3部1 - 日本古代史の復元

第 3部
川原寺 の移築
203
第 1章 大和 の川原寺
205
1
川 原 寺 と天 武 天 皇
(1)「 川 原 寺 」 とは
「川原寺」は 「653年 」に初めて『 日本書紀』に出てくる。
(孝 徳 )自 雉 四年
(653年 )六 月 、天皇 、曼法 師 の命 が終 わ る と聞
いて 使 い を遣 わ し弔
(と
ぶ ら)う 。 井 て 多 くの 贈 り物 を送 る。 皇祖
母 尊及 び皇太 子 等 、皆使 い を遣 わ し晏法師 の 喪 を弔
(と
ぶ ら)う 。
即魚戸直等に命 じて多くの仏
遂に法師のために書工狛堅部子麻呂・像
菩薩像 を造 る。川原寺に安置す。 (或 本に云 う、山田寺 に在 る)
『 日本書紀 』
「白雉 四年
(653年 )」
に曼法師 が死去す る。 長法師 のた めに 「多 くの 仏
菩薩像 を造 り、川原 寺」 に安置す る とい う。
次 ぎに 「川原 寺」が 出 て くるの は 「 673年 」で ある。 「 20年 」 も後 で あ
る。
(天 武)二 年
(673年 )二 月、是月、書生を衆
一切経 を川原寺に於 いて写す。
(あ つ)め て始めて
『 日本書紀』
「673年 」に「川原寺に於 いて一切経 を写す」とある。 「673年 」は「6
72年 」の 「壬申の乱」の翌年である。 「673年 」は天武天皇 の時代である。
天武天皇は 「壬申の乱」 で勝利する と大和 の飛鳥に浄御原宮を造 り、住む。
「673年 」 の 「川原寺に於 いて一切経 を写す」 とあるのは大和での出来事 で
ある。 「川原寺」は大和 の飛鳥にある。
206
川原寺について岩波書店の『 日本書紀』の「補注」は次のよ うに書いている。
川原寺
飛鳥川 の西岸、橘寺 のす ぐ北にあ り、法号を弘福寺 (ぐ ふ
くじ)と い う。先年 の発掘調査に よると
(中
略)。 寺 の施設 の地下
で発 見 された 二条 の長大な暗渠 は、寺 の創 立以前の、おそ らく斉明
天皇 の川原宮に関係す るもので 、宮跡 に寺が造 られた と考えられ る
よ うにな った。 また当初 の瓦 の様式な どか ら、寺 の創 立は天智天皇
の頃 とみ られ るか ら、 自雉四年に川原寺 があった とす るのは無理 で
岩波書店『 日本書紀』 の 「補注」
あろ う。 (後 略)
川原 寺 は大和 の飛 鳥川 の 西岸 にあ る。 図 4
川原 寺 の発 掘調 査 に よ り、地 下 に長 大 な二 条 の 暗渠 が発 見 され た。斉 明天 皇
の 「川原 宮 」 で あ ろ うとい う。川 原 寺 は斉 明天 皇 の 「川原 宮 」 の跡 に建 て られ
てい る とい う。
出土 した瓦 か ら 「川 原 寺」の創 立 は天智天皇 の 頃 と考 え られ る。 したが って
(653年 )」 に川 原 寺 が あ った とす るの は無理 で あ ろ うとい う。
「 653年 」 の 「川原 寺」 は否 定 され てい る。 「 653年 」 の 「川原 寺」 は
「白雉 四年
存在 しないの で あろ うか。
207
図
4
飛鳥浄御原宮と川原寺・ 飛鳥寺
(『 飛鳥の寺 と国分寺』 (岩 波書店)よ
り)
天
藤
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日向 寺
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山 田寺
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奥 山久 米 寺
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東 京 極 大 路 ︵旧 中 つ道 ︶
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水落遺 跡
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飛鳥寺瓦窯
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大殿
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(2)
「川原 寺」 と 「川原官」
川原 寺 の発 掘調 査 に よ り、川原 寺 は斉 明天皇 の 「川原 宮 」の跡 に建 て られ た
とい う。
しか し斉 明天 皇 の 「川原 宮」 は大和 にあ るのでは な い。 肥前 の飛 鳥 にあ る。
(斉 明)元 年
(655年
)
是冬、飛鳥板蓋官に災
(ひ つ)け
り。故、
『 日本書紀』
飛 鳥川原 宮 に遷 り、居す。
飛鳥板蓋宮 が火災で焼けたので 「飛鳥 の川原官に遷 り、居す」とある。飛鳥
板蓋宮は 「645年 」の 「乙巳の変 (大 化改新)」 の ときの宮殿 である。 「乙
巳の変」は肥前 の飛鳥 で起きている (古 代史の復元⑥『 物部氏 と蘇我氏 と上宮
王家』 )。
飛鳥板蓋宮は肥前 の飛鳥にある。 「川原宮」も肥前 の飛鳥にある。『 日本書
紀』 の 「飛鳥川原宮」 は 「肥前 の飛鳥 の川原宮」である。
斉明天皇はそ の翌年
(斉 明)二 年
(656年 )に 大和へ移 る。
(656年 )九 月、是歳、飛鳥岡本 に更に宮地を定める。
(中 略)遂 に宮室を起 こす。天皇、乃ち遷 る。号 して後飛鳥岡本宮 と
『 日本書紀』
日 う。
大和 の新 しい宮殿は「後飛鳥岡本宮」とい う。「後 の飛鳥 の岡本宮」である。
「後 の飛鳥」 とは大和 の飛鳥 であ り、 「前 の飛鳥」 は肥前 の飛鳥 である。斉明
天皇は 「肥前 の飛鳥」か ら 「大和 の飛鳥」へ移 り、宮殿 の名前は上宮法皇 (祖
父)の 肥前 の飛鳥 の 「岡本宮」を採 り、同 じ 「岡本宮」に している (古 代史の
復元⑦『 天智 王権 と天武王権』 )。
209
「川原宮」は斉明天皇が大和に移 る前に出て くる。 「川原宮」は肥前 の飛鳥
にある。大和 の川原寺を発掘調査 して 「寺 の施設 の地下で発見 された二条の長
大な暗渠」を斉明天皇 の 「川原宮」であるとす るのは誤 りである。 したがつて
大和 の 「川原寺」は斉明天皇 の 「川原宮」跡に建て られた ので はない。
○川 原 宮 と川 原 寺
■
川原 宮
肥前 の飛鳥 にあ る
■
大 和 の川 原 寺
大和 の飛鳥 にあ る
(3)天 武 天 皇 と 「川 原 寺 」
「大和 の川原 寺」 とは どの よ うな寺 で あろ うか。
「大和 の川原 寺」は天武 天皇 に とつて特別 な寺 で あ る。 「 (天 武 )十 四年 (6
85年 )九 月」 に天武 天皇 は病気 にな る。
(天 武)十 四年
(685年 )九 月、天皇の体不豫のために、三 日、大
官大寺 。川原寺・ 飛鳥寺に於 いて経 を誦
(よ
以 て三寺に納める。各差有 り。
)ま しむ。因 りて稲 を
『 日本書紀』
天武 天 皇 は病 気 にな る と 「大官大寺 ・ 川原 寺・ 飛 鳥寺 に於 いて 経 を誦 (よ )
ま しむ 」 とあ る。 「大官 大寺 。川原 寺 。飛鳥寺」で病気 平癒 の読経 を して い る。
この 「三 寺」 は 「飛 鳥 の三 大寺」 と云われ てい る。
翌年
(686年 )に な る と天武天 皇 の病 は さらに悪 くな り、死 を 自覚す るよ
うにな る。
(天 武)朱 鳥元年
(686年 )五 月、天皇、始めて体が不安。因 りて
