私が作曲家になったわけ 2 川井 憲二 そして大学受験に臨むのですが、三年間ダラダラ過ごした私に 理系の一流校など受かるわけがありません。そのまま浪人とな り、再びダラダラと予備校に通うものの、学力は高校時代となん ら変わることはありませんでした。 それでもなんとか東海大学の原子力工学科に入学でき、将来は 原子力の仕事をしようと志したものの、学校があまりに家から遠 いのと授業が難しすぎ、一年半で中退することに。 もう自分には理工系の勉強は無理と判断し、今度は音楽の先生に なるべく音楽専門学校に入学するものの、女の子が多い学校で遊 びすぎてこれまた半年で中退。親はそんな私のふがいなさに嘆い ていましたが、それでも何となくバンドは続けていました。 そんな時、あるコンテストの募集があり、たまたまその場にいたメンバーでインスタントバ ンドを結成したところ、何とそれが優勝してしまったのです。 レコード会社からはデビューの話もありましたが、元々即興で作ったバンドなので、ポリ シーもヘチマもありません。明快なコンセプトも見つけられないまま数年間はなんとか 色々なアーティストのバックバンドをやったりしていましたが、結局解散状態となってし まったのです。 その頃、シンセや打ち込みに興味を持ちだした私は、当時バックバンドをやっていた方か らミュージカルの音楽を頼まれました。そして、そのミュージカルをたまたま観に来ていた 方から、ある自主映画の音楽を頼まれました。これが押井守監督の"紅い眼鏡"だったのです。 そこから劇伴作曲家としての仕事が始まって現在に至るワケなのですが、この劇伴作曲 家とは、様々なジャンルの音楽を作らなければなりませんし、もちろんオーケストラも編曲 できなくてはいけません。そのため、多くの劇伴作曲家はちゃんと音楽大学で基礎から音楽 を学び、卒業後は留学までして勉強する方も多いというのに、私の場合はただのギター小僧 だったので、当時はオーケストラのオの字も分からなかったのです。 そこで一念発起して音楽を基礎から学ぶべきだったのでしょうが、私にそんな根性があ ればとっくに希望の理工学部に行けていたワケで、その期に及んでも特に何もしなったの は"三つ子の魂百まで"と言わざるを得ません。しかし仕事は不思議なことに次々とやってき て、何となく作曲家っぽくなっていきました。とりあえず必要最小限のことだけを調べて、 なんとかその場凌ぎを繰り返しているうちに段々と色々なことが分かってきて、現在の私 となった次第なのです。 続く
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