A―4 「仏教公伝」の起源

A―4
「仏教公伝」の起源
飛鳥が仏教公伝の地であること知っていますか?
*公伝とはなに?
宗教は人間個人が信じる考え方で本来押し付けられるモノではない。従って仏教も
人の移動と共に波のように繰り返し伝来されてきたはずで時期の設定は困難ですが、
公伝となると国間で正式に伝来したと見なせる記録が必要となる。
我国への仏教公伝も欽明朝に百済・聖明王(くだら・せいめいおう)から仏像と経
典が贈られたとする史料に基づいて定められているが複数の記録が残されており各々
が異なった時期を示しているために下記に示す二説がある。
*どんな仏教だったの?
仏教はインドが発祥の地ですがシルクロードを通じて中国に伝来し、在来の道教や
儒教と融合しながら中国文化で体系化された大乗仏教で、思想だけでなく工業技術を
含めた当時としては最先端の総合文化であり、中国周辺国にとって仏教伝来はその国
のレベル向上に画期的な効果があった。
従って周辺諸国は積極的に導入を計ったはずで陸続きの半島では比較的早く、四世
紀の後半には高句麗や百済に公伝されたとしている。
倭国においても半島との交流窓口であった九州圏には人の移動と共に公伝前に仏教
は伝来していたと考えられ、飛鳥地域でも5~6世紀には多数の渡来人が定住してお
り個人的信仰として伝来していた可能性はある。
仏教公伝の六世紀前半は半島で三国(高句麗、百済、新羅)が覇権を争っており、百済
が倭国から軍事支援を得るための代償としての仏教公伝で政治色の濃い内容であった
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といえます。
その後百済以外の新羅や高句麗からも仏像・経典・僧尼の提供があり我国の仏教は
当時としては最新の文化として導入されており、推古朝(7c)では中国との直接交流で
仏教文化の興隆期を迎えることになります。
*538 年説とは?
飛鳥寺の寺伝としての「元興寺縁起(がんごうじえんぎ)」や「上宮聖徳法王帝説(じ
ょうぐうほうおうていせつ)」に百済・聖明王が釈迦像、灌仏会(かんぶつえ)の器及
び経典を戊午(つちのえうま)年(538)に贈ったと記録されていることにあり、この
538 年は百済が高句麗の南進攻勢で首都をそれまであった熊津(ゆうしん)から扶余
(ふよ)へ遷都を余儀無くされた年で、聖明王は高句麗の更なる南下を阻止するため
に倭国に軍事支援を求めた使者と共に仏教をもたらせたとする説が学校教育でも通説
となっている。
*552 年説とは?
「日本書紀」は欽明朝に仏教公伝があったとする伝承を優先させたと考えられ、「紀」
の編年で欽明朝に戊午年は無く 538 年は宣化朝に当り伝承と矛盾する為欽明 13 年(5
52)に設定したとされる。この年はインドで釈迦入滅後の仏教:三法思想による正法
(しょうほう)五百年、像法(ぞうほう)千年、が経過して末法(まっぽう)万年に
突入する第一年目にあたる 552 年であることを日本書紀の編纂者は知っており仏教史
的に由緒ある年を選定したと考えられる。
この頃百済は高句麗を撃退したが新羅が強大化しており、任那との関係で倭国に支
援を求めたとされ、聖明王没年の前年にあたっている。
*仏教はすなおに受け入れられたの?
公伝された仏教は最初大王家では保護されず、個人的に蘇我稲目(そがのいねめ)
が祭ったとされているが在来神の信仰を絶対とする廃仏派の迫害を受け仏像が「難波
の堀江」に投棄されたりしたものの渡来人を中心とした尼・僧により信仰が続けられて
いた。
崇峻(すしゅん)朝で廃仏派の物部氏を打倒して覇権を確保した蘇我馬子が推古朝
に我国最初の本格的寺院「飛鳥寺」を建立して仏教流布に貢献したがあくまで私的寺院
であり、官寺としては舒明(じょめい)朝の「百済(くだら)大寺」の発願が仏教公伝
から百年後になり国家仏教としての最初といえる。
この仏教伝来の謎の原因は在来宗教である神道との軋轢によるものと考えられるが、
飛鳥時代の幕開けは仏教伝来と共にあり、その興隆により半島や中国から最先端の文
化、技術、制度等を導入し国家形成の基礎を築いたのがこの飛鳥の地であるといえま
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す。
最近の調査では廃仏派とされる物部氏も仏教寺院(渋川廃寺)を建立し、百済との
関係維持に努めていたとされ、渡来人のもたらす文化・技術導入に積極的だった様で
結局は渡来人の争奪合戦の結果、蘇我氏に敗れたのではなかろうか?
<註>
大乗仏教:インドから仏教が北(陸路)廻りで伝来、南(海路)廻りは小乗仏教で東南アジ
ア普及
かんぶつえ
潅仏会:釈迦誕生仏を本尊としてまつる 4 月 8 日の誕生会
三法思想:正・像・末を三法とし、正法では教・行・証が存在、像法では証が無くな
り教・行のみとなり、末法では行・証ともに無く教のみの最悪の時代に突
入し、弥勒菩薩の出現まで永遠に続くとした仏法
難波の堀江:現在の天満橋あたりの大川で当時の河内湖と大阪湾をつなぐ割り堀とさ
れる
百済大寺:九重塔があったとされ移転されて高市大寺、大官大寺と改名、大王家最初
の官寺とされるが所在地に諸説あり
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