古代日本における「自由」の語用

古代日本における
古代日本 における「自由」の語用
における 「自由」の語用
六国史への「自由」の登場
古代日本の文書における「自由」の語用の初出が「日本書紀」(720年)である
ことは、
「日本書紀」より以前の文書とされる「古事記」にも、現存最古の典籍とされ
る聖徳太子撰の「三経義疏」にも、さらにそれより古い遺物の、例えば木簡や鉄剣銘
や刀身銘や古鏡銘や金石文などに残された漢字にも今のところ「自由」の語は見つか
っていないのであれば、誰しも異論のないところであろう。また「自由」という漢語
が大和言葉にない中国伝来のものであることは取り立てて論じるまでもないことであ
ろう。ところで中国伝来の「自由」という日本語には後漢書の志の第13五行一の「百
事自由」にあるようなすべて「欲しいままに振舞う」というような意味が伝統的に強
く内在し、これが明治期になって西欧の liberty や freedom の翻訳語としては「自由」
の語は不適切とされる要因となったという言説が存在する。それは木村毅の「『自由』
はいつ日本に入って来たか」に始まり津田左右吉の「自由といふ語の用例」を経て柳
父章の「翻訳語成立事情」や富田宏治の「近代日本における『自由』の観念」にまで
引き継がれている定見であるかのような見解であり、あたかも後漢書の上記の箇所の
意味合いが日本語の「自由」の明治期までの伝統的な中心要素を占めていたかのよう
な論調なのである。しかし日本語の「自由」に「意のまま」
「欲しいまま」の意味合い
があったとしても、その由来を何の資料的根拠の検討もせず持ち出しているのは何と
も不可解である。もし後漢書における語用が日本語の「自由」の意味を形成した重要
な要素になったとしたら、さしあたり「日本書紀」を経由したものだと推測するのが
妥当なところであろう。実際「日本書紀」には「自由」の語用は巻第四綏靖紀の手研
耳命に関する「威福自由」と巻第十五清寧紀の星川皇子に関する「権勢自由」 の 二箇
所に見られ、正統的権力秩序に背反して、つまり権力行使における上下関係を反秩序
的に侵犯して、「意のまま」「欲しいまま」にするというそれらの「自由」は上記後漢
書の志の箇所と意味合いを同じくするからである。小島憲之によれば「日本書紀」の
中国史書の利用は「漢書」
・
「後漢書」
・
「三国志」が中心をなし、
「梁書」
・
「隋書」はそ
の一部、
「史記」は是非の問題が残っているという。また史書以外の主要な漢籍の利用
としては「芸文類聚」・「文選」・「金光明最勝王経」を挙げている。今挙げられたもの
のうち「史記」・「漢書」・「梁書」・「芸文類聚」・「文選」・「金光明最勝王経」には「自
由」の語例は見られない。見出せるのは「後漢書」と「三国志」と「隋書」の三書で
ある。
「後漢書」では上記の箇所以外に、帝紀の第十巻下皇后紀下安思閻皇后に「威福
1
自由」、志の第十六巻五行四に「兾秉政桓帝欲自由内患之」、列傳の第三十三樂恢傳に
「縱舎自由」の三箇所である。いずれもが上記の「百事自由」と同じ正統的権力秩序
に背反して「意のまま」
「欲しいまま」にするという語用である。であれば「百事自由」
の箇所を特に掲げてその意味合いが伝統的意味を形成したとするのは少々無理が生じ
て来る。しかも「三国志」においても「自由」は五箇所見出され、そのうちの魏書巻
十の「主上不自由詔命出左右」、 魏書巻二十八の「而師逐意自由」、同じく魏書巻二十
八の「師専権用勢賞罰自由」もまた「百事自由」と同様の正統的権力秩序に背反して
欲しいままにするという語用である。これでは後漢書にのみ正統的権力秩序に背反的
な日本語の「自由」の典拠を求めるのはいよいよ怪しくなって来る。さらに「日本書
紀」は「後漢書」を直接利用していたとする小島憲之の説に反論する池田昌広の論証
に従えば范曄の「後漢書」の初伝は天平7年(735年)の吉備真備の帰朝というこ
とになり、そうであれば益々、私には小島憲之と池田昌広のいずれに組みするかにつ
いて決定的な知見は持たないがいずれであっても、
「後漢書」を日本語の「自由」にお
ける我がまま勝手という伝統的意味の形成ないし語用の最初の主犯に仕立てるのは無
理ということになる。となると「日本書紀」の「自由」の語用は何に由来するのかと
言う問題が残る。
「日本書紀」編纂が完了するまでは当時の官人たちに「史記」
・
「漢書」
とともに三史の一つとして知られていたのは「後漢書」ではなく「東観漢書」であっ
たとされるが、中華書局出版の呉樹平の「東観漢記校注」で現在確かめられるそこに
は「自由」の語用が全くないとなれば、あるいはそれについての直接の出典はなく、
太田善麿によって「日本書紀」編纂に関与していたのではないかと推定されている史
部として朝廷に重用されていた大陸系の今来漢人(いまきあやひと)の船氏や、唐か
らの渡来人伊吉氏などによる語用ではないかという可能性も考えられる。しかし「続
日本紀」の称徳天皇神護景雲三年十月十日の記事には、
「大宰府言。此府人物殷繁。天
下之一都會也。子弟之徒。學者稍衆。而府庫但蓄五經。未有三史正本。渉獵之人。其
道不廣。伏乞。列代諸史。各給一本。傅習管内。以興學業。詔賜史記。漢書。後漢書。
三國志。晋書各一部。」とあるから、この記事を信じるならば日本書紀に遅れること約
20年の769年には「史記」・「漢書」・「後漢書」・「三国志」・「晋書」といった史書
は中央官僚によって読まれていたのだから、そこから推し量るなら「日本書紀」編纂
期にも既に読まれていたということもあながちないわけではない。従って小島憲之の
「日本書紀」の記述の出典に関する説はこの面からしてもすべてとまでは言えないと
してもその一部についてはかなりの蓋然性を持つと言えよう。であれば「日本書紀」
の正統的権力秩序に背反という「自由」の語用の典拠は「後漢書」のみではなく、
「三
2
国志」もまたそれと同等とするのが妥当ではなかろうか。
時に「三国志」には魏書巻八の「其吏從兵衆、皆士伍小人、給使東西不得自由、面
縛乞降」と、同じく呉書巻四の「卿手下兵宜將多少自由意」という用例もあり、前者
は「自己判断で行動する」、後者は「自分自身の望みを主にして」の意味合いになるが、
こちらの「自由」の語用が「日本書紀」に全く反映していないのであれば、もはや後
漢書だけを典拠に掲げて日本語の「自由」の意味形成の主要因に帰すのは僻見と言わ
ねばならない。むしろ受容する日本の側の事情に要因を探さなくてはならないのでは
ないか。事実古代日本の「六国史」を辿ると史書編纂に携わったエリート官人たちの
「自由」の語用は権力秩序背反的な「意のまま、欲するまま」という語用に偏ってい
る。
「自由」の語例は「日本書紀」に続く「続日本紀」
(797年)に一箇所、
「日本後
紀」(840年)に二箇所、「続日本後紀」(869年)及び「日本文徳天皇実録」(8
79年)にはないが、最後の「日本三代実録」
(901年)に三箇所、計六箇所に顔を
見せている。
「続日本紀」巻三十四光仁天皇の箇所の藤原良継が勝ち得た「専政得志升
降自由」、「日本後紀」巻十四平城天皇の箇所で檀越たちが為す「愛憎自由改補三綱」、
同じく「日本後紀」巻二十嵯峨天皇の箇所の藤原薬子の手にした権力の「百司衆務吐
納自由」の三例はいずれも「日本書紀」の語用と同様の正統的権力秩序に背反する「自
由」である。また「日本三代実録」における三例も、巻三十四陽成天皇の箇所で陽成
天皇の宣う言葉である「此軄大上天皇之所拝受豈是朕之可自由乎」は徳治的なニュア
ンスを加えているがやはり正統的権力秩序に背反する「自由」の語用であり、巻十二
清和天皇の箇所で夷俘の管理に言及した「往来任意出入自由是國司禁疎略」や巻四十
八光孝天皇の箇所の府司大監らの行為である「追補罪人拷掠違法放免自由」について
は正統権力秩序に背反するというより支配に対するあるいは法に対する軽視ないし無
視による無秩序的な逸脱というように語用の適用範囲がやや広がっているものの(こ
れには「晋書」の「志第20刑法」の箇所に典拠を推測させる「疎密自由、律令無用
矣(法の適用が意のままに疎密になされ、律令は用いられなかった)」という語用が見
られる)、「意のまま」「欲しいまま」「我がまま勝手」の意味合いの語用であることに
変わりがない。それ故正統的権力秩序あるいは支配秩序ないし法秩序に対する背反と
いう「意のまま」「欲しいまま」「我がまま勝手」の「自由」は、古代初期においては
国史編纂という一分野で慣用されるようになっていたという程度のことであり、古代
日本における一般的語用であったわけではない。この「自由」の語用が頻用され意味
形成の一要素として強化されるのは平安後期から中世に頻出する公文書においてであ
り、それが主として支配階層における語用を経て明治期にまで及んだと思われる。だ
3
がそれは本稿の考察からはみ出すことになるのでここではこれ以上触れないことにす
る。
法文における「自由」の語用
法文における「自由」 の語用
では古代日本の他の分野における「自由」の語用はどうであったのか。予め断って
おくと法制と仏教と漢詩文のそれぞれの分野で違った意味合いで「自由」の語用が為
されていたのである。そこで最初に同じく官人たちの手に成る律令格式と政事に関わ
る雑多な遺文に目を向けてみる。すると養老律の疏及び「令義解」の令の本文と注解、
また「令集解」の中の注解、さらに三代格の太政官符に以下の用例が見出せる。先ず
養老律の中の賊盗律「凡盗公取竊取。皆爲盗。…」の條に付された疏には①「放逸飛
走之屬。謂鷹犬之類。須専制在己。不得自由。乃成爲盗。」という例が見え、また「令
義解」における養老令の戸令とその注解には②「凡 テ ハ レ 妻 ヲ 、先由 レ ヨ 二 祖父母父母 二
一
。若無 ハ 二 祖父母父母 一 、夫得 二 自由 ス ル ヲ 一 。謂自由猶 レ 云 二 自專 一 也。」という例が見つか
る。さらにこの戸令に関する後代の注解書たる「令集解」の注解の中に③「此條云。
由 二 近親 一 。故合 レ 由 二 三等以上親 一 。若无 二 三親等 一 。亦依 二 下條 一 。夫得 二 自由 一 。」と
④「釋云、自由如 三 猶言 二 任意 一 也。假令。告 二 知可 レ 由人 一 弃耳。但以 二 手書 一 送 二 里帳 一 。
籍帳之時。告 二 國郡 一 知耳。上云 二 祖父母々々 一 下云 二 自由 一 。(中略)穴云。自由。謂自
專也。古記云。夫得 二 自由 一 。謂夫任 レ 意可 レ 由人告知弃耳。」とある二例が見受けられ
る。また三代格では寛平二年十一月廿三日と寛平四年七月廿五日と延喜二年三月十三
日の各太政官符にそれぞれ⑤「何况伽藍在 二 山陵内 一 。諸人去来不 二 必自由 一 。夫以法不
ヒトリ
二
自 レ 之在 レ 人。人不 二 孤 立 一 立 レ 之縁 レ 法。法人兩存乃得 二 興隆 一 。」と、⑥「留住遊行
ホシイマヽニ
左右隨 レ 心。昨日出 二 乎凡鄙之郷 一 。今日入 二 於眞如之界 一 。度脱未幾 自 由 是速。」と、
⑦「借 二 民私宅 一 積= 二 聚稲穀物 一 。号稱 二 庄屋 一 好妨 二 官物 一 。國吏之力不 二 敢制止 一 。出
擧収納不 レ 能 二 自由 一 。公事難 レ 濟軄此之由。」の、三例を見つけることができる。これ
らの用例を見ると、①の「自由」は鷹や犬の習性を主体とした任意性の意味合いに使
用され、②~④は夫が妻を離婚する手続きの条件のもとに是認される法制的な任意性
を、⑤は地形的に困難な状況によって生じる様相を、⑥は仏教界の無秩序な状況の様
相を、⑦は公務執行の際に当面している状況の様相を、それぞれ「自由」の語で言い
