「活動的存在」について 2015年10月10日に作成 中村昇は、その著「ホワイトヘッドの哲学」(2007年6月、講談社)の中で、ホワイ トヘッド哲学における「活動的存在」について次のように述べている。すなわち、 『 この「活動的存在」という言い方は、「過程と実在」で多用される。だが、中期で は、「出来事」という言い方がされていた。中期から後期に至る過渡的作品である「科学 と近代世界」においては、その「出来事」という概念が、ある出来事とほかの出来事との 関わり合いを表す「抱握」と呼ばれるようになり、それが、つぎに「活動的生起」という 言い方になる。そして、「過程と実在」では、最終的に「活動的存在」という概念に彫琢 された。 ホワイトヘッドのことばをひこう。 こうして自然は、もろもろの深化する過程の組織だ。実在とは過程のことなのである。 (中略)自然のもろもろの実在は、自然のさまざまな抱握、すなわち自然の中のもろもろ の出来事である。』 『 神は、ひとつの活動的存在である。』 『「活動的存在」は、もっともリアル(実在的)な「もの」である。いいかえれば、もっ とも具体的なものなのだ。この存在の背景に、それ以上リアルで、具体的なものを探って も、なにもでてこない。われわれの世界は、「活動的存在を離れては、何もないただの 無」なのである。・・・と。 理性的に把握するものが把握であり、感性的に把握するものが抱握である。出来事には、 目に見える出来事と目に見えない出来事がある。目に見える出来事は把握はできるが、目 に見ない出来事は、把握できなくて、抱握によって感じるしかない。神や宇宙のリズムと いうようなものは、実在ではあるけれど、目に見えないので、抱握によって感じるしかな い。すなわち、神や宇宙のリズムといったものは、抱握によってその姿を現すのである。 一般的には、「祈り」のときに抱握によって神はその姿を現す。姿を現すということは、 感じるという意味であり、目に見えるような姿で現れるということではもちろんない。ま た、自然を抱握することによって、私たちは心は癒されるが、それは、宇宙のリズムを抱 握するということに他ならない。 「神は、ひとつの活動的存在である」が、これは、すなわち「活動的存在とは、現実に見 えるものだけではなく、神や宇宙のリズムといった目には見えないものを含んだ概念であ る。」ということを意味している。 神や宇宙のリズムといったものは、目には見えないけれど抱握できる実在であり、もっと も具体的なものだ。つまり、その抱握したものを人間は目に見える形に表現する。それが 現実のさまざまな神であるし、また宇宙のリズムでいえば、さまざまな芸術作品である。 宮沢賢治は、宇宙のリズムを抱握して、あのような宇宙的な素晴らしい作品を作った誠に 希有な人であるが、一般的に、芸術家というものは、宇宙のリズムを抱握して、詩を作 り、絵を描き、歌を作っている。 このように、活動的存在は、「無」というようなものではなく、「有」であり具体的なも のである。
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