鍋 田 先 生

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鍋田先生
こと
岡
野
誠
れる。
鍋田先生は、
一九五二年専任助
一九五九年専任教授となられた。そのご在職は、突に四十六年の長きに及ばれる。文字通り明治大学の生字
鍋回先生は、
一貫して日本法史と歴史学を担当されたが、その学風はいわゆる京大文化史学の伝統を引き継がれ、
かに大きなものであるか明らかであろう。
を鹿任された。とりわけ短期大学長は三期約六年、刑事博物館長は十四年間勤められ、先生の本学に対する貢献がい
院法学研究科民事法学専攻主任・大学院委員・短期大学長・大学院法学研究科委員長・刑事博物館長等の重要な役職
この間、学生部委員・法学部一部教務主任・短期大学法律科長・法学部二部主任・学校法人明治大学評議員・大学
引のお一人である。
教授に、
一九四九年京都大学文学部史学科を卒業され、ただちに本学法学部助手となられ、
ではなくなったけれども、現役の研究者として無事定年退職に至ることは、やはり特筆すべき人生の一里程かと思わ
このたび鍋田一先生がめでたく古稀を迎えられ、規定に従って退任されることとなった。今日七十歳は背ほど﹁稀﹂
の
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叢一一
論
律
一一法
日本古代文化史への理解を基礎に、律令時代(およびその前史)を主たる研究対象とされた。とくに都城制や儀礼等
の分野に、先生のご研究の特色が遺憾なく発揮されていると言えよう。先生のご論文の一つである﹁六}八世紀の客
ひととたり
館ーl 儀式の周辺││﹂は、故油川政次郎博士によって絶賛されたと、かつて先学からうかがったことがある。
鍋問先生の為入念二世間で表現することはもとより困難であるが、﹁視和恭敬﹂といった文字がおのずと思い浮か
ぶ。先生に接した者みなその温かな空気に包まれて、清々しい気分のうちに時を忘れてしまうのである。
先生はまた大学院において数多くの専門家を育成され、世に送られた。先生の教育方法は院生一人一人の個性を尊
重され、各自の伊間的自覚にまつものであって、時に遠廻りをすることがあったとしても、知識の深化・理論の熟成
に至らすことがその要諦である。それゆえ先生の学生達は、 日本人は勿論、台湾や韓国からの留学生達もふくめ、等
しく先生に対し深く敬愛と感謝の気持を抱いているのである。
私自身、法史学は言うまでもなく、それと向紘一寸に、あるいはそれ以上に、鍋出先生から人としての生き方を学ばせ
ていただいたように泌う。
以下少々脇道にそれる。失礼ながら私はいつの頃からか、心中秘かに﹁鍋田老子﹂と呼んでいる。先生は別に道教
の徒ではないし、 またそのようた哲学をもらされたこともない。しかし先生の生き方がまさに伝説よの老子(李耳)
その人を想起させるのである。
﹁老子化胡経﹂では、老子が釈迦を教化したと摩詞不思議なことを一言うが、わが﹁鍋田老子﹂も無類のインド通で
あり、 インドの風光・文化・芸術を愛する点において﹁狂﹂にちかい。先生はアジア・ヨーロッパ・北アメリカ等世
界各地に足跡を印されているが、 インドこそ先生が最も好まれ、度々通われた地である。先生は蛍用のカメラと一ニ脚
を片手に、遺跡を訪ねてインド亜大陸の奥地にまで分け入っている。先生がインドを語る時の表情は形容し難い。
一一鍋田先生のこと一一
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瞬にして先生の身体が一条の光となってインドの噴野に飛び去った思いがする。
さて私共の法史学講座は、先生の﹁無為にして化す﹂によって、 おのおの自由に活動しつつも常に和詰が失われる
々ご壮健に過され、先生のいぶし銀のようなその知恵を、われら若輩に授けていた
ことはなかった。これすべて先生のお人柄によるものである。
専任教授をど現任ののちも、
だきたいと切望してやまない。
(台北・中央研究院歴史語言研究所にて)