日本人の自然観について

古代
自然
中国から借りた言葉
自然に該当する言葉は日本になかった
古代の日本人に取っての自然=もの=物
1.「もの」にこめた深遠な意味
2.物質的なもの、たとえば海や山
3.鬼に「もの」という字をあてた。鬼は魂という意味。
4.もののけ=不思議な「もの」の動き
「もの」と「こと」が出会って自然観が成立する
事=言
「もの」の連鎖や集合が「こと」をつくる=言葉によって認識される状態のこ
と
「もの」としての自然が人事と結合して「こと」を作り上げる
古事記、日本書紀におけるコスモゴニー(宇宙の生成)
宇宙の生成を煉金・煉丹術の状況を借りて表現した。水銀は不老長生の秘薬と
されていた。
煉金、煉丹術は道教(不老長寿を重視する。老荘思想からうまれた道家の哲学)
における呪術だった。道教は記紀が書かれた頃には日本に普及していた。気、
道、無などにより、自然の根源をとらえようとした。
記紀には、混沌とした物から世界が始まる、という考えが見られる。
物から様々な自然の事物や神々が生まれる。物から神へ、そして人間(天皇)
への変化。呪術的、物語的に道教を受け入れた。道教に含まれた自然と一体と
なるのが人間の理想とした哲学は、後の仏教や密教や禅が日本に入ってきたと
きに、その中にみられるまで日本には根付かなかった。
中世
古今集(10世紀)
中国(唐)の影響を受けた平安時代
嵯峨天皇は宮廷行事や服を中国風にし、中国に勉強に行った空海などを重んじ
た
洛城の女児顔色を惜しむ。行くゆく落花に逢うて長く嘆息す 劉廷芝
花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に 小野小町
共に、花も女性の容色もすぐ衰えてしまう=>人間と自然の同質性を歌ってい
る
故人また洛城の東にはなし。今人また對す落花の風 劉廷芝
(洛陽の東には昔の人はもういなくなってしまった。そして、今の人は花見を
して、風に対している)=>自然界には循環があり、花が咲いて、枯れても、
また翌年には復活する。人間の方は衰えて死んでいく=>人間と自然は異なる
色もかもおなじむかしにさくらめど年ふる人ぞあらたまりける 紀友則(古
今集)
ひとはいさ心もしらず ふるさとは 花ぞむかしのかににほいける 紀貫之
(古今集+小倉百人一首)
この2句にも同じ思想が見られる。
2つの新古今集の自然観(13世紀)
1.平安貴族的な自然観=抽象化され芸術至上主義てきな世界、言葉だけの実
感を伴わない世界、音楽性や抽象化した自然になんらかの心持ちを表している
のであり、実際の自然と関係がない。
春の世の夢の浮き橋とだえして峰にかわるる横雲の空 藤原定家、
2.仏教思想(全ての物は一心の現れ)の影響を感じさせる自然観
はれずのみ物ぞ悲しき秋霧は心の内にたつにはあるらん 和泉式部
(秋霧はもの悲しさを感じさせる。悲しい心持ちの私の心の中にも秋霧がたち
こめているのかしらん)=>自然物である霧も、悲しいという感情も同じレベ
ルで交流しているという思想が見て取れる。
近世、近代
もののあわれ=本居宣長が不変の日本精神と位置づけた
神道と仏教の共存=>神仏習合
神道=霊肉二元論(霊魂と肉体は別々の物で、大切なのは霊魂の方だ)縄文の
昔から抱いてきた日本人の感覚
仏教=心身一元論(六世紀半ば、仏教伝来以来、人間の身体と心とは一体とい
う考え)
霊魂の存在を認める仏教ができあがる。
西方浄土と山中浄土
仏教での往生観
人間は死語西方10万億土の彼方(無限の彼方)の浄土へ行く
=>日本人は抽象観念を理解できにくい民族だったので、浄土を生活圏のそば
にある山の山頂だと読み替えた=>山中浄土が生まれた
日本では頂上の浄土、谷間の地獄、賽の河原の三点セットが発明された
天災は忘れた頃にやってくる
「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増す」寺田寅
彦
「単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のよ
うな多彩にして変幻きわまりない自然を持つ国で八百万の神々が生まれ崇拝さ
れ続けたのは当然のことであろう。山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあ
るのである。それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証される」
寺田寅彦「日本人の自然観」
「天然の無常」(日本人の精神生活の根底にある宗教感情)=>日本列島の自
然は不安定である。例えば、いつ来るかもしれない地震の不安。
「自然の神秘とその威力を知ることが深ければ深いほど人間は自然に対して従
順になり、自然に逆らう代わりに自然を師として学び、自然自身の太古以来の
経験をわが物として自然の環境に適応するように務め」てきた。
日本人にとっての自然は、ひとたび荒れ狂うと手が着けられないほどに凶暴な
「厳父」のような存在。一方我々を包み込む「慈母」のような存在。後者のよ
うな自然に接すると、人は自然の中に包摂され、森の中に神の声や、山の中に
人の声を聞くようになる。天地万物に魂が宿り、生命があるという信仰をもつ。
狩猟民の文化
人は動物を殺し、肉、皮、骨の全てを利用する。動物も人を襲い、殺し、食べ
る。人間と動物の関係が食物連鎖の輪の中にある。
農耕文化
食物連鎖の輪から抜け出た。人は動物を殺して食べても良い。しかし動物は人
を殺してはいけないという人間中心のモラルを作り上げた。
自然観の意味
自然科学領域で使用される物とは違い、ここでの自然観とは、日常生活の中で
意識し、共有している文化的な自然観である。
1.自然に対する見方、自然や自然現象に対する認識および感情
2.日々の自然との接触などから形成される、自然に対する意味づけ。または、
自然と自己との関係性に関わる自己の意味づけ
3.有限である人間と無限との関係認識としての宗教概念との関連において自
然をとらえる
宗教的自然観(宗教の営みと自然観が交差する領域)
文化現象としての宗教において自然認識が根元的である=>人間が問題を抱え
たときにとる、究極的解決に向けた営みとしての自然認識もあり得る
「近代的な科学思考では、自然は単なるモノであり、思惟する主体としての人
間が支配し、利用し、開発・破壊する物質的対象、客体的手段にしかすぎなか
った。これに対し、神話的思考では、自然と人間を二分法によって対立させず、
むしろ人間をもまた自然内存在として母なる自然の懐に抱かれ、外界と交流し、
世界との共感的・共生的な全体的関連の中に生きる存在だと考える」