21 世紀に聖書を読む~「テモテへの手紙第1」シリーズ2~ 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教 えを説いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こす だけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰 とから出て来る愛を、目標としています。(3~5節) 今日(1章1節~5節)の主題は教会における「権威」についてです。辞書を引くと「他の者を服従させる威力」と出てきます。 こう聞くと、嫌悪感を覚えるということもあるかもしれません。とりわけ「権威」と「主義」が結びついて「権威主義」となると大 変です。これは私たちの社会の基礎となっている民主主義とは真逆の考え方です。それぞれの主体性や自発性といったものが放棄さ れ、権威者、権力者が決めたことにただ従います、そういう空気が流れると、「権威主義」に陥っていることになります。さきに結 論を言いますが、教会に、権威は必要です。けれども「権威主義」に傾倒するのは問題があると言えるでしょう。 第一テモテ書にある権威表現 まず、今日の箇所で、権威がどのように表現されているかを見てください。権威という言葉自体は出てきませんが、1節に「キリ スト・イエスの命令による」とあります。「命令」と「権威」は密接に結びついています。命令は権威のある者から出るのです。パ ウロは「キリスト・イエスの命令による、キリスト・イエスの使徒」と自分のことを説明することで、パウロが自分の好みで使徒に なったのではなくて、もっと上の権威から「強制」されたということ、パウロの言葉を否定するということは、キリストを否定する ことになると言おうとしています。次に2節の「真実のわが子テモテ」という表現です。この「真実の」という言葉は「真正な」 「正統な」という意味で、「わが子」というのは「パウロの継承者」という意味です。これによって、テモテの権威が確認されてい るのです。すなわち、パウロの言葉をキリストの言葉として聞く必要があるように、テモテの言葉はパウロの言葉として、ひいては キリストの言葉として聴かれるべきだと主張されているのです。エペソ教会がテモテを軽く扱っていたという事情がここに反映され ています。エペソ教会にはパウロの教え子と言われる人はもっと多くいたでしょうが、その中で正統な継承者はエペソでは、テモテ ただ一人であり、テモテの言葉に聞き従うように、そういうことが暗示されているのです。 3節では「お願いしたように」という言葉があり、これも強い言葉、強く勧めるという意味、4節「命じてください」、五節「こ の命令」と権威が強調された表現が続きます。このように、かなり強い語調で、パウロは自らの使徒的な権威をもってテモテの立場 を引き上げ、エペソ教会を服従させようとしています。キリスト→パウロ→テモテ→エペソ教会という上下関係が明確に主張されて います。 権威の使いどころ こういう聖書箇所を読むと、教会を権威主義的な組織にした方が聖書的なのではと思われるかもしれません。けれども、そうでは ありません。エペソ教会は、異なった教えを教える教師たちが好き勝手なことを教えていて、教会が混乱していたことを覚えてくだ さい。そういう事情に対して、パウロは権威をもって臨むのです。つまり、権威というのは、秩序が乱れ、混乱しているところには 役立つもの、必要なものとして聖書は描いています。教会は異端との戦いを強いられています。そういう状況で民主的な方法は弱い のです。世の軍隊も上下関係がはっきりしています。そうでなければ、命を守れないからです。教会の戦いは肉に対するものではあ りませんが、戦いという点では同じです。そういう場合に教会は一つの権威に従うことが求められるのです。 けれども、状況が違えば、教会は驚くほど民主的な組織でした。かしらなるキリストに結びついた有機的な組織として、それぞれ が自主性を発揮して仕えあっていたのです。ですから、教会において権威は「使いどころが大切」です。現代も教会は異端との戦い があります。そういうとき、牧師は権威を発動することをためらってはいけないし、信徒は自分の考えで、どれが正しいのかと迷っ てはなりません。けれども、平常時に牧師が権威をふりかざして、信徒の自由を奪い、何も考えずにただ従いなさいと言う態度で臨 むなら、教会は息苦しく「カルト」化していくでしょう。 教会が、権威を正しく用いることができるように、平常時から祈っておくことが大切です。 C ○ Masayuki Hara 2015
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