っ たか の @ま、 卜 リ ラ りよ か 神功皇后伝承の形成 ㈹神功皇后伝承の研究の趨勢 セ 世紀 の大和朝廷の 神功皇后、倭名オキナカタラシ ヒメ の古典的伝承 か、そ のままの 歴史的史実と見なさるべきものではなく、六、 治 ・軍事・外交にわたる交渉関係の間に醸成された一種の神話的 巫 中て 、新羅、高句麗、百済、伽羅などの朝鮮半島諸王国 との長い政 支モ伝説というべきものてあり、一個の説話として取り扱うべきも めてあることは、戦後の多くの学者の研究によって、し だいに明ら っ 舌口 ようと 、王 源 から、 の史実 的中核 とは無 かにされつつある。 ど 水野 もちろん戦前ても、池内宏、沖田左右吉氏などのように、厳密な モ テ 健 っ と 朝 その史実性 味を持 ど て 坊 て い 一 行っ 対する 成立、 坤 と 交替 文献考証の立場に立って、大陸の文献記録とも照合し、 竜 ぅ 治ん て、 十 皇別の 代 史の ど " 功 伝説 の 成 焦 大 貞 和 に な とうの 、 い説 村 神 光 宙 天 脚 主要な ること の中に などの る る 植 " を浴び 説話 功 清二瓦 分かれの説の " 多 " 者 研 い の 究 。後 よりに 四 そ れるの多く 目Ⅱ 国 家 よ つ に と に な ど を 否定したような批判的研究も、あるにはあったか、 、いっ は 、その 井史実性を説くに急であるだけで、そうした物 託旧が 々 話的 神話に 素材や 解か が 目ム 村 又 四二 この王朝交替論と、母神原像論 とは、必ずしも相反する説 ではな 女王という形に仕立てあげられたのであろうというのである。 よ う に、その 原像を、母神崇拝に求める傾向とがある のである。 こ い。その一方の説を主として立てる学者も、他方の説をも併せ考慮 諭の立場から説く傾向と、三品彰英、高階成章、爆口政信氏などの れるの説の概観については、所動氏の論文﹁現代における神功皇后 の刮湘 礒を中心とした母神伝承の存在をも認めているし 、 塚 口政信 最も詳しい。 しょうとする傾向が多い。直木孝次郎氏も、神功説話の中に、筑前 王朝交替論から出た神功論は、戦後になってから歴史学者の間に 氏なども、オホタラシ ヒメという一種の母神伝承を、そ の原 像とは 年 ︶に おこった新しい論議で、その主眼点は、従来信じられていた万世一 認めながらも、なお宿神の母を息長氏 とする伝えの 存 在は、 別に認 観 ﹂︵神功皇后論文集刊行会編﹁神功皇后﹂旧好 系の皇統という観念を、もう一度批判・検討し、皇統は、第十四代 めようとしている。 一般に、 0件 哀に 至って一旦断絶し、全く別系の新しい心神︵人 によっては 私も、この二者の考えは矛盾しないものと考えて居る。 神話・伝説・説話というものは、その物語が長年月伝 承 される間 仁徳︶の王朝がおこったものを、後世に両王朝を同一のものとして 結びつける 橋 わたし役として、架空の人物である神功 の説話が作ら に、 種々の多元的な要素を併せ含んで来るものである。 説を併せ検討して行き、私見を提示して見ようと思う 。 私は説話学研究を主としているので、そうした万法によって 、両 神功の イメ れたという考えである。そのイメージのモデルとしては、 例えば 三 |ジ の形成にも、複雑な要素の集積があったのである。 特 に地名や っのである。 世紀の倭女王卑弥呼とか、あるいはずっと下ってゼ世 紀 の斎班女帝 などのような、歴史的人物の印象が土台となったとい, これに対して、母神原像論は 、皇后の物語の中でも、 后の本名は オ キナ ガ タラシ ヒメ ノミコト、その父は オ キナガノ スク 先ず記紀に記きれる皇后の事績について、簡単に略述すると、 皇 う な神話的側面を、むしろ皇后の木質的内性 とし、 皇 后 とその御子 土地の習俗の由来話となったり、霊験譚の形を取ったりしているよ 0店神の物語の根底には、海辺にまつられる母子神の出 ホ 拝が行われ ある。 来したという例のアメノ ヒボコ を祖先とする但馬の出五族の出身で 不正で、開化天皇の曽 孫 といわれ、近江の坂田郡にい た豪族 息長氏 かっ らぎの力 たか かひめ の出である。皇后の母は葛城高額媛 で、土日、新羅の王子 で 日本に渡 いすし ていたと考え、そうした霊格がやがて、皇統の中に組 みこまれて、 新羅遠征の 歴史人物化きれて、厄神の母后という形となり、それ が 古朝鮮諸国 との五、六、 セ 世紀にわたる長い交渉関係を反映して、 矢 に オシ クマは入水して死んだ。 鹿 の笥飯 大神︵ 気 壮大神︶ 豊浦の津で海中から如意味 な得 以上が大略であるが、なお書紀の一仁として、仲良が 中って 莞 じたとか。 ﹁百事記﹂の中に、越前の角 ィ ササ ヮケ を厄神に授けたとか。コ日本書紀 L では、 神とが互いに名を交換したとか、色々な話が ェピソー れている。 このほかに、百済における記録である ロ百済 記 口など 神功摂政のころのこととして、そのまま転載されてい 0部分、すなわち仲夏 と皇后の酉征から 仲 哀の変死、 神 の記事は、史書らしい形を持っているが、これを除い る皇后の大陸遠征など、みな説話的色彩に富 み、住吉 @ としての形となっている。史実らしい要素は少しもな ハ て解釈すべきものなのである。 王朝交替論からの神功皇后伝承 ま た この ヒメを仲哀天皇は皇后に立てて間もなく、南九州の熊曽族が 海 のかなたに 叛乱をしたので、天皇と皇后は筑前に赴き、香椎宮に いて、作戦の 計画を立てていたとき、突如、皇后に神が便り移り、 金銀の国新羅があるので、これを征せよという神託があった。然し 天皇はこれを疑い、高い岳に登って見 わたしてその国は 見えないと いったので、神は怒り、天皇は急死した。そこで皇后は 建内 宿禰 と 軍船を整え ツ ノ ラおよびそのゆかりの神々であった。神託に従って 謀り、神託を下した神々の名をきく。神は住吉の神である三極 めツ 海人らを率い、新羅遠征を企てる。たまたま皇后は臨月 だったが、 石を腰にほきみ︵ 鎮懐石の伝説︶、帰還の日まで生ま れないように 祈り、対馬を経て渡った。神々の冥助によって皇后の軍船は、大波 より敗られ、 ヵ コサカ 王は の 名 、既に、江戸時代の合理主義的史学者藤 藤 中略⋮⋮ 按ニ 応神天皇ハイ 四三 井目 幹の コ衝口発 L に﹁神武天皇 ノ御末 ハ仲哀天皇 二テ尽 サセ タて あんる す ヅ クョ リ出 サセ タ マフ ヤ 。 胎 創始され た﹂という学説は が 戦後に なって、急激に台頭して来た﹁厄神によって新しい王朝が と 店 熊 ら と 語 が の と の 。 物 の 神 。 に乗って新羅にまで押しわたった。新羅国王は、永久に臣従するこ 刊に立て、 任 とを誓ったので、 矛 ︵ 紀 ︶または 杖 ︵ 記︶を国主の門@ 一国に新羅に 吉大神の荒御製を祭り鎮めて帰還した。百済・高句麗 一 そねから軍を率 ならって服属しだ。新羅から帰還し、皇后はホムダワケ 皇子︵広袖︶ を筑紫の字 湘で 生み、穴門︵長門︶豊浦宮に移り、 は え い、畿内に帰国するが、厄神の異母兄で、大 夢ハ 人こ 大 ひ 兄ぉ と ︵ぉは 子を認めようとせず、軍を率いてこれを迎え撃つが、 オホナ カツ ヒメと仲哀 との二子カ コサカ ・オシクマ二王 が、神功 母 猪に 食い殺され、オシクマ王の軍は、皇后の軍の謀略に ㈱ 四四 天皇イロー 凝シク 思ハル ルナリ﹂とあるような鋭い 出身の人物であるとし、九州から畿内に進出したのが、 も、 見られたものであるが、公然として 学問 唱的 え立 ら場 れか 、ら 王朝だとしている︵ 司日本国家の起源L 昭開年 ︶。 検討されたのは、昭和二十年の終戦以降のことである。