表している。①の用例は言うまでもなく前に見た「六国史」における権力的支配的法
的な秩序背反なる否定的価値の意味合いとは異なって、主体性を家畜の習性に転化し
た自主性、②~④の用例もまた「自由」は法の枠によって囲い込まれた個人の自主性、
今日で言われる選択の自由に近い意味合いの肯定的価値のものになっている。また⑤
4
は地形的な障害によって生じる状況の様相を、否定語を加えた「自由」で言い表して
いるが、これも「自由」それ自体の意味合いとしては状況に転化された一般人の主体
性を含んだ肯定的価値のものになっている。さらに⑦の「自由」もまた公務執行に関
わる状況の様相に否定語を加えて使われているが、状況に転化された権力行使者の主
体性が「自由」の意味合いに含まれ、それ自体は肯定的価値の語用なのである。⑥だ
けが「自由」の主体を状況に溶解させて「六国史」における秩序背反の意味合いで用
いている。このように養老律令(718年)から「令義解」
(834年)
・
「令集解」
(8
60年代)を経て三代格の上記太政官符(890年・892年・902年)にいたる
法制上の文章の中に「三国志」におけるような「自由」の肯定的価値の語用が消極的
なニュアンスながら姿を見せるのである。但し①の意味合いの「自由」の語が見られ
る養老律令の賊盗律の疏は中国の唐律の疏をごく僅かの字句の違いはあるがそのまま
引き写したものである。また「令義解」や「令集解」に上げられた戸令における法に
囲い込まれた任意性の意味合いの語用は復元された唐令には特に見出されないとして
も、もともと唐令にはあったのではないかとして考えようが、日本の官人が賊唐律の
否定形を肯定形にして用いたとして考えようが、唐律令から学んだ事情に変わりはな
いであろう。唐律の疏に姿を現わしているこの「自由」の語用は古代中国においては
正史のような意味合いの語用と並んでそれとは別に、官人社会で慣用されていたと推
測される。ここに中国の正史とは別のもう一つの古代日本の「自由」の語用のルーツ
を見出すことができる。とするとこれらの主体性の意味合いの語用のルーツが「三国
志」であるのかそれとも唐律の疏であるかは俄かに決め難いことになるが、どちらで
あるにせよ、また双方であっても、ここで挙げた⑥を除く「自由」は、消極的ながら
主体性という肯定的意味合いをもって使用されているのである。その「自由」は古代
日本の官人社会において法的に囲い込まれた任意性として語用されるか、あるいは主
体性を具体的ないし一般的あるいは抽象的な事物の性向や状況の漠然たる様相に転化
して語用されている。特に後者の「自由」の語用については古代日本の官人の感性に
よって意味合いをずらされ派生させられた日本独自の転用とまで見たとしたら思い込
みが過ぎるであろうか。
「自由」の仏教的
「自由」の 仏教的語用の特性
仏教的 語用の特性
次に「自由」がもっと積極的に肯定的な意味合いの非制約的な「主体性」や「自主
性」で使われた古代日本の仏教分野に考察を進めてみる。この考察の取っ掛かりとし
て参考になるのが中村元編集の1989年の「岩波仏教辞典」である。そこには「自
5
由」の語の項が設けられており、
「後漢書」の「威福自由」のような「自分の思い通り
にする、勝手気ままにふるまう」という用例と並べて、後漢の趙岐の著した「趙註孟
子」にある「則吾進退豈不綽綽然有餘裕哉」の注「進退自由、豈不綽綽然舒緩有餘裕
乎」を用例にあげ、この「自由」が「自己自身に立脚する、自己の主体性を堅持する、
何ものにも束縛されずに自主的に行動する、などの積極的な意味を持つ」ことを述べ
ている。この無制約的な自主性・主体性の意味合いの「自由」はまさしく先に挙げた
「三国志」における語用と重なる。
「三国志」の成立の詳細は不明だとしても作者陳寿
の生存期間が西暦233年~297年ということであれば、
「趙註孟子」の作者趙岐の
没年を西暦201年とするなら少なくとも50年の隔たりがあり、それがかえって文
献的に逐一確かめられなくともこのような語用の「自由」が「後漢書」のような語用
と並んで世俗一般に顔を出していたことを推測させる。しかしそれらのどちらが世俗
でより慣用されていたかは私の力ではここで明言できない。漢末魏初(西暦200年
「吾意久懐 レ 忿
代前半)成立とされる「古詩 為 二 焦仲卿妻 一 作」などを参照すると、
汝
豈得 二 自由 一 」とあって「自由」を姑嫁・親子という家族秩序を乱す意味合いに使って
おり、このように秩序背反的「自分の思い通り、勝手気まま」の語用の「自由」の方
が世俗に深く根を下ろしていたとも見えるのである。時代は下るが、801年に編纂
された慧能―南獄―馬祖の正系を主張する灯史の作品である「宝林伝」の中でも、後
に南宗禅の独自の意味合いを有する用語となる「自由」を以下のようにそれとは決し
て繋がらない家族秩序を乱す意味合いに使用しているので、その蓋然性は高いかもし
れない。「見一童子、鳩摩羅多。便問乞金、汝若施我、当獲解脱。童子曰、我年十五、
未至自由。父雖不在、待白其母。
(私は年が十五ですので、まだ自分の思いのままにな
りません。父は不在ですが、母に話してみるのでお待ち下さい)」というように、であ
るが、いずれにしろこの論考では、どちらが当時世俗でより慣用されていたかは勿論
問題外のことである。
「岩波仏教辞典」の記述では、さらに「後漢書」の「威福自由」のような「自分の思
い通りにする、勝手気ままにふるまう」という反価値的な意味合いと、
「趙註孟子」の
「進退自由」のような「自己自身に立脚する、自己の主体性を堅持する、何ものにも
束縛されずに自主的に行動する」という積極的価値の意味合いの、両方の世俗的用法
がそのまま中国仏教に引き継がれたことに言及し、その後者の例として竺法護がサン
ス ク リ ッ ト 語 原 典 の 「 法 華 経 」 を 漢 訳 す る に 際 し て 「 正 法 華 経 光 端 品 で は svayamʖ ʖ
svayamʖ bhuvahʖ (独立自存である、それ自身において存する)を<自由>と訳してい
る」と続けている。
「岩波仏教辞典」より前の1975年に出された同じ中村元を責任
6
者として編纂された「仏教語大辞典」
(東京書籍)においても「自由」の項の一番最初
の語意に「独立自存であること。それ自身において存すること。」という説明を掲げ、
この svayamʖʖ svayamʖ bhuvahʖ を 「自由」のサンスクリット原典の語とし、漢語の「自
由」の出典として「正法華経」を挙げている。この「正法華経」には上記の箇所を初
めとして全部で六箇所に及ぶ「自由」の語が見出せ、それらを列挙すれば「各各自由」、
「所在自由」、「最勝自由」、「意得自由」、「因佛自由」、「自由力強」となる。どれもが
「独立自存である、それ自身において存する」、あるいは「自己自身に立脚する、何も
のにも束縛されずに自主的に行動する」、即ち非制約的な自主性・主体性という意味合
いであり、超越性をその意味合いの核に孕んだ「自由」だと解し得るものである。竺
法護が「正法華経」を漢訳したのは286年であるが、
「三国志」の成立年代とほぼ重
なる。ここでもまた「三国志」で引用した「自由」の肯定的価値の語用がもう一方の
「後漢書」のような否定的価値の語用と並んで一般的であったのではないかという推
測が蓋然的に裏付けられると思われる。但し「正法華」の「自由」の意味合いの場合
は超越性の概念を核に孕んだものであって仏教語として一般の語用から自覚的に分岐
独立させている点が際立つ。西暦280年に没したとされる康僧會の「佛説大安般守
意経」の序には、心から感覚的な軛が消失して意識に生死の境が消える状態という意
味合いの「法化弟子誦習、無遐不見無聲不聞、怳惚髣髴存亡自由」なる語用が、師の
傳えるところによらず勝手気ままに経典解釈するという秩序背反的な意味合いの「非
師所傳不敢自由也」なる語用と並んで記されており、このように超越性の意味合いが
込められていない同時代の仏典の「自由」の語用も見受けられるので、竺法護が仏典
の訳語として超越性の意味合いまで孕ませて「自由」の語を採用するというのは当時
にあっては特異のことであったのかもしれない。
ところで「法華経」と言えばよく知られているように竺法護訳の「正法華経」(2
86年)と鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」
(406年)と闍那崛多・達磨笈多共訳の「添
品妙法蓮華経」
(601年)の三種が現存しているが、竺法護訳「正法華経」以外に「自
由」の語は見当らない。岩本裕によれば「添品妙法蓮華経」は訳文を「妙法蓮華経」
に従いながら、構成は現行ネパール所伝のサンスクリット語原典の601年以前の祖
型に従っているとのことである。(33) であるなら「添品妙法蓮華経」については「妙
法蓮華経」に準じるので特に言及を要しないであろう。そこで「妙法蓮華経」である
が、
「正法華経」に遅れること約120年後に漢訳され、その際「正法華経」とは祖型
を同じくする中央アジア伝本のサンスクリット語原典であっても別の原典をもとにし
ていることが知られている。
「添品妙法蓮華経」の序文で言う「多羅の葉」が「正法華
7
経」の原典であるのに対して「亀茲の文」が「妙法蓮華経」の原典というのである。
4)
それ故一応「妙法蓮華経」に「自由」の語の現れない理由を原典の違いに帰すこと
ができるかもしれない。しかし現在サンスクリット語原典とこれらの両訳を比較して
みると竺法護訳の方が鳩摩羅什訳より原典に近いという。鳩摩羅什訳は岩本裕の言を
借りれば「その訳出の態度が読みやすく理解しやすいことを第一の目標にしたことも、
あずかって大きな力があったと考えられる。従って、それだけ達意的であり、厳密な
意味では必ずしも信頼のおける翻訳ではない」のであり、
「自由」の語が「妙法蓮華経」
に現れないのは、鳩摩羅什訳の原典たる「亀茲の文」、それは中央アジアのクチャ地方
の伝本ということだが、それが今のところ見つかっていない以上別原典によるのか、
あるいは鳩摩羅什の訳出態度によるのかは決めかねる問題である。但し鳩摩羅什は「亀
茲文」の訳出に際して竺法護訳を参考にしている。その事実が唐の僧祥による「法華
傳記」巻第一の中に以下のように伝えられている。
「弘始七年冬。更譯法華興執法護經
相挍。什誦梵本。僧叡等筆受。」やはりこの記述によっても原典に竺法護の「自由」の
原語である「svayamʖ ʖ svayamʖbhuvahʖ 」 自体がなかったのか、それともそれがありな
がら読みやすく理解しやすいことを主眼にした筈の鳩摩羅什とその訳業に参加した者
たちには「自由」という世俗に流通する語を経典の訳語に採用するのは不適切と思え
たのか、それについては明確な判断はできない。しかしいずれにしても竺法護の「正
法華」は中国では鳩摩羅什訳がその後の法華経研究を席捲したとしても、
「妙法華」と
の比較対照の書として研究においては必ず参照され続けたのである。その例証を幾つ
か指摘すれば、中国六朝末から唐代にかけての六・七世紀に当時の三論教学を大成し
たばかりでなく仏教諸学説に関しても碩学であった吉蔵の「法華義疏」には、
「今依正
法華経髣髴翻之…」とか「…正法華云華藜剖也」などの記述があるし、また「法華統
略」にも「竺法護稱正法蓮華。羅什改正妙。」と記されている。さらに吉蔵と交遊
があり、
「妙法華経」を基本法典として天台教学を組織した智顗においてさえ、その著
「妙法蓮華経玄義」には「正法華には、…」や「…正法華に説くが如く」等、
「妙法蓮
華経文句」に至っては「正法華には」・「正法華に云はく」・「正法華は」あるいは「正
