「順序正しい信仰」

2015 年度 1 月 25 日
麻生教会主日礼拝説教
「順序正しい信仰」
ルカによる福音書8章4節~15節
久保哲哉牧師
1.「聞く耳のある者は聞きなさい」
主イエスはそう、大声で言われたと記されています。目の前の群衆に「大声で」呼びか
けるというのが少し印象的でしたので、少し調べてみると、この「大声で」という言葉は
「強く呼びかける」という意味の言葉なのだそうです。ルカ福音書だけでも 10 回、使わ
れている言葉でした。今日の箇所以外でどの場面で用いられているかというと、少し先取
りになりますが、8章の最後、主イエスがヤイロの娘を生き返らせる場面で使われていま
した。目の前で死に直面している幼い者に命の御言葉を語る場面です。罪の結果である死
を滅ぼす力強い場面です。
また、主イエスの十字架の出来事の前、主イエスがペトロの裏切り・つまり3度主イエ
スを知らないというであろうと予告する場面で使われていました。裏切りのペトロの罪を
指摘する、緊迫した場面です。さらに、主イエスが十字架上で息を引き取られる直前「父
よ、私の霊を御手にゆだねます」との祈り。ここでも使われていました。私たちの主イエ
スが、まことの人として死にて葬られ、主なる神にすべてをゆだねられる。その祈りの場
面です。そうした緊迫した場面で主イエスはいつも力強くお語りになられます。
今日の「種をまく人」のたとえは御言葉を聞く人は 100 倍の実を結ぶという恵みのメッ
セージですから、ここで「大声」で、明らかにな緊張をもって目の前の群衆と対峙してい
るというのは少し不思議な気もします。けれども、それも当然のことだと気付かされます。
この御言葉を聞く。ということが。私たちが聞く耳を持つということが、命を得るか、失
うか。その決定的な鍵を握っているということを主イエスはよくご存じだからです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」
死のただ中にあったヤイロの娘に力強く呼びかけ、蘇らせたのと同じ力強い声をもって、
また、ペトロの裏切りを前にその予告をなされたときの緊迫感をもって、わたしたちの教
会に向かって「種まく人のたとえ」お語りになる主イエスの姿がここにあります。
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2.種まきのたとえ
種、それは主イエスが解き明かしてくださっている通り、これは神の御言葉です。そし
て、その種が蒔かれた土地、それは御言葉を聞いて受け入れる私たちの心の状態といって
よいでしょう。11 節以下を再びお読みしましょう。
ルカ 8:11 以下「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、
御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、
その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞
くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭
うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、
御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実
が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善
い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」
聖書には解説不要な主イエスの御言葉が多数ありますが、これも、そうした御言葉の一
つです。けれども、当時の群衆がどのような思いで聞いていたのかを知るために、もう少
し、主の御言葉に近づきますと、ここで言われている実が熟すことがない「道ばたのもの」
「石地の上」「茨の中」、そして 100 倍の実を結ぶ「良い土地に落ちたもの」。それぞれ、
もともとの言葉では異なる前置詞が使われています。明らかな区別があるということです。
これはとても興味深いことだと思いました。
尚、
「道ばた」というのは「para,(パラ)」という「そば」という言葉が使われています。
平行を意味するパラレルのパラです。
御言葉を聞いてもそれをダイレクトに自分に語られているものとして受け取ることができ
ない人といってよいかと思います。御言葉の近くにいるようですが、一歩線を引いている
ような。御言葉と自分を一致させないというか。そのような「うわの空の聞き手」を意味
する所だと言ってよいと思います。御言葉が心に刻まれていないので御言葉に生きていま
せんから、御言葉を奪うものがきて、これを取り去ってしまうというのは当然のことです。
また、岩地に落ちた種。これは実際は「岩」の「上
evpi,・・・(エピ)」という言葉が使わ
れています。エピソードの「エピ」です。エピソードとは「話の本筋とは少し横道にそれ
て、途中に追加で挿入されるもの」を言いますが、要するに、福音の御言葉の外郭だけを
受け取って、その本質に生きない人。喜びの知らせだけをうけとって、自分の十字架を背
負わない人や、反対に苦難ばかり背負って喜びを見いだすことをしない人といってよいで
しょう。最初は良いのですが、長続きしない熱心さとでもいうのでしょうか。私たちも気
をつけなければならないでしょう。
