21 世紀に聖書を読む~「テモテへの手紙第1」シリーズ3~ この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。ある人たちはこの目当てを見失 い、わき道にそれて無益な議論に走り、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していること についても理解していません。(5~6節) 今日(1章3節~7節)考えたいのは、動機についてです。テモテへの手紙第一は、エペソ教会に起きていた混乱に正しく対処す るようテモテを励ますものでした。混乱の原因となっていたのは、「違った教えを説く、ある人たち」「律法の教師でありたいと望 んでいる」そういう人たちです。 パウロの動機~回復させる愛~ けれども、パウロはこの問題の原因となっている人たちを完全に悪者扱いしていないのです。 第一にその人たちのことを名指しで呼んでいません。「ある人たち」と暈した言い方をしています。エペソ教会のメンバーをよく 知っていたパウロは名前を挙げることができたはずです。けれども、そうしないのは、パウロの動機が、この人たちを締め出すこと ではなく、この人たちを悔い改めに導き、回復させるためだったからです。 第二に、命令の内容は「教えることの禁止」であるということです。その人が教会に出入りするのを禁じるということではないの です。私たちはしばしば、問題が起こると、問題を起こしているその人自身を取り除くことを第一に考えやすいのです。けれども、 教会というところは、そういうやり方をしません。問題になっていることと、問題を起こしている人とをきちんと区別して、「事」 は取り除き、「人」は回復させるために努力するのです。なぜなら、教会は「愛の共同体」だからです。パウロは、教会がきよくあ ることを願いますが、そのために愛を見失うようになってはいけないと考えます。あくまでも「違った教えを説く人たち」の回復の ことを考えて、この手紙を書いています。それで「この命令は…愛を目標としています」と言うのです。「この命令」というのは、 このテモテへの手紙第一全体を指しています。この手紙全体が「愛」を目的として書かれている、愛は人を切り捨てるのではなく、 回復を信じてかかわり続けるのです。ここで使われる「愛」と言う言葉は有名な「アガペー」と言われるもので、神の愛を指すとき に使うものです。無償の愛、与える愛などと呼ばれます。パウロは自分の動機をこのように書き、テモテも同じ動機で問題に対処す るように、そして問題を起こしている人々が、パウロの心に触れて悔い改めることを願っているのです。 問題のある動機~自己愛~ 一方、問題を起こしている「人々」の動機は何だったのでしょう。「律法の教師でありたい」と望むこと自体は、悪いものではあ りません。けれども、かれらは神の愛を目当てにすることを忘れて教師であろうとしました。そこにある動機は自己愛でしょう。つ まり、自分の知識を誇り、自分をちやほやしてくれる人の数を増やそうと熱心になる、そういう状態です。愛を見失った教師に、き よい心はありません。あるのは下心です。教会を建てあげるための教えではなく、自分の取り巻きを増やすための教えになります。 愛を見失った教師は、正しい良心を働かせません。教会が混乱するのをみて、問題を問題と感じないのです。愛を見失った教師は、 偽りの信仰に陥ります。イエス様の贖いのみわざの理解がずれていってしまうのです。かれらがしていたことは、旧約聖書にある系 図をヒントに、そこに明確に書かれていない物語を作り出し、そこから教理を引き出すことだったと思われます。 動機の点検 自己愛というのは、クリスチャンが陥りやすい罠の一つです。それは、ありのままの自分を神様が愛してくださっているというこ とを受け止め切れない、自己拒否の裏返しです。そういう時、私たちは自分に何か―例えば知識や熱心さ―をプラスして、それで自 分を愛そうとするのです。神の愛にこたえる熱心と、神の愛を拒否して生まれる熱心、表面的な行動は似ています。けれども、結果 を見れば、動機の違いが浮き彫りになるのです。自己愛から生まれるのは無益な論争です。健全な熱心さは神のご計画を前進させる のです。 この学びから、私の動機はどうだろうかと探られます。自己愛ではなく与える愛、建てあげる愛に焦点を合わせて歩むことができ るよう、お互いに祈り合いたいと思います。 C ○ Masayuki Hara 2015
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