法華と同じ」等々「正法華」と比較しながらの論述が頻出するのである。従って「正
法華経」に顔を覗かせる上記の「自由」の語も当然仏教用語として度々中国僧侶の多
くの目に触れていたことは十分推測できることである。しかも「自由」の語は「正法
華経」以外の他の竺法護の訳経にもしばしば姿を見せている。大正新脩大蔵経所収の
竺法護訳の経典を一通り見渡してみただけでもかなりの頻度で使用されているのであ
る。夥しさを厭わず枚挙すれば、
「生経」では「賢者迦無量。普尊自由。」
・
「生死已断。
8
悉無 二 起分 一 。出入自由。」、「漸備一切智徳経」では「乃至元本進退自由」・「衆雄自由
講」・「自由行道縁」、「佛説如來興研顯経」では「自由神通」・「造立得自由」、「度世品
経」では「眷属強盛所欲自由」、「文殊師利佛土厳淨経」においては「在諸法自由」、
「佛
説離垢施女経」においては「常得自由」
・
「自由諸聲聞菩薩。所居服食猶如天上。」、
「慧
上菩薩問大善權経」は「吾等無智自責悔過。唯學道慧普行恭敬。又外異學貢高自由。」、
「等集衆徳三昧経」は「今此菩薩不従我教違吾本心。皆見棄損不自由。」
・
「諸法識自由
恣故也」、「大哀経」は「觀察法自由」・「十四其意自由勇歩無難逮聖總持」、「諸法自在
權自由」、「憍慢求敬。是我自由咄吾志邪。懐害虚偽。」、 さらに「賢劫経」ならば「所
行自由無所罣礙」、
「佛説寶網経」ならば「立一處自由」、
「持心梵天所問経」ならば「任
自由而演辯才」、
「修行道地経」ならば「數息意定而自由」
・
「乃當進前得不轉進却自由」、
「佛説弘道廣顯三昧経」であれば「協懐威徳神變自由」、「信法自由如常寂静」、「但以
珍琦被服飲食娯樂自由」、「佛説四自侵経」であれば「老死忽至。不得自由。」、など見
落しがなければ二十七ほどの例が見出される。これらの「自由」のサンスクリット原
語はいずれも前掲の svayamʖ ʖ svayamʖ bhuvahʖ 、あるいは svātantrya(独立、意志の自
由)なのか、そもそもこれらの「自由」の原語がどれも同一なのかそれとも中の幾つ
かは違うものなのか、これらの出典となったサンスクリット原典は現存するのか、そ
れらの経典についての漢本と梵本の比較研究はどうなっているのか、についてはまる
で私の能力の及ばないことなので何も言えないが、漢訳経典内で推測する限りでは、
数度息をして雑念を断ち、心を外部から乱されないように静めるという意味合いの「修
行道地経」の「數息意定而自由」を初めとして、
「正法華経」における「独立自存であ
る、それ自身において存する」ないし「自己自身に立脚する、何ものにも束縛されず
に自主的に行動する」という「自由」の意味合いで概ね括れそうである。但し超越性
の概念を核に孕むものからそれが曖昧なもの、さらにはそれを包含しないものまで
様々ではあるが。このようにこれだけ「自由」の語が「正法華経」ばかりでなく竺法
護の多くの訳経の中に出て来ており、さらに長安の西明寺に止住していた道宣が66
4年に編纂したとされる「大唐内典録」を参照すると、その当時の西明寺経蔵の現蔵
入蔵目録とされる巻八の歴代衆経見入蔵録の中に、訳者名が記されていないものの竺
法護訳と思われる「自由」の語のある「正法華経」や「生経」や「度世品経」や「大
哀経」や「賢劫経」や「持心梵天所問経」や「修行道地経」などが見出せて、しかも
この西明寺が656年の創建以来玄奘・道宣・道世・義浄・慧林・円照を初めとする
名僧・碩学が止住したり講筵をひらいたりして幾多の僧尼・留学僧が出入りするよう
な寺院であったのであれば、
「自由」の語はたとえ竺法護より後の漢訳仏典に顔を見せ
9
るのが稀であったとしても、先に中国正史に見た語用とは分岐独立した仏教語として、
唐代までの間に多くの僧侶たち、特に長安の僧侶の目に触れられ口に上り流布しそれ
なりのステイタスを得ていたと見てほぼ間違いないであろう。その一例証として、そ
の訳業に日本人留学僧霊仙も参加したと言われる般若三蔵訳の「大乗本生心地観経」
(811年成立)に「出家菩薩常行 二 乞食 一 有 二 十勝利 一 。云何爲 レ 十。一者常行 二 乞食 一
以自活命。出入自由不 レ 屬 レ 佗故。」という使われ方で見えていることを言い添えてお
く。ここでは紛れもなく「自由」の語は「独立自存であること」、あるいは「何ものに
も束縛されずに自主的に行動する」という意味合いで使用されているし、竺法護の訳
経の「自由」に連なる超越性の意味合いも微妙に響かせているのである。
ここまで中国における「自由」の主体的自主的なる意味合いの語用を前段として見
ておけば、いよいよ古代日本の仏教における「自由」の語用の問題に進むことができ
よう。我が国における現存する最古の典籍たる聖徳太子の撰と伝えられる「三経義疏」
には「自由」の語が見えないことは先に指摘した。この書の「法華義疏」に「正法華」
的な意味合いの「自由」の語の姿があっても歴史的に無理ないのにも関わらず、であ
る。日本仏教史の専門家によれば、「『法華経』は聖徳太子の講説以来、聖武天皇のは
じめまで正史にその名が見えない。ただその間、天武天皇の朱鳥元年(686年)製
作の長谷寺千仏多宝仏塔が、
『法華経』見宝塔品の経説を図様化した例として挙げられ
るだけである。正史に再び見えるのは聖武天皇の神亀三年八月で、
(中略)それならば
なぜ聖武天皇の時になって『法華経』の信仰が復活したのであろうか。
(中略)この提
婆達多品という一品は、聖徳太子が使用した七巻本の『法華経』にはなくて、八巻本
の『法華経』に入っている。(中略)おそらく提婆達多品をもった八巻本の『法華経』
が、女人成仏の信仰と共に聖武天皇のはじめ頃に中国から伝わり、その信仰を中心と
して『法華経』の信仰が起こったもの」だという。この記述は「法華経」信仰が国分
寺建立の一つの重要な契機となった歴史事実に関わる箇所のものである。ここで言う
聖徳太子撰の「法華義疏」に使用された七巻本の『法華経』とはその中に提婆達多品
を欠く鳩摩羅什訳の二十七品経の「妙法華」であり、また聖武天皇の時中国から伝わ
った八巻本の「法華経」は提婆達多品の加わった二十八品経の「妙法華」のことであ
る。というのは提婆達多品はそれを見宝塔品の中に含む「正法華」の原典とは別個に
西域から改めて後の時代に中国に伝わったものとされており 、
「妙法華」にこれが追補
されて日本に伝わったと考えられるからである。従って「法華義疏」に「正法華」的
な意味合いの「自由」の語が見えないのも頷けるところかもしれない。その上「法華
義疏」は批判的態度を保っているにせよ、その七八割が光宅寺法雲の「法華義記」を
10
拠りどころにしていることは今や学問的常識となっている。さればとて法雲の「法華
義記」を参照して見たところ、
「妙法華」についての講説の筆録であるこの書には「正
法華」との比較記述は疎か「正法華」の名称さえ見られない。勿論「自由」の語も同
様である。法雲の法華講説ではその存在を知らない筈はないにも関わらずあたかも「正
法華」の存在が無きが如くなのである。それ故法雲の法華学に多くを依拠した聖徳太
子の「法華義疏」に、
「正法華」由来の「自由」の語用が見られないのは益々当然とい
うことになる。また「吉蔵の『法華義疏』と類同の説が、聖徳太子の『法華義疏』に
おいては科文に九ヵ所、語句の解釈、句釈・論評などに十ヵ所ある。その他、学風、
来意―どうしてこんなことを問題にするのかという由来―と説く傾向も吉蔵とよく似
ているというのであります。」という井上光貞紹介の花山信勝の説を考慮して、念のた
め吉蔵の著書の「法華経義疏」・「法華玄論」・「法華経遊意」・「法華統略」にあたって
みても「正法華経」や「竺法護」などの語が幾度か出現するものの「自由」の語は姿
を見せないのである。
しかしそれはそれとしてなおこの「法華義疏」以後の古代日本の仏教史に踏み込ん
で飛鳥時代から奈良時代にかけての「法華経」の経疏の書写の状況に目を向け、
「正法
華」的「自由」の語用がないかどうかは確かめなくてはなるまい。そこで当時の写経
事業の詳細を伝える「大日本古文書」に基づいた天平三年~神護景雲三年(731~
769年)の「法華経」の注釈書の一覧を列挙してある古泉圓順の「『勝鬘経』の受容」
という研究に助けを求めることにする。古泉圓順はその中で天平三年から十七年まで
の法華経関係の注釈書を十種類、天平十八年から神護景雲三年までのそれを三十六種
類、表にして掲げている。前者のそこには書名の判明している窺基の「法華玄賛」
・
「法
華音訓」、智周の「法華摂釈」、吉蔵の「法華玄論」・「法華統略」などを初めとして撰
述者の明らかでない「法華義疏」
・
「法華経義疏」
・
「法華疏」
・
「法華経疏」
・
「御法華疏」
といった注釈書が見られ、後者になると「法華経義疏」・「法華経疏」の書名に付され
て恵浄・玄範・道栄・上宮王・法宝・憬興・玄一・慧蔵・法雲・霊範・元暁といった
撰述者が加わって挙げられている。彼の研究で推測を含めて判明しているこうした法
華経注釈書のうち「大正新脩大蔵経」と「新纂大日本続蔵経」で確かめることのでき
る吉蔵の「法華玄論」・「法華統略」・「法華経義疏」、窺基の「法華玄賛」、智周の「法
華摂釈」を参照しても、吉蔵の三書については上述したように、また窺基の「法華玄
賛」と智周の「法華摂釈」にも「自由」の語の姿はない。しかし吉蔵の「法華経義疏」
や「法華統略」を初めこれらの注釈書のどれにおいても、
「正法華」
・
「正法蓮華」
・
「正
法・妙法両経」・「竺法護」・「法護」・「護公」などの語で「正法華経」が他の漢訳法華
11
経や法華経注釈書との比較解釈の参照対象として取り上げられている。ここで上記に
引用した吉蔵の「法華経義疏」と「法華統略」の箇所を繰り返すのは避けるとして、
それ以外の吉蔵の「法華玄論」、窺基の「法華玄賛」、智周の「法華摂釈」の三書にお
ける「正法華経」と「竺法護」に関する記述がどのようなものであるかを例示してみ
よう。先ず吉蔵の「法華玄論」では「僧傳云。講経之始起竺法護。護公親譯斯経理
應敷蘭。自護公之後釋安竺汰之流唯講本而已。及羅什至長安翻新法華竟道融講之開
爲九轍。」と「竺法護公翻爲正法蓮華。羅什改正爲妙餘依経。」と「昔竺法護翻法
華猶未見判其宗旨。自羅什所譯新本長安僧叡法師親對翻之。」の三箇所、次に窺基の「法
華玄賛」では「故法護云 二 正法華 一 。羅什云 二 妙法蓮華 一 。」と「復有 二 燉煌沙門竺法護 一 。
於 二 晋武之世 一 譯 二 正法華 一 。其提婆達多品亦安 二 在見寶塔品後 一 。什公本無 レ 之者。古傳
解云、嶺已西多有 二 此品 一 已東多無。什公・在龜茲故無 二 此品 一 。」と「正法妙法兩経
倶無。論又不レ解四從三逆。」の三箇所、さらに智周の「法華摂釈」では「僧寶林云。
此経六譯。然尋傳記。但有五本。一正法華。晋大康七年。八月十日。竺法護譯。二妙
法華。按寶唱録云。秦弘始七年。三月十六日。於長安大寺。什公所譯。三…」の一箇
所である。勿論これ以外にも「正法華」や「竺法護」の語例はあるが、ここでは「正
法華」と「竺法護」を「妙法華」と「鳩摩羅什」に直接並べて記してある箇所のみを
挙げてみた。こうして見れば、我が国の奈良時代の朝廷貴族や仏僧たちは「法華経」
には「妙法蓮華経」に先行する「正法華経」が存在することは紛れもなく知っていた
と思われるのである。とは言え「正法華経」は既に当時我が国に伝来していたのであ
ろうか。そしてその内容は我が国における「法華経」信仰の広がりとともに「妙法蓮
華経」と並んで読まれ研究されていたのであろうか。これらの疑問に答えるかのごと
く兜木正亨は「日本古典文学大系
親鸞集・日蓮集」の補注において、