以て川原寺に於いて薬師経を説 く。
210
『 日本書紀』
「 686年 5月 」 に天武 天皇 は 「始 めて体 が不安」 とあ る。 死 を予感 した の
「
で あろ う。天武 天 皇 は 「川原 寺」に於 いて薬 師経 を説 (と )か せ てい る。 薬
「
師経 」で あ るか ら病気 平癒 の祈願 で あろ う。天武 天 皇 は死 の 不安 を覚 える と 川
「
原 寺 」で病気 平癒 の祈願 を して い る。 川原 寺」は天武 天皇 が も っ とも信 頼す
る寺 で あ ろ う。
翌月
(686年
6月 )に は飛 鳥寺 と川原寺 で天武 天 皇 の病 気 平癒 の供養 が行
われ る。
(天 武)朱 鳥元年
(686年 )六 月、伊勢王及 び官人等 を飛鳥寺 に遣
わ し、衆僧 に勅 して曰く、 「近者
(こ
の ごろ)、 朕 の身は不和。願
う、 三宝の威 を頼 りて、以て身体 が安和 を得 るを欲す」 とい う。是
を以 て僧 正 。僧都及 び衆僧 は誓願 に応 える。 (中 略 )勅 して百官 の
人等を川原 寺に遣わ し、燃燈 の供養 をす。
『 日本書紀』
「朕 の 身 は不和。願 う、 三宝 の威 を頼 りて、以 て身体 が安和 を得 るを欲す 」
。
とあ る。天武天 皇 の様 態 はます ます悪化す る。 「是 を以 て僧 正 僧都 及 び衆僧
は誓願 に応 え る」 とあ る。
また 「勅 して百官 の 人等 を川原 寺 に遣 わ し、燃燈 の供養 をす 」 とあ る。天武
「
天皇 は 「川原 寺」に百官 の 人等 を遣 わ して病 気 平癒 の祈願 を して い る。 川 原
寺」 は天武 天皇 に とってや は り特別 な寺で あ る。
天武 天 皇 の 病 状 は さ らに悪化す る。 「 686年 9月 4日 」には親 王 以 下 、諸
臣は 「川 原 寺 」 に集 ま り仏 に誓願 す る。
(天 武 )朱 鳥 元年
た )る
(686年 )九 月 四 日、親 王 よ り以 下 、諸 臣に逮
(い
ま で悉 く川 原 寺 に集 ま り、天 皇 の病 の為 に誓願 す と云 々。 九
日、天皇 の病 、遂 に差 (い )え ず 、正宮 に崩 す。
211
『 日本 書紀』
親 王 よ り以 下 、諸 臣は 「悉 く川原 寺 に集 ま り、天皇 の病 の為 に誓願 す 」 とあ
る。 そ の 「5日 後 」 の 「 686年 9月 9日 」 に天武天皇 は崩 御 す る。
天武天 皇 が 臨終 の ときに も「親 王 よ り以 下、諸 臣は悉 く川原 寺 に集 ま り」と
あ る。 「川原 寺」 は天武天皇 に とつて もっ とも重 要 な寺 で あ る こ とが わか る。
「川 原 寺」 は天武天 皇 に とつて特別 な寺で あ る。何故 で あ ろ うか。
212
2
川 原 寺 の調 査
(1)川 原寺 の発掘調 査
昭和 三十 二・三十 三年
(1957・ 58年 )と 昭和四十八年 (1973年
)
に 「大和 の川原寺」の発掘調査 が行われた。『 古代 を考える 古代寺院』 (吉
べ
川弘文館 )の 中で上野邦一氏は次 のよ うに述 ている。
伽 藍 の 中央 北 寄 りに 中金 堂 が あ り、 中門 の 両脇 か ら発 し
た回廊 (単 廊 )が 中金 堂 両脇 に取 り付 いて 閉 じる。 回廊 内 の 西 に金
伽藍配置
堂 、東 に塔 を配 して 、西 金 堂 と塔 は向 き合 って い る。 中金 堂 の 北 に
講 堂 、 さ らに北 に食 堂 を配 置 し、講 堂 の東 西北 を僧 房 が 囲む。 (中
略)
川 原 寺造 営 以前 と考 え られ て い る七 世紀 の 寺院 で は 中心部 の伽藍 配
置 は塔 を 中心 とす る伽 藍 で 、 七 世紀末 ごろか ら金 堂 を中心 とす る伽
藍 へ と古代 寺 院 の伽 藍配 置 が 変遷 して い る。 (中 略 )川 原 寺 の伽 藍
配 置 は 、塔 中心 の伽 藍 か ら金 堂 中心 の 伽 藍配 置 へ と移 って い く、 中
間 の 時期 の伽藍 の様相 を しめす。
川原 寺 と同 じ伽 藍配置 は見 つ か っていない。
上野邦 一 氏
川原寺 の伽藍配置 は「川原寺様 式」と言われてお り、同 じ伽藍配置 の寺院 は
見つかっていない とい う。
七世紀 の寺院 の伽藍配置 は「塔 を中心 とす る伽藍」であるが、七世紀末 ごろ
か ら「金堂を中心 とす る伽藍 へ」 と変遷す るとい う。川原 寺は 「塔 中心の伽藍
か ら金堂中心 の伽藍配置へ と移 っていく、中間の時期 の伽藍 の様相 を しめす」
とある。 「川原寺」 か ら伽藍 の配置 が変化す るとい う。
213
次 ぎに礎 石 に つ いて 次 の よ うに述 べ てい る。
川 原 寺 に薦瑶 の礎 石 を持 つ 金 堂 が建 って い た と伝 え られ ていて 、事
実 、現 弘福 寺 の本 堂 の床 下に礎 石 二人 個 が残 り、す べ て大理石 の礎
石 で あ る。 飛 鳥 の 地域 に あ る古代 寺院 の礎 石 は 、 ほ とん どが花 闇岩
で あ り、 ま た川 原 寺 で は西金 堂・ 塔 。僧 房 の礎 石 は花 間岩 。安 山岩
で あ り、それ らと川原 寺 中金 堂 の礎 石 は異 な る。
上野 邦 一 氏
川 原 寺 の 中金 堂 の 礎 石 は 大 理 石 で あ る とい う。そ の 他 の 建 物 の 礎 石 は花 闇岩
や 安 山岩 で あ る。 中金 堂 の 礎 石 だ け は特別 で あ る。 何 故 で あ ろ うか。
次 ぎ に川 原 寺 の 瓦 に つ い て 次 の よ うに述 べ て い る。
七世 紀 後 半 ごろまで は、単弁 蓮華文 の 軒 丸 瓦 を出土す る寺院 が 多 い
の に、川 原 寺 は複 弁 蓮華 文 の 軒 丸瓦 を出土 し、 は じめて複 弁 蓮華 文
を使 った 寺院 で あ る。 軒平 瓦は重弧文 で あ る。
上野邦 一 氏
川 原 寺 は 軒 丸瓦 に 「は じめて複弁 蓮華文 を使 った 寺院 」で あ る とい う。川原
寺 か ら軒 丸 瓦 は 「単弁」 か ら 「複 弁」 にな る とい う。
(2)川 原 寺 の 造 営
「川原寺の造営」については 扶桑略記』に書いてあるという。上野邦一氏
『
は続 けて次 の よ うに述 べ てい る。
『 扶桑略記』には、斉明天皇川原宮をの ちに改めて川原寺に造 り替 え
ているとす る。
上野邦一 氏
214
『 扶桑略記』には 「斉明天皇の川原宮を川原寺に造 り替えている」 と書かれ
ているとい う。『 扶桑略記』を見てみよう。
斉 明天皇
二十 九代
女帝
前名 皇極 天皇
元年 十 月 、飛 鳥板 葺 宮火 災。 (中 略 )天 皇遷 幸飛 鳥川 原 宮。 造川原
寺。
二 年 、造飛 鳥 岡本 宮。 又於 田身嶺 、造 両槻 宮。 (後 略 )
『 扶桑略記』
「 (斉 明 )元 年
(655年 )十 月 、飛鳥板葺 宮 が火 災。 天 皇 は飛 鳥川 原 宮 に
遷 る。 」 とあ り、そ の 後 に 「造川原 寺。 」 とあ る。上野邦 一氏 は これ を
「斉 明
天 皇 の川 原 宮 を川 原 寺 に造 り替 えて い る とす る」 と紹介 して い る。
しか し前述 の よ うに 「川原 宮」 は肥前 の飛 鳥 にあ り、 「 (大 和 の )川 原 寺」
は大和 の飛 鳥 に あ る。 したが つて 「天皇遷 幸飛鳥川原宮。造 川 原 寺。 」 を 「斉
