年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)

主 日 の 福 音 15/08/30(No.785)
年 間 第 22 主 日 (マ ル コ 7:1-8,14-15,21-23)
人の中から出てくるものが人を汚す
年 間 第 22 主 日 B 年 は ユ ダ ヤ 人 の 「昔 の 人 の 言 い 伝 え 」に 関 す る 議 論
を取り上げています。ユダヤ人は宗教上の清さに関してとても気を配っ
ていましたが、ファリサイ派の人々と律法学者たちが大切にしていた実
践はイエスにとって偽善と映っていました。今週は清さに関するイエス
の考えに耳を傾けることにしましょう。
先週、浜串教会の聖櫃を新調する予定ですとお知らせしましたが、
嬉しいことが起こりました。わたしは説教を毎週ホームページとブログ
で公開し、メールマガジンの形で利用者に配信していますが、読者の1
人から聖櫃のために寄付をしたいという申し出がありました。
メールマガジンの読者からの寄付の申し出だったのでビックリし
ましたが、寄付を受けることにしました。いろいろな方が、わたしの説
教を通して浜串教会に関心を持ってくれているのだなと思い、感謝の気
持ちでいっぱいになりました。どこにいても、全国の人々の心に触れる
働きはできるのだと、ちょっと自信を持ちました。
さ て フ ァ リ サ イ 派 の 人 々 を は じ め 当 時 の ユ ダ ヤ 人 は 、律 法 を 実 生 活
の中で守るためと教えられて昔の人の言い伝えを受け継いで守っていま
した。律法はモーセを通して神から与えられたもので、それから何百年
も後のイエスの時代には実生活とずれが生じていました。そこでイエス
の時代の人々にあてはめるための細かい規則が編み出され、当時の人々
はモーセの律法をさらに細かく規定した昔の人の言い伝えも守るよう強
要されていたのです。
イ エ ス は 、モ ー セ の 律 法 を 実 生 活 に あ て は め よ う と し た 数 多 く の 言
い伝えはモーセの律法とは別物であり、ファリサイ派の人々が強要する
昔の人の言い伝えの実践がかえって人々を神のおきてから遠ざけている
と厳しく非難しました。神のおきてに耳を傾けることなく、人間が付け
加えた細かい規則に目を奪われて、人々の心は神の心から遠く離れてし
まったのです。
宗 教 上 の 清 さ に 関 す る イ エ ス の 考 え は こ う で す 。「 外 か ら 人 の 体 に
入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来る
も の が 、人 を 汚 す の で あ る 。」( 7・15)外 出 し た か ら 念 入 り に 手 を 洗 う
とか、外国人も立ち寄る市場に買い物に行って帰って来たから全身を洗
い清める必要があるとか、そのようなことで宗教上の清さが保たれるわ
けではないと、きっぱり言い切るのです。
む し ろ 、人 が 宗 教 上 の 清 さ を 保 つ に は 、人 間 の 心 か ら 出 て く る 悪 い
思いに警戒する必要があるのです。宗教上の清さを保つことも含め、モ
ーセを通して神から与えられた律法をふさわしく守るためには、律法か
ら派生した細則にとらわれるのではなく、律法の本来の精神は何か、律
法に耳を傾ける必要があるのです。
こ こ で 一 つ 問 題 が 生 じ ま す 。律 法 に 耳 を 傾 け る た め に は ど う す れ ば
よいのでしょうか。それはイエスの言葉に耳を傾けることです。これま
ではファリサイ派の人々や律法学者の律法解釈が幅を利かせていました
が 、イ エ ス が お い で に な っ た こ と で 、神 の お き て が 何 を 求 め て い る の か 、
耳を傾けることができるようになったのです。
「 皆 、 わ た し の 言 う こ と を 聞 い て 悟 り な さ い 。 」 ( 7・ 14) イ エ ス
は「皆」と呼びかけました。神のおきてに耳を傾けるためには、すべて
の人がイエスに耳を傾ける必要があるのです。「わたしは律法学者だ。
わたしは律法の実践にだれよりも熱心なファリサイ派だ」と権威を振り
回している人々は特に、イエスに耳を傾ける必要があります。
「 自 分 た ち は 無 知 な 人 々 と は 違 っ て 、こ の 分 野 に 明 る い 者 、知 っ て
いる者だ。」こうした人々が自分の立場を横に置いてだれかに耳を傾け
ることは本当に難しいと思います。たとえば、生まれて初めて釣りをす
る と い う 人 を 連 れ て 行 っ て 、そ の 人 が い ち ば ん 魚 を 釣 り 上 げ た と し ま す 。
こういう場合いちばん釣れている人の釣り方が正しいはずですが、
では生まれて初めて釣りをしている人にベテランの人が釣り方を教えて
ほしいと言えるかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。自
分は釣り方を知っていると思えば思うほど、目の前でたくさん釣ってい
る初心者に教えを請うのは難しいと思います。
似 た よ う な 経 験 は 他 に も た く さ ん あ る で し ょ う 。経 験 や メ ン ツ が 邪
魔をして誰かに耳を傾けることができなかった苦い体験をした人もいる
かもしれません。イエスの言葉はこんな場面でも生きてきます。「外か
ら人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中か
ら出て来るものが、人を汚すのである。」
メ ン ツ を 捨 て て 、教 え を 請 う こ と は 、外 か ら 人 の 体 に 入 る 動 き で す
から、どれだけ教えを請い求めても傷つくことではないのです。もしそ
の人の中から「あんな奴に教えてもらう理由などない」という思いがわ
き出たなら、そのねたみの思いこそがその人を汚すのです。
人 の 中 か ら 出 て く る も の が 人 を 汚 し ま す 。そ の 人 の 中 か ら 、イ エ ス
の声に耳を傾けることを邪魔する「ねたみ、悪口、傲慢、無分別」など
が生じていないでしょうか。だれかに謙虚に耳を傾けることを難しく感
じているなら、あなたの心の中にあなたを汚す思いがあるのです。
生 活 を 振 り 返 っ て 、神 の 心 に 適 う 生 活 を 保 つ た め に 、自 分 は た め ら
わずにイエスに耳を傾けているだろうか、考えてみましょう。イエスに
耳を傾けるのに何らかの妨げが置かれていないか、点検しましょう。
「 こ ん な 相 手 に 耳 を 傾 け ら れ よ う か 。」あ な た を 汚 す こ ん な 思 い が
心の中にあるなら、すぐに心の中から追い出しましょう。外面的にどん
なみじめな思い、傷つく思いをしても、イエスに耳を傾けることを何よ
りも大切にする。これが神の思いにわたしたちが触れる近道なのです。
年 間 第 23 主 日 (マ ル コ 7:31-37)