「わが国におい
てもまた羅什訳妙法華が法華の経として伝えられ、奈良時代以前に正法華、添品法華
の伝来はあったが、聖徳太子の講讃の経も、奈良時代の国分寺尼経も、ともに妙法華
に依っており、奈良写経の百部、千部の大量の法華写経はこの経の八巻本であること
が、正倉院文書に明らかである。」と述べている。この「奈良時代以前に正法華、添品
法華の伝来はあった」という兜木正亨の明言は「聖徳太子の講讃の経も」云々とすぐ
に続くので、正法華あるいは添品法華が奈良時代よりも前に伝来していたことになり、
その根拠を確認すべく同氏の「法華版経の研究」・「法華写経の研究」・「法華経と日蓮
上人」という法華経の詳細な研究三部作を参照してみたがそれは得られなかった。さ
らに専門家の見解を求めて行き当たりばったりに、論考を探索するうちに高嶌正人の
次のような記述に出会った。
「六世紀には一切経の伝来はなく、百済の聖明王や渡来層
12
らによって法華経・維摩経等にかぎられた経典・注疏の伝来をみていたと推測されて
いる。七世紀に入るとさまざまな経典の渡来をみたらしく、右にふれた皇極天皇元年
の雨乞いの際には、『日本書紀』は『大雲経等を読ましむ』と伝えている。」及び「八
世紀を迎えると遣唐使の再開と留学僧等の派遣によって経論注疏が急速に将来された。
法華経にかぎれば、周知のように完訳三種の法華経は鳩摩羅什訳妙法華経のほか法護
訳正法華経・闍那崛多訳添品法華経の三部が八世紀にはすべて将来され、羅什訳妙法
蓮華経は提婆達多品および普門品の偈も完備した八巻二十八品本が将来されていた。」
という記述である 。この見解を受け入れるならば兜木正亨の「奈良時代以前に正法華、
添品法華の伝来はあった」という明言はあくまでも推測の域を出ない。高嶌正人に従
う限り正法華は添品法華と共に八世紀になってから日本に出揃うことになるからであ
る。そこでどちらがはっきりとした根拠を持つか「大日本古文書」に探索の足を延ば
してみた。それによると正法華については、①天平三年(731年)の写経目録に正
法華経一部、②天平八年(736年)の写経請本帳に正法花経十巻、③天平九年(7
37年)の写畢経勘定帳に正法華経十巻、④天平十年(738年)の経巻納櫃帳に正
法華経一部十巻、⑤天平十四年(742年)の納櫃本経檢定出入帳の納本経櫃盛文に
正法華経一部と納新写櫃盛文に正法華経十巻、⑥天平十八年(746年)の写経経師
校生等手実帳に正法花経一帙十巻と正法花第一巻 用廿八誤二 、⑦同年の写経紙数注文
に正法蓮華経 九巻十七 四巻十七、 の記述で、
「添品法華」については天平十五年の韓国
人成蔵経目録に添品法花経七巻、の記述で存在する。
「大日本古文書」による限りこれ
ら以前に正法華も添品法華も記述が見られないのである。となるとやはり兜木正亨の
説は推測の域を出ないということになる。但しそのことを除けば上記の兜木正亨の「わ
が国においてもまた羅什訳妙法華が法華の経として伝えられ…」云々の見解は「大日
本古文書」によって確かめられる。①から⑥の「正法華経」の記述を一見すれば分か
るように、その写経はどれもが一部(正法華経は十巻本)であるか、そのうちの一巻
について十七枚とか二十八枚とかと、実に僅かであるのに対して、七巻本ないし八巻
本の法華経、つまり「妙法蓮華経」の写経は何度も為され、それも一部だけでなく百
部、千部にまで及ぶ大量なものなのである。このことは「正法華経」は「妙法華経」
の存在に隠れてその存在さえ広く一般に知られるものではなかったことを示唆する。
そうであればましてやそこに六ヶ所しか姿を見せない「自由」の用例は、ごく少数の
者に知られることはあったにしても「正法華経」的語用は広く一般に知られるまでに
は至らなかったとしても不思議ではない。おそらくそのために「法華経」の大権威で
ある筈の最澄がその撰述「註無量義経」
(成立年代不明)において、
「無量義経」の「出
13
没水火身自由」という偈の一句に付した注釈の中で、
「 自由者大唐俗語文語云爲自在也」
と言って憚らなかったのである。これは「正法華経」の存在を知らなかったか、ある
いは知っていてもそれを読んでいなかったか、のいずれかと考えられる。最澄は入唐
の折天台山の道邃のもとで学んでいる。道邃はその著「天台法華疏記義決」を見れば
分かる通り天台法華を論じる際「正法華経」に度々言及しており、その言及振りを示
すなら、
「正法華」及び「護本」の語の出現回数が9箇所、
「竺法護」
・
「法護」及び「護
公」の語の場合は全部で10箇所という事実を指摘すれば十分であろうから、彼に付
いて学んだ最澄が「正法華経」の存在を知らない筈はない。してみると最澄は、「言 フ
ハ
二
一
法華經 ト 一 者。謂 ク 妙法蓮華經一部八巻。羅什三蔵 ノ 譯。國集 メ 二 人民 ヲ 一 。人成 シ テ 二 佛道 ヲ
。現 ニ 獲 二 果報 ヲ 一 。當 ニ ス ベ キ ニ ハ レ 利 ス 二 人天 ヲ 一 。此法華経。最 モ 為 ス 二 第一 ト 一 。」という教学的
な法華経観から「正法華経」を読む必要を認めなかったのか、いずれにしろ「自由」
の語を「正法華経」において見出すことなく唐の俗語とだけ言って済ましてしまった。
しかしさすがに「自由」の語に含意された超越性は見逃せなかったので、仏教語とし
て揺るぎのない地位にある「自在」を引っ張り出して、偶々「自由」がその語の代わ
りを務めたかのように言ったのであろう。彼の感性は「自由」の語を仏教語の地位に
置くことを容認できなかったと思われる。事実天台宗宗典刊行会の「伝教大師全集」
を見渡した限りでは最澄は前出以外に自分の著作において「自由」の語を使用してい
ないことはおろか引用さえしていないのである。
ところが同時代の空海となると事情が大分異なって来る。空海はその著作の中で
「自由」の語を俗語的に使うばかりか仏教語としても本格的に使いこなしているので
ある。先ず「高野雑筆集」の弘仁七年(816年)六月十九日の日付の書簡では、
「今
思 ハ ク 上 ニ ハ 奉 二 為国家 ノ 一 下 ハ 為 ニ 二 諸修行者 ノ 一 芟 二 夷荒藪 ヲ 一 聊 カ 建 二 立修禅一院 ヲ 一 。經中 ニ 有 レ
誡山河地水 ハ 悉是国主之有也。若比丘受 二 用ス レ ハ 他 ノ 不 レ 許物 ヲ 一 即 チ 犯 ス 二 盗罪 ヲ 一 者。加以
法之興癈悉 ク 繋 レ リ 二 天心 ニ 一 。若 ハ 大若 ハ 小不 二 敢 テ 自由 ナ ラ 一 。」とあって、ここでは明らかに
「自由」の語を「六国史」と同じ語用である。この場合には確かに仏教語として用い
ているのではないが、次の用例なら間違いなく仏教語的用例と言えるであろう。81
5年から821年までの間に著したとされる「秘密曼荼羅教付法伝(広付法伝)」では、
密教の相承系譜を伝記する第四祖の箇所に「第四 ノ 祖 ヲ ハ 号 テ 曰 二 龍智阿闍梨耶 ト 一 。即龍
ノホリ
猛菩薩 ノ 付法之上足也。位登 二 聖地 ニ 一 神力難 シ レ 思。徳被 シ メ テ 二 五天 ニ 一 名薫 ス 二 十万 ニ 一 。 上 レ
天 ニ 入 ル ニ レ 地 ニ 無㝵自由 ナ リ 。」とあり、龍智阿闍梨耶を龍智菩薩と略名しそれに「亦 ハ 名 ク
二
普賢阿闍梨耶 ト 一 」という注釈が付されている以外は「秘密曼荼羅教付法伝(広付法
伝)」と全く同文である「真言付法伝(略付法伝)」(821年)の同じ箇所とともに、
14
「自由」の語は修行者の自然(感性)を超越した存在様態を意味している。さらに成
立年代不明の「法華経開題(重円性海)」の「大我 ハ 都 ト シ 二 其 ノ 朗月 ヲ 一 。廣神 ハ 住 ス 二 其心
カクス
ソラ
宮 ニ 一 。万徳 ノ 塵沙 ハ 四相 ニ 不 レ 動。至 レ 如 下 念風鼓 二 動 シ 心海之水 ヲ 一 。妄雲 蔽 カ 中 性雲之虚 ヲ 上 。
隨染覺者不 レ 守 二 自性 ヲ 一 。獨力業相自由 ニ 跋扈 ス 。」という箇所では、それは超越界の理
法への背反に使われている。そして成立年代が不明の(828年と推定する説もある)
「梵網経開題」と829年成立の「法華経開題(河女人)」とにおける以下の箇所で
は、前者に下の(
)内に示してあるように、法の一字が加わり後者にはそれがないと
いうことの他は一字一句異ならない文章になっており、そこに「自由」の語が出現し
ている。そこには、
「古徳釋経必分三段。是則淺略門之意。今意一一句句一一字字皆是
諸尊法曼荼羅身。法然而有無人造作。佛眼能觀此本有(法)名字章句為人而説。不加
一字不減一字。何況菩薩聲聞誰敢増減。因縁結集則學彼本有不得自由。故不用彼義。」
とあるごとく、経文の表面的な解釈や考究に纏わる俗的束縛から解放されて、そこに
内在する理法を体得した主体の境地に否定形の「自由」の語を用いているのである。
空海は以上の他に「遍照発揮性霊集」巻六所収の「爲藤中納言大使願文(弘仁四年
十月二十五日奉写供養)」(813年)の中で「自由」の語用としては「広付法伝」や
ソレカシ
シヰ
「略付法伝」と同じ次のような使い方をしている。「某乙 聞 ク 。智慧 ノ 源極 ヲ 。強 テ 名 ケ 二
カリ
タラ マ
マト
ナ
佛駄 ト 一 。軌持 ノ 妙句 ヲ 。假 テ 曰 フ 二 達 磨 ト 一 。智能 ク 圓 カ ナ ル カ 故 ニ 。無 ク 二 所 ト シ テ 不 ル コ ト  爲 サ 。法能 ク
カネスク
カゝミテ
シン
ヌキ
スク
ハムロウ
明 ナ ル カ 故 ニ 。自他兼 濟 フ 。五眼常 ニ 鑒 。津 二 渉 シ 溺子 ヲ 一 。六通自由 ニ シ テ 。抜 二 拯 フ 樊 籠 ヲ 一 。」
という箇所であるが、この六(神)通における天眼とは神通力によって普通見えないも
のを見通す超人的な眼を、天耳とは普通聞こえない遠くの音を聞くことのできる超人
的な耳を、宿命とは自分や他人の前世を知る力を、他心とは他の人間の心をすべて知
る力を、神境とは臨機応変に思うままに身を現わし思うままに山海を飛行し得るなど
の神通力を、そして漏尽とはすべての煩悩を滅しこの世に再び生まれないということ
を悟る仏(知慧の最究極)のみが持つ能力を指しているから、
「六通自由」における「自
由」とは超越者の自然(感性)を超越した存在様態を言い表していることになる。さ
らにまたその成立事情に不明な点がある「五部陀羅尼問答宗秘論」にも「自由」の用
例が顔を出す。筑摩書房「弘法大師空海全集」の「五部陀羅尼問答宗秘論」の訳者村
岡空の仮説によれば、一応この著作は空海が入唐時代(804~806年)か帰国直
後の大宰府観音寺滞留中(807~809年)に書き残した作品が断片的に伝来し、
これを約300年も後の興教大師覚鑁が編集しなおしたものではないかという。従っ
て空海の原本に「自由」の語が存在したかどうか確かめようがないが、仮に存在した
として、
「自由」の語例が参照されるのは「聖 ト 凡 ト 心不 レ ト モ 等 カ ラ
15
真 ト 俗 ト 莫 シ 二 相違 ア ル コ ト
ミ
一
。不 レ ハ 三 自 浄 メ 二 身口 ヲ 一
心隋 テ レ 妄 ニ 逐 フ レ 非 ヲ 。凡夫 ハ 根 ト 境 ト 劣 ニ シ テ
怨 ミ 三 佛不 ト 二 慈悲 ナ ラ 一
要レトモレ食ヲ不レ得レ食ヲ
求 レ ト モ レ 衣 ヲ 不 レ 得 レ 衣 ヲ 。現前 ニ 无 シ 二 少果 ア ル コ ト 一 成佛在 ラ ン 二 何 レ ノ 時 ニ
カ
長劫在 リ 二 阿鼻 ニ 一 。去住非 ス 二 自由 ニ 一
ミ
一
。一言 モ 曾 テ 此 ニ 謗 レ ハ
万劫
自 有 テ 二 業風 ノ 一 吹 キ
埿梨八
痛苦難 シ 二 思 ヒ 追 フ コ ト 一 。」の箇所である。ここでもまた「自由」は否定形であるが
