校長だより① 平成27年6月15日(月) 高校総体のウエイトリフティング競技を見て思うこと 校長 岩 崎 勝 久 今年度、校長に昇任するにあたり、一つの楽しみがあった。それは、高体連 の専門部長として、スポーツに関われることである。私自身、『若い頃の夢は?』 と、人に聞かれると、『新聞記者になって、オリンピックやワールドカップを 取材し、その後スポーツライターになること』と答えていた。当時のあこがれ は、山際淳司、名著『スローカーブを、もう一球』の作者である。 私自身、自慢できるレベルではないが、中学校時代には剣道、高校入学後は ラグビーと、スポーツに汗した経験もある。現在55歳であるが、4年前より 再びスパイクを履き、40歳以上のカテゴリーでラグビーの九州大会にも出場 している。競技は違うが、ウエイトリフティング競技の全国屈指の強豪校であ る南部工業高校の校長として、同競技に関わることができるのは嬉しい限りで ある。 私自身、高校総体において、ウエイトリフティング競技を初めて直に目にし たのは平成 20 年度大会のことであった。当時勤務していた久米島高校の教頭と して、77 ㎏級に出場する平良響選手の応援に出向いた時のことである。今でも 鮮明に覚えているが、久米島高校の監督は、平良選手の優勝を勝ち取るため、 自己タイ記録の重さからスナッチ競技をスタートさせた。今思えばギャンブル である。結果、平良選手は、6本中5本(?)を成功させ、見事にライバル選手 を振り切ることができた。私自身、勝負の駆け引きやこの競技におけるメンタ ル面の重要さなどを知り、ウエイトリフティング競技の奥深さを実感すること となった。 平成 21 年度の大会では、一人の気になる選手がいた。確か、69 ㎏級へと階 級を移り、総体を連覇した久米島高校の平良響と同じの級に出場していたと思 う。南部工業高校2年生のその選手は、テクニックというより、パワーばかり が目立つ選手で、彼の試技は、まさに『力まかせ』という表現がピッタリであ った。素人の私から見ても凄く粗く感じられた。「この選手は、果たしてこの 先、伸びるのだろうか?」というのが率直な感想であった。 しかし、この心配は杞憂に終わる。彼は1年後の沖縄県で開催された美ら島 総体の 77 ㎏級において、全国を制覇する。名前は久米大輝、彼が高校時代に残 したスナッチ 130 ㎏、ジャーク 160 ㎏は、現在でも県高校記録であり、トータ ルの 290 ㎏は日本高校タイ記録でもある。他に美ら島総体では、53㎏級で玉 寄公博選手が優勝、56㎏級平仲浩也選手と62㎏級で平良勇祐選手が2位入 り、南部工業高校は、3度目の総合優勝の栄冠に輝いた。これらの選手は、高 校卒業後も競技を続けていると聞く。是非、更に大きく世界に飛躍してもらい たいものである。 平成27年度の県高校総体において本校ウエイトリフティング部は、残念な がら4位に終わった。3年生にとっては不本意な結果だと思う。しかし、先輩 が築いてきた輝かしい伝統を受け継ぎ、南部工業高校の練習場で汗を流してき た日々を誇り感じて、これからの学校生活や進路実現にむけて頑張ってほしい。 また、1,2年生の部員には、南部工業高校ウエイトリフティング部の新たな レジェンドを築いてほしい。 私がこれまで見てきたオリンピックのウエイトリフティング競技の中で、最 も記憶に残っているのが1984年のロサンゼルスピックである。67.5㎏ 級に出場した本校先輩である平良朝治選手がジャークで2位の記録を残し、ト ータル 305.0 ㎏で5位に入賞した。最後のジャークの試技に成功し、ジャンプ して歓喜する平良朝治選手の姿は今でも目に焼き付いている。 また、82.5㎏級の砂岡良治選手の戦う姿も忘れられない。ジャークの最 終試技を残して3位に付けていた彼は、銀メダルを捨て、金を取るために、そ れまで一度も挙げたことのない 207.5 ㎏挑んだ。NHKの実況アナウンサーが 本人の気持ちを代弁するように叫んだ「銀は要らない!金か銅!」の台詞は今 でも耳に残っている。残念ながらクリーンはできたもの差しあげることはでき なかった。しかし、今でも私の心に残るオリンピックの名シーンである。 2020年、オリンピックが56年ぶりに東京に戻ってくる。是非、ウエイ トリフティング会場のプラットフォーム上に、本校出身の選手の勇姿を目たい ものである。
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