明天皇 の川 原 宮 を川原 寺 に造 り替 えて い る」 と解釈 す るこ とはで きな い。
『 扶桑略記』 の記事 を詳細に検討 しよう。
「655年 10月 」 に飛鳥板葺官は火災 にな り、斉明天皇は川原宮 に遷 ると
あ り、そ の後に 「造川原寺。」がある。その次は 「 (斉 明)二 年」である。 「造
川原寺。」は 「 (斉 明)元 年
(655年 )十 月」∼ 「655年 12月 」の間で
ある ことがわかる。
「 10月 に川原宮に遷 り」、 「 12月 に川原寺」を造 っている。 「川原宮」
を壊 して 「川原寺」を造 るのであれば斉明天皇 は住む ところが無 くなるであろ
,。
『 日本書紀』は次のように書いている。
(斉 明)元 年
(655年 )、
是の冬に飛鳥板蓋宮に災 (ひ つ)け り。
『 日本書紀』
故、飛鳥川原宮に遷 り居す。
215
『 扶桑略記』 とまったく同じ内容である。 しかし『 日本書紀』にはその後に
「造川原寺。」がない。斉明天皇はその後も「川原宮」に住んでいるのであろ
う。斉 明天 皇 が 「川原 寺」を造 営 してい るので あれ ば『 日本 書紀』 も 「 (斉 明 )
元年 (655年 )」 に 「斉 明天 皇が川原 寺 を造 る。」 と書 い て い るはず で あ る。
「 655年
10月 」 の斉 明天 皇 は肥前 の飛鳥 に居 る。
「655年
10月 」 の
「飛 鳥板 葺宮 が火 災。 天皇 は飛 鳥川原 官 に遷 る。 」 は肥 前 の飛 鳥 での 出来事 で
あ る。 そ の 翌年 の 「 656年 」に斉 明天皇 は大和 へ 逃 げ る。『 扶 桑 略記 』 に も
「二 年 、造飛鳥 岡本 宮」 とあ る。
「 655年
10月 」 頃 の 斉 明天皇 は 「肥前 の飛 鳥 」 か ら大和 へ 逃 げ る準備 を
して い る時期 で あ る。 そ の よ うな時期 に肥 前 に 「川 原 寺」 を造 るはず が な い。
『 扶桑略記』 の 「造川原寺」は斉明天皇ではないであろ う。 したがって 「川原
宮」跡 に 「川原寺」を造 つてい るのではない。
『 扶桑略記』 の 「造川原寺」は誰であろ うか。 「誰」 が 、 「何処」に 「川原
寺」を造 つてい るので あろ うか。
(3)川 原 寺 の造営時期
上野 邦 一 氏 は川 原 寺 の 造営時期 につ いて 次 の よ うに述 べ て い る。
川 原 寺 の 造 営 時期 は天智 天 皇 が 斉 明天 皇 の 回復 を祈 って川 原 宮跡 に
造 営 した とす る考 えが 有力 で あ る。 しか し、軒 瓦 の 作 り方 の 考察 か
ら天武 朝 とす る意 見 もあ る。
上野 邦 一 氏
「川 原 寺 の 造営 時期 は天智天皇 が 斉 明天皇 の 回復 を祈 って川 原 宮跡 に造 営 し
た とす る考 えが有力 で あ る」 とい う。 「川原 寺」は天智天皇 が建 立 した とす る
説 が 有力 で あ る とい う。
216
しか し『 扶桑略記』 の 「造川原寺」は 「 (斉 明天皇)元 年十月」条 にある。
「
斉明天皇 の 「元年 (655年 )」 であるから 「天皇」は斉明天皇 である。 天
大兄皇子)」 は 「皇子」である。川原 寺 のよ うな大寺を 「皇子」 が
造る ことはあ り得ないであろ う。 「天智天皇が斉明天皇の回復 を祈 って造営 し
智天皇
(中
た」 とす るのは無理 であろ う。
川原寺 の発掘調査 か ら 「軒 瓦の作 り方 の考察 か ら天武朝 とす る意見もある」
とい う。 しか し『 扶桑略記』 は 「造川原寺」を 「 (斉 明)元 年 (655年 )十
月」 と明記 している。 「655年 」は天武天皇 の時代ではない。
発掘調査に よると「大和 の川原寺」の造営時期は天智天皇 の時代 か、天武天
皇 の時代であるとい う。 一方、『 扶桑略記』 は 「 (斉 明)元 年 (655年 )十
月」 と明記 している。 どちらが正 しいのであろ うか。
○川原 寺 の 造 営時期
■
発 掘調 査 に よ り
(662年 ∼ 671年 )か 、
天武 朝 (672年 ∼ 686年
斉 明天皇元年 (655年
天智朝
)
■ 『 扶桑略記』には
)
{4)川 原寺 の礎石
奥田尚氏は「鉱物資源の採取と加工」(『 日本の古代 10 山人の生業』 (中
央公論社 ))の 中 で川 原 寺 の礎 石 につ いて次 の よ うに述 べ て い る。
川 原 寺 の礎 石
川 原 寺 は飛 鳥 時代 の寺 で、明 日香村川原 に寺跡 が あ る。 この寺 の 中
金 堂 の礎 石 に 「自薦 喘 」 が使 われ て い る。 また実 見 で きな いが 、天
217
武持 統 陵 と され て い る野 口王 墓 の 石室 に も 「白薦 瑶 」 が使 われ てい
る といわれ てい る。
自踊 瑶 といわれ て い る礎 石 を一つ 一つ 見 て い ったの で あ るが、馬瑞
で は な く、結 晶質石灰 岩 で あ っ た。 風 雨 に よる浸食 の た めか 、表 面
には凹 凸 が あ る。 (中 略 )凸 部 は 自色 の 珪灰 石 とよばれ る針 状 の鉱
物 の集 合 部 で あ る。 (中 略 )結 晶質石灰 岩 を産す る場所 は多 い が、
珪灰 石 を産 す る場所 は少 な い。礎 石 の採 取 地 を求 め るには、結 品質
石灰 岩 中 に珪灰 石 、珪岩 が含 まれ 、そ の 産状 が似 て い る ところを探
せ ば よ い。 (中 略 )大 津 市石 山寺 の境 内 に産す る珪灰 石 は天然記 念
物 に指 定 され て いて 、名 高 い。境 内 には結 晶質石灰 岩 が あち こちに
見 られ 、そ の 中 には珪灰 石や珪岩 が複雑 な形 で含 まれ て い る。 この
含 まれ 方 は、 ま さ しく川 原 寺 の礎 石 と同 じで あ る。 (中 略 )川 原 寺
の 礎 石 は 石 山寺 境 内 か ら運 ばれ た も の で あ る とい う結 論 を得 た 。
(中 略 )
南 門や 回廊 の礎 石 は、 (中 略 )細 川谷 や飛 鳥川 の川原 に見 られ る石
英 閃緑岩 と同 じで あ る。 塔や 堂 の 基壇 の化粧 石 に使 用 され て いた 自
色 の凝灰 岩 は二上 山系 の石材 であ る。
奥 田尚氏
奥 田尚氏 は 「川原 寺」の 中金 堂 の礎 石 は結 品質石灰岩 で あ り、 「滋賀 県大津
市 の 石 山寺境 内か ら運 ばれ た もので あ る」 とい う。
何故 、中金 堂 の礎 石 だ けがわ ざわ ざ滋賀 県大津市 の石 山寺境 内か ら運 ばれ て
い るので あ ろ うか。
(5)川 原 寺 の 建 築 様 式
上野邦一氏は『 古代を考える 古代寺院』 (吉 川弘文館)の 中の「五 天皇
の寺・ 豪族 の寺」で、山田寺の金堂について次のように述べている。
218
○ 山 田寺 の金 堂
古代 の仏 堂 は 、 内側 身合 の柱 数 よ りも外側庇 (ひ さ し)の 柱数 は人
つ 多 いの に、 山 田寺金 堂 は外側 の柱 の数 が 内側 の柱数 と同数 で 、 ほ
か には あま り例 の な い特異 な柱位 置 を持 つ 建物 で あ る。
この 柱位 置 か ら外側 の コー ナ ー にあた る隅柱 で は 四五度 方 向に の み
組物
(く
み もの )を 出す 隅 一組 物 と考 え る こ とがで き る。
上野 邦 一 氏
「組 物 」 とい うの は、深 い軒 を支 える構 造 の仕組 み で柱 の上で 順 次前 へ せ り
