F 飛鳥の寺院シリーズ A-6 寺院の起源 ご参照 倭国への仏教公伝以前に渡来人による仏教伝来が有ったのは事実ですが、個人的に仏像 を祀った可能性であり僧・尼を伴った寺院としての存在は飛鳥寺が最初でしょう。 史料からも我国最初の尼は司馬達等の娘・善信尼で590年に百済で戒律を学び帰国し て僧・尼の育成をしたとあり、正規の寺院は仏典・仏像・僧尼・瓦葺きの建物で構成され る伽藍の条件が整うこととされた。 大陸からの仏教文化の導入に積極的であった蘇我氏の影響下に在った我国は古墳に代 わって寺院の建設をすすめ、氏寺から官寺へと変遷し天武期には全国に仏像礼拝を命じた こともあり、全国で推古期では46寺だったのが持統期では545寺と10倍以上に増加 し、これが天平期の国分寺建設につながったのでしょう。 特に病気平癒祈願に関しては従来の神ではなく、寺院で尼僧に経典を唱読させることが 常態化してゆき、大王の病平癒のため官寺が重要視されるようになった。 寺院建設に関しては造仏工、造寺工、瓦工等の工人は渡来人が主であったが、多くの寺 院建設が進むにつれ技術伝承による国産化が可能となっていった。 F-1 飛鳥の寺院の数 飛鳥寺 川原寺 本薬師寺 大官大寺 山田寺 豊浦寺 立部寺 石川精舎 坂田寺 橘 寺 桧隈寺 大窪寺 栗原寺 紀 寺 岡 寺 軽 寺 膳夫寺 安倍寺 久米寺 奥山久米寺 -1- 吉備廃寺 日向寺 醍醐廃寺 興善寺 和田廃寺 (Ctrl キーを押しながら写真をクリックすればネットにつながる) *飛鳥に寺院はいくつあったの? *飛鳥に寺院はいくつあったの? 日本における寺院建設の最初は飛鳥寺であるが、この完工以後に造寺が盛んとなり始め る。飛鳥時代に造営されたとみなされる寺院は殆ど現存せず、遺跡としてその痕跡を伝え る寺と文献にのみその存在を残す寺とがある。 現在法隆寺のみが白鳳期建造寺院として我国最古の木造建築物として残されている。 日本書紀・天武紀に京内24寺 24寺へ勅を施したとあり、 当時の寺院の存在数はこれから覗 24寺 える。 <遺跡も文献もあるもの> 寺名 建造時期 伽藍型式 飛鳥寺:推古期に完成 寺域 寺域 14500m 1塔3金堂伽藍配置 710年奈良元興寺に移転するも飛鳥寺で残る 法隆寺:推古朝に完成 2 塔・金堂並列伽藍配置 建造者 蘇我氏 建久七年(1196)雷火焼失 天智9年焼失。若草伽藍? 上宮王家 7世紀末までに再建された西院伽藍が現在の法隆寺 川原寺:天智期に完成? 川原宮跡 1塔2金堂伽藍配置 ? 710年官寺で唯一飛鳥に残る 豊浦寺:推古期に完成 大理石礎石、白鳳瓦出土 塔金堂講堂一列配置 豊浦宮跡 603 年小墾田遷宮後 坂田寺:推古期に完成 ? 蘇我氏 飛鳥寺東西金堂と同一規模 伽藍が東北に面す 聖徳太子上宮跡? 大王家 ? 寺域 3300m 鞍作氏 司馬達等、止利の氏寺 山田寺:舒明期起工 四天王寺式伽藍 寺域 11000m 蘇我山田家 寺域 25000m 大王家 石川麻呂没後造営継続7世紀末持統が完成 高市大寺:天武期造営 9重塔金堂中門 大官大寺として継続 711年焼失 本薬師寺:持統期に造営 東西両塔の新配置 718年西京に移転 橘寺 奈良に大安寺として移転 伽藍は平安初期迄残る :推古期末 四天王寺式 藤原宮八条三坊 大王家 本尊薬師寺移転説、新造説あり 東向き 上宮王家? 聖徳太子の誕生の地に造営? 檜隈寺:推古期 帰化人の氏寺 塔中心に中門金堂講堂 寺域 3300m 於美阿志神社併設 <遺跡あるも文献ないもの> 奥山久米寺:推古期に造営? 塔跡あり 飛鳥期に創建、消滅 -2- 寺伝なし 東漢氏 定林寺:推古期に造営? 立部寺として創建 和田廃寺:推古期末? 葛城氏寺? 田中廃寺:舒明期造営 乳母石=太子駒繋石あり 田中宮跡? 栗原寺:斎明期に造営? 呉(くれ)の帰化人が定着した地に造営 竹林寺:道昭火葬地? 紀寺 :天武期に造営? 