に認知の理解を深めるのにどのように役立 つのか。直接的には、作者がテキストに込めた一つの意味を読者が取り出すと いう単純なモデルの非現実性を暴き、よりリアリティのある読者の側の多様な 読みの構成という見方へ導く。しかし、実際に起こることはそれだけではない。 読者の中で成立する「読み」はテキストによって引き起こされる受動的な事象 ではなく、反対に読みは読者のなかで「作り出される」ものという構成的な認 知観を陽に持ち込むきっかけになる。さらに、勝手読みの視点は一方で「勝手」 を作りだすものは何かを探るきっかけをもたらす。認知過程は勝手に進行する 多くの過程が重なりあって成立していると捉えられる。読むという過程の中で は、読み手の意志と関わり無く、読み手の心の中に勝手な表象が生成される場 合も多い。一般に表象の生成の過程を意識することが困難であるのはもちろん 1 だが、生成された表象すらもその多くが意識に上ることは少ないが、その一方 で認知過程の進行、成立に大いに関与していることは疑いない。 言葉の形とそれが表す意味の働きも、勝手に進行する表象の生成という観点 から捉えることができる。言葉の形は形として独自の表象として運動するとい うことだけでなく、その形式が時に抽象を促進し、また時には反対に抽象を阻 害するという点からも捉えられる。形に付随する意味が必要以上に形につきま とうならば、意味とのつながりを軽くすることで操作の自由を可能にしている 言語形式がうまく働かないという事態が生じる。意味が勝手に言語形式につき まとっている場合があるのだ。もともと、人の記憶の性質から言って、計算機 の中の変数のように言葉の形と意味を単純に結合したり離したりはできないこ とを考慮に入れる必要がある。 上の分析は勝手読みの背景にある無意識の表象の生成過程の分析の一例に過 ぎない。勝手読みという視点の使い方は一義的に決まるものではなく、だから こそものの見方なのだ。一般に、無意識の表象が関わる認知過程を解明するこ とは容易ではないが、勝手読みとそれに関連したものの見方に立つことで、必 要に応じた現実的なアプローチが可能になる。そのような解明に基づくことで、 現実の読む過程や書く過程をより効果的に制御することができるようになる。 実際、ミステリー小説の作家は認知的錯覚を意図的に利用して作品を構成して いる。また、小説や芸術作品についての優れた評論、作者の解題などが作品以 上に面白いことがあるのは、読む過程や書く過程についての洞察を深めるもの の見方を提供しているからだ。この意味で、評論は認知科学研究の宝庫であり、 認知研究の材料としてもっと活用することができそうだ。さらに、認知科学の 産物が認知過程についての有効なものの見方を提供することだという立場から は、これらは認知科学そのものであることにもなる。認知科学の研究成果が有 効なものの見方の集積であるならば、理論を載せたいわゆる論文という形式に 限る必要はない。研究の成果を正しさにその正しさに重点置くのではなく、役 に立つものであることを第一義にするならばものの見方を使える形で提示する ことこそ、本来の研究成果の発表形式としてふさわしい。 2
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