出 して い く部材 の組 み合 わせ の こ とで ある。
「隅 一 組 物 」 の後 に 「隅 三組 物」 が登 場す る とい う。 「隅 一 組 物 」 と 「隅 三
組 物 」 の 寺院 につ いて 次 の よ うに述 べ てい る。
○隅 一 組物 と隅三組 物 の 寺院
七 世紀 の寺 院 には、飛 鳥 寺 。四天 王寺 ・ 坂 田寺・ 橘 寺・ 桧 隈寺 、 山
城 の 高麗 寺 。伊 丹廃 寺 、大津 の 穴太廃 寺 、名 張 の 夏 見廃 寺 な ど、隅
一 組物 を用 い る ものが相 当多 くあ る。
七 世紀 後 半 にな る と川 原 寺・ 薬 師寺 をは じめお そ らく大官 大寺 も隅
三組 物 で 、 この 後 の 寺院 は隅 三組物 へ と展 開 して い く。 山 田寺 は隅
一 組 物 の 有力 な寺院 で あ り、川原 寺 は隅 三組 物 を用 い た最 初 の 寺 で
上 野邦 一 氏
あ る と考 え られ る。
「川原寺は隅 三組物 を用 いた最初 の寺である」 とい う。 「川原寺」か ら建築
様式 が新 しくなっている。 「川原寺」はすべ てにおいて画期的な寺院 である。
219
(6)川 原 寺 の 特 徴 (ま
とめ )
上野邦一氏は川原寺の特徴を次のようにまとめている。
川 原 寺 は 、 中金 堂 に大理 石 を使 う、軒 丸 瓦 に複 弁 蓮華 文 を使 う、基
準 尺度 に唐 尺 を用 い るな ど、川原 寺造営 以前 の 諸 大 寺 と異 な り、川
原 寺 の造 営 が 画期 的 で あ った と考 え られ る。
『 古代を考える 古代寺院』
川 原 寺 の 特 徴 を箇 条 書 き にす る と次 の よ うに な る。
○川 原 寺 の 特徴
■
川原 寺 か ら軒 丸瓦 は複 弁蓮華 文 にな る。
■
川原 寺 は隅三組 物 を用 いた最初 の 寺で あ る。
■
‖原 寺 か ら基 準尺度 に 「唐 尺 」 を用 い る。
り
■
川原 寺 の 中金 堂 の礎 石 は石 山寺境 内か ら運 ばれ た もので あ る。
「川原寺」 か ら軒丸瓦 も、建築様式 (組 物 )も 新 しくなる。基準尺度 も 「唐
尺」を使 うよ うになる。古代 の寺院建築にお いて 「川原寺」は新 しい もの を最
初に採用 した画期的な寺 である。
この画期的な寺院 を誰が建立 したのであろ うか。
220
第 2章
筑紫 の川原 寺
221
1
川 原 寺 と長 法 師
(1)晏 法 師
川原寺 の発掘調査によ り、出土 した瓦か ら川原寺 の創 立は天智天皇 の頃 であ
るとい う。そ のため 「日本 の歴史学」は 「自雉四年
(653年 )」
の 「川原寺」
は疑わ しい としている。
『 日本書紀』 の 「自雉四年
(孝 徳 )自 雉 四年
(653年 )」
の記事を詳細に検討 しよ う。
(653年 )六 月、天皇、長法師の命 が終わると聞
いて使 い を遣わ し弔
(と
ぶ ら)う 。井て多 くの贈 り物 を送 る。皇祖
母尊及び皇太子等、皆使 い を遣わ し曼法師 の喪 を弔 (と ぶ ら)う 。
遂 に法師のために査工狛堅部子麻 呂・ 像即魚戸直等に命 じて多 くの仏
菩薩像 を造 る。川原寺に安置す。 (或 本に云 う、山田寺に在 る)
『 日本書紀』
「白雉四年 (653年 )」 の 「川原寺」は曼法師 と関係 がある。畏法師 が死
去 したので「多 くの仏菩薩像を造 り、川原寺に安置す」とある。そ こで まず「曼
法師」について調 べ ることに しよ う。
「607年 」 に阿毎王権 (『 隋書』 の倭国)は 隋へ朝貢す る。 「608年 」
に隋 は表世清を阿毎王権 に派遣す る。
「608年 」に表世清は帰国す る。この とき阿毎王権は学生や学問僧 を唐 (隋
の誤 り)へ 派遣す る。 「遣隋使」である。その 中に 「曼
(推 古)十 六年
(日
文)法 師」が居 る。
(608年 )九 月、唐 の客表世清、罷 り帰 る。則 ち小
野妹子臣を以て大使 と為す。吉士雄成 を小使 と為す。 (中 略)是 時、
222
。
唐国に遣わす学生倭漢直福因 。奈羅訳語恵明 高向漢人玄理・ 新漢
。
。
人大囲、学問僧新漢人 日文 。南淵漢人請安 志賀漢人慧隠 新漢人
『 日本書紀』
広済等、井せて八人な り。
「唐 の 客表世清 」 とあ るが 「隋 」 の誤 りで あ る。
「
阿 毎 王権 が 「隋」へ 派遣 した学生や学 問僧 の 中に 学生 高 向漢 人 玄理 、学 問
「
「
僧 新漢 人 日文 (曼 )、 南淵漢人請安 」等 が居 る。 日文」 は 長 (み ん)」 で
あ る。 皆 「漢 人」 とあ るか ら中国 か らの渡来人 で あ る。
「618年 」 に 中国 の王 朝 は隋 か ら唐 に交代す る。
「 632年 」 に 「曼 (み ん )法 師 (僧 長 )」 は唐 が 派遣 した高表仁 に従 い 帰
国す る。
(舒 明)四 年
(632年 )八 月、大唐、高表仁 を遣わ し三 田相 を送 る。
共に対馬 に泊まる。是時、学問僧霊雲 。僧晏及 び勝鳥養、新羅 の送
『 日本書紀』
る使 い等は之 に従 う。
高表仁 は阿毎 王権 に来ている (古 代史の復元⑦『 天智 王権 と天武王権』)。
唐 と交流 して い るのは阿毎王権 である。
長法師 は阿毎 王権 が派遣 した学問僧である。阿毎王権 に帰国す るのは 当然 で
ある。阿毎 王権 の本拠地 は筑前 の鞍手郡 である (古 代史 の復元⑥『 物部 氏 と蘇
我氏 と上宮 王家』)。 長法師 は唐か ら筑前に帰国 している。長法師 は筑前 の人
である。
曼法師 は「608年 」に隋へ行 き、「632年 」に唐か ら帰国 している。「2
4年 間」 も中国で学 んでいる。
223
(2)
「天武天皇 の父 」 と長法師
畏法 師 が 帰 国 した 「 3年 後」の 「635年 」に阿毎 王権 か ら 「天武 王権 」に
交代 す る。天武 王 権 を樹 立 したのは 「天武天皇 の 父」で あ る。天武 王 権 の 本拠
地 は筑 前 の宗像 で あ る。 「天武 王権 」は 「阿毎 王権 」 か らす べ て を引 き継 いで
い る (古 代 史 の復 元⑦『 天智 王権 と天武 王権』 )。
長法師や高向玄理 も阿毎王権 か ら引き継 いでい る。 「天武天皇の父」は唐か
ら帰国 した曼法師 と高向玄理を国博 士 に任命する。
(孝 徳)即 位前紀
(645年 )、
沙門曼法師・ 高向史玄理を以て国博
士と為す。
『 日本書紀』
『 日本書紀』は 「孝徳紀」 としているが、天皇は 「天武天皇の父」である。
『 日本書紀』は 「天武王権」を抹殺 している。 「天武天皇の父」を 「孝徳天皇」
や 「斉明天皇」に書き変えている
(古 代史の復元⑦『 天智王権 と天武王権』)。
晏法師 と高向史玄理は 「天武王権」の国博士とな り、北部九州
(筑 前)に 住ん
でいる。
「 653年 5月 」 に 「長法師」 は病気 にな る。
(孝 徳 )自
雉四年
(653年 )五 月、是月、天皇、晏法師の房に幸 し
て其の疾 を問 う。 (或 本に、五年 七月に云 う、僧長法師阿曇寺に於
いて病に臥す。是に於いて天皇 、幸 して之を問 う。例 りて手を執 り
て 曰く、 「若
(も
)し 、法師今 日亡
む」 とい う。 )
(し )な ば、朕従いて明 日亡な
『 日本書紀』
『 日本書紀』 は 「孝徳紀」 として書いているが、天皇は 「天武天皇 の父」で