紀氏の氏寺 710年奈良紀寺に移転? <文献のみあるもの> 軽寺 :日本書紀天智紀 大窪寺:日本書紀天武紀 7世紀後半 7世紀中 軽氏の氏寺 帰化人大窪氏の氏寺 桜井寺:日本書紀舒明紀 吉野寺:日本書紀欽明紀 我国初の造仏を祭る 塔心楚あり? 大野北塔:日本書紀敏達紀 ほこぬきでら 桙削寺(ほこぬきでら):日本書紀皇極紀 大丹穂山に創建 *なぜ寺院は なぜ寺院は急に増えたの? 寺院は急に増えたの? 推古期の第一の権力者であった蘇我氏が威信をかけて建造したのが氏寺としての飛鳥 寺でその出来栄えは荘厳で素晴らしいものだったと考えられる。 想像するに中門をくぐると見たことも無い高い塔がそびえ、金堂に入ると金色に輝く大 仏が鎮座し堂内は極彩色に装飾されており、これぞ極楽と云う演出がされていた。 古来から信仰の対象としての神は磐座(いわくら)や神奈備(かんなび)等自然の岩石 や山を対象としていたが、仏教も八百万の神の一つと捉えていたにも関わらず人工の寺 院・仏像を信仰の対象とすることに新鮮味を感じて多くの人が信じるようになったと考え られる。 従って大王家もその威信を示すためにも官寺の建造は不可欠だったのでしょう。 特に上宮王家の聖徳太子は蘇我氏と共に物部守屋討伐戦で戦勝祈願した四天王寺は官 寺の一号ともされているが、隠棲地としての法隆寺を建造し併せて七寺を創建したとされ ている。また即位した大王家は次々官寺を創建し、これに倣って有力豪族が氏寺の建造を 競う状況となったのが急増の要因でしょう。 *官寺と氏寺の違いは? 寺院の創建は大王家や有力豪族により行われたが基本的には私寺であったが、鎮護国家 の理念に基付いて国家、天皇、皇室の安泰を祈願するための法会を行う寺を官寺とした。 官寺は朝廷の監督を受ける代わりにその経済的保護を受けることとなり、伽藍の建造・ 維持費用は食封(じきふ)や寺田及び出挙稲(すいことう)として朝廷より支給される。 従って大王家が造営しても必ずしも官寺とは為らないが食封が支給された場合がある。 氏寺は特定氏族一門が帰依して菩提所とした寺院を指し、蘇我氏の飛鳥寺、蘇我山田氏 の山田寺、藤原氏の興福寺、紀氏の紀寺等があるがその氏族が維持管理している。 官寺の一号とされている四天王寺も討伐した物部守屋の財産を没収したその半分を造 営・維持管理に流用したとあるだけで官寺の定義は明確ではない。 -3- しかし蘇我氏の飛鳥寺は氏寺として運用されたが大化改新で蘇我本宗家が滅亡した後、 朝廷が没収して官寺扱いとしている。 官寺としての位置付けが明確化したのは天武9年の勅で百済大寺(大官大寺)、川原寺 (弘福寺)、飛鳥寺(法興寺)のみを官寺とし、従来官寺扱いしていた法隆寺等の多くは 私寺とするが、今まで与えられていた食封の支給期限を30年としたが、大宝律令で更に 縮減して5年としたのは官寺が増え過ぎた弊害を排除すると共に尼僧令等を発令して寺 院の管理を強化したのでしょう。 官寺は大寺とも称され平城遷都で大官大寺が移築され大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺、 東大寺が平城に造営され、旧地に残った川原寺、法隆寺は官寺とされ七大寺と呼ばれた。 その後奈良中期には孝謙上皇が創建した西大寺、鑑真が創建した唐招提寺を川原寺、法 隆寺に替えて南都七大寺と呼ぶこともある。 <註> 神奈備:神道で神霊や依り代を擁した領域のこと、また自然環境を神体とすること 食封:封戸(ふこ)とも呼び古代貴族に対する俸禄制度の一種で律令制度で規定されてお り、この衰退と共に無くなってゆく 出挙稲:地域の支配者である首長が種稲を支配民に貸し与え、収穫期に収穫の中から初穂 料として首長に進上した日本古来の慣習で律令制度で規定された -4-
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