これに対し、宿神の九州出自を認めず・厄神の皇統は難 波 ・河内 欧亜を通じ 林屋 友次郎氏が、昭和二十一年﹁天皇制の歴 ﹂面に新たにおこった大王家で、大和の三輪辺 に中心 をおいた 崇神 の史 中的 で根 、拠方 崇神・ 神武・ 応神の一 二 帝を同一人とし、厄神は者 実で 在、 の近 王畿 王朝ないし三輪王朝の大王家と対立し、これを滅ぼしたという 説 大和への東遷や南朝鮮の征服などの事業を 完% 成したが 、 他0 帝を は 、直木孝次郎、上田正昭、岡田精司、吉井巌などの 諸氏は唱えた 厄神の影に過ぎないといい、氏 まが た﹁ 水日 野本 祐古 王代 朝典序 論 が 、これは河内王朝論と名づけられている。 説﹂︵ 昭㌘年、また増版 訂昭 四年︶の中で、日本 に古 は代 三王朝が ところで、このような王朝交替のさいに、しばしば語 られる説話 的 パターンがある。日本ばかりでなく、古代諸国には、 B厄神以下八代の仁徳王朝︵征c 服継 王体 朝以 ︶歴 後 、代の継王 体 て広く行われている。その筋は、一人の英雄が正統な王 統の継承者 朋 ︵統一王、 朝が ︶ 次 、々に立ったのであるとで し生 、ま 九れ 州 応 た でありながらそこを追い出きれる。そこで他国に行って長年月色々 神は 、実は九州の熊曽の出身であり、朝朗 種か 族ら のの 形渡 成来 し 辛酸をねめた後、その子孫が巻土 重来して戻って来、・駕 た狗奴国の王であったが、仁徳の大和への 、侵 応攻 神 がに 先よって はその子孫の王を倒して王位を奪う。そして自分こそ 正統な王位の 継承者であり、 倒 きれた方は纂尊者もしくはその子孫 であるとする 承が 生まれたと述べているのは、その最学 も説 体 で系 あ化 るし 。た のである。 そして神功伝承 、朝と仁徳王朝とを、ム 崇は 神 王 一す 系 に機 結能 ロる こんな話は、古代ギリシアにも、中世ヨーロッパにも、 絶えずく を果たさんがために、述作されたものとしている。 りかえして語られていた。古い貴族・王侯の家の家督争いや、生貝族 この見解は、井上 氏も 光こ 貞れを受け継ぎ、、 厄九 神 を身の 同士の闘争や攻伐にも、そうした説話が実際の事件に応用 きれ 、新 州出 豪族であるとし、その 石朝 しに た実 らしい葛城襲宅 津 日彦 本書紀﹂ しい勝利者の側の口実として語られたのである。もち ろん実際の真 さちひこ に引く﹁百記 済 ﹂の沙比 蚕脆と 同一人物︶ ソの は南九の 州ソ の国の 相 としては、両者の血縁関係はなかったのであるが、 新 しい勝利者 側では、自分たちが本当は他国からの渡り者で、前の王家を倒して 話 古 説話を作り出したのである。 イランの征服者であったアラブやトルコの諸王たちも、 ャ 応 常 ニルスソンなどは、こうした過程によ って した論法で、 己 れを ササン王朝の後商 だと主張した。 リースや M.P. 漂泊 譚が 生まれたことを説いている。 仲夏・厄神の場合も、同様なパターンを踏んでいる。 して説話の物語っているよう に実際には九州の出身であ るか とも河内方面の出身なのかは、今後もっと色々な面から検討 ねば ならないが、少なくとも表面の説話面だけの筋で取 わに そ して 言 王朝 ると、九州出身だと称する豪族が、津守氏 、穴門 氏 、丸 禰氏 水軍を率い、軍船に乗って攻め上って来、先王の二子、 者をたおし 、己 れが王統を継いだという形になる。 m Ⅲかけて行って、悲運の最期をとげ 母后 として、実は家系は、前の王統につながり、同じく先王 のW 退 るが、父王が遠征に となった。その子としての自分は正統な後継者として、 に戻って来たのだと主張するのである。 ご その国を奪った 纂 尊者である ことを自認したくはなかったから、 をすりかえて、実は自分たち こそは、同化 か前に、王統の正しい 織 承者であった英雄の子孫であり、国を追い出されて、漂泊・流浪の 後、戻って来たものだと吹聴するのである。実際の事件としては王 朝の交替であっても、話としては正しい王統の復権だと主張するこ とになる。 ギリシア 神 話 -の洪泊の英雄 へラクレスの子孫だと自称し、ギリシ ア本土の諸都市国家への侵入 ・支配の正統性を主張した、ドーリス 族の舌長たちも、その例であ るし、中世故 洲 の ロヒルデブラントの 詩 ﹂に語られる英雄 テ オドリ ック大王も、その例に洩れない。テオ て東ゴートの王位につくのである。 ハマナリック 王 ︶に 欺 かれ、国外へ追放され、長年の娠雑卒 ドリックは 、東ゴート王国の王子であるが、邪悪な叔父のオ ド アケ ル三 苦の後に 、 オドアケルを倒し い民族大移動期、英雄時代の実録をもととした、後世の伝承である が、当時の史的実録によると、 テオドリック とオドアケルの間に 実際上は王朝は更 啓したのであっても、説話の筋書では しい王者も旧王統の血を引く、しかも正系につながる人 物だ 5 後 は、 何の血縁もなかったので あり、 テオドリッタ大王は、ひきょぅ な謀略と詐術をもって 、オド ァケル を殺して国を奪ったのである。 ことになり、王朝は変わらないことになる0 それを少な くと 世の人たちは信じたのであろう。 然し、そのままでは国人たち ほ承知しないので、自分たちこそ正し い後継者で、前の王朝とも 血 縁的につながっていたのだと主張する 四五 フ ラ 雄 新 l @乙 " 英 が 果 、 そ て し な っ の な ど 後 児 い で わ と 国 の と もとこ 、 いの 四ハ に見える狗奴国王であるとし、難波に侵攻したのは仁徳 であるとし が神の怒りにふれて筑前の朝倉橋広庭宮 で急外したこと と 似て居る この 件哀が 九州を西 征中 、神の崇りによって死ぬ話は、 斉班 女帝 昭蝸年 ︶ 0 て居り、井上光貞 氏は 、広袖自身を畿内征服者だとして いる。また こと、また 仲 哀の名の 々 カツタラシ ヒコ が、 斉 明の呼び 名 ﹁ナカツ いう色彩が強い︵直木﹁日本古代の氏族と天皇﹂ 吉井 巌氏は 、厄神を非実在の伝説的人物とし、仁徳こそ実際の河内 ス ズラ ミコト︵中天皇、もしくは中里命 ︶﹂と一致する 名 であるこ っ塊土仏﹂ 王朝の創業の主である実在人物だとしている 宇臼井コ天皇の系譜 と ラシヒ ロヌ カと 、 皇極 ・斉 明の アメ トヨタカライカ と 、またその后の オ キナ ガ タラシ ヒメ の名が、 行 明帝の オ キナ ガタ 水野祐 氏は 、 厄 神は実際に九州にいた九州の統一者で、 神話、昭 屹年 ︶。これらには多少異同があるのである が、 何れにせ シヒ タラシ ヒメ よ この厄神・仁徳を中心とする難波上棚ないし河内王 胡が 、先王朝 ここで先王朝の最後の市である仲良は、一般に影の薄い存在とさ 80 ほ、著名である︵ 司古代氏族と天皇し ︶。また 塚口 政信 氏は、 行った セ世紀以降の女帝をモデルとしてできあがった ものとしてい 0名と合わせたような名であることなど、色々の理由か ら、直木 孝 れる。十二代目 震何を オ ホタラシ ヒコ、 次の成務を ヮカタ ラシヒコハ 仲哀 ・神功の﹁タラシ ヒコ ・タラシ ヒメ ﹂は 、 多くの 人 名を検討し とは実際には血縁はない新しい王朝であるとすることは、諸家のほ ソヒコ が﹁ 惰 て見ると、推古切前後に使用されていた天皇ないし天皇家の者の通 次郎氏は、この伝承が、六世紀中葉以後、新羅征討の ことを実際に 書 L倭国広 に、日本の天皇について、﹁その王は多利 思出血﹂と 記 称 に含まれる敬称だったことが判るといい、これが日 神 崇拝、日の ぼ 共通した見解だと言えよう。 