金印疑義

金印疑義
志賀島の金印はだれに与えられたものか
June 23, 2015
岡 田 博 喜
志賀島金印・実物大
江戸時代に現在の福岡市志賀島で発見されたいわゆる志賀島の金印は、西暦1世紀中ごろ、漢の
王朝から現在の博多区にあった奴国の王がもらったものであるというのが定説になっており、金
印に彫ってある「漢委奴国王」は「カンのワのナコクオウ」と読むべしということになっている。
しかし自分は長年信じられてきたこの定説は全くの間違いだと考えている。その理由は下記のと
おりである。
1.倭国の範囲、日本人は大陸にも居たという重要な事実
三国志倭人伝、後漢書を含め、中国の史書には倭人は朝鮮半島の南端にいたと次のように記述し
ている。
史書名
成立時期
漢
西暦 75~88 年
書
三国志
倭人伝
三国志
韓 伝
西暦 280~295
西暦 280~295
該当箇所(原文)
現代語訳
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以
歳時來獻見云
倭人在帶方東南大海之中、~曆韓
國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國
韓在帶方之南,東西以海爲限,南與
倭接,
楽浪郡の海を行ったところに倭人
はいる
倭人の国の北岸は狗邪韓国である
韓はその南を倭と接している
三国志
韓 伝
西暦 280~295
弁辰亦十二國・・・・・・弁辰狗邪
國
狗邪は弁辰(韓国)にある
後漢書
西暦 400~
在韩东南大海中・・・去其西北界拘
邪韩国七千余里
倭の西北にある狗邪韓国まで(帯
方郡から)7千余里である
後漢書
西暦 400~
倭國之極南界也
倭国は半島の南端である
倭人が朝鮮半島に進出したのは紀元前であるが、後漢書は5世紀の作である。進出したというよ
りも、西九州、壱岐、対馬の人々は普通に朝鮮半島と行き来するうち、定住したのである。倭国
が極南界にあるという後漢書の記述は、5 世紀当時も朝鮮半島の南端には倭人が住んでいたこと
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を明らかに示しており、この分野の専門学者は、これを当たり前のこととして発表している。反
対しているのは日本の一部と韓国であるが、その主張はおおむね支離滅裂である。極南界と表現
されたその地域はのちに狗邪韓国や任那と呼ばれるが、ただし、この場合の倭人がすなわち列島
日本人かと言えば、少し違うのではないかと思われる。それはもともと九州から渡ってきた人た
ちを含み、すでに何世代にもわたって半島に定着し、それでいてその風俗、習慣、容貌、言語な
どが日本列島に住んでいる人々により近い人々と考えなければならない。この半島倭人の歴史は
数百年と長いのである。これらの人々は、中国や朝鮮の王朝より倭国への帰属性の方が強かった
はずである。それは、朝鮮半島の厳しい気候や、何世紀も続く紛争を考えれば納得できる。
西暦100年ころ完成した漢書にも倭人は「朝鮮半島楽浪郡の先の海」にいると海洋族を思わせ
る記事があり、3世紀に書かれた魏志倭人伝には狗邪韓国は倭国の北岸であった、さらに倭と韓
は接しているとある。少なくとも0~3世紀ころ、現在の韓国プサンを中心とする地域に倭人が
住んでいたことは間違いないようである。倭人と呼ばれたこれらの人々は、紀元前 400 年ころ
から大陸にいたと言われ、その根拠は日本の弥生式土器が朝鮮半島で急に増え始めることなどで
あるらしい。これらの人々は次第に勢力を増し、おそらくあまり現地人と同化せず、一種のアイ
デンティティを保っていたことがうかがえる。このことは、3世紀ころまでの倭国と大陸の付き
合い方を把握する上で極めて重要なことである。このころの「倭」というのは日本列島だけでは
なく、朝鮮半島の南端のことで、それは委と書かれていたのである。
韓国の歴史書も例外ではない。自国の歴史があまりにも手前味噌のデタラメばかりであることを
嘆き、高麗王朝の仁宗皇帝が12世紀半ばに作らせた歴史書が「三国史記」である。これは事実
上韓国最大の国史であるが、その中身は倭から侵略されたという記述があまりにも多いため、都
合のいいことだけを教える韓国ではあまり顧みられていない。しかし書かれていることは史実で
あると考えられる。ここでも朝鮮半島の南端は倭であり、陸続きであるため何度も倭が侵略した
となっている。倭は1世紀から50年おきに侵攻しているのである。これは高麗自身が作った書
であり、倭や日本の意向は全く反映されていない。つまり、西暦1世紀中ごろ、倭とは列島を指
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すより朝鮮半島の南端を指したのである。
2.志賀島金印「漢委奴国王」の読み方
志賀島の金印なるものが西暦57年に倭国に与えられたいきさつについて、西暦445年完成の
後漢書には次の通り書いてある。
建武中元二年 (西暦57年・後漢・光武帝)倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也
光武賜以印綬(さらに) 安帝永初元年(西暦107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請
見(後漢書)
金印には「漢委奴國」と彫られているにもかかわらず、400 年後に書かれた後漢書には倭奴國が
奉貢朝賀したと書かれている。これが「委」は「倭」のまちがい、金印は「倭の奴国王」に与え
られという解釈を生んだ因である。漢委奴國の読み方について反対意見も多く、例えば 2000 年
前の魏音と呉音の違いを挙げる説がある。すなわち、これは魏に関する記事であるのに、「わの