「秘密曼荼羅教付法伝(広付法伝)」や「真言付法伝(略付法伝)」と同様に超越界の
(超越的な)理法への背反の意味合いとなっている。
このように空海の「自由」の語用は史書に慣用されている権力的支配的法的秩序背
反においてのみならず、超越者または修道者の自然(感性)を超越した存在様態、理
法を体得した主体の境地、超越的な理法ないし超越界の理法への背反など、仏教語と
しても多様なものなのである。これは最澄に比して特有であるだけでなく、先に見て
来たように「正法華経」的な「自由」がまだほとんど目に触れられていない当時の日
本の知的状況においても特有である。この要因を探るについて、
「自由」の語用が見ら
れる彼の著作が撰述年代不明の「法華経開題(重円性海)」を除くと唐からの帰朝以後
であることに着目したい。あるいは空海が入唐以前に「自由」の語の用例のある「正
法華経」を日本において目にしたことがあるという推測もなされるかもしれないが、
頼富本宏によって初期の撰述の公算が大とされる「法華経開題(重円性海)」は、そも
そも題目の「妙法蓮華経」に示されるように、対象は「妙法蓮華経」であって「自由」
は「正法華経」由来のものではないし、上掲の二作以外の法華経に関する著作の「法
華経開題(開示茲大乗経)」と「法華経密号」と「法華経釈」の三作には「自由」の語
は見られないのであるからその推測には無理がある。前述したように最澄ですら目に
した気配がないのであるから、入唐前の空海が当時の日本では極一部にしか目にでき
なかった「正法華経」の写本を読んだことがないとするのが妥当である。ではもう一
つ可能性についても目配りしておこう。その可能性とはこれまで触れて来なかった空
海入唐までの日本の禅宗の伝統に「自由」の語が存在していなかったかという点であ
る。既に知られているように禅宗の初伝は653年に入唐し660年頃帰朝した道昭
によってであるが、この時道昭が将来した経典類の中に禅関係のものがあって、これ
らが禅院に納められたとされる。これらの経典がどのようなものであったか、伝えら
れていないのでこれについては「自由」の語例を云々することはできないし、道昭に
次いで日本に禅宗を伝えたのは唐僧の道璿であるが、彼の伝えたのは北宗禅であり、
この禅宗の系統は彼の日本の弟子たる行表を通して最澄に伝えられたというから、
「自
由」の語を唐の俗語としか認めなかった最澄において明らかなように、
「自由」の語が
仏教語として日本のその系統に存在していたとは考えられない。もっとも「自由」の
16
語が禅宗の独特の意味合いで用いられるのは唐初期の曹渓慧能を祖とする南宗禅の系
統なので当然と言えば当然かもしれない。この南宗禅の系統が日本に伝えられたのは
空海が帰朝して30年ほど経った承和年間(834~848年)に渡来した唐僧の義
空によってであるとされ、
「去来自由」や「自由自在」などの、理法を体得した超感性
的な境地の意味合いの用例が見受けられる慧能の「六祖壇経」については、その請来
はさらに10年後(847年)の円仁と、そのまた10年後(858年)の円珍とに
よってであるし、さらにやはり同じ意味合いの「去住自由」とか「自由分」の用例が
ある百丈懐海の語録もその時の円珍によってなのである。従って空海が入唐前に禅宗
から「自由」の語を身に付けていたということはまずありえないと言ってよい。
このような状況からすればやはり空海が入唐以前に仏教語としての「自由」の語を
目にしていた可能性はかなり低いと見るのが正解であろう。となるとこの見解をもと
に、「法華経開題(重円性海)」を空海初期の撰述の公算が高いとする頼本富広の推論
を改めて検討すれば、初期の著作だと言っても唐からの帰朝後の時期だと、但し書き
をつけ加えることができるかもしれない。というのは彼の推論は、
「法華経開題(河
女人)」(829年成立)では五人の菩薩のそれぞれおさめ持つもの(蔵)が違うこと
を説く五蔵説を「六波羅蜜経」と「華厳経」にあるとしているのに対して、著作年代
が空海死去の前年である「法華経釈」
(834年成立)では「華厳経」を省き「六波羅
蜜経」のみにして間違いを正していること、また上記三つの「法華経開題」における
「妙法蓮華経」という経題の梵字による分解解釈を比較して、成立年代不明の「重円
性海」では経題冒頭の sa 字を su 字と間違えているのに対して「法華経釈」ではそれ
を改めていること、などを例証にして「空海は自己の文章に間違いがあった場合は次
の著作でその箇所を用いる際に訂正していることが多い」という見解を導き出し、そ
れを根拠にしているのであり、さらにそれに加えて、これは明言していないがおそら
くは「法華経釈」が「  河女人」のかなりの部分を引用していることから類推して、
文章の多くが互いに重なり合っている「開示茲大乗経」と「重円性海」とがどうやら
同じ初期の撰述らしいとしているのである。しかもこうした推測の根拠の脆弱性を心
得た上で「逆に次第に誤りが生じてくる可能性も捨てがたいので、今後の研究をまち
たい」という但し書きを付けている段階のものなのである。であれば空海の「自由」
の語用という視点から「重円性海」の成立を唐からの帰朝後とする私の但し書きもま
た許されるのではなかろうか。
そこで私は状況証拠を幾つか挙げて、仏教語としての「自由」の多様な語用を空海
は唐留学において身につけたのだと仮説を立ててみる。その状況証拠の第一は、空海
17
が唐の長安で師事した醴泉寺に止住する般若三蔵の訳した「大乗理趣六波羅蜜多経」
には「爾時世尊而説偈言 若他逼捨身命財 制不自由無利益 如是知已諦思惟 開心自施
爲最勝」という主体性・自主性の意味合いの用例があり、空海はこの経文を般若三蔵
から直接託されたのだから、当然経文にある「自由」を目にしているのは明らかであ
る。これに付随して間接的な状況証拠の第二も加えることができる。般若三蔵が同じ
く訳した「大乗本生心地観経」においても前述したように、超越性の意味合いを孕む
主体性・自主性の「自由」が見られることである。既に知られているように、この経
典は般若三蔵が弘仁元年(810年)に憲宗の詔を奉じて訳経事業に着手し弘仁二年
(811年)に完成進上したのであるが、
「法華経」訳出の鳩摩羅什の例のように単に
般若三蔵が梵本を読み上げ翻訳僧たちがこれを漢訳して書き留めたか、後の日本僧成
尋が宋時代の1073年開封で視察したように、漢訳の分業化がより進んでいて翻訳
僧が最初に梵本を説明した後、筆受僧が梵文を一句ずつ読み上げ翻訳僧がそれを漢訳
しながら音読しこれを筆受僧が書き留めたか、いずれにせよ訳場列位が般若三蔵の次
席であった訳語兼筆受の日本僧霊仙三蔵がそのほとんどを漢訳したとされる。とする
なら経文中の「自由」の語は霊仙三蔵の漢語使用の手の内に十分あったと考えてよい。
さらにこの時の霊仙三蔵は醴泉寺日本国沙門と記されているので、訳場でもあった醴
泉寺においては般若三蔵周辺に仏教語としての「自由」の語の交わされる状況があっ
たと思われる。時期が異なるにせよ、この寺で梵語や当時の仏教の基礎的内容を般若
三蔵に学んだ空海が「自由」の語に幾度か出合ったとしても不思議はない。その上空
海は留学時に既に「大乗本生心地観経」を目にしていた可能性もあるのである。先に
引用した「高野雑筆集」の弘仁七年(816年)六月十九日の日付の書簡に「心地観
経」の内容に言及しているからである。それは「經中 ニ 有 レ 誡山河地水 ハ 悉是国主之有
也。」の箇所であり、この中の「経」とあるのは「心地観経」であるのは高木訷元の訳
の通りである。勿論空海の帰朝した806年以降838年まで遣唐使は途絶えていた
にせよ、この時期来朝頻繁な新羅商人を通じて、またそれらの新羅船で帰朝した留学
僧によって、「心地観経」が伝来してそれを空海が目にしていたことも考えられるが、
その証拠は上がっていないからその伝来は今のところ826年の霊仙三蔵からの嵯峨
天皇への答礼「新経二部」とするのが自然であるし、
「高野雑筆集」の記述の内容が記
憶程度のものでしかないところから、私の言う可能性はあり得るのではなかろうか。
しかし白居易が「白氏文集」巻三十九の「答孟簡蕭俛等賀御製新譯大乗本生心地観経
序・」において、「心地観経」は「來自西方閟于中禁」、つまり西方より伝来以来宮中
に秘蔵されていたと記しているところから推測すると空海が留学中に「心地観経」を
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醴泉寺で目にしていたという可能性は危くなりそうである。ただ憲宗の漢訳の詔は空
海が帰朝した後の810年であったとしても、憲宗が即位したのは804年から80
6年までの空海留学中の805年であるから、憲宗が即位以後「心地観経」の漢訳の
準備のために予め般若三蔵のもとに宮中に秘蔵されていた伝本を渡し、般若三蔵と醴
泉寺の僧たちに「心地観経」の研究を始めさせていたということも有り得ないわけで
はない。811年以降から816年までの間の、新羅商人あるいは名の分からぬ日本
の留学僧の伝来本によってなのか、それとも804年から806年までの間の、空海
留学中の醴泉寺での見聞きによるのか、いずれも空海の「心地観経」の知識の出所と
しては今のところ同等の可能性を持つ状況証拠にしかならないであろう。仮に前者だ
としても空海が醴泉寺の般若三蔵とその周辺から「自由」の語を学んだかもしれない
という私の推測を揺るがすほどのものではない。さらにまた第三の証拠は空海が長安
で止宿したのは西明寺であり、これも前述したようにこの西明寺は竺法護訳の経典が
多く所蔵されていてそこに止住する僧侶たちに閲覧され読経され、あるいは誦経され
写経されて日頃の僧侶たちの口の端に、
「自由」の語が上って空海の耳に達する状況に
あったことである。またそれだけでなくそこで開催される講筵における名僧・碩学の
言葉に、あるいは西明寺を訪れる多くの中国僧や留学僧の言葉の端々にも仏教語の「自
由」が顔を覗かせる状況もあった筈である。なぜなら先に指摘しておいたように、仏
教語としての「自由」は竺法護訳経典を通じて中国僧侶、特に長安僧侶たちの間で或
る程度ステイタスを得て口に上っていたと思われるからである。しかも空海自らが「請
来目録」において語っているように、空海は西明寺を本拠にして長安城中の高徳名僧
を歴訪し、しかも同じ西明寺に止宿する僧侶五六人と一緒に青龍寺の恵果和尚を尋ね
たりしている。長安に在住したり往来したりしているそうした様々な僧たちとの交流
たくましい空海であれば、仏教語の「自由」をそのさなかで耳にし、学んだであろう
ことは想像に難くない。以上この程度に状況証拠を提示できれば、空海が「自由」の
語を唐留学において学んだとする仮説をかなりの高い確率で立て得たのではなかろう
か。
さてもう一つの可能性として、漢詩文の名文家である空海が唐留学中に「自由」の
語を現地の詩文から学んだのではないかという点であるが、彼の詩文論である「文鏡
秘府論」には「自由」の語はないことはもとより、
「定本弘法大師全集」及び「弘法大
師空海全集」を見渡してもこれまで指摘した八箇所以外に「自由」の語例は見られな
いということと、しかもそれらにおいて「高野雑筆集」の用例を除けば残りは仏教語
としての意味合いであることで、この問題の答えは直ちに見えて来るであろう。
「高野
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雑筆集」の「自由」とて、俗語もしくは史語から学び得る秩序背反的な意味合いであ
るから、この用例をわざわざ空海が漢詩から学んだとする根拠はほとんどないと言え