きれているように、古代の天皇の称号だったらしいことと関連し 御子思想と関係あるらしいことを考察し、﹁その伝説 の 全体が纏っ それに続く仲衰をタラシナカツ ヒコ というのは、タラ て、この普通名詞的な称号に、それぞれ﹁大 ﹂﹁ 若 ﹂﹁ 中 ﹂、つま て来た推古所以降の時代における造作と見るべきである﹂と述べて は 一旦断絶するのである。書紀の一仁 に、 熊 曽の矢に 中って死した 然し、それにしても、この件哀は 、北九州の香椎宮で 死し、王統 五冊、 昭 朋佳︶。 いることも、参考になる︵塚口 ﹁大常日荒者﹂コ日本垂 目細研究﹂第 ないことは、 い換え れば先王朝 仲哀は直木孝次郎氏などもいう通り タ り ﹁年長﹂﹁年少﹂﹁中間﹂を表わす語を冠したにすぎ 明らかである。その中でも、 ラシナカ ツヒコ 、すなむち﹁中継ぎの天皇﹂、舌ロ と新工朝 との媒介・となる天 ・皇の意味であるとすれば、 後 世になって 両王朝を血統的につなぐ橋 わたし役として設定された伝 説 的人物と というのは、水野氏も説くように、 熊 智に 敗 死したこと を 表わすで あろう。言いかえれば大和の古王朝と新興九州族 との 争闘と、前者 の滅亡である。 たが、この考えは変わらない。 このクマソという名は、仲哀 までに盛んに用いられ、それ以後何 放 か現われない。これに替 って履仲紀 どろから宮廷に服属し、天皇 かみか れひめ ソの地 万を指し、石神 が姐 として迎えた日向の髪長此土 冗の伝承も 、 ぅ通り、これに仕えた葛城の ソツヒコ の ソがクマ ソ の ソ、南九州の の後しだいに大和朝廷に忠実な番犬的存在になってしまったことを するような、隼人の服属と慰撫、また婚姻による融和が図られ、 そ 仁徳朝 のころ、日向の諸泉君の女の髪長比売 の入内の話などに反映 の近習的な役割を持つ隼人の名が登場するのである。これは厄神 九州との密接なつながりがあったことの史実の記憶だとすれば、 少 表わすのであろう。日向・大隅・薩摩は、古く一国であって隼人の 仏神が果たして 熊曽の出身かどうかは判らぬが、井上光貞氏 の舌口 なくとも 熊曽ともきわめて親近な関係を持っていた九州出自 と称す 根拠地であったことは知られている。 ノ ニ三ギ以下の三代の日の御子たちの伝承、またその 宮 居や陵墓の 私は、日向の ソの高千穂に天孫が天降ったという神話や、その ホ る豪族であろうと考えられる。全開丈夫博士は、これを狗奴国 熊曽族 であるとするより、﹁鎮西の海部の一族であったと きれてい 昭 ㏄ 年 ︶が 、私も同感 である。 ことが、記紀に記されているのは、厄神・仁徳朝 における隼人の帰 る ︵全開﹁発掘から推理する﹂、 クマ ソという名は、大和朝廷の古伝承では、南九州にいた 凶暴な であったりしたものが、服属後年入舞などを通じて宮廷神話の体系 偶の産物であるが。本来隼人の口碑伝承であり、またその祖先の墓 兜魅 ﹂と 記 きれているよ う に、九 種族で、しばしば反抗したと伝えられるが、これは要するに、九州 の風土記に、﹁球磨, に組みこまれたものだろうと考えたのであるが︵松前 ﹁日本神話の 形成L︶、それにしても、その神話は、皇室の祖先の日の御子がこ 万 ︵肥後の人吉盆地 辺 ︶ とソ または ソオ地方︵大隅の 肝属 川流域 付 近 ︶を含めた、南九州の辺地の人々を指す語であった。 の隼人の拙に天降り、隼人の姫アタッヒメをめとるなど、単なる服 この中の ソ はやひと は、後の隼人族の根拠地であることから、クマ ソと 隼人 とは、同一 五世紀中葉の倭正武︵雄略︶以降、大和朝廷は絶対的確力を持っ 意 しなければならない。 属の関係とは異なる別格の待遇が・隼人に与えられていることに注 ソというのは、大和朝廷から呼んだ蔑称、隼人 塙 書房・ 恩 種族と考えられている。私は前にコ日本神話の形成口 巧年 ︶の中で、クマ というのは、自ら呼んだ﹁勇猛な人 ﹂を表わす尊称であ ろうと述べ 四セ 四八 県 とかのような、北九州の実際の地名と結びつき、 そ の地の風俗の コ一品 彰英 、高階成立早、米沢 康 な 三品、高階、また前述の塚口の諸氏は、オキナガ タラシ ヒメ の 名 ,どの諸氏も、 夙に指摘したところである。 神の、海洋的神話があったことは、 歴史的形象の背後には、北九州一帯に分布する海の女神とその御子 神功と応神の物語が、もともと一種の聖母子の伝承で あり、その て 全国を支配・ 佃服して来た。雄略のころの隼人は、そ の御陵に 英 、最 後の反抗を試 由来話となっているのか、いきさか説明が困難となる。 セ 、八世紀になって き死んだ近習の話に見るよう に、国栖などとならぶ弱小族 で、近習 助役 制 しか果たしていない。 みるが、これも鎮圧されてしまう。 ところが,三世紀の狗奴国は、強大な男工国 で、しばし ば邪 馬台 国と 抗争した。薩摩の阿多方面の立石土城墓 には、 短 甲や多くの 鉄 国 であったこ よりも、﹁播磨風土記﹂、﹁続日本後紀﹂、﹁三代実録﹂、 剣などが出土し、四、五世紀 ど ろには、かなり尚武の とを表わすというごンポジウムコ日向神話 ヒ昭 ㎎年の 中の森浩一 託宣 集 しなどに出て来る オ ホタラシ ヒメ の名の方が 、よ り 古く 、信 宇佐 また コ 氏の発 舌口︶。 神の母としての オ キナ ガ タラシ ヒメ という、巫女王の あって、これが後に歴史人物化され、皇統の中に組みこまれて・ 応 、神 功 の 原 像で そうした伝承が生まれるには、この隼人の国が、かつて朝廷に取っ 仰的 ・民間的な名であって、むしろこの名の母神が て侮りがたい武の国であった時期があったことを反映しているので 実したと考えているのは、一面に妥当である。神功・応 神の母子は 仲哀が熊曽に敗死したという話は、もちろん伝説にす ぎないが、 あろう。厄神・仁徳朝の髪長比売は 、そのころの体制を 表 わしてい 確かに海の母子神像としての面がある。記紀に見える、 仲哀 を父としてでなく、母后の神功 に海の神 氏も説く通り、元来﹁海 ﹂からの誕生の話であったので あろう。 で誕生したという伝承も、通常北九州の地名とされているが、一一叫 百 厄神 がウミ るのであろう。 目処女受胎と神功皇后 この厄神の誕生は、 が通じ、懐胎きせて生まれたという霊験譚が 、もともと あったらし 広袖がもし全く中央の架空の説話的存在に過ぎほか ったり、九州 とは全く無関係の難波方面に生え抜きの豪族であったりした場合 い 。﹁住吉大社神代記﹂には、 みそかごと 皇后は大神と密事があった 夫婦の密生なりという注 がある︶と・記 任 音大神の崇りで 仲哀が 崩じた後、 は、この天皇とその母の神功の伝承が、なぜあれほどまでにひんぱ んに筑前の香椎とか木戸の豊浦宮とか肥前の松浦県と か筑前の伊部 ての男神の妻として、御子神を生み出す巫女的処女なのであろう。 輸のセヤタタラヒメ、イク タマ ヨリヒメ のよスフな、幸田 なる。従ってその母の神功は、賀茂の神婚説話のタマヨリヒメや三 なるわけであるから、厄神はもともと住吉大神の子だということに される。この神の示教により皇后に懐妊の皇子が生まね 、厄神南 と ことは、多くの学者の論じたところである。つまりアジア大陸系の にも見られる 神婚詣 で、有名な清の太祖の出自の伝説にも 見られる ている。この型の話が朝鮮、中国、東北地区︵旧 満洲︶ 、 安 南など となり、名家の祖先となるが、その子孫は代々身に鱗 があると伝え 鉗 のために死に、手風をなの胎内に残し、その子は後日英雄や勇士 蛇神の神蕎 であるために、身に鱗があり、子々孫々がこれを受け 説話である。 後世の作物であるが、中世の﹁塵添増嚢抄 しには、 応 神 天皇は竜 継ぐという伝承は、有名な高麗の王朝の始祖伝承にも見える。建国 仲夏の 后 ときれたのは、多分後世の合理化の産物であろう。 神の喬であるから 竜尼 があったと語り、神武帝が竜神の孫 だから 代 々の天皇に 苗尼 があるのだと語っている。 