ある。天皇は晏法師の手を執 り、 「若 (も )し 、曼法師が今 日亡 (し )な ば、
朕従 いて明 日亡なむ」 と述べ ている。 「天武天皇の父」は晏法師 を篤 く敬 い、
224
であ
の
最 高 の 人物 と して尊敬 してい る こ とがわか る。これ らは北部 九州 出来事
る。
注 目 した い の は 「或本 」に 「五年 七月」 とあ る こ とで あ る。曼法師 は
「
「
四年 (653年 )六 月」 に死去 して い るか ら 五 年 七月」 は 自雉 五 年
「白雉
(65
4年 )」 で はな い。
「或 本 」 の 「五 年 」 とは いつで あろ うか。 「天武 天 皇 の 父」 の 時代 で あ るか
「
ら 「天武 天 皇 の 父 」 の 「五年 」 で あ ろ う。天 武 王 権 の 年 号」 は次 の よ うにな
って い る。
○ 「天 武 王 権 」 の 王 と年 号
■
僧要
■
命長
■
常色
■
自雉
■
自鳳
635年
640年
647年
652年
661年
-639年
-646年
‐-651年
-660年
-683年
初代
(天 武天 皇 の 父 )
二代 目 天武 天皇
「天武 王権」 の 「自雉 五年」 は 「656年 」 である。晏法師は 「653年 6
月」に死去 して い るか ら 「五年 七月」 は 「自雉 五年 (656年 )」 ではない。
「
曼法師 が病 に臥 した とい う「五年 七月」は 常色 五年 (651年 )七 月」で
「
6
あろ う。長法師 は 「常色 五年 (651年 )七 月」に病気 にな り、 653年
月」に死去 しているのであろ う。
○晏法師 の病気 と死去
■
畏法師
病気 にな る。
常色 五年
■
晏法 師
死去
自雉 二年
これ が正 しい こ とを検証 しよ う。
225
(651年 )七 月
(653年 )六 月
「改新之詔」が出されるのは『 日本紀』の 「 (天 武天皇の父)自 雉元年 (6
52年 )」 である。『 日本書紀』はそれを「 (孝 徳)大 化二年 (646年 )」
に書き変えている (古 代史の復元⑦『 天智王権と天武王権』)。
『 日本書紀』の 「 (孝 徳)大 化二年 (646年 )」 は『 日本紀』の 「 (天 武
元年
(645年 )」
(652年 )」
であるから『 日本書紀』の 「 (孝 徳)大 化
は『 日本紀』の 「常色五年 (651年 )」 になる。
天皇の父)自 雉元年
○『 日本紀』と『 日本書紀』の年代
『 日本書紀』
■
■
(孝 徳 )大 化 元年 (645年 )⇒
(孝 徳 )大 化 二 年 (646年 )→
『 日杢起上
(天 武 の 父 )常 色 五 年
(天 武 の 父 )自 雉 元年
(651年
(652年
)
)
「常色五年」は 「651年 」であり、 「自雉二年」が 「653年 」である。
長法師は 「常色五年 (651年 )七 月」に病気になり、 「白雉二年 (653
年)6月 」に死去 している。 「或る本」の 「五年七月」 と一致する。 「五年七
月」はやは り「常色五年 (651年 )七 月」である。
「或る本」 とは『 日本紀』ではないだろうか。 日本紀』は 「天武王権」の
『
時代は 「年号」を用いて記述 している (古 代史の復元⑦『 天智王権 と天武王
権』)。 「五年七月」 とは 「常色」年号の 「五年七月」であろう。
長法師 は 「天武 王 権 」 の僧 で あ る。 「天皇」は 「天武 天 皇 の 父 」で あ る。 こ
れ らはす べ て北 部 九州 (筑 紫 )の 出来事 で あ る。
「 653年 」に長法 師 が死去 す る と「天武天皇 の 父」は晏法 の 死 を悼 「
師
み 多
くの 仏菩 薩像 を造 り、川 原 寺 に安 置す 」 とあ る。 「川原 寺」 は筑紫 に創建 され
てい る。
従 来 は 、 「自雉 四年
(653年 )」
の 「川原 寺」 を 「大和 の川 原 寺」で あ る
と解 釈 して 、大和 の川原 寺 を発 掘調査 して 「大和 の川 原 寺」は天 智 天皇 の 頃 の
226
建 立で あ るか ら「自雉 四年
(653年 )」
の 「川原 寺」は疑 わ しい と して い る。
それ は誤 りで あ る。
「川 原 寺 」 は二 つ あ る。 「自雉 四年
(653年 )」
の 「川原 寺 」 は筑 紫 に あ
り、 「 673年 」 の 「川原 寺」 は大和 にある。
○ 二 つ の 「川 原 寺 」
■
「 653年 」 ころの 川 原 寺 …
筑紫 の川原 寺
■
「 673年 」 こ ろの川 原 寺 …
大和 の川原 寺
(3)
「筑 紫 の 川 原 寺 」 の 創 建
天武天皇の父は 「仏教の興隆」に力を入れる。
■
(孝 徳 )大 化 元年
(645年 )八 月 、故 、沙 門狛 大法師・ 福 亮・ 恵
雲・ 常安 ・ 霊 雲 ・ 恵 至・ 寺 主僧 長・ 道 登 ・ 恵 隣・ 恵妙 を以て十師 と
為 す。 別 に恵妙 法師 を以 て 百済寺 の 寺 主 と為す 。 此 の 十 師等 、宜 し
く能 (よ )く 衆 の僧 を教 え導 き、釈教 (ほ とけのお しえ)を 修行 し、
要 (か な ら)ず 法 の 如 くな ら しめ よ。
■
(孝 徳 )大 化 元年
(645年 )八 月 、凡そ天皇 よ り伴 造 に至 るまで 、
造 る所 の 寺 、営 (つ く)る こ と能 (あ た )わ ず ば、朕 皆助 け作 らむ。
今 寺 司等 と寺 主 とを拝 せ む。 諸寺 を巡行 して僧 尼 。奴 婢 。田畝 の 実
を験 (か んが )え て蓋 く顕 (あ き ら)め 奏 せ よ」 とい う。 即 ち来 目
臣、 三 輪色 夫君 ・ 額 田部連甥 を以 て法 頭 とす 。
227
『 日本 書紀』
『 日本書紀』は 「孝徳紀」としているが、晏法師 (寺 主僧曼)が 出てくる。
北部九州の話である。天皇は 「天武天皇の父」である。『 日本紀』の 「天武天
皇の父」を『 日本書紀』は 「孝徳天皇」に書き変えている。
『 日本書紀』の 「 (孝 徳)大 化元年 (645年 )」 は『 日本紀』の 「 (天 武
の父)常 色五年
の父 )常 色五年
(651年 )」
(651年 )」
である
(前 述)。
「天武天皇の父」は 「 (天 武
に 「十師」 を任命 して 「宜 しく能 (よ )く 衆 の
僧 を教 え導 き、釈 教 (ほ とけのお しえ)を 修 行 せ よ」 と命 じて い る。
さ らに天武 天皇 の 父 は 「凡そ天皇 よ り伴造 に至 るまで 、造 る所 の 寺 、営 (つ
く)る こ と能 (あ た )わ ず ば、朕 皆助 け作 らむ」 と述 べ て い る。 r天 皇 か ら伴
造 に至 るまで 、造 る所 の 寺」 とあ る。 「天皇」 も寺 を造 ってい る。 「天武 天 皇
の 父 」 は 「川原 寺 」 を造 つてい るのでは な い だ ろ うか。
「 653年 6月 」 に曼法師 が死去す る と 「天武 天皇 の 父」 は 「多 くの 仏 菩薩
像 を造 り、川 原 寺 に安 置す」 とあ る。尊敬 す る長法師 が死去 した ので 天 皇 は 自
分 が造 った 「川原 寺」 に仏菩薩像 を安置 して い るの で あろ う。
「 (孝 徳 )自 雉 四年 (653年
『 日本 書紀』 で は 「川 原 寺」 は
完成 して い るよ うに思 われ る。
)六 月」 には
ところが『扶桑略記』は次のように書いている。
斉 明天皇
二十 九代
女帝
前名 皇極 天皇
元年 十 月 、飛 鳥板 葺 宮火 災。 (中 略 )天 皇遷 幸飛 鳥川 原 宮。 造川 原