よう。とは言え唐詩を集めた明代の張之象撰「唐詩類苑」二百巻を開けば、詩語とし
ての「自由」はかなりの頻度で目に入る。空海が入唐した中唐までの時期の詩人であ
れば、杜甫・白居易・元稹・韓愈・王建・盧綸といった詩人の詩に「自由」の語が使
われているのである。杜甫には3首、白居易には12首、元稹には5首、韓愈には2
首、王建と盧綸には各1首に、それが見られるのであるから (118)、「自由」が詩語
として違和感なく定着していたことは明らかであり、この詩語としての「自由」が日
本の古代に輸入されて普及する問題は後に譲るとして、空海が長安でこうした詩に触
れた可能性は状況的にはあり得るのである。しかし空海の「自由」の用例にはこれら
の詩の「自由」の意味合いの痕跡はまるで見られないのであり、従ってこの線は消し
てよいと考えられる。
このようにして空海は仏教語としての「自由」の語用を平安朝の日本に持ち込んだ
のであるが、ここで彼の「自由」の語用の感性的豊かさを示す一つの例証を挙げてお
こう。先の「爲藤中納言大使願文(弘仁四年十月二十五日奉写供養)」では空海は「六
通自由」という語を用いていた。私は仏典に関する知識においては素人なので確言す
るとまではし得ないが、この「六通自由」というのはかなり珍しい用語ではないだろ
うか。幾つかの仏典に目を通しても「六通自由」という言葉は見つからない。似たよ
うな言葉として「神通自在」という語が「金光明最勝王経」、「大方廣佛華厳経」、「佛
心經品亦通大隨求陀羅尼」、
「金剛頂瑜伽略述三十七尊必要」などに、
「妙法蓮華経」に
も「自在神通」という語が見えたりする。その中で「略述金剛頂瑜伽分別聖位修證法
門」に「六通自在」という語が目を引く。この不空三蔵訳の経文はまさに空海の請来
である。そこで大胆にも私は、空海がこの「六通自在」から彼の言語感性の赴くまま
に超越的な非制約性の意味合いを加味し、
「六通自由」と言い換えて使用したのではな
いかと想像するのである。些か飛躍した想像ではあるけれどもこれを私に許すほど空
海の言語感性は豊かさを感じさせるのである。
ところが最澄は既にご承知のように「自由」の語を「自在」の意を持つ大唐の俗語
と言って仏教語から排除してしまった、空海と全く同じ時期に入唐したにも関わらず、
である。
「註無量義経」がいつ書かれたか、入唐以前か帰朝後か、いずれにしろ「自由」
の語に対するこの注釈は生涯改めた節はない。大したことではなかったからか。改め
るには彼が仏教語としての「自由」の語に関して大した体験が必要だったのであるが、
彼は自分の日本で学んだ天台教学の真義を確かめるべく、当時の中国仏教宗派ばかり
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でなく異国の様々な宗教の坩堝であった長安へは向かわず天台教学の本山たる天台山
に一直線に向かったのであり、結局天台山・台州・明州・越州などのローカルな地域
で、帰国後天台教学を中心とする禅・大乗戒・密教の四種相承の綜合的仏教の樹立を
目指すことになる修学と嗣法に勤しむことだけに終始した。密教を中心にしていたと
しても多彩な文化の洗礼を受けそれらの受容に開かれた態度を保持した空海と比較し
た場合、これはいわば単線的な文化受容の態度であり、この留学態度の違いが二人の
「自由」の語に対する扱いの違いに投影されていると思われる。勿論この時代「自由」
は日本の仏教において重要な思想を形成する語とはなっていない。だからその後の弟
子円仁も孫弟子円珍も「自由」の語を多用はしていないが、しかし円仁はその著「顕
揚大戒論」の巻八において、
「大乗本生心地観経」巻五の無垢性品のほとんどを引用し
ている関係上自ずと抵抗なく、つまり最澄のような注釈など入れることなく、
「出入自
由」の語の出て来る箇所をそっくりそのまま載せているし、円珍にいたってはその著
「法華論記」において世親の「法華論」を注釈して行く中で「自由」の語を用いてい
るのである。彼は「法華論記」巻第四で、十通りの自在を挙げた後、「佛具 二 此十 一 。
故説自在遍 二 一切處 一 無礙自由。」という使い方をしている。あたかも十の自在をすべ
て包括するかのような仏の超越的存在様態の意味合いに「自由」の語を登場させてい
る。
「自由」の仏教語としての語用に些かも臆していないのである。法華経を論じてい
るのだから当然と言えば当然だが、
「正法華」についての記述がこの著作に何度か顔を
出しているから、彼はそこから「自由」の語を学んだのであろう。なにしろ「正法華」
や「竺法護」の名称は彼の問答を記した「法華囑累前後問答」では頻出しているし、
「圓多羅義集」では「正法華」の他に「正妙二本不同耶」という語が見られ、
「正法華
経」と「妙法蓮華経」の比較記述までしているからである。
「自由」については「法華
論記」の他の箇所でも「自由身力」という語用で登場させているし 、その他空海の「法
華経開題(河女人)」のほとんどそのままを引いてそれに要約的な表題をつけた彼の
著「法華経梵釈(妙法蓮華経梵釈)」においても空海の原文にある「因縁結集則學彼本
有不得自由」の箇所で「自由」の語を少しのためらいもなく使っている。こうしてみ
ると円仁や円珍にしてみれば、
「自由」は彼らの祖師最澄と違い、仏教における用語と
して不自然ではなかったのである。この要因の背景にはやはり唐留学の体験の違いが
あるように思われる。というのは天台山周辺地に止まった最澄の留学とは異なり、空
海は言うに及ばず円仁であるにしろ円珍であるにしろ唐留学において宗教の坩堝であ
った長安体験を経ているからである。さてここまで古代日本仏教の「自由」の語用の
実情について見て来たが、その区切りとして仏教語の「自由」の概念の特性について
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締め括りとして触れておきたい。
古代日本の「自由」という仏教語は空海や円珍における語用のように、超越者また
は修道者の超越的存在様態、超越的理法を体得した主体の境地、超越的な理法ないし
超越界の理法への背反など、いずれも超越と関わる意味合いになっている。この超越
なる言葉は西欧哲学に由来するものなので仏教用語を解釈するにはあるいは混乱を招
く恐れがあるかもしれない。そこで西欧的な概念はすべて括弧において、超越とは素
朴に直接現実からこの世界存在の極限へと超え出るないし超え出たことと解し、その
意味で空海や円珍の「自由」の概念をあたってみると次のような点が抽出できる。即
ち「自由」とは特定対象あるいは特定事態を主体としてその主体における外的な非制
約性及び内的な伸展性を概念核とすれば、そこに原初から際限の無さという超越の契
機が孕まれている概念構造なのである。つまり「自由」における無際限性は超越の契
機として許容されているのである。従って主体は「思いのまま、意のまま」に「自由」
なる時、自ずと主体たる特定対象あるいは特定事態の限界による外部的な制約を超え
出て内的に際限なく伸展し、世界存在の極限にまで向かう(超越する)のである。
「自
由」は主体のもとにありながら主体を超越している事象の様態、あるいは主体のもと
にありながら主体そのものを超越している境地となるのである。このような概念の根
底にさらにどんな仏教の根本思想があるかについての追究は当面の課題から逸れるの
でここでは差し控える。ともかくもこの無際限性という超越性の内在的契機こそ前述
した権力的支配的法的秩序背反性としての「自由」や法制的な任意性としての「自由」
や、状況の様態としての「自由」から区別されるこの時代の仏教的な「自由」におけ
る概念的特性というべきである。
漢詩文における「自由」の内面化
最後に漢詩文の分野に特有な「自由」の語用であるが、この分野における「自由」
の語用の初出は「日本書紀」に遅れること約150年の都良香の「都氏文集」(87
9年頃)においてである。既に知られているように古代日本の漢詩文集の伝統は藤原
宇合の「宇合集」や石上乙麻呂の「銜悲藻」なる詩集がその前にあったとされるにせ
よ本格的には奈良時代中期の「懐風藻」(751年)に始まり、平安初期の三代勅撰
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集の「凌雲集」(814年)・「文華秀麗集」(818年)・「経国集」(827年)を経
て平安貴族たちの私撰詩文集において隆盛となり、和歌に迫るほどの詩文学の一方を
形成していた。しか貴族の私撰詩文集の「都氏文集」までは本邦には「自由」の語用
は登場していないのである。それは何故か。「都氏文集」以下嶋田忠臣の「田氏家集」
(撰者没年である892年までに成立)、菅原道真の「菅家文草」(900年成立)、
撰者高階積善の「本朝麗藻」の中の源道濟の詩(1010年頃成立)、大江匡衡の「江
吏部集」(1012年頃成立)、また推定撰者が藤原忠通周辺の人物と見られる「本朝
無題詩」(1162~1164年成立)などの漢詩文には「自由」の語用が見られる
が、同時に「都氏文集」の「白楽天讃」なる題名の詩を初めとして上記の詩集の多く
に「白楽天」、「楽天」、「白氏」、「白家」、「白舎人」、「白詩」等々、その名をあからさ
まに登場させている詩を相当数枚挙できるのである。菅原道真などは、「菅家後草 巻
十三」の「見 三 右丞相獻 二 家集 一 」という詩の付記に「平生所 レ 愛、白氏文集七十巻是也」
と記しているし、また「菅家後集」では筑紫に配流された身になってからも携えて来
た白氏洛中集を詩の題材にして自分の不遇とその心境を詠うというほどだったので
ある本間洋一の「日本漢詩 古代篇」を開いてそこに取り上げられている主要詩集の
各詩につけられた作者の語釈を見ても、それぞれの題材や詩句の背景に白居易の詩の
題材や語句の影響を見て取れるという例が圧倒的に多い。このような状況証拠からす
ると「自由」の語用は小島憲之の表現を借りれば、「平安中期の文学を和風・漢風を
問わず、白一色に塗りつぶしたといっても過言でないほど」の『白詩』大流行による
ものではないかという推定が可能である。
ただ「都氏文集」の「動揺自由。仍謂慈鳥之晝浴。出没不 レ 定。頻誤 二 靈龜之時戲 一 。」
については、その内容が書の道では日頃の高潔な心のあり方が大切だとしてその心が
けのままに書字に臨んだ時の筆の動きを美文調の比喩で描写したものであって、「自
由」は筆の動きを主体にしてその動きの様相を表現するものになっており、白詩の直
接的影響による語用とは必ずしも言えない。これは先に法文に登場した「自由」の語
用と同様の「自由」の主体を具体的ないし一般的あるいは抽象的な事物や状況に転化
してその性向や様相について用いているのであって、この時代に深められて行く作者
の主観において内面化された「自由」への途上にあるものと言うべきであろう。また
大江匡衡の「江吏部集」の七言十韻詩「從 レ 茲薙氏多 二 閑暇 一 。料識獵徒得 二 自由 一 。」で
は自由」は事物を叙述した賦の中における語用として、作者個人の主観的な内面性を
表現したものではなく、やはり獵徒を主体にしてその行動の非制約的様態を言い表す
語用でしかない。大江は立身出世に一喜一憂し、常に立身栄達を希求して止まない文
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人であったが故に、新たな意味合いで内面的に深化させた「自由」の語に心惹かれる
ことはなかったのであろう。しかし次の嶋田忠臣の「田氏家集」に見える「…寸虫猶
覺全 レ 生義。六尺長身莫 二 自由 一 。」になると、作者が虫の有様に託して、生きることの
