朝の法話25を掲載しました

朝の法話
第二十五回
一月十五日
全校の皆さん 、おはようございます。
今週は全国各地で成人式がありました。「成人」とは、「一人前と認
められる年齢に達すること」と言われています。日本では満二十歳に
なって「大人(成人を迎える)」と呼ばれますが、「人と成る」という
ことは、自分の人生を主体的に生きるという意味ですので、どんな境
遇からも自分の人生を主体的に生きることを学べる人になることが、
本当の「成人」ということでしょう。
さて、今朝は釈尊の入滅、入涅槃という言い方もしますが、いのち
が終わるときのお話をしたいと思います。
釈尊は三十五歳で苦悩の根源を深くみつめ、すべてのものは縁によ
って成り立っており、だからこそすべてのものは移ろいゆくという事
実に目覚めました。それから約四十五年間、旅を続けながら、自らが
身を置く世界で苦悩する一人ひとりの人間に、あるときは厳しく、あ
るときは優しく説き続けました。
八十歳になった釈尊は、生まれ故郷に向かう最後の旅に出かけまし
た。しかしながら、この頃の釈尊の身体は衰え、限界に近づいていた
といいます。その旅の途中、病にかかり、とうとう動けなくなってし
まったのです。そして、弟子の阿難を呼び、次のように語りました。
「阿難よ、老衰した私のこの身はあたかも古ぼけた車が皮紐の助け
によってようやく動いているようなものだ。阿難よ、それゆえ私の死
後も他を頼りとせず、誰もが、ただ自己と法とのみをよりどころとせ
ねばならないのだ。」と。
釈尊は本当に依りどころとするべきものは、自分自身であり、その
自分を成り立たせるものは教え(法)であると言ったのです。自分を
依りどころとするというのは、自分の思いに任せるというのものでは
なく、本当の自分に目覚めるということです。自分中心の考えから抜
け出せなかったり、あれも欲しい、これも欲しいと底なしの欲を抱え
ているように、煩悩が盛んな姿こそが本当の私の姿です。
中国の高僧、善導は「仏教は鏡のようなもの」と言いました。鏡を
使わないと私たちは自分のことが見えないのと同じように、自分自身
のことが一番分かってないのが自分なのです。だかこそ、教えにふれ
ることで本当の私に出会い、本当のことが明らかにされていくのでし
ょう。
これで朝の法話を終わります。