寺。
『扶桑略記』
『 扶桑略記』 には 「斉明天皇元年 (655年 )十 月」条に 「造川原寺。」 と
ある。 「川原寺」の完成は「655年 10月 」である。 「 (孝 徳 )自 雉四年 (6
53年 )六 月」には 「川原寺」はまだ完成 していない。
そこで『 日本書紀』の 「 (孝 徳)自 雉四年
てみよう。
(653年 )六 月」条を改めて見
228
│
______」
(孝 徳 )自 雉 四年
(653年 )六 月 、天皇 、長法師 の命 が 終 わ る と問
い て使 い を遣 わ し弔
(と
ぶ ら)う 。 (中 略 )遂 に法師 のた めに査 工
即魚戸直等に命じて多くの仏菩薩像を造る。川原寺
狛堅部子麻呂・魚
『 日本書紀』
に安置す。 (或 本に云う、山田寺に在る)
天皇は 「晏法師 の命 が終わる と聞いて使 い を遣わ し弔 (と ぶ ら)う 。」 とあ
り、「遂に法師 のために査 工狛堅部子麻呂 。魚即魚戸直等に命 じて多 くの仏菩薩
「
像 を造 る。」 とある。長法師 が死去 してか ら 豊 工に命 じて多 くの仏菩薩像」
を造 らせて いる。
多 くの仏菩薩像 を造 るには年月 が必要である。「6ヶ 月」以 上はかかるであ
ろ う。 「仏菩薩像」が完成す るのは 「654年 」以降 である。 「多 くの仏菩薩
像 を造 り、川原寺に安置す」 とあるのは 「653年 」 ではないことがわかる。
「多 くの仏菩薩像 を造 り、川原寺に安置す る」のは 「654年 」以降 である。
そ うであれば『 扶桑略記』の 「川原寺」の完成は 「655年 10月 」 とあるの
が正 しいことになる。
「多 くの仏菩薩像」 を造 り、 「655年
10月 」に完成 したばか りの 「川原
寺」に安置 して い るのであろ う。 「655年 」 は 「天武天皇 の父」の時代であ
る。 「川原寺」 を創建 したのはやは り「天武天皇 の父」であろ う。
○筑紫 の川原寺 の創 建
■ 川原寺 の創建
655年 10月
■ 川原寺 の創建者
天武 天皇 の 父
229
2
天武天皇 と川原寺 の移築
(1)筑 紫 の 川 原 寺 と大 和 の 川 原 寺
「自雉 四年
(653年 )」
に曼法師 が死去す ると 「天武天皇 の父」は長法師
のために多 くの仏菩薩像 を造 り、 「655年 」 に完成 したばか りの 「川原寺」
に安置 している。 「筑紫 の川原寺」である。
次 ぎに 「川原寺」が出て くるのは 「673年 」 である。
(天 武)二 年
(673年 )二 月、是月、書生を衆
一切経を川原寺に於いて写す。
(あ つ)め て始めて
『 日本書紀』
「 673年 」に 「川原 寺 に於 いて一 切経 を写す 」 とあ る。 「 672年 」の 「壬
申の 乱 」 の 翌年 で あ るか ら 「大和 の川原 寺」 で あ る。
「655年 」 の 「川原 寺」 は筑紫 にあ り、 「673年 」 の 「川 原 寺」 は 「大
和 の飛 鳥 」 にあ る。 「筑紫 の川原 寺」 の方 はそ の後 の『 日本 書紀 』 に も、『 続
日本紀』 に も出て こない。 出 て くるのは 「大和 の川原 寺」だ けで あ る。 「筑紫
の川原 寺」 は大和 に移 築 され たのではないだ ろ うか。
「飛 鳥 の三 大寺」 は 「大官 大寺・ 飛鳥寺 。川原 寺」 で あ る。 「大官 大寺」 と
「飛 鳥 寺」は天武 天 皇 が北 部 九州 か ら大和 に移 築 して い る (本 書 )。
「川原 寺」
も天武 天 皇 が筑紫 か ら 「大和 の飛鳥」に移 築 してい るので はな いだ ろ うか。そ
のた め 「飛 鳥 の三 大寺 (大 官大寺 。飛 鳥寺 。川原 寺 )」 は天武 天皇 に とつて も
っ とも重 要 な寺 とな って い るので あ ろ う。
230
(2)
「飛鳥 の三 大寺」 と天武天皇
「飛 鳥 の三大寺 (大 官 大寺 。川原 寺・ 飛鳥寺 )」 の 中で も 「川 原 寺」 は天武
天 皇 に とつて 特別 な寺 で あ る。 それ は移 築 した場所 を見れ ば よ くわ か る。
図
原
4(p208)
「
図 の 中 で「飛 鳥京 (飛 鳥浄御 原 宮 )」 とあるのが 天武 天皇 の 宮殿 で ある。 川
寺」は飛 鳥浄御 原 宮 のす ぐ西 にあ る。 「川原 寺」は天武 天 皇 の 宮殿 の 隣 に移
築 され て い る。天武 天皇 は 「川原 寺」を特別 な寺 と してい る こ とが よ くわ か る
で あ ろ う。 「天武 天 皇 の 父」 が創 建 した寺だか らで あろ う。
「飛 鳥 寺 」 は飛 鳥浄御 原宮 の真 北 に移 築 して い る。 そ の位 置 を見 る と天武 天
皇 は「飛 鳥寺」も重要 な寺 と してい る こ とがわか る。しか し距離 は離れ てい る。
「川 原 寺」 よ りも身近 な寺 では な い とい える。
「飛 鳥 寺 」 は阿毎 王 権 が筑前 に創 建 した 「元興 寺」 であ る。 「 635年 」 に
「天武 天 皇 の 父 」 は阿 毎 王 権 か ら王権 を奪 い 「天武 王 権 」 を樹 立す る。 そ の と
「
きか ら 「元興寺」 は 「天武 王 権 」 の 寺 にな る。 この よ うな背 景 か ら 飛 鳥寺 」
「
も 「天武 王権 」 に とつて重要 な寺で あ るが、 川原 寺」 よ りも離 れ た ところに
移 築 して い る。
「大官 大 寺」 は舒 明天皇 が肥前 の神埼郡 に創 建 した 「百済 大寺」 で あ る。 一
度火 災 に遇 い 斉 明天皇 が再建 す る。それ を天武天 皇 が肥 前 か ら大和 の 高市郡 に
移 築 して 「大官 大寺 」 に して い る。
「大官 大寺」 は敵 の 「天智 王権 」 が創建 した寺 で あ る。 しか し 「九重塔 」 と
い う日本列 島 の 中 で は もっ とも大 きな寺 で あ る。天武 天皇 は敵 が造 った 寺 で は
あ るけれ ども最 大 の寺 で あ る こ とか ら大和 に移 築 して 「大官 大 寺」 に して い
る。今 の 「吉備 池廃 寺」 で あ る。 図 5
231
図
5
吉備池廃寺と飛鳥浄御原宮
(『 飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』木下正史、角川選書)
`` ′ `
ヽ
一 キル ヽ一
、
、
国道 Z
新ノ
日回
▲
帥・
耳ヽ
下・
ツ満
〆
耳成 駅
´… … 司
卍
藤陳 1宮
ヽ﹁
Ⅲ
■
`ヽ
墟
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木
、
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国 ︺疇
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膳夫寺
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寺
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│
●■一
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■■■ 一 ■〓 ●●
学
′
卍飛勝
i)
・ 天武・持織繊
‐■‐‐
=・
・ ―■
│.│■
=当
国璽_上_斗
■
.