道理を覚り世事・世俗規範に心とらわれないという生活観を「自由」という語で表現
している。明らかに作者の主観において内面化された「自由」がここに顔を見せてい
るのである。
「本朝無題詩」にまで到るとそこに顔を出す「自由」は日常の世事・世俗性からの
離脱それ自体、さらにはその世事・世俗性から離れた閑暇の孤独に自然感受の時間性
を取り込んで内面化した生活観や人生観を含意させるものにまで展開している。「本
朝無題詩」には次の八例の「自由」に語用が現われる。藤原忠通の「東河東域洛東頭。
茅屋三間得 二 自由 一 。竹戸凉風空忘 レ 熱。」の詩句においては「世事・世俗性から離脱」
(隠遁)した生活の解放感の中で、一人しみじみと自然を感受する内面的時間性の意
味合いの「自由」が、藤原忠通の「因 レ 何遠近興難 レ 休。詩酒管弦得 二 自由 一 。霞隔 二 洞
門 一 春嶺暗。」の詩句では「一人しみじみと」ではなく、世事・世俗から隔てられた「詩
酒管弦の宴」の中に交響する自然(風物)を感受する内面的時間性の意味合いの「自
由」が用いられている。藤原知房の「蕤賓令節足 二 優遊 一 。况遇 二 良朋 一 思自由。緑竹含
レ
風當 レ 砌戦。《中略》琴調一曲應 レ 催 レ 興。酒酌三溠暫忘 レ 憂。」の場合は②の藤原忠通
の詩句の「自由」と、また菅原在良の「時屬 二 蕭辰 一 幾自由。就中斯地下風流。鵝王壇
上供 二 香火 一 。」の「自由」は同じ藤原忠通の「自由」とほぼ同じ意味合いになってい
る。さらに藤原周光の「西出 二 都門 一 任 二 自由 一 。 從 レ 晨竝駕好 二 優遊 一 。」と藤原茂明の「寺
門乗 レ 興暫優遊。景気肅条任 二 自由 一 。暁峡月残猿叫遠。」の詩句の「自由」は日常(世
事・世俗性)から解放された閑暇の孤独の中に自然をしみじみと感受する内面的な時
間性を込めている意味合いである。また藤原敦光の「身帶 二 扶風 一 不 二 自由 一 。司存難 レ
協我心憂。」の「自由」は嶋田忠臣の「自由」と同じく、世俗の荒廃によって官吏の
仕事が困難を極めているのになお官吏の職に拘束されている自分の「思うに任せぬ」
心情に潜在させている世事・世俗性離脱の生活観の「自由」であるが、自然を感受す
る内面的時間性までは含意していないものである。最後に釋蓮禪の「雲海沈々望自由。
聞 レ 名蓬嶋不 二 遙求 一 。潮穿 二 沙岸 一 松根露。廬守 二 山畦 一 稲穂秋。」の「自由」では、どこ
までも広がり続く海の眺望が眺める主体の心に浮かぶ不死願望などという世俗性を
吹き払ってしまうような、さえぎるものとてなき「思いのまま」の意味合いとなって
いる。自然の限りなき広大さに投影されたこの「自由」は、主体が世俗性から離脱し
た孤独の中で自然を深く感受する時間性から些か意味合いをずらせて、世俗性から離
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脱した人生の悲哀を噛み締める主体性が自然の広大さに接して、己の心になお付きま
とう世俗性を振り払う意味合いのものになっているのである。
こうした「本朝無題詩」に先立つ菅原道真と源道濟においては「自由」はこれらと
は趣きを異にする内面的深化を遂げた語用となっている。菅原道真の「菅家文草」の
巻第二に収められた「秋夜、宿 二 弘文院 一 」と題する七言律詩の冒頭には「信脚凉風得
自由 弘文院裏小池頭」とあるが、この「自由」は先に引用した藤原周光と藤原茂明
と同じく、日常(世事・世俗性)から解放された孤独の中に自然をしみじみと感受す
る内面的な時間性を込めている語用である。そして同じ「菅家文草」の巻三にある五
連長詩「舟行五事」では、塩の値段が騰貴したことを聞いた爺さんが暗夜でしかも嵐
の名残があるのに無理に船出したあげく船が座礁して積んだ貨物も船もすべて海に
流してしまい、他人より十倍もの利を求めようとして却って生涯の生計の拠り所を失
ってしまった詩句の後に、「冒進者如此 虚心者自由。」の詩句が現われる。一読すれ
ば明らかなように、この「自由」は今までには見られない超俗的な人間観の意味合い
を負って使われている。「自由」とは、私欲にかられたもくろみなど持たない淡々と
した心が得ることのできる「思うままのふるまい」のことなのである。逆に言えば、
欲に曇る心はかえって「思うまま」を失って「不自由」ということになる。このよう
な「私欲私心」を超えたところに「自由」を見る人間観はこれまで史語にも法制語に
も事物性向ないし状況様相の表現にも仏教語にも見られなかったものである。精神の
超俗的主体的自立を含意する「自由」の観念が菅原道真の詩によって古代日本にその
姿を現わしたのである。
「本朝麗藻」の中の源道濟の「閑居無 二 外事 一 。」と題する七言律詩の、「性慵唯見 二
籬花色 一 。 官冷不 レ 驚 二 衙皷聲 一 。 身適 二 自由 一 卜 レ 靜 。 追嘲 三 奔走買 二 虚名 一 。」では、官
人の社会ではそれが当然の価値であるかのように付き纏う地位執着や立身出世や名
誉欲や権力志向から離脱することの内面的な閑静さとその時の伸びやかな心境を梃
子にして、自己の心情と生き方に誇りを見出している意味合いとなっている。その「自
由」は菅原道真とは逆に俗臭を拭い去れない批判精神の込められたものである。ある
いは世俗の観点からすれば「嘲」の句に引かれ者の小唄の響きを聞くかもしれない。
だとしても「自由」はそうした陰影を微妙に帯びた内面性を抱える作者の世俗性批判
の人生観の語用になっているのである。平安貴族の官人社会では源道済のような家柄
も文才も不足のない官僚知識人が、位階では貴族として最下位の五位、官職としては
中央では閑職、その後地方職の国司の歴任、という処遇に多年の不満を持ったとすれ
ば、その現実を裏返しして「自由」に、誇りある世俗性批判の生き方の意味合いを込
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めることは十分あり得ることである。日本の漢詩文における「自由」はいずれにしろ
白居易から受容した「自由」の語用を自家薬籠中のものとして日本的に深化させたも
のと言えよう。
根を張る僻見
以上古代日本の「自由」の語用は、権力的支配的法的秩序に背反する意味合いを初
出とするものの、法的に囲い込まれた任意性や主体性を具体的ないし一般的あるいは
抽象的な事物の性向や状況の漠然たる様相に転化する意味合い、および超越者または
修道者の超越的存在様態、超越的理法を体得した主体の境地、超越的な理法ないし超
越界の理法への背反の意味合い、そして世事・世俗性離脱や世俗性批判、さらには精
神の超俗的自立を含意する生活観・人生観・人間観にまで内面的に深化された意味合
い、などすると四つの語用伝来ルートを経て「自由」の意味形成と語用成熟が為され
たことが見分けられた。この論考の最初で触れた後漢書の「百事自由」のような意味
合いのみが「自由」の語用の伝統的主流であったかのごとく言い立てる柳父や富田の
言説は、その史料的根拠と論拠をもっぱら木村毅の「『自由』はいつ日本に入って来
たか」と、それをもとに自分流に作文し直した津田左右吉の「自由といふ語の用例」
とに負っているが、それらは偏った恣意的な選択と雑然とした列挙の上に乗った論証
であり、まさに僻見でしかないこともまたこの論考で示されたと思う。特に津田左右
吉の「自由といふ語の用例」を参照すると次のような四つの知的な僻見と独断と怠惰
が露呈している。
その第一は、古代中国においては「趙註孟子」や「三国志」の魏書巻八と呉書巻四
のような主体性・自主性を意味する「自由」が、「後漢書」の「百事自由」のような
秩序波違反的な専恣の振舞いの自由と並んで語用されていたことを見落としていて、
既に輸入先の中国においても後者のような負の意味が主流であるかのように思い込
んでいる点である。それ故その語用を受け継いだ竺法護の用例が全く無視されている
のである。
第二は儒教思想が古代中国からの中心思想であるとの独断である。勿論儒教は中国
の有力思想ではあったが、少なくとも日本古代に根本的な影響を与えた唐代には仏教
にしろ道教にしろまた詩を初めとする文学にしろそれと並ぶ、あるいはそれを凌ぐ有
力な思想潮流であったことは史実が示しているところである。それにも関わらず津田
左右吉は、「政治的社會的秩序、即ちいはゆる、に従ふことが、何人も守らねばな
らぬ道義であると主張する儒教思想からいふと、初めに挙げたやうな意義での自由
(*筆者注「専恣なふるまひ」)は、人として許すべからざる罪悪である。」として「百
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事自由」のような「自由」は儒教思想からは忌避されるものとしたところまでは良い
としても、道教についてまでも、「後になると道家の典籍に親しんだもののうちに、
法を無視し放曠自恣な言動するものも生じ、」として、あたかもその責が道家の自由
の考え方のもたらした実践面にあるかのように言い立て、その上で「またシナの知識
人の何人もが求むべきもの居るべきところとせられてゐる官職を求めず或はそれを
すてて、いはゆる隠逸の生を送るものもあって、それらは或は社會的風習に從はない
といふ意義での、或は地位や利益に拘束せられないといふ意義での、何れも(*筆者
注 先に挙げた「放曠自恣な言動」と、今ここで述べている自由の意義)道家の本來
の思想とは一致しないものであると共に、前の方は一般の士人から非難せられたし、
後の方は眞にその自由を得たものは殆ど無かつたといふべきである。」と断じている
となると、自分自身の儒教的な規範による道教解釈でしかない。政治的社会的秩序を
相対化してその外に「自由」を見る、或はあるいは世俗的価値を超出してそこに「自
由」の価値を見出す、ことを「無でしかない」と断じる根性は、明らかに日本の近代
知識人の心底に潜む「末は博士か大臣か」という社会的地位によって得られる権力と
権威に対する卑しさの裏返しである。古代から唐代までに中国には世俗的価値を超出
する「自由」の価値観なるものが歴史的に生まれており、それは決して無視したり否
定したりして済ますことのできない中国由来の「自由」の語用なのである。それにも
かかわらずさらに仏教における「自由」までも「なほ禅家のいふ自由が彼等の生活に
おいてどれだけ實現せられたかは、大なる疑問である。」と付け加えているとなると
もはや詭弁としか言いようがない。道家の「自由」の思想を批判するのにそれがもた
らした一部の泡沫的な実態を持ち出して済ましたり、さらには道家や仏教の「自由」
の現実的実践的結実が政治的権力的表舞台においては無であったと言うことで、あた
かも「自由」の観念と語用が唐代までの中国では「専恣なふるまひ」という意味合い
でしか現実的存在価値を持たなかったかのように思わせる論法で、「自由」という語
が唐代までの中国においてどのような意味合いで語用されていたかという問題に対
する答えにすり替えているのである。大体政治と権力機構は社会の一部でしかないの
に文化や宗教や経済や各層の生活などを背後にして歴史の表面に出張るから津田の
ような錯覚が生まれるのである。このような知的論理的欺瞞に引っ掛かっている柳父
も富田も気の毒である。
第三はキリシタン文献に用いられた「自由」の語用に触れた箇所についてであるが、
津田はこの「自由」の意味合いと語用を、「要するに緊縛を脱し拘束をうけないとい
ふ意義での自由なのである。(中略)道徳の基礎としていはれてゐることであって、