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また、茨の中、これは中というよりも「いばらの間・・・me,sw|(メソー)」。これはメソポ
タミアの「メソ」です。ポタミアとはギリシャ語で「川」を意味する語ですが、メソポタ
ミア文明とはチグリス川とユーフラテス川の「間」に位置する所で発展したためにそのよ
うに名付けられたといいます。これも心と魂に御言葉が刻まれない。世の誘惑や利害に捕
らわれる信仰者を指すのでしょう。
そして最後。御言葉をきちんと聞く「良い土地の『中・・・eivj (エイス)』」。これだけ、
土地の中に種が深く入り込んでいる様子が描写されています。わたしたちは良い土地とし
て、御言葉を深く深く心に刻む必要があるということでしょう。
気をつけなければいけないのは、こういう4つの型の人間がいるということではありま
せん。道ばたに岩地に、いばらに、そういう心のすさんだ人間ではなく、良い土地のよう
な人間になりましょう。ということではないということです。私たちは信仰を持ったとき、
「良い土地」だったかもしれません。けれども、時と場合によって岩地のような心になる
ことだってあるのが現実です。茨のような心になることだってあります。もちろん、良い
土地として御言葉を聞くことができることだってあるに違いない。
そのような中、御言葉の内に留まるために私たちが目に留めなければならないことは一
体何でしょう。それは私たちの神は信頼すべき農夫であること(ヨハネ15章)に目を向け
るということです。
主なる神が私たちの心をよく耕し、頑なになった石の心をやわらかくし、茨を焼き払い、
荒れ地のような状態であった私たちを正しく耕してくださるから、私たちは良い土地とし
て御言葉を迎えることができます。
たとえ私たちが道ばたのような、石地のような茨のような土地であったとしても、主の
日のたびごとに「聞く耳」を持って聞くならば、主なる神が私たちを良い土地へと必ず変
えてくださいます。そして 100 倍の実を結ぶようにしてくださいます。
さらにいえばいきなり良い実を 100 倍に結ぶことができる人はいません。そこには必ず
順序があります。私たち自身、御言葉を受け入れ、スポンジのように御言葉を吸収し、神
の栄光を現す者とされるためにはどのような順序を通る必要があるのでしょう。ルカによ
る福音書8章 15 節で主イエスははっきりとお語りになっています。
ルカ 8:15「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して
実を結ぶ人たちである」
つまり私たちが通るべき順序正しい信仰の道筋。それはもちろん、第一に主の御言葉を
聞くことから始まるということでしょう。その出発は礼拝において今も生ける神と出会う
必要があります。
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第二にはまことの農夫であられる主なる神と出会い、聖霊の働きによって立派な良い心
に変えられることです。自らの罪を認識し、悔い改めて福音を信じる者の心を神は必ず変
えてくださいます。
また第三は、その立派にされた心で御言葉をよく守ることです。これも必要な順序の一
つです。御言葉をわきへおいやるパラ型に陥ってはいけません。
第四は人生の荒波の中、困難や試練をよく忍耐する人となることです。最も重要な掟は
神を愛し、隣人を愛することですが、その愛の性質の第一のものは「忍耐」です(1 コリ 1
3:4)。神は私たちの不信仰を忍耐され、わたしたちが主なる神に向き直ることを待ってお
られます。主なる神に倣い、人生を襲い来る荒波をよく忍耐する者には必ず希望に至る道
が与えられます。
そして第五はそうした苦難を火を通るようにくぐり抜けて、神が示してくださった逃れ
の道を走り抜き、その結果、信仰者として建て挙げられて 100 倍の良い実を結ぶ人です。
私たち自身は弱い者ですが、主の御言葉が私たちを力づけ、押し出してくださいます。
3.主キリストを受け入れる洗礼の出来事
それでは最後にヨハネによる福音書 12 章 24 節にも目を向けましょう。主イエスはご自
分をさして次のようにお語りになられました。
ヨハネ 12:24「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、
多くの実を結ぶ」
主イエスはご自身のことを一粒の麦と例えられました。一方に死があり、もう一方には
命があります。主キリストは冷たい墓に葬られ、陰府にくだられましたが、三日後に復活
されました。今日言われている御言葉の種とは究極的にいえば、一粒の麦として地に落ち、
死なれた主キリストご自身のことです。この主キリストを柔らかい心で受け入れること。
ここに命に至る唯一の道があります。その十字架と復活の御言葉を信じ、洗礼によってそ
の御言葉に生きる道へと入る者こそ、命を得るものです。信じる者が一人も滅びないで永
遠の命を得るために主が十字架におかかりになられました。
洗礼。それは十字架と復活の主キリストと結ばれて、主キリストが私たちの内に住んで
下さる。その始まりの出来事です。主キリストを私たちの心に迎える出来事です。
主が確実な命の道を備えてくださっていることに感謝をし、「立派な心」とは中々言え
ない私たちですけれども、主が共におられることを信じて、御言葉を聞き、よく守り、忍
耐して、100 倍の実が結ばれるときを待ちたいと思います。
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