・ 書松燎音墳
ヽ.
飛鳥・ 藤原京 と大官大寺・ 百済大寺周辺図
232
「吉備 池廃 寺 (大 官 大寺 )」 は 「飛鳥 の三大寺 」 の 中で は飛 鳥 浄御 原 宮 か ら
最 も離れ た ところに移 築 され てい る。敵 の 「天智 王 権 」が造 った 寺 だか らで あ
ろ う。
この よ うに「飛 鳥 の三大 寺」はす べ て天武 天皇 が北部 九州 か ら大和 に移 築 し
た寺 で あ る。
(3)
「大和 の川原寺」 の創 建 (移 築 )時 期
「大和 の川原寺」は筑紫 の川原寺を移築 している。その時期はいつ頃であろ
うか。
「大和 の川原寺」は 「壬申の乱」後 の 「673年 3月 」 に初 めて出て くる。
大和 の 「川原寺」は 「673年 3月 」 には存在 している。
天武天皇は 「663年 」の 「白村江 の戦 い」に敗れ て、唐 に 「筑紫」を割譲
して大和 へ移住す る。大和に入 るのは「667年 」である (古 代史 の復元⑦『 天
智 王権 と天武王権』)。
天武天皇が大和に 「川原寺」を移築するのは 「667年 」以降 である。 「 6
73年 」には完成 しているか ら「川原寺」が大和に移築 され るのは 「667年
∼ 673年 」 の 間 とい うことになる。
「667年 」 に天武天皇は大和に入 って もす ぐに寺院 の造営に取 りかかる余
裕 はない。唐 。新羅 と戦 うための準備 が先決 である。
その 「5年 後」 の 「 672年 」には 「壬申の乱」 がは じまる。 「壬 申の乱」
では天武天皇は綿密な計画を立て 、十分な準備 を している (古 代史 の復元⑦
『天
智王権 と天武 王権』)。 そ の間に寺院を造営 した り、移築す るの は無理であろ
う。 「大和 の川原寺」は 「672年 」の 「壬 申の乱」の後に移築 しているので
はないだ ろ うか。
そ うであれば 「大和 の川原寺」は 「672年 ∼ 673年 」の間に移築 された
ことになる。
233
○川 原 寺 の移 築 時期
■
672年
移 築 の 時期
(4)
^‐
673年
「川原 寺 」 の移築時期 の検証
文献 か ら得 られ た 「川原 寺」 の移 築時期 は 「 672年 ∼ 673年 」 で あ る。
それ を考 古学 か ら検 証 しよ う。
『 奈 良国立文化財研究所 年報 1997-Ⅱ 』 (奈 良国立文化財研究所、
1997年 )に 「川原寺の調査」がある。大和の川原寺の寺域西南部 を調査 し
ている。
川 原 寺 の 寺域 西南部 の調 査
(1996年
2次
)
[遺 構 ]
調 査 に よつて検 出 した 遺構 には、掘 立柱建 物 、掘 立柱塀 、斜行溝 、
井 戸 、 土坑 な どが あ り、 これ らは川原 寺創 建 前後 の 7世 紀代 の 遺構
と、瓦器 を伴 う 12世 紀代 の遺構 とに大別 され る。
7世 紀代 の 主 た る遺構 には 、斜 行溝 1,掘 立 柱建 物 2が あ り、掘 立
柱建 物 は、斜 行溝 を埋 めた後 に建 て られ てい る。
斜 行溝 SD367は
幅
1.7m-3.Om、
、発 掘 区 の ほぼ 中央 を東 北東 か ら西南西 に走 る
深 さ 0.9m-1.4mの 断 面 U字 形 を呈す る大
型 の 素掘溝 で あ る。 (中 略 )
下層 には 7世 紀 前 半 の 遺物 が含 まれ 、 上 。中層 か らは馬 の 下顎骨や
7世 紀前 半 の 土器 な どと共 に 7世 紀 中頃 の遺物 が 出土 した。
『 奈良国立文化財研究所 年報
234
1997-Ⅱ 』
大型 の素掘溝 である 「斜行溝 SD367」 が検出 された。 「下層には 7世 紀
前半 の遺物が含まれ」ているとい う。 「上 。中層 か らは馬 の下顎骨や 7世 紀前
半 の土器 な どと共に 7世 紀中頃 の遺物 が出土 した」とある。 「斜行溝 SD36
7」 は 「7世 紀後半」 に掘 られて いるのであろ う。
「斜行溝 SD367」 か らは川原寺 の創建瓦も出土 している。
[SD367出
土遺物 ]
○瓦博 類
上 。中層 に川 原 寺創 建 の 軒 丸 瓦 601型 式 5点 、 四重 弧紋 軒平 瓦 2
点 、 同心 円紋 叩 き博 1点 と創 建 時 の 丸 ・ 平 瓦 が あ り、 下層 には 同心
円紋 叩 き博 1点 が あ る以外 瓦類 はない。 (中 略 )中 層 には少 量 の創
建 瓦 の ほか に飛 鳥 時代 の 丸 。平瓦 が あ る。
○ 土器 類
下層 には土師器杯 G、 杯 H、 杯 C、 高杯 H、 高杯 C、
る。 これ らの 特徴 は飛 鳥 Iの 「斜行溝 SD02」
中層 には土師器 杯 C、 杯 X、 杯 G、
(中
略 )が あ
と一 致 してい る。
(中 略 )な どが あ る。 土師器杯
CI、 須 恵器 杯 類 の特徴 は飛 鳥 池遺跡 の灰 緑 色粘 砂層 の 土器 群 と類
『 奈 良国 立文化財研 究所
似 す る。
年報
1997-Ⅱ
』
「斜 行 溝 SD367」
どと共 に 7世 紀 中頃
の 「上 。中層 か らは馬 の 下顎骨や 7世 紀 前 半 の土器 な
の遺物 が出土」 した とあ る。 また 「上 。中層 に川原 寺創 建
の軒 丸瓦 601型 式 5点 」が含 まれ て い る とい う。 「川原 寺 の創 建 軒 丸瓦」 は
「 7世 紀 中頃 の 遺 物 」 と共 に出土 して い る。 「川 原 寺 の創 建 軒 丸 瓦」 は 「 7世
紀 中頃」 まで には造 られ てい る。 「川原 寺 の創 建 」は 「 7世 紀 中頃」 とい うこ
とにな る。
従 来 は 「大和 の川原 寺」を発 掘調 査 して 「瓦 の様 式 な どか ら、寺 の創 立 は天
智天 皇 の 頃 とみ られ るか ら、 自雉 四年
(655年 )に 川原 寺 が あ った とす るの
は無理 で あろ う」 と して きた。それ が誤 りで あ る こ とが発 掘調 査 に よ り明 らか
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にな った。 「川 原 寺 の創 建 」は 「 7世 紀 中頃」 で あ る。 ただ し、それ は 「筑 紫
の川 原 寺 」 で あ る。
『扶桑略記』には「 (斉 明)元 年 (655年 )十 月、飛鳥板葺宮火災。 (中
略)天 皇遷幸飛鳥川原宮。造川原寺。」とある。それと一致する。『扶桑略記』
の記事は正しいことが発掘調査により証明された。
「筑 紫 の川原 寺」 の創 建 は 「655年 (7世 紀 中頃 )」 で あ り、 「 672年
