全文はこちら - 城南高校同窓会

私が作曲家になったわけ
川井 憲二
私は現在作曲家をしておりますが、最初から作曲家になろうと
思っていたわけではありませんでした。かろうじて城南高校に補欠
で入学した私は、日々麻布十番のバモスとか六本木のサンライズに
入り浸ったり、パチンコにハマったりと、まあハッキリ言ってかなり
いい加減な学生生活をおくってきたのですが、そんな私がどうして
作曲家になったのか、その経緯をお話ししてみたいと思います。
音楽は小学生の頃から大好きで、フォークソングや歌謡曲をよく
聴いていました。中学になるとバートバカラックやフレンチポップ
ス、そしてギターに興味が出てきて、高校に入ったと同時にロックも
好きになって念願のエレキギターを買いました。
学校では軽音楽部に所属し、バンドも組んで学園祭でも演奏しましたが、私が将来目指して
いたのは電気系の仕事で、実際に高校三年では理系のクラスだったのです。
そして大学受験に臨むのですが、三年間ダラダラ過ごした私に理系の一流校など受かる
わけがありません。そのまま浪人となり、再びダラダラと予備校に通うものの、学力は高校
時代となんら変わることはありませんでした。
それでもなんとか東海大学の原子力工学科に入学でき、将来は原子力の仕事をしようと
志したものの、学校があまりに家から遠いのと授業が難しすぎ、一年半で中退することに。
もう自分には理工系の勉強は無理と判断し、今度は音楽の先生になるべく音楽専門学校に
入学するものの、女の子が多い学校で遊びすぎてこれまた半年で中退。親はそんな私のふが
いなさに嘆いていましたが、それでも何となくバンドは続けていました。
そんな時、あるコンテストの募集があり、たまたまその場にいたメンバーでインスタントバ
ンドを結成したところ、何とそれが優勝してしまったのです。
レコード会社からはデビューの話もありましたが、元々即興で作ったバンドなので、ポリ
シーもヘチマもありません。明快なコンセプトも見つけられないまま数年間はなんとか
色々なアーティストのバックバンドをやったりしていましたが、結局解散状態となってし
まったのです。
その頃、シンセや打ち込みに興味を持ちだした私は、当時バックバンドをやっていた方か
らミュージカルの音楽を頼まれました。そして、そのミュージカルをたまたま観に来ていた
方から、ある自主映画の音楽を頼まれました。これが押井守監督の"紅い眼鏡"だったのです。
そこから劇伴作曲家としての仕事が始まって現在に至るワケなのですが、この劇伴作曲
家とは、様々なジャンルの音楽を作らなければなりませんし、もちろんオーケストラも編曲
できなくてはいけません。そのため、多くの劇伴作曲家はちゃんと音楽大学で基礎から音楽
を学び、卒業後は留学までして勉強する方も多いというのに、私の場合はただのギター小僧
だったので、当時はオーケストラのオの字も分からなかったのです。
そこで一念発起して音楽を基礎から学ぶべきだったのでしょうが、私にそんな根性があ
ればとっくに希望の理工学部に行けていたワケで、その期に及んでも特に何もしなったの
は"三つ子の魂百まで"と言わざるを得ません。しかし仕事は不思議なことに次々とやってき
て、何となく作曲家っぽくなっていきました。とりあえず必要最小限のことだけを調べて、
なんとかその場凌ぎを繰り返しているうちに段々と色々なことが分かってきて、現在の私
となった次第なのです。
つまり、私は嫌なことから逃げているうちに、ラッキーにも偶然作曲家になったにすぎず、
出会った方も素晴らしかったのですが、ただ運が良かったとしか言いようがありません。
ある TV 番組でこんな私の経歴をお話ししたところ、司会の加藤浩次さんから「いやあ、
川井さんっていろいろ準備の足りない人ですね」と言われたことがあります。まさしくおっ
しゃる通りで、行き当たりばったり感がハンパないな、と自分でも思います。私は現在 58
歳ですが、これからも行き当たりばったりな人生を送るのかな、と思うと今後が大変不安に
なります。
ただ、こうしていい加減の連鎖で作曲家になったのは極めて希なケースと思いますので、
この文章を希望に満ちあふれてがんばっている若者が読まないことを心から祈ります・・・。