の祖である王建の祖父 作市塵 が 、海底の竜宮に赴いて、 伝承と宮廷祭祀﹂ 塙 書房、 昭 ㎎ 年 ︶。 、北 アジアでは 、男の正 かて などに拡がり、東南アジア系のものと考えられる ︵松前﹁古代 これは、もともと日本の周辺では、南朝鮮、中国の 江南、 ビ であったという、欧亜にも広い、いわゆる﹁メルシナ型 ﹂に属して イブ の﹁他界 妻 ﹂のタイプに属し、夫が妻の正体を覗き見ると蛇体 蛇 女房の昔話 などと同じ タ 竜王の敵を 承を 、﹁平家物語﹂に見える豊後の尾方︵緒方︶一族が、竜神の商 弓矢でたおし 、礼に竜女を貰い受けて 妃 とし、子孫を 生み、王家の れき 祖とな るが、やはり王家の人々は・腋の下に竜鱗があ ったと伝える 金関丈夫博士 は 、この 伝 とされ、代々休に蛇の尼の形や鱗の形があったと伝えていること れる。この話は、日本の豊玉姫の神話、 高蛇神、海神を祖とする海人の 一族の家伝 や、伊予の河野の一族が体に鱗形があると伝え、家紋を 鱗形として いることなどに比較し、 としての伝承であろうとされ、石神の新王朝を北九州の海人出身で の説話と 類 里 ︶。 あろうとされているのは、面白い着想である︵金 関前掲 由目 豊後の緒方二一郎の伝説は、大神氏の祖先の大山山根芋 ても語られ 似 0 オ ダ マキ型の神婚説話で、民間にも広く昔話とし ﹁オダ マキ型﹂のような絡をたどる話は かわうそ 体は猪となっているのに、南朝鮮、日本などでは蛇と なっているの その男の索 け、羽ェ朝 姓 をさぐ るぅ として、女が男の衣のすそに鉗で綜を縫いつ- は、この型の話が東南アジア系の竜蛇崇拝と結びついた からなので る 。この型は何れも一女桂のもとに見知らぬ男が通い、 紳 をたどって行くと、蛇体の主なのである。多くの話 四九 あ ろ っても不思議はない。この伝承が、果たして古代から 王 室 住吉の神は海神としての面が強いから、その王家に竜 鱗の O.i-,1 ま、 穿 と住吉大神との結びつきが、もし本来的なものであ ると 神工 応 に に 伝 承 2 え ら す れ す 承が 、北九州などの民間にあったことほ事実である。 吉 大明神とが﹁夫婦﹂となり、 妊 んで八幡神︵厄神 -が 生ま れた 門 宇佐託宣 柴しによると、﹁庄吉 縁起に 云ふ ﹂とし 申 れたものかどうかは疑わしいが、古くから厄神は竜神の子 があ 位 写さ 国 調伏を神々に祈ったとき、 ︵神武帝の父︶ の 五O 記丑刊風土記 L 逸文には、 航し、帰国して御子を生んだという。その石は記紀夫 ︵胎土- にありとしている。 神な がら神さび 沖つ深江の ふたつ 野の条に、この白石二頼る 、 ム﹁にいたるまで皇子産う みみこ 0 百、なま っ こふ て屈狸の 石と名づけているという。筑前国守山上園良は 、﹁万葉集﹂ 手 づから置かし給ひて に、長歌を作って、この子負の原の神有を、﹁海の底 をつつ 海上の子負の原にみ 海 仲から 授か った石、もし 坐す商魂今の現に時きろかむ﹂と歌っている。 これで見る と 、この石は単なる小石ではなくして、 くは神霊のこもる霞石のように見える。 も との風土 伝 承 では、海の神により、処女が霊石を授かり、これを 休して神子を 記紀の伝承は、合理化した形に改められているが、 授かるという形であったのかも知れない。 う 。 ヒ コチギサ とは、文字通り海の神霊を表わす名で あろ 孝訓 女帝、 天 , 平勝宝 年セの字性 八幡 長さが一尺三寸、もう一つが一尺一寸ぱかりもあるだ といい、風土記逸文でも、一尺三寸、一尺の長きで臼 く 磨いたよ う に見えるといっていて、かなり大きな物であった。官長 は 、この 石 つけているが、もともとこの石は、この地の母子神伝承と 結びつい は生長したのであろうといって、古代の﹁石の生長﹂の信仰と結び は 、ここでは完全に竜神の育とされている。 たものであって、人間の帝王の母子の出生に結びつけろ れる一円には やコ八幡 后の懐妊に結びついて語られている鎮懐石の伝承は 、も この母子と海神との結びつきは、後世の﹁宇佐託宣巣口 安産や子生みを祈る母神の神体であったのかも知れない せ 、 御 腹を鎮めようとして、石を取り御裳の腰にあて、 出 の風土伝承であった。﹁古事記﹂には、皇后は出産の時期 中略⋮⋮これ八幡は竜王を父となす。﹂と宣べられて には、﹁大帝姫は吾が母なり。すなむち娑堰羅竜王の夫 司書の別の伝えでは、 とい の神託 り 肖 良の序に も 、この 石は はこれを諾し、三韓を御して帰国してから夫婦の契りを結 来て、﹁ 汝 わが 婦 とならば祈りをかなえよう ﹂といった ヒコナギサ が記され、また﹁一に 云ふ ﹂として、オホタラシ ヒメ 往 と こと が異 夜 が ヒメ 遅れさ。石神 。・ 。また 九州この と 畠 と に 書 れ 神 た 助 功 ) で 神 、 霊 ん だ う 神 な る も を このような、皇后と魚類との結びつきは、恐らくその原 像 として かんまん ウじ 忠重刑﹂などに出て来る干満珠 と 安里 磯 良の伝説が有々 旧である。旧主 の母神の伝承に固有のものであったのであろう。だからこそ、土地 母子仲信仰と渡来氏族 祀 する風は、賀茂の下上︵上下とは言わない︶の二社 彰英 な 一品 処女受胎の母と、その御子神とならべて、母子仲として崇拝 ㈹ の風習の由来話となっているのであろう。 海 竜王から潮満珠 と潮干珠とを授かり、これ 后が 出航にあたって、 紀 二年秋 セ 月の条に を用いて、新羅王を降伏させたというのであるが、この現について は 、﹁日本書紀﹂でも簡単に記している。仲良 皇后が豊浦沖で 如意珠を海中から得たという記事であ る 。多分記紀 の原資料となった伝承でも、海竜王の神助の表われとし ての干満珠。 の授与があったのであろう "皇后の行為には、とかく 魚 類の話がっ 百代に行われていたことは、柳田国男、石田英一郎、一一 石 田 ﹁桃太 し , 淳 山門 に の諸氏も 、 既に色々と論じている︵柳田﹁妹のカロ。 巳集﹂﹁ 惟 きまとっている。同年の六月には、皇后が角鹿を出発 到ったとき、その船のまわりに海魚が沢山集まったの で、皇后が 酒 の母﹂。三品﹁増補国雄神話伝説の研究﹂Ⅱ﹁宇佐乱山 られる。香椎宮は 続日本紀﹂﹁続日本後紀﹂などに よると、﹁ 、コ いつきのみや いう地名を残している。皇后が神託をきいた斎宮の跡であると 伝 いってまつられているのがこれで、山田村には今も聖母屋敷など 紀の小山田 邑︶の商の若杉山の山頂に、大祖権現または 高祖権現 香椎聖母宮とは、仲良 と神功をまつる香椎宮の東方の山田村︵ て 、筑前走杉山に入り祀られたという。 大菩薩 と た。王子は大隅正八幡宮と現われ、その母は香椎聖母 ちとも、ウツボ船に入れて海に流したが、大隅の海岸に 深い着 覆 うと 夢見て七才で懐妊 し、父王が驚いてその姫を生ま れた王子 比丘筆記口などに見える、震旦の大王のケ・の大地留女 をそそいだところ、みな酔って浮かんだ。海人がこれを経 ったので 今でもそこでは六月になると魚が酔ったようになって浮かぶとい い、それはその由来に基づくという。 あそび 同八年正月でも、皇后が筑紫で、魚鳥の遊に 石て楽 しんだとい の つて釣紐 とし い、また九年四月の条でも、火前︵肥前︶松浦県 に到り 、 玉 鳩車 小河で、皇后が針に飯粒をつけて餌 とし、裳の孫を取 て、ウケ ヒをし、魚を取ったといい、その国の女人が四同上旬にな ると、釣針を河に投げ年魚を取る風がおこったといって・地名説話 と 結びついている。 っ である。 新羅遠征のさいにも、海原の魚がことごとく伽船を負,ヮて 渡った というように、 魚 ほこの皇后につきものであるかのよ, 五一 祭 く ど 賢 郎 を も い し 書 と と え 香 椎廟 ﹂と 記きれ、神功や仲哀の ミタ マをまつる廟所 と 信じられてい たらしく、外国との交渉が多難なときは、これに奉幣 がなされた。 ﹁延喜神名 式 L に見えないのは、古代には人 霊を神社に まつること が 無かったからであろう。 五二 錦司海栗諸国記しには、この対馬の神について、﹁ 南肛 竹二局 山 @皆 ゾク 名@ 天神 @南称 二子仲 @ 北林,母神Ⅱ宋家蚊 二 不, 敢追捕 珪 と記きれ、一極のアジール的聖地であったことを記し ている0 この 空所である天童地 ︵天道地︶は、樹林の中にある一種の貝石垣 であ り、三品彰英氏は、これを、朝鮮の累石垣11神樹の 下 にある伍の 要するに、この香椎の地一月は 、 円くから聖母と名づ 祖霊とも考えられていた母神の崇拝が 、 古くから行わ れて居り、 こ 神壇と比較し、 して、大陸的な巫蛆 ・錨治文化とっぽがりがあるらしい は渡来人の姓︶がその祠官だったり、鍛冶との結びつき もあったり 宍古事記伝しょうに、大陸的な呼びかたである。可住 9名称自体も、本店首長が﹁韓人の奉斎にや﹂と、疑 ブイゴウつまり火をおこす通典である。鍛冶に関係があ る。廟 とい している。タタラは、㍉日本書紀 口に、踏描 という字を 当てて掛り 多多良材、多多良浜があり、古朝鮮の地名であったタ タラを、名と く大陸系の渡来者文化とかかわりのあるものであろう。 香椎の南に らかになったが、香椎などを中心とする北九州の因子神崇拝も恐ら 対馬のこうした母子神は、三品氏 によって大陸系であ ることが明 ことを指摘している。 されたり、人の葬地だと伝えられたりしているのと、叫 切鮮 の束石垣が、往々母神および 神子を祭ると れがやがて神功皇后のことときれるに至ったものらし いのである。 る 、母神の 崇拝や廻国伝説が諸国にあり、往々にして御子神を伴 なっている。 が 古い母神 宗 拝 に基づくものであるらしいことは、出口米吉氏なども 夙に論じた ところである︵ コ原始母神み冊目昭 3年︶。 対馬の天童法師︵天道菩薩︶とその母の崇拝と縁起も、 そうした 聖なる母子神の伝承であった。 対馬の天童法師の伝承については、三品彰英 、鈴木美一 二などの和市 氏 のすぐれた研究がある。やはり日光によ る処な受胎 を語る母子 神 伝承で、また一俵ではウツボ船の話をも伴 ない、その月 子をまつ・り あるいは葬ると伝えられる原始的な聖 所が、 豆眼 や位 獲などにあ り、厳重なタブーに包まれていた︵三品﹁日鮮 神話 伝 説の研究﹂ 増 冊版 、昭 4年。鈴木﹁対馬の神道﹂旧好年 ︶。室町時 る。 くの学者が論じるところであ 播磨など各地にいたが、また北九州のか 竪刊、豊前などに いこ 0 アメノ ヒボコ は、これと似た説話をもつ大伽羅のツ メ ガアラシ の多い母神とその御子神の伝承 このような渡来文化的色彩 ト ︵﹁日本書紀口車 仁巻 ︶と・しばしば混同されているが、 要する が結びついているが、し 史だいに れには太陽信仰や海神の信仰 ビ ひ口 矛 という名は、一一 一品 彰英氏も スレう 。︵門建 い う ように、太陽象徴としての聖なる矛から出た名であ な 新羅神ということになっている。 コ 播磨風土記 口 では、 オポ ナムチ や伊和大神と勢力争いをする強力 何た れも 韓土からの同系の渡来人の奉じた神であったであろう。 て、皇統の中に織りこまれて行にっ の 実化し、厄神の出自伝承とし であろう。 この女神は蕃神とこの色彩 な神とされ、それが一転する 国神 の諸 子話を 胎問題し詰佃年 ︶。 日本に帰って来た神という風にも語られ、また聖なる日の御 司古事記 口に よると、 じ なった神である。コ日本書紀L では、 ツメ ガアラシ ト の話 となって ゃけんな夫の手から逃れて日本に渡り、難波のヒメ コソ の柑の神と よって生み出された赤玉の化身であるが、 のヒ ボコ の妻となった アカルヒメ は、やはり日光受胎 の 処女に て、歴史人物としての神功のイメこー ジ 中に抱く女人という形となっ が形成されて行くのである。 むすぴ 対馬の天童信仰の中心地た る佐護の神術魂神社には、女房神と称 居り、白石の化した美しい童女が、やはり ツヌガ アラシ ト の手を逃 して、胸に日の丸を抱いた兵神の木像がまつられている︵ コ対馬人 心神社帳﹂︶。神功皇后の原像も正にそうしたものであったろう。 ね 、難波と豊前の ヒ ボコ伝承 そして、その聖域は、天童地 のように、きわめてタブーの強い墓地 の 一典伝 である。赤玉も臼石もともに太陽の象徴である コ 豊前風土記 L 延喜神名 式しに、豊前国田川郡 司 の神と名づけた﹂とあるのが、これに当たるらしい。 ム﹁智春嵐の 麗 鹿春郷に 、昔、新羅から神が渡来し、この川原に住んだので、 鹿春 ボ㍾九曲舘肥社 とあるのがそれである。 この ヒメ コソの神は、 ヒメ コソの神となるのである。アメノ 的な色彩の濃いものであったから、廟所のように扱われ、歴史的人 物 に付会され易い傾向を持っていたのであろう。 神功皇后の母方が新羅の王子 アメノヒボコの後商 であることは、 は、皇后の出自が、蕃神の神商 であることを言おうとしたのであ の鹿春 神社がこれである。 注意してよい。 コ古事記ヒの仏神巻に、アメノ ヒボコの話があるの る。アメノ ヒボコを奉じる 一族は、但馬、摂津、淡路、近江、越前、 五三 この女神の名が、カラク 力も@に ニオキ十ガオホヒメ というのは 、注意し てよい。韓国から渡って来たオ キナ ガ の姫 という意味で、神功皇后 0 オキナ ガ タラシ ヒメと 類似する名である。 私は、多分これが征韓の女王とされる神功の原像の一つ であろう と考えている。つまり、韓土からの渡来者の奉じた ヒ メ コソの女神 の御子﹂を祀るのかも知れない。 五四 三品形某氏 は、神功伝説の分布が、不思議とァメノヒ ボコ伝承、 アメ 出石族の分布と一致していることに注意して いる︵﹁ 日鮮神話伝説 の研究 口増補版︶。確かに、記紀および古風上 記に伝えられる ノヒボコ および ヒメ コソの神の伝説 地は、そ の地理的分布において 、若狭などは、そのま ヒボコ伝承にめかり のある、筑前、豊前・ 豊後、長門︵穴門︶、淡路、播磨、摂津、近江 三品氏の言葉を借りるな 驚くほど一致している。 ま神功のゆかりの 地 とも伝承されている。 応 神のころの 実 際の韓土との種々 な交渉︵例えば葛城襲津彦などの型 ズ ・軍事的交 が 、現実化されて、厄神の生母の姿に形象化され、 かつぎ り のそつひこ 渉 ︶などが反映して、その生母が偉大な大陸征戦の元祖 のようにま るなら ぱ 、大陸系文化 ら、 るのである。 の伝播ないしはそれを荷担した人たちの移動と 附することもでき﹂ ﹁この遍歴・遠征の伝説を文化史的に見 つりあげられたのではあるまいか。 コ古事記二では、 己 が 故郷と称し ヒメ コソの神も、元来この渡来族の出石人たちの奉じる太陽女神 ないし日の御子であったものが、 て日本に帰ってしまうという筋になっている。日神にゆかりある 東 ここで有名な名替え、 ガ つめか 月商の 気比と 神功・厄神との結びつきは、 最初作京三何に、仲夏 けひのみ 中 神功が 笥飯 宮室目細︶に幸し、また次に神功十三年、および厄神 紀の註に、厄神 が笥飯 大神を拝したとある。 方に 、日本国があったことが、そうした説話を生んだのであろう が、それにしても・この女神は蕃神だというにかかわらず、いっの つまり ケヒ 大神とホム ダワケ 記されている。北九州とめかりの深い応神が 、方角も反対のツル 厄神︶との 名 の取り換えがあったと まにか日本を故郷とする神ときれてしまっている。 