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自由の語をかふいう風に用ゐることは、日本においてもシナにおいても例がない。利
慾に誘惑せられるなとか良心に従へとかいふやうなことが教としていはれはするが、
さういふ教にかなつた行動をすることを、何ものかの束縛から解脱する意義において
の自由とはいはない。」として、その特異性を指摘している。しかしこのような「利
慾からの解放」という意味合いの「自由」の語用ならば、南宗禅由来の日本の禅宗に
おける「自由」の語用や先に見た菅原道真の「虚心者自由」と重なるところが十分あ
り、そういう面では特異なものではない。それまでの時代に現われなかった語用とい
うなら津田もその後に続けて取り上げている1599年の「ぎやどべかどる」におけ
る或る種の用例である。「ぎやどべかどる」には人間の様々な欲望や妄念や罪悪など
からの解放という「自由」も、反対に「恣に自由を貪り」というように欲望のままに
振る舞うという意味合いや「物を早く約束する事ハ自由を失ふ」というように思い通
りにならず縛られるという意味合いの「自由」も語用されているが、それと異なると
タヤス
言えるのは 「千々萬々の世界を作り給ひ、又一つもなきやうにし給ハんも 輙 く御自
マシ
由に在 ますと心得よ」とか、イエスキリストが十字架に架かった意味を説くのに、
「其
オントガ
御苦しみ謂れをいハゞ御身の御科 一微塵も在まさゞれば、他よりすくめられ給ひてう
け給ふにも非ず、只御自由の御上より我等を扶け給ハんが為に量りなき御大切と御憐
みを以て堪へ給ふ者也」とかいうような「自由」の語用である。スコラ哲学において
はこの「自由」は、必然的な諸結合の系列から成立する世界を作り出したデウス(神)
がその外にあって自己意志ないし自己原因としての自由を有しているという形而上
学的な意味合いのものである。つまりこの「自由」は世界ないし自然の外に超越する
存在者の意志と行為について言われるものなのである。勿論イエスキリストもデウス
(神)の子であることによってこの超越的な自由を有することになる。またデウス
(神)が自分のかたちに人間を創造した、つまり人間を自由なものとして創ったが故
に、
「様々な欲望や妄念や罪悪などからの解放される」という「自由」も、反対に「恣
に自由を貪る」という「自由」も、アダムとイブの禁断の木の実の逸話に示されてい
るように、デウス(神)によって与えられた人間の自己責任による「意志の自由」な
いし「選択の自由」として人間存在に備わっているものなのである。このような「自
由」はさらに、
「契利斯督記」に載せられている明暦4年(1658年)の日付の「筑
後守伴天連 江 不審 ヲ 掛申詰 コロバセ 申候論議」の中にも現われる。ところで津田が筑後
守の詮議に対してバテレンが告白としたという「デウスハ天地の作者、無始無終ニシ
テ萬徳沿圓滿,自由自在ノ尊體」と言う言葉はそのままの字句ではここには見当たら
ない。おそらく「筑後守伴天連 江 不審 ヲ 掛申詰 コロバセ 申候論議」の中にある「デウス
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ハ天地ニ作者名譽アルヨシ」や、「デウスニモ作者アリヤ、又ナシヤ、伴天連共ニ尋
候ヘバ、デウスハ無始無終ニシテ万徳圓滿自由自在ノ尊躰ナルヨシ申候、」などの記
述を津田自身が約めたものであろう。いずれにしても例えば後者にそのまま続く筑後
守の反論たる言葉の「左様ナラバ天地自然ノ道理ニテハ無 レ 之申候ヘバ、自然ノ不審
晴候何レノ伴天連モ罷成ズ候事」とか、些か長くい引用となるが、「 デウスノ無始
無終の尊躰、万徳圓滿シ、慈悲ケンボウノアルジ、自由自在ノモノニテ、作者モナク
出生スルズイヒイツノ躰ノ由申ハ一々ニ自然ノモノナリ、若自然ニテハ無ト言ハ自然
ヲハナレテデウスヲ作リタルモノヲ可 レ 申由 伴天連共ニ相尋候處、自然ヲ離レテデウ
スト申者有 レ 之ト申道理ナク候 ・ 、自然ノモノナラバ、彼ヲ愛シ是ヲ悪ムト云 ・ ハア
ル間敷候、我氣ニ入タル者ヲバ上天サセ、我氣ニ入ヌモノヲバインヘルノヘ落スト云、
己ガ氣ニ入候トテ、悪ヲ作リ邪淫ヲ犯シ盗ヲシ主親殺シタルモノヲモ上天サセバ、デ
ウスハ大悪人ナルベシ、」とかを参照すれば、デウスは世界の外にあって世界を超越
する存在であることも、世界に超越的に外在するデウスの有する自由もまた超越的で
あることが全く理解されていない。超越はあくまで世界に内在する極限であり、世界
に外在する超越は理解不可能なのである。デウスが天地自然内の存在であり、その様
態を自由自在として解するならばまさに筑後守の論法は成立する。またその後に記さ
れた「デウス初メテ人間ヲ作リ給フハ、ハライソテレアルト申所ニテ、アダン、ヱワ
ト申夫婦ノモノヲ作リ候由、右ノハライソテレアルハ、万事自由ナル所ニテ、世界ノ
極楽ノ由、然ル所ニデウス誡メ候ハ、マサント云木ノ實ナリ、(中略)イマシメノ木
ノ實ヲ夫婦ノモノ食シ候故、悪世界ヘ追出サレ候、其タゝリニテ、末世ノ人間辛苦ヲ
致候由、木ノ實ヲタベズ候ヘバ、万事咨成ヲ、イマシメヲヤブリ候ニヨリ、デウス夫
婦ノモノハライソテレアルヲ追出サレ候」の箇所は、人間の祖たるアダムとイヴがハ
ライソテレアルすなわちエデンの園を追われた経緯に関する伴天連岡本三右衛門の
告白を纏めたものだが、人間はエデンの園という極楽において万事自由に生活してい
たにも関わらず、神の誡めを破ったが故に極楽における自由を失って悪の世界へ追い
出され、本来的に辛苦を負うことになったと解されている。この時「自由」は神によ
って自らの自由を、あるいはその模造品でしかないかもしれないが、人間存在に分け
与えられていて、それ故人間の人間たる所以たる属性として自己の実存の中心をなし
ており、その主体的表出たる「意志の自由」ないし「選択の自由」が陰陽の両面ある
いは正負の両価値を負っている点が見過ごされている。つまり人間存在に根源的に負
わされた「自由」のあり方が人間の霊性の善と悪の双極性、別の言い方をすれば超越
的理念性と現実的困難性を併せ持つことが見抜けていないのである。キリシタンを通
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して日本はこの時ヨーロッパの「自由」観念と初めて出合いその観念に接近したのだ
が、残念ながら擦れ違いに終わっているのである。この点についてはこのキリシタン
文献を引用した昭和期の津田左右吉においてもさして変わらない。「自由」という観
念が現実的に実践的にどういう成果ないし結果を生むかで評価されるものと考えて
いるからである。目の前の現実に対してどのような理念を指し示すか、新たな未知の
現実を心的世界に開示し得るか、という視点を併せ持って観念を評価するのでなけれ
ば、人が抱く観念の固有性もその価値も意味のないものなり、その思想立場は結局の
ところただ現実に追随するところに収斂するしかないのは見て取るに容易いことで
ある。それこそ皮肉っぽく言えば、人間はどんな観念を抱きそれを表現しようがまさ
に自由であり、但しその観念自体が何事かであるかどうかということで厳格に評価さ
れるのである。西欧中世が開示したこのような現実に対する観念の自立性を評価でき
ないのでは、観念の構築物を追究する人文学者たる己の存在意義が危うくなりはしな
いか。北村透谷が既に明治期にその著述「徳川時代の平民的虚無思想」において「自
由は人間天賦の霊性の一なり。極めて自然なる願欲の一なり。」として西欧的な「自
由」の観念の超越的理念性を自家薬籠中のものにしていたのとは大違いである。己の
拠って立つ根本を忘れて人に物を言う津田が、「このばあひの『自由』は一種の神學
的思弁であって、主として造物主の義と全能の義とを含んでゐるものと解せられる。」
として、日本の語史における特有なものという言い草で通り一遍に済ましてしまうの
では知的怠惰であるのを否めない。そのため明治期に輸入された近代西欧の自由概念
の受容において、
「西洋事情」における福沢諭吉が feedom 及び liberty の翻訳語を「自
由」とする際に危惧を抱いた点をそのまま素朴に受け取り、ただの外国語の翻訳の問
題というだけに矮小化してしまうことになる。しかもこの僻見は冒頭でも指摘したよ
うに柳父章に、加えて中田祝夫の「古語大辞典」における「自由」の項に付された鈴
木丹士郎の語誌にも受け継がれて行くのである。この僻見の連鎖は是非とも断ち切ら
なくてはなるまい。
第四は津田が「自由」という語が階層によって語用上の意識的無意識的差異が生じ
る位相語である点を見抜けていないことである。それは辞典的な抽象次元にある語義
を追って「自由」の観念を素描しているからであり、具体的状況や場面を類型化した
抽象レベルでの語用を考察できていないからである。「自由」の語用を類型化して歴
史的に辿れば、「自由」という同じ語でありながら階級ないし階層によって意味合い
の差異が露出する位相語であるのが容易に見て取ることができる。津田が「自由」と
いう語について、「以上の用例でみると、キリシタン文献に見えるものは別として、
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自由といふことばには、法令上の用語としてはいふまでもなく、その他のでも、何ほ
どか非難せられるやうな意義の含まれているものの多いことが、知られるやうである。
拘束をうけないといふばあひのでも、その多くは、社會的制約の外に立つといふで
氣まゝな、もしくはわがまゝな、氣分があるから、一般人の生活態度としては承認し
がたいものである。思ふまゝにするといふ意義でのでも、他人に關し世間に關するこ
とがらについていふばあひには、やはり同様である。よい意義でいはれてゐる例もあ
るが、それは少ない。」
という結論に到る時、意識的か無意識的か古代における法文と仏教語と漢詩における
語用、さらには中世の禅宗、そして近世の文学における語用の多くを無視している。
それ故専ら平安後期から中世にかけて支配層が頻発する公文書において定着し、その
後近世の支配層において儒教的な意識を反映した語用に多く出現する「自由」をその
まま受け継ぎ、その意味合いの「自由」を無反省に語史に適用して澄まし顔している
のである。
「自由」という語の位相的半面を歴史的全体として拡大し実体化しており、
まさに知的には明治以後第二次大戦後にまで残存する儒教道徳のイデオローグの徒
と化しているのである。これでは「西洋事情」における福沢諭吉の feedom 及び liberty
の翻訳語を「自由」とする際の危惧と誤解を歴史的に相対化できず、母国語と外国語
との概念的齟齬という翻訳上の困難の問題に矮小化してしまうのは当然である。事は
そんな簡単な問題ではなかったのである。詳細な論及は稿を改めるしかないが、明治
時代以来今日まで社会構造において継承されている支配層と被支配層の関係の裂け
目が「自由」の語用の歴史的考察においては否応なしに捩れた形で露出して来るとい
う問題なのである。今日においても多岐にわたる「自由」の語用には特に政治的な場
面においては、この問題が影を落としている。それより何より「広辞苑」) という一般
の知的常識を表示する国語辞書の「自由」の最初の説明においてさえも、日本書紀の
綏靖紀の「威福自由なり」という用例をその後に添えながら、「古くは勝手気ままの
意に用いた」と一面的な検証に基づく記載がなされているのは現在なお続く日本語の
「自由」に負わされた受難の十字架であると言わねばならない。
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