写真と芸術 - 「記録する」ことに本質

写真と芸術 - 「記録する」ことに本質
「琉球新報」1994 年 8 月 6 日
下地良男
(上)
ひところ、写真は芸術か、はたまた、非芸術かというテーマを巡って盛んに議論が行われ
たことがある。ところが、沸騰した割には議論はしりすぼみに終わり、どう決着がついたの
か分からないまま今日に至っているように思う。
一体、写真は芸術であるのか、そうではないのか。だが、考えてみれば、そのように問う
こと自体少しおかしいのではないか。それは、例えば、言葉は芸術なのか、そうではないの
か、油絵の具は芸術なのか、そうではないのかと問うのに等しく、すごくナンセンスに思え
るからだ。
言葉はそれが紡がれて詩となり、小説となって初めて芸術のジャンルとなり得る。油絵の
具もまた表現目的でキャンバスに塗られて初めて絵画というジャンルを形作る。言い換え
れば、言葉や絵の具はそれらを用いて人に何かを訴えようとして、すなわち、表現と言う形
をとって初めて芸術という範疇で括られるのだ。
写真も、単に対象を写すという行為の段階では言葉や油絵の具と同様、単なる素材の範疇
を出るものではない。この段階の写真は、ロラン・バルト(『明るい部屋』みすず書房刊、
1992 年)の言葉を借りれば、「世界の類似物(アナルゴン)でしかなく、世界を見るのと、
その世界が写っている写真を見るのとではほとんど何の区別もない、ということになる。そ
うすると、「写真は芸術か」という問いは「世界は芸術か」と問うのと同じように全く馬鹿
げたものであることが分かる。
従って、設問の形式としては「写真は芸術か」ではなく、「写真は芸術の素材たり得るか」
でなければならない。すなわち、文学や絵画が言葉や絵の具を素材として成り立つように、
写真は写真を素材とした芸術ジャンルとなりうるか、と問うのが正しい。勿論、この問いに
答えるためには、芸術とは何かがまず定義されなければならないが、これがまた容易には答
えられない難問なのだ。
西洋ではギリシャ時代の昔から芸術に対 する考え方に二つの大きな流れがあった。すな
わち、一方では、芸術を実在の摸写(しかも不正確で歪曲された摸写)だとする考え方と、
他方、芸術とは情緒的に体験される感性の世界だ、とする二つの考え方である。
この二つの考え方はそれぞれミメシスとエクタシスという名称で呼ばれたりもするが、
前者は主観・客観という二元論的認識の世界として芸術をとらえ、後者は主観・客観が合一
ドロシア・ラング「無料配給所の失業者の列」(部分、1932 年)
ドキュメンタリー写真の一例。大恐慌時代のサンフランシスコの一角。慈善
団体が無料で配るパンとスープを求めて集まった失業者の群れ。一人こ
ちらを向いて立つ男の顔に明日への不安がよぎる。 (集英社刊 The of
Galerry of World Photography -- Social Commentary より転載)
した一元論的体験の世界として芸
術をとらえる(米須興文著『ミメシ スとエクタシス』
勁草書房刊)。
芸術に対する考え方は単純化すればこの二つに分極
できる。例えば、古典主義は摸写主義に立脚する二元
論的認識の世界として芸術を見、他方、ロマン主義は
霊感的・情緒的な心的体験の世界として芸術を見る。
だが、今日、芸術に関する様々な主義主張はこのよう
に極端なものではなく、両者のうち、いずれに重きを
置いて芸術を見ているかの違いであり、このために、
今日の芸術観は多様でとらえどころがない様相を呈し
ている、と言えよう。
さて、このような流れのなかに写真を置くとどうな
るか。既に過去一五〇年の間に、写真家たちは単に現
実的世界を印画紙の上に定着するという物理化学的な
興味を超えて、それをもって何かを表現しようと不断の努力をしてきた。その結果、今日、
写真を表現の素材とした写真芸術がジャンルとして確立されたことに、もはや、疑問の余地
はない。すなわち、上で設定した「写真は写真を素材とした芸術ジャンルであり得るか」と
いう設問に対しては、答えは自明であると言わなければならない。
このような前提に立って、もう一度、写真の流れを上述の大きな芸術思潮に重ね合わせて
みると、写真もまた同じうねりの間を行きつ戻りつしながら今日までの道のりを歩んでき
たことが分かる。
写真における摸写主義的芸術観は「写真は記録である」という言葉によって言い尽くされ
ている。芸術、就中、絵画における摸写主義の行き着いた先が写真であったが、それという
のも写真は対象を完全に摸写することに、その本質があるからである。「ドキュメンタリー
写真」という範疇で括ることのできるピーター・H・エマーソンの「自然主義写真」、アル
フレッド・スティーグリッツの「ストレート写真」、土門拳の「リアリズム写真」などはこ
の系譜に属するものであり、それは写真における大きなうねりとなって今日的(九〇年代)
写真の主流をなしているのである。
一方、写真におけるロマン主義的・体験的芸術観は一九世紀中葉から世紀末までのピクト
リアリズム(絵画主義)の中に見られるが、それはボードレールらの「写真は造形すること
も、想像することもできない」という批判に対するアンチテーゼとして出てきたものであ
る。