神功の原像としての オ ホタラシ ヒメも、もともと﹁韓土から渡来 した 神 ﹂であったものが、その太陽的な性格などによ って、﹁日本 ラシト の上陸した地でもあった。 にも結びついているのは不思議のよう である が、この地は ツヌガア サヒ コ であるが・この ィササ という語は 、ァメノヒ ボコの持って来たとい ケヒ 大神とは、越前敦賀郡の式内気化仲仕 七座の主神イサ を 故郷とする女神﹂とされてしまったのであろう。 豊前の幸回忌長大矩大目合も、﹁抗日本後記﹂によると、﹁大日 みこと 命 ﹂と 記 きれている。もしかすると、この女神と御子 としての﹁ 日 多い︵栗田寛﹁神祇思料拙者﹂下巻。今井啓一コ大日槍 L 昭 牡牛︶。 メノヒボコ であろうとしているが、確かにそう思われるふしぶしが 名 であろう。豊田 亮 、 ム﹁芳啓一などの諸氏 は、気比神宮の祭神を ア ぅ 神宝の中の ィ ササ太刀の ィ ササとも共通 する。多分韓語から来た お ははとのみこ の子の意高宮 仔王が、三国君、波多 君、息長坂田君、酒人君、山道 を賜 わり、皇別氏族とされた。厄神話には、厄神の子君 沼七二俣 王 出して、皇統と縁を結び、その宗族は天武紀十三年には、真人の姓 良兵民一族は 、古くから近江坂田郡にいた名族で、しばしは 后妃を 主で、出石系の葛城高額比売るのとって、神功を生んでいる。この かつらぎのた ひか めぬか 多分、この地方における ヒ ボコ系の渡来 氏族の奉じる母子神の伝 君等の祖先であると記されて居り、また﹁新撰姓氏録﹂に ち、恵展 る 。然し、この 承が 、歴史人物として肉付けされて、神功 ・厄神のこの地への御幸 族 であったことは、記紀により明白である。 コ古事記 口 に 、日子 坐 氏族がもともと厄神の商だというより、厄神の母の神めの父方の氏 わかぬけた ムまた@ のみ 真人が応神の皇子 稚淳毛 二俣土の子孫だとされて居 ヒコ ・タ・ラシヒメ の タラシの名義について、 という形に結実され、記紀の神功伝説に組み入れられたのであろ ,つ 。 塚 口氏は、タラシ ﹁障害﹂倭国広 に 、 倭王 タリ シヒコ が 、 ﹁以ノ自為。弟 ﹂といい、き 長大佐 比 売るのとっていることも、注意すべきである。 たその国書に﹁日出処天子﹂と自称しているのを見れば、日神崇拝 に関連する詰であるとし、﹁照り輝く日の御子﹂というのがタラシ は信じるに足りないが、この近江の息長氏族が三上神社の神を奉 倭名 抄ロ Ⅰトい コ 史実として ヒコ の原義であろうとしているが、同感である。タラシ ヒメ はその じ、皇統としばしば縁を結んだ豪族であることを表わしている。 息長荘 があり、この地は アメノ ヒ う坂田郡阿部別 と 同じ地で、ここは、 垂仁紀三年の条 あなのむ り・ ボコ が英道 河 ︵宇治川︶を遡り、近江口の召名色 に 人 り 、暫 らくこ この坂田郡には古くから な性毛である。太陽女性であった豊前の ヒ メ コソの神を、 息長大畑 氏 と神功皇后 大日合と呼ぶことも、太陽に関連した名であることが判る。 ㈲鳥屋 羅 系の渡来氏族であるばかりでなく、もしかすると、 大目︵日︶命の名が、オキナ ガ を冠する ヒメ コソの神で あることなど ボコ族のゆかりの地であること、また豊前の鹿春の社の神息長大 矩 こに住んだという、八名目に当る 。太田 亮氏は 、この 地 が アメノ ヒ 一族も、もと近江に 庄 していた渡来氏族であったのではないかと 老, から、この名が渡来人系の語ではないかと推定している ︵﹁姓氏家 私は、神功皇后の母方の出石月一族がアメノ ヒ ボコ 族、 つまり新 おきはか 父万 の 息長氏 えている。皇后の父は、開化天皇の子の日子生玉の曽孫の忌辰宿禰 五五 系 大辞典﹂第一巻︶。忌辰氏 が皇別に化したのは、 ばしば皇室の 外戚氏族となって、皇統の血が入りこんだことによるのであろう。 西田長男博士は、この豊前の鹿春の神が、古来鋼の産地として 知 られる 香春雷 に鎮座し、後世製鋼所村と呼ばれた地に位 冒 している これらが鍛冶 ことや、ほぼ同系の祭神をまつっていたらしい豊前宇佐郡の宇佐神 おはたら ひし め 宮に 、大帝 姫廟神社があり、また宇佐の神が、鍛冶の翁 として 現わ ね、奇瑞を示した︵託宣 集 ︶という伝えなどからも、 く状態から な行っていた渡来氏族の信仰であろうとし、オキナガと い う 名は 、 フィ・コウで空気を送って火を起こすときの、息を長く引 丁 @ Ⅱ@ 一 Ⅰノ う。﹁日本書紀﹂では、母を振媛 といい、垂 口 の七 出 の孫であった が、 母の生家の越前の三国の坂中井に住していたのを、 朝臣らが 迎 ( ナは のみや え、河内の障莫目 で即位したという。後に、即位五年目 に都を山城 つつき の筒城 ︵ 綴喜 Ⅰ十二年に弟 国 ︵乙訓 Ⅰ二十年に大和の 磐余正博 に 継 体は前王 遷した。つまり、即位後二十年目に大和入りをしたわけである。 水野祐 氏は 、 継 休の即位をもって新工朝の誕生とし、 朝 と血縁のない人物であろうと推定し、また直木孝次郎 氏は更に一 歩を進め、 継休を越前の豪族だとし、武烈の崩後、応神の商と称し て興起し、近江、河内、山城などと地歩を固め、ついに大和入りを し・大王となったのであろうと推定した︵直木コ古代国家の構造 L 昭 ㌍ 年 ︶。ここで、もう一度王朝の交替が行われたとい つけられたものであろうと述べたのは、面白い考えで ある︵西田 ﹁日本古典の史的研究 目昭 五年︶。 オ キナ ガ タラシ ヒメ ぅ のである。 は、もともとこうした渡来人系の鍛冶氏族の母神であっ ない。 その妃に ることになっている。 息長氏と ぽ疾 とされ 吉井 巌氏は 、宿神と忌辰 氏との結びつきの伝承は、実 は 六世紀 中 が、﹁日本書紀﹂や﹁姓氏録 ﹂では、 継休の皇子 椀 千里 子を祖とす た 三国民 は、コ 古事記 L では厄神の孫竜宮冨梓王 の商と なっている どは、継体の勢力の基盤であったのであろう。 @ にや母の振 媛 のいた 近江の三尾な 多かった。 継休の育った越前三国 、み 継体も系譜に ょれば、明白に近江の息長 民一族の出で あるから、 おみのいらつめ 大后手白髪以外の他の妃たちには、忌辰氏の麻績郎女 や坂田氏の 広 は@ ひめ 媛、二島君の稚子 媛、和田 臣 の 芙媛など、近江 ゃ 越前 の 豪族の女が 厄神は、もともとこうした忌辰一族の出であったから、 も 、その一族の女忌辰真君由 比 売が立ち、その間の子 が例の二俣 王 であった。その子孫が早大述正で、後の継体帝 となる。 す ・なむち 継 記 ︶ないし六世の 孫 ︵紀 ︶であると 休は 忌辰 系 の厄神の五世の 孫 ︵ される。 継体 は、日吉事記 Lによると、武烈帝 の用後、皇統が 絶えたので 近江から招かれ、仁賢帝の皇女手白髪を后とし、皇位 ほ ついたとい 空の天皇であろうとなしている︵吉井コ天皇 の系譜と神話﹂ 昭蛇 朝 と同格・同系の家柄であったことを誇示するために、作成した 架 との結びっきの史実の反映であり、厄神は継体王朝が 、前の仁徳王 葉の実在の王者継体と息長、三国その他の近江 ・越前の息 長某 氏族 それが厄神でなければならなかったところに問題がある。厄神は王 候補者としての過去の天皇は、幾らでも存在していたはずである。 に良い方法であったのであろう。ある帝王の商だと自称するには、 ったとすれば、当然この血筋だと称するのが、最も人心を 把握する 話 となったのだ。こんな伝承の源泉地に接して、継体の出身地があ のの実在性 継体が応神の実際の子孫であったかどうかは 確かに疑問であ これを実在の応神に結びつけ、先帝仲 哀の大后の オ キナ ガ タラシ ヒ あろう。 