終生誓願を宣立して シスター岸 里実 早春を思わせる暖かな日差しが、お

終生誓願を宣立して
シスター岸 里実
早春を思わせる暖かな日差しが、お御堂の窓から床へと伸びていました。お祝い用に
敷き詰められた赤いじゅうたんは、そのまぶしいほどの光を浴びています。わたしは六
年前の初誓願を思い起こしつつ、その時より落ち着いた気持ちで式に臨んでいました。
あの時も、こうして大勢の人に見守られながら、神の恵みの内に初めて誓願を立てたの
です。それから様々な場所で色々な体験を経て、六年間の歩みを終える今、こうして生
涯の誓いを立てるに至ったのです。
実は終生誓願式のその日まで、わたしは終生誓願式の意味がよく見出せませんでした。
わたしにとって主への自己の奉献は、六年前に捧げられた、たった一度の覆すことのな
い決断でした。初誓願後にもう一度終生誓願を立てることは、まるで結婚してから六年
後にもう一度同じ結婚をするように思われて、不可解だったのです。どうして同じこと
を繰り返す必要があるのか、わたしはただ単純に不思議に思っていました。
ところが誓願式を終えた今、ようやくわたしはこの最終的な奉献の意味が分かるよう
になりました。それは初誓願でなされた主への奉献を、単に繰り返すことではなかった
のです。終生誓願はまさに召命の歩みそのものの充満であると同時、一つの決定的な応
答としてあるのです。それについて語るためには、召命の歩みがプロセスとしてあるこ
とを理解する必要があります。その召命の歩みを三つの段階に分けて振り返るとともに、
わたしがいただいた終生誓願の意味について最後にまとめてみたいと思います。
①第一の段階 呼びかけ
召命は英語で vocation と言いますが、それはラテン語の vocare 呼びかけられた、と
いう言葉に由来します。神様に呼ばれたから付いてゆく、そのこと自体は途方もなく単
純です。始めにわたしたちは「わたしについてきなさい」という声を聞きます。
奉献生活への呼び掛けは様々な形をとり、呼声を受ける一人一人はユニークな仕方で
その声を聞きます。ある人は御言葉や祈りによって、ある人は周りの人の何気ない一言
や出会いを通して、また他の人はぼんやりとした憧れや夢によって、などです。また、
パウロのように稲妻のような呼びかけを聞く人もいれば、ゆっくり徐々に呼び声を発見
してゆく人もいます。ただこの呼びかけに共通していることは、この声が唯一無二で、
それを聴いたが最期抗うことは困難だということです。それほどこの呼びかけは深い魅
力に満ちているからです。わたしたち一人一人はこの声を聞いてしまったがために、無
我夢中で修道生活に引っ張られて行ったのです。
わたしたちはただ付いて来るよう「呼ばれ」、ただその声を頼りに歩みます。この歩
みはまさに、聖書において「信仰の父」と呼ばれるアブラハムと同じものです。
主はアブラハムに言われた。
あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように
②第二の段階 従う
けれども「わたしについてきなさい」という呼びかけは、全く単純であるがために、
従う者に戸惑いや不安をもたらします。なぜならこの声は「どこへ行きなさい」とも「何
をしなさい」とも予め告げないからです。アブラハムがそうであったように、わたした
ちは神の言葉だけを頼りにして、現実を旅してゆかなければなりません。わたしたちは
見通しの立たない先行きに耐えねばならず、思いがけない出来事に翻弄され、時に自分
の計画を放棄することも求められます。また、旅の中では自分や周りの人々の弱さと限
界がよく見えてくるのです。
旅の中での一番の危険は、偶像崇拝です。アブラハムは神の約束の不確かさに耐えき
れず、自分の力で神の約束を実現しようと試みました。奴隷の女ハガルとの間にもうけ
た子イシュマエルは、神の祝福をもぎ取ろうとする人間の弱さの象徴です。けれども神
はそのアブラハムを赦し、彼が百歳になった時に約束の子を与えられます。それは人間
的な計画を全く超える、人の眼には途方もない神の計画の内にありました。
わたしたちはこのような旅に招かれています。わたしたちは自分がどこに到着するか
を知りません。つまり、この歩みはどこかへ到着するためいうより、道であるイエスそ
のものが目的なのです。ただ神の呼び声を頼りに、この現実を歩いてゆく、それは全く
の神秘です。
③第三の段階 奉献する
神の呼び声を頼りに旅を続けたアブラハムは、少しずつ清められて行きます。弱さや
失敗を通して、彼は自分の計画を放棄し、神に委ねることを学びます。そうして始めて、
彼は神の約束の実現を体験してゆくことになります。
彼は神の声に従うことの「確かさ」に目覚めます。神の約束を疑う事がなくなったア
ブラハムは、神から約束の子であるイサクを捧げるように求められたとき、迷わずそれ
を実行に移します。息子イサクを捧げることは、アブラハムにとって自分自身を完全に
神に奉献することと同じでした。アブラハムの信仰は成熟し、その成熟した信仰は奉献
となって実りました。そしてその奉献は、彼にとって愛する息子を捧げるという十字架
だったのです。
「わたしに従いなさい」という愛に満ちた呼び声は、わたしたちに旅することを促し
ます。この声を頼りに歩むうちに、わたしたちはこの声をもっとよく知り、愛するよう
になって行きます。この愛そのものである声は、わたしたちの心を少しずつ養い、やが
てわたしたちの内に実を結んでゆきます。それは奉献と言う実、究極的には十字架とい
う形を取る実です。
十字架は人の知恵では理解できない、神の愛の最高の輝きです。十字架はそれを愛す
ることによってしか理解できません。そして奉献の道は、わたしたちをこの十字架の神
秘へと少しずつ引き寄せるのです。これこそ、わたしが改めて気づかされた終生誓願の
意味でした。
終生誓願式で、わたしは会の伝統に従って十字架をいただきました。この十字架はわ
たしの捧げる日々の労苦を意味するとともに、神の愛の呼びかけとそれに応えるわたし
の成熟した愛を意味しています。それは家庭のお母さんが、愛するわが子のために喜ん
でその身に労苦を引き受けるのと同じことなのです。ただ全く異なることは、わたしが
「呼び声」によって、奉献の道を歩いてゆく、というこの人間的な意味での不確かさで
す。それは目に見えない信仰の歩み、だからこそわたしたち奉献生活者は教会において
「しるし」となるのでしょう。
今日、修道生活の高齢化や召命の不足を嘆く多くの声が聞かれます。でも、どの時代
も修道生活には困難さがつきものでした。なぜなら召命の道そのものが手探りの冒険だ
からです。それは人間的計画を超える、神の計らいの内にあります。大きなチャレンジ
であると同時に、心躍る特別な面白い生き方です。奉献生活者の特別年にあたる今年、
このような節目に終生誓願の恵みが与えられたことは、なんと幸いな事なのでしょう。
これからの日々、わたしは姉妹たちとともに「呼び声」を頼りに、自分の十字架を受け
取りながら、旅を続けることでしょう。
幸いなこと、
あなたに寄り頼んで奮い立ち、
巡礼を志す人は。
(詩編 84.6)