10 12 「何かあったらこれを使いなさい」そう言って母は、一巻きの反物をバッグに入れた。 昭和四十八年、私が高校を卒業し上京する時のことだった。学費は何とかするから、後は自分 で頑張りなさい。そんなありがたい両親の支援を受けて島を出た。 アパート、学校、そしてバイト先、三定点を移動する東京での生活が始まった。学園生活を楽 しむ、そんな余裕は無く、ひもじさがすぐ側にあった。それでも、映画館、デパートの企画展示 会そして古本屋にジャズ喫茶、刺激あふれる都会での生活は、時間が過ぎるのも速かった。 アルバイトは不安定で、家賃の滞納はよくあり、その度に近くの質屋を利用した。「見てい る時間よりも、質屋にある時間の方が長い・・」友人からそうからかわれる程、家の小型テレビ は、頼れる質草としてよく働いた。 四年になると卒論もあり、バイトをする時間は限られ、家賃滞納は長くなった。そんな時、思 い出したのが母の反物。それを抱えて質屋へ急いだ。店主は何も言わず、予想を遙かに超える額 のお金をカウンターに出した。私はその額に驚き、後先を考えないまま、それを受け取り外へ出 た。 母の大島紬のおかげで、何とか卒論をまとめることができた。一方で、返すお金の工面もあり、 更なる苦労が始まった。難儀して揃えたお金を持って、期日に一日遅れて質屋へ行った。数日返 金に遅れてもテレビを返してくれた店主だったが、その時は違った。 「あれはもう有りません」返事はその一点張りだった。 失った時にその価値を知る、と言う。それは、私が初めて大島紬の価値を知った時であり、同 時に故郷の文化に気づかされた時でもあった。 あれから四十年が過ぎようとしている。介護度五の母は今、家にいる。あの繊細な大島紬を織 った指は、祖父母を看取り、八人の子供を育て、家を守った大きな手でもある。その手をさすり ながら介護の日々は続いている。母と過ごせる豊かな時間を、もうしばらくは続けられそうだ。
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