息長族自体が出石系の母子神伝承を持っていた ことから、 とは関係なく、多分吉引氏なども述べているよ う に 、後 世の作成で 息長茂一族と応 神 ・神功との結びつきも、広袖そのも 功 ・厄神の伝承の基盤である近江・越前であったのであ 朝の創始者という意味があったからであろう。継体の出見地 は、神 年 ︶。 面白い見解であるが、厄神陵などの問題もあり、厄神の実在珪 を 一きょに抹殺するには、やや問題がある。厄神が継体をモデルとし て机上に作成された存在だとするには、両者は不一致息 も少くな る。然し、厄神の子孫と称することが、新しい王朝の建設者となる メ とその御子のポム い。住吉神と応神との結びつきなどはその例である。 には便利であったであろう。継休は神功と応神 の母子伝承のゆかり であろう。それとともに自家の祖先伝承を作り上げ、 子の二俣 王という架空の人物を、祖先とするという系鋼幅を作り上げ そ 0店神の御 ダヮケ という形として、皇統譜に結 びつけたの の地越前や近江を基盤として起ち上った人物である。 言い換えれば、古く、渡来氏族であるアメノヒボコ族の奉じる母 季や気地大神の崇拝が、出石系氏族のものであったことは、前に述 ツメガアラシトの伝 り入れたのであろう。越前のッヌガ ︵敦賀︶の 語られていたらしく、そこの出身の豪族が、自家の系譜にこれを取 は、この良兵系の氏族が継休の有力な外戚氏 として中央 に脚光を帯 に組み入れられ、大和朝廷の対韓 政策に重要な意義を占 めて来たの らびに神功の祖先のアメノ ヒボコ伝承などが、記紀の王朝神話の中 そうして見れば、仲助と応神の神秘的伝承、および新羅遠征、 な たのであろう。 神功と応神ととの事 べた通りである。そこの母子神伝承が、やがて 屯すれば、 継 びるに至った六世紀中葉以降であろうと思われる。換言 子神伝承オホタラシ ヒメとその御子のそれが、越前や近江にも広く 漬 されて、その浦への皇后の御幸と、厄神と気地大神との名替えの 五セ 休 およびその出身の息長系 諸豪族が、自家の母子神伝春を、祖先 譚 として実在の王朝の創始者心神に結びつけ、その更に祖 先の アメノ ヒボコ の神話を挿入し、厄神期のソツヒコ らの遠征以後 引続き作ら れた 対韓 外交の間頭、特に例の任那四県の百済割譲の事件などをめ ぐる日本と百済、新羅、任那などの関係のこじれを是正せんがた め 、またその 対韓 外交・軍事交渉の正当性の口実を示さ んがため、 この母子を 、勇ましい大陸遠征の覇者のどとくに仕立てあげたので あろう。神功は、もともと新羅の王族ヒボコ の商である 故に、その 母子の大陸遠征はその故土に帰ったことであり、その事業は正当な 権利の行使であって侵略ではないという口 実になる。 応伸朗 のソツ ヒコらの実際の遠征の記憶は、こんな形で物語に投影した。継体紀 六年の条に、任那四県割譲のとき、物部箆鹿火の妻が神功の話を夫 舘明 天皇に オキ に語って夫を諌めたという記事があるのも、これを示している。 忌辰氏族と皇室との姻戚関係は、その後も続き、 ︵ 皇 極細︶ と記 されているの ナガ タラシ ヒロヌカ という 倭風認号 があるのも、その 崩後の濱 宮に おいて 息長山田公が﹁ 奉レ謙二日嗣 こ 外交関係は も 、 息長氏 がこの帝の壬生、つまり養育のことを司っていた家であ ったからであろう。 舘明 ・皇極 両朝 ど ろに、 対韓軍事 益々緊迫を告げて来たから、それと比例して、神功伝説は益々栄光 化されて行ったのであろう。 ㈹神功伝承と住吉大神 五八 然し、このような オ キナ ガ ・イヅシ 的な色彩を帯びた神功伝説 が ・厄神 帝 のまわりを潤色するに至る前の、古い応神の建国伝承に は、何等の超自然的色彩もなかったの であろうか。 応神は住吉大神という、海人族系の 託宣 神 ・航海神を守護神と し、その冥助により新羅を服属せしめ、国内を平定したときれてい る。これが最も古い伝承であろう。 住吉大神と呼ばれる ウハ。ツツ コ古事記し ノ ラ、ナ カツ ツ ノ ラ、ソコ ・ツツノ ラ の三神の最初の示現が神功皇后 の神懸りと神託のさいであったと伝えられているのは、 であるが、﹁日本書紀レ でも、前述の 継体 紀 六年の条の物部角鹿火 息 長足 姫 が大臣 武内宿禰と謀り、 ろ古 国 毎に官家 の妻の言にも、住吉大神が海外の金銀の国である三韓の諸国を胎中 天皇︵厄神︶に授け、 ヌナク コ摂津風土 記 L逸文でも、昔、神功の世 に、住吉大神が出現し、天下を巡り歩 いて 住 む場所を探し、 を 置いたと語られている。 こ の最初の神懸りと神託、前述 ぅの長岡の前に到って、ここは住みよい国だと言い、鎮座したから するえ の 住吉というのだと記している。住吉神とこの皇后との結びつきは、 かなり古いものがあるらしい。 この大神と皇后との結びつきは、 の大神による 寄胎 、その冥助による風 波 に乗っての新羅 征略と、そ こでの住吉神奉斎、また凱旋してからの、この大神の・ 穴門 ︵長門︶ と摂津での奉祀など、数々の霊験譚に 満ちている。この神功の外征 伝承は、住吉信仰一色で塗りっぶきれた観がある。この形から見れ 。 厄 神と 息 ば 、神功・厄神の母子の外征と国内鎮定、胎中天皇の霊験 譚は、す べて住吉大神の鎮座縁起を骨子とすると舌口えるであろう である。 長旗、出石人との関係が、説話の表面には余りはっきりと出ていな いのに対し、神功母子と住吉大神との関係は、実に顕著 前述のように、皇后は大神の寄胎 によって厄神を生んだとするに O 木質的なも 承が 、説話の原資料にはあったと思われるし、また大 神の示現が皇 后 によって行われたとする伝承も、両者の結びつきが、 のであることを表わしている。継体には住吉との関係はない 日W日 叩ヒによる 司古事記 口 によると、皇后の神懸りに偲り 移った神は 、 ﹁天 照夫 神の御 心ぞ二 といい、また住吉三神であるが、コ日本垂 たま @しい サひ こいつのことり し しろ のかみ みづ は 出現し、次に﹁天に事代、空に事代、玉我人差厳文事代 主神﹂が 出 るのである。 託の中で、後々まで皇后の守り神となるのは住 、吉神 だけ やかに出で居る 神 ﹂といって、住吉三神が名乗りを挙げ 現する。最後に、﹁日向の国の橘の小門の水底に居まして水葉も若 この神 - であるから、他の神々の出現は、後世の説話的拡張にすぎないこと か ら 出現する が判る。ただこの住吉三神の説話は 、古く住吉大社に伝 えられた 実 ひむか 、ィ ザナギの 畝 祓の神話にも 出て来る。 みそぎつ は え・ 際の巫女の託 語 であろう。﹁日向の橘の小門の水底﹂ ツッ ノ ラ 三神という観想は は、もとも ィザナギが日向のその名の海岸でミソギ をしたとき、 海 中からこの 三神が出現するのである。イザナギのこのミソギ の神話 って居り、 こ 二神の由来を ノ ラ一 とこの ツツ ノ ラの誕生の話があったから、神功の神託にこの地名が 出て来たのではなく、実は逆で、ひしろこの ッッ 語る、巫女の神託が 、古くから摂津の住吉大社に伝わ 生まれたの れをもととしてイザナギの アハギハラ とし、 託語 に現われた 神話的地名に の ミソギ の神話が と、この記事は詳細となり、また出て来る神も多数となる。すなわ ではないかという考えを前に述べたことがある︵同日 水神話の形 なかとみのいかっおみ ち武内宿禰が琴弾きと在り、中臣烏賊津 使主が審神着 となり、神託 成ヒ - 。日向の橘の小門とは、巫女・の あらみさ た 帰 固 してから、 荒魂を穴門の山田 邑に 、穴門直の祖の践 丈 に祭らせ、 和魂を大津津 ほ打たて 和魂を胎中天皇の身を守りとし、新羅を征したが、 にぎ みたま ﹁日本書紀﹂によると、この住吉三神の荒魂を軍船の鋒 先 すぎない。 を請い神名を問 う たところ、 セ日 セ校して皇后に撮り移り神託があ ももったわひ た のら あがたCず さず った。