なこく」というのは敵対する「呉」の音であり、もしこれを魏音(漢音)で発音するとイトもし
くはイドとなり、イト国読みの方が論理的であるというものである。この主張は根本的な点をつ
いており、かなり説得力があるが、自分には大した意味はないものに思われる。どちらにしろ、
金印には委奴国王に送られたものと彫られており、倭奴國王とは彫られていない。自分には、漢
のワのナの国王という読み方やイト国という読み方は違うのではないかと思える。そのもっとも
大きな理由はとりもなおさず委奴は漢のおひざ元である朝鮮半島の南端・極南界にあったからで
ある。
繰り返しになるが、後漢書には1世紀半ばに「極南界の倭奴國」が光武帝からもらったもので
あると書いてある。もし倭の奴国であるなら、それは博多にあり朝鮮半島の極南界ではなく九州
の極北界である。後漢書はどう読んでも委奴国は九州ではなく、朝鮮半島の南端にあったとしか
読めない。
現代語にすると、
「朝鮮半島の南端にあった委奴の大夫が漢王朝に挨拶してきたので、
領地を安堵して王に認定した」と読む方が自然なのである。そうしなければ「極南界」の意味が
通じない。まして、当時何度も朝鮮半島を北上して侵略した極南界の委奴を無視して博多の奴国
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や伊都国に(当時これらのクニが既に存在していたとしても)金印を与えるなどあるはずがない。
そうなると伊都国も奴国も近代のいわゆる「似た音合わせ」に過ぎないのかもしれない。しかし、
それでは金印が志賀島にあったことが説明できないではないかという反論が出るであろう。自分
もうまく説明できない。だが、それは博多の奴国であっても同じである。
金印を与えた光武帝はその直後に死亡している。このような印璽は、王朝が滅ぶと返還するのが
慣わしであったと自分は記憶している。委奴から見ると、せっかくもらったのに1年もしないの
に返せとは冗談じゃない、本国に持って帰って隠せと言うようなことではないかと自分には思え
る。実際に金印公園に行ってみると、神社の近くでもなし、古墳があるわけじゃなし、岬の先端
でもなく、あまりにもさりげないのである。これはおそらく、当時の隠し場所がさりげなさすぎ、
記憶するものが極めて少数で、やがて忘れ去られたものではないかと自分は思う。つまり、それ
が志賀島である理由は、朝鮮半島の委奴は祖先を九州に持ち、まだ帰属性を捨てていなかったと
自分は見る。自分には、極南界の委奴国と明らかな記述があるのに、それを福岡のワのナ国王と
かイト国王などと解釈する理由が全くわからない。志賀島の金印に関する考察や日本学会の主張
は、自分には奇妙奇天烈なものである。
後漢書東夷伝によると西暦107年、
「倭国王帥升等」
(日本語読みではスイショウ等)が生口(奴
隷に近いが職人等を含むと解されている)160 人を引き連れ朝貢している。西暦107年は金印
の50年後である。自分は、もともと倭民族は「ワ」という音で呼ばれていたところ、更にそれ
を蔑称して委の字をあてたのではないかと見る。帥升は王の名前だということになっているが、
そうではなく、これは引率者の役職名だとする説もある。自分は、おそらく1世紀ころにはまだ
はっきりとした「王」という概念が倭国にはなく、これも半島南部の委奴の役職名ではないかと
思う。その根拠は我ながら薄弱なのであるが、使節は王ではなく大夫と名乗っていること、伊都
都彦などの王名に比べあまりにも王様らしくない名前であることと、現代の言語感覚では「帥升」
は王ではなく、将軍とほぼ同じ意味と思われるからである。帥升の帥は、統帥権など現代でも軍
事用語である。また魏志倭人伝に、弥馬升(みましょう)は邪馬台国の官であると記載されてい
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る。官は無論王ではない。王自身が海を渡ったとするのは無理があると思う。
どちらにしても、公印である金印に相手の名前「倭」を「委」と書くなど、たとえ慣習の一部で
あっても略体を用いるはずがない、印面のスペースから言っても省略する必要がないという意見
はもっともである。もし、ワのナの国王と読まないとすれば、実は古代の歴史を書き換える大問
題なのである。自分は、実際に金印が作られた時代を考えると、ワノナノコクオウとは絶対に読
まないと思う。
明らかな証拠があるにもかかわらず、なぜ半島南端の倭を認めないような一種馬鹿げたことがま
かり通ってきたのだろうか。それは朝鮮半島の南部が倭の領土であったというような主張は、た
とえ学問的正当性があったとして言えないというような日韓関係の所為であると言われており、
自分もそう思う。1世紀当時新羅の王・脱解(タレ)は倭人であったと朝鮮の記録にはっきり書
いてある。それは学問的には明らかなことであるが、これまでそれを公式に発言することは憚ら
れてきた。だが倭は同じ朝鮮半島の目と鼻の先に永年おり、頻繁に攻め込んでいるわけであるか
ら、朝鮮の歴史に深く食い込んだとしても何ら不思議ではない。日本の古代文化は朝鮮から来た
というのは一概に言えないというのが最近の研究なのである。
なお、金印が江戸時代に腕利きの職人により偽造されたものであるという可能性はあると言わざ
るを得ないが、そうであっても元となる同じデザインの本物があったはずである。その根拠はと
りもなおさず「倭」ではなく「委」と彫られていることである。したがって、歴史探究の立場か
らは、金印が本物かどうかはあまり意味を持たないと自分は思う。
以上
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