∼ 673年 (7世 紀後 半)」 に大和 に移 築 され た とい う私 の説 は発 掘調 査 に よ
り立証 され た。
(5)川 原 寺 の礎石 と 「壬 申の 乱」
川原 寺 の 中金 堂 の礎 石 は結 品質石灰岩 で あ り、滋賀県 大津 市 の 石 山寺境 内か
ら運 ばれ た もので あ る とい う。 「大津市」は 「壬 申 の乱」の ときの 「天智 王 権 」
の 「大津宮」 が在 つた ところで あ る。
「667年 2月 」 に斉 明天皇 が大 和 の飛鳥 で死去 す る と、翌 月 (3月
智天 皇 は即位 し、直 ちに近江 へ 逃 げ る。翌年
)に 天
(668年 )に は 「天智 王権 」 を
樹 立 して 「中元年 号」 を建 て る。天智天皇 は 「上宮 王権 」 を再興 した ので あ る
(古 代 史 の 復 元⑦『 天智 王権 と天武 王 権』 )。
これ に よ り日本列 島 には「天武 王権 」と「天智王権 」が 併存す る こ とにな る。
天武 天 皇 は これ に我慢 で きな くな り、 「672年 6月 」に 「壬 申の 乱」 を起 こ
して 「天智 王 権 」 を滅 ぼす (古 代 史 の復 元⑦『 天智 王権 と天武 王 権』 )。
天武 天 皇 はそ の 戦勝 記念 と して大津 市 の石 山寺境 内 か ら川 原 寺 の 中金 堂 の
礎 石 を 「天智 王 権 」 の 人 々 に運 ばせ た ので はな い だ ろ うか。
川 原 寺 の移 築 は「 673年 3月 」には終 わ つてい る。「 672年 7月 」に「壬
申 の 乱」が 終 わ る と川原 寺 の 中金 堂 の礎 石 を大津市 の石 山寺境 内 か ら飛 鳥 に運
ばせ てい るので あろ う。
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「筑 紫 の川原 寺 」 を大和 に移 築す るの に 「壬 申の 乱」 が 終 わ った 「672年
7月 」か ら「 673年 3月 」ま で の 「 10ヶ 月」で は無理 で あ ろ う。 「川原 寺」
の移 築 は もっ と前 か ら始 ま つて い るので はないだ ろ うか。
天武 天皇 は 「667年
11月 」に大和 に入 る。そ の ときか ら 「宮殿 」 と 「川
「
原 寺」をセ ッ トで造 る こ とを考 えていた ので はな いだ ろ うか。宮殿 の 隣 に 川
原 寺」 が移 築 され てい る。
しか も「川原 寺」の 門は南 門 よ り東 門 の方 が大 きい とい う。東 にあ る宮殿 か
ら天武 天皇 が 「川原 寺」に出入 りす る こ とを考 えて東 門 は大 き く造 つて い るの
で あ ろ う。
「宮殿 (飛 鳥浄御 原 宮 )」 の完成 は 「壬 申の 乱」 の年 の 「 672年
10月
」
で あ る。
(天 武 )元 年
(672年 )、
九 月 、嶋宮 よ り岡本宮 に移 る。 是歳 、宮
室 を岡本 宮 の 南 に営 (つ く)る 。 即 、冬 に遷 り居 す。 是 を飛鳥 浄御
原 宮 と謂 う。
冬十 一 月 、新 羅 の 客金押 実等 を筑紫 に饗 (あ )え た ま う。
『 日本書紀』
飛 鳥浄御 原 宮 は 「 672年
10月 」に完成 してい る。 「壬 申 の 乱」が終 わ る
「672年 7月 」 か ら宮殿 の 造営 を始 め る と 「 3ヶ 月」 しか な い。 「 3ヶ 月」
で は宮殿 を造 るの は無理 で あ ろ う。宮殿 の造営 は 「壬 申の 乱」が始 ま る前 か ら
行 われ て い る。
「川 原 寺」 も翌年
(673年
3月
)に は完成 してい る。 「川原 寺」 の 「移 築 」
も 「壬 申の 乱」 が始 ま る前 か ら始 ま つてい るので あろ う。
九州 か ら寺院 を移 築す るの は容易 ではない。特 に大寺 院 の礎 石 を九州 か ら運
搬 す るの は大変 で あ る。 「川原 寺」の 中金 堂 の礎 石 は大 きす ぎて 九 州 か ら運 ぶ
の を諦 めたのか 、それ とも運 んでい る途 中で海 に落 と したの で あ ろ う。川原 寺
が大和 に運 ばれ た ときには 中金 堂 の礎石 は無 か った。そ こで礎 石 にな る石 を探
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して いたので あ ろ う。 そ の とき 「壬 申の乱」 が始 ま った。 「壬 申 の 乱」 で勝利
す る と 「天智 王 権 」 の 石 山寺境 内 の結品質石灰 岩 に 目を付 けて 、それ を 「天智
王 権 」 に運 ばせ た ので あろ う。 こ う して 「川原 寺」 の移 築 は完 了 した。
「川 原 寺 の 中金 堂」は 「壬 申の 乱」の戦勝記念 の礎 石 の上 に建 て られ てい る。
{6) 「筑紫の川原寺」の候補地
「筑紫 の川原 寺」 は何 処 に創建 され た ので あ ろ うか。
創 建 した の は 「天武 天皇 の 父」で ある。天武 天皇 の 父 は 「百済救援 」を決 意
して宗 像 か ら筑 紫 へ 移 る。唐 。新羅 と戦 うた めに太宰府付 近 (筑 紫 野市天 山)
に本 陣 を構 え る (古 代 史 の復 元⑦『 天智王権 と天武 王権』 )。
本 陣 (筑 紫 野市天 山)の 西 に天拝 山 があ る。そ の 麓 の筑 紫 野市 大字塔原
うの は る)に
「塔 ノ原
(と
(と
うの は る)廃 寺」が あ る。 自鳳 時代 の寺 院跡 で あ る
とい う。今 は塔 の礎 石 だ けが残 つてい る。巨大 な塔 心礎 には方形 の舎利 孔 が あ
る。
「筑紫 の 川原 寺」 は 「塔 ノ原
(と
うの は る)廃 寺」 では な いだ ろ うか。 一つ
の候補 地 で あろ う。
(注 記 )「 平城 京遷 都 」 の とき飛 鳥や藤原 京 に あ つた 大寺 は平城 京 へ 移 築 され
た。 ただ 「川原 寺」 だ けは平城 京 へ 移 され なか った。 それ が謎 とされ て い る。
「川 原 寺 」 は 「天武 天 皇 の 父 」 が創 建 した寺 で あ り、 「壬 申の 乱」 の戦勝記 念
の礎 石 の上 に建 て られ てい る。 「天武 王権 」を象徴 す る寺 で あ る。 「天智 王権 」
はそれ を嫌 って 平城 京 へ 移 築 を しなか ったので あろ う。
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