神の答えは、﹁神風の伊勢の国の百伝ふ皮逢県の 折鈴の五十 あまさら か むかっ っひ めのみこと すナ のみや 鈴宮 に居ます 神 、名は ツクサカキ イ ソ ノミタマ天球 向 津媛 ム%﹂と はたすすき いう。これは天照大神の荒魂だとされている。次に﹁幡 荻 、穂に 出 わか ひろめのみこと レ吾 れや、尾田の吾山節の淡の郡に居 ます 神 ﹂と答え、 稚 日女 命が 五九 屯倉の 長 峡に祭らせた。前者が長門の住吉神社、後者が摂津の任 吉 こんな摂津の神々 が神功に恩 り移って託宣をしたという伝承は、 ハO 大社となった。後者は津守連の祖の田裳見宿禰を神主 としたのであ 史実とは思えないが、こんな説話が出来たのは、この摂津・河内方 神とは、こんな名で る。また天照大神の御魂を広田に、山背棋子の女葉山媛に 祭らせ、 面に都があった厄神 仁徳の難波 朝、ないし河内王朝時代であろ た もるの( す れ 稚 日女を活 出 に海上五十 侠茅に 祭らせ、事代主を長田 に 、葉山 媛の う。住吉の神は当時 から海外遠征の守り神だったのだろう。 神話で、もともと 神 代 に属する話であるとし、 応神はこれに接した 山根徳太郎氏は・ 神功伝承は難波に都を置いた王朝の由来を語る 妹 の長媛に 祭らせ、それらがそれぞれ摂津の広田、生田、長田の諸 社 となるのである。 神功の神託に出現したから、これら摂津の諸社にまつ ったという 王朝の始祖であって、その守り 神 としての住吉大神は、難波の三洋 で ミソギ のきいに 示現したというのが、古い形の伝承であろうとし のは、これもむしろ真相は逆であって、これら摂津の諸払性キ 佳士口中八 社 との関係を説明するために作り出された由来話で、 こ の神託を一人の伝説的巫女工の神懸りに帰し、鎮座縁起としたので 明ヒ 昭 何年︶。 八十島祭は、大嘗楽 に付随した祭儀で、即位の前または後に、 り 、﹁延喜式﹂﹁江家次第 L などに 記 きれている。岡田精同氏は、こ 神 、海神、空見神、 宥属神︶の大よ 依 さ羅 なの 宮を難波津に遣わし て住吉神およびその部類神 ︵ す廿ちの 佳道神などをまつらせ、 祓祓を修する行事であ 女 ている。そして天皇 の御代始めに行われる、難波津での換祓 の 祭 ゃそじままっし ﹁八十島祭﹂の原義 を、ここに求めようとしている︵山根 コ難波 王 あろう。広田神社などは、天照大神の荒塊アマザカ ルム カツ ヒメ を 住吉大社神代記しには 、か件 コ 仝ロ レ 大神 或記 日ク﹂として、﹁住吉大神号 臣 広田大神 - 祭神とするとは言いながらも、 0 部類神とされ、また﹁ 成ニ父親ごとあるように、住吉神と密接な関係があった。もとは 伊 コ日本書紀﹂の % のツツノヲ に統 いて、ムカ 勢 とは無関係な摂津の太陽女神だったのであろう。 一仁によると、皇后の神懸りには、二 の原義は畝 祓 ではな く・大嘗祭に附随した新帝に国土の霊を付与す ク・ マ王の軍勢をあざむ ヒツ ノ ラキキソオ ホ ブハヤサ カリノミコトという、耳なれない未知 し 空船の中に乗り、オシ いたという物語に見えるように、ウツボ船に乗って難波津に漂い着 その御子が喪船ない る行事であり、更にその古い形としては、神功伝承の中で、皇后と 住 吉仲と 広田 コ 住吉神代記 口でハは、こ な神が出て来ている。この ムカヒッ ノ ラという名は 、一 冊述の広田社 の ムカツ ヒメと 無関係とは考えられない。 0名は住吉大神の別名とされている。もしかすると、 く日の御子の母子を迎え祭る、 迎坤儀礼であったとして、神功伝承 の祭儀的解釈を提示している︵﹁百代王権の祭祀と神話し昭巧年 ︶。 喪船の物語を、五八幡の オホ ヒル メ のそれのように 太 陽の子の ウ 神託をきくということもなかったとは言えない。その場ム口に、審 者としての天皇より、印象としては巫女王の姿の方が大きく映じ ということも有り得るであろう。神功伝承で、母后の方が 大きく われ、厄神は影の薄い存在となったのは理由のあること である。 住吉大神が古く宮廷で祭られたらしいことは、種々の痕跡があ 感 だが、 然 し、この伝承が八十島祭の原型であったとする説は 、 もつと証明 祇 、同項波の五座で、 みな井が コ 住吉神代記 ヒ では、住吉 の子神の首 ろ はて リ に名をつらね、﹁吾は住吉の大神の御魂ぞ 。為婆大利 の神 、小猫 神か祭 庭の神かであるが、 は、生井、福井、綱長井、渡比 は、コ 古語拾遺 口 には、﹁ 足 れ大宮地の霊なり﹂ときれ、 ﹁延喜式﹂ 祭る生島・ 出島の二神は、はっきりと住吉系の仲であ る 。 座摩の 土鳩の 巫 。律令制の神祇官二十三座の中、座摩の巫の祭る神と、 拍測 したい のである。 神 いたよう 奉じて居り、 その建国の英雄厄神の出自として、その神霊による巫女王 の授胎が かつらぎの さち ひこ 王 も関り合う天皇であったから、そうした外征などのさいに、巫女 - 襲津彦︵百済 記 の沙蚕 比脆 ︶が新羅を外征したという ような史実と そつひこ 語られたのであろう。また実際に応神が コ日本書紀 ヒに見える葛城 に 、河内王朝では、海や航海の守護神として住吉大神を 二一輪王朝ないし宗仰王朝が、三輪山の神を守り神として 功の神懸りはそのかすかな記憶に基づいた伝承ではあるまいか。 出していた古い祭祀形態があったことを、 主 となる前に、河内王朝の大王家そのものが、一族の中から斎女を しいものと見ようとしている。然し、私はこれらの氏族 が専従の祭 ぬ歩が低かったことをもって、住吉神の伝承の宮廷流 入を 、 どく新 よく論者は、住吉神の華斎氏族である津守連や穴門直 らの政治的 のであったことは確かである。 少なくとも﹁延喜式 ロ以後の八十島祭に取って、 欠く べからざるも を要する。住吉神とその宥属神に関わる 畝 ぎの行事とい ぅ 要素は 、 ツ ボ船流しの変形だとする考えかたには、私も全く同 神 の る 扱 の 志 利の神と 号く ﹂という神託があったという。もとは この神は 、 " 位 ものらしい。 もはやし @ 生島・ 足 島の二神は 、コ 古語拾遺 L に﹁大八洲の霊 、日本国土全体の神霊のように見えるが、もともと難波地 万の国 な り ﹂と 話き 吉 大神の御 魂 の一つか、もしくはその鎮座地の守り神 と 伝えられ 力ロ @ た 一族か 、ら 出たのであろう。 コ 住吉神代記 口 による と、この神 、一ノ 住吉大神の子神の中に入っている。この生島 巫 にはも とは津守 氏 祭神であろうといわれている。 の神で、﹁延喜式﹂に見える、摂津東生郡の生国咲 国魂 神社二座 魂誓号丁 の も の れ こうした住吉系の神々が宮中の神祇官に祀られたの ま ぅ。この主神である庄音大神が神祇官祭神から外され に 廷 が難波にあり、住吉の神を皇室が奉じていたことに ヒ 大嘗祭の付随儀礼である八十島祭に、住吉大神やそ の この神を、尾張 氏系の津守氏や穴門直らに祀らせたか は 嘗 ての結びつきの 名 そ つったのは、住吉大神と皇室との 照 ﹁江家次第﹂には、女官が天皇の御衣を納れた筒を ハ 礫 ぎをし、祭物を海に投じた。多分、海の大神に供物 あ の神霊を天皇の御衣にこめるための呪術的作法であろ ア は 生島巫も参加している。 住吉大社の社殿の様式が、大嘗宮と同じ構造である ている。かつて天皇が王権祭式を行ったその祭殿の形 住吉村の租殿の形に残ったのであろう0皇祖神が伊勢 定まる前には、こんな一時期もあったわけである。 また大営日祭の斎場院の入神殿にも、 座摩の神である キの 二神は祀られていた。これも河内王朝時代の名残 であろう。 り
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