先週講壇 一人の人がいた。その名はヨハネである」 (6節) 。 光はここに かつて読まれた聖書の訳に文語訳というものがあ 2015年10月25日 夕礼拝 関伸子副牧師 ヨハネによる福音書1章1~18節 り、そこでは「神より遣わされたる人いでたり」と なっていました。神から遣わされた人が出てきた。 一人の人がいたということではなくて、なぜそこに いたかというと出て来たからである。神から遣わさ Ⅰ.人の心の暗闇を照らす光 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は 神であった。 ・・・万物は言によって成った」 (1~ 3節) 。新約聖書の中にある一つの書物であるヨハ ネによる福音書は、こう言って始まります。 「初め に言があった。 」 「言」と言っても、私たちが普段話 したり、書いたりしている言葉ではありません。神 の言葉、神そのものである言葉です。 旧約聖書の初めに創世記という書物があります。 その創世記 1 章に、 神さまが天地をお造りになる話 が描かれています。何の秩序もない混沌とした闇に 向かって、神さまが「言」で命じることによって、 7日間で天地が造られていきます。ところで、神さ まが最初にお造りになったものは何でしょうか? それは、光です。光と言っても、太陽ではありませ ん。太陽はもう少し後に造られています。この光と は、いったい何だったのでしょうか?それは「希望」 という名の光です。暗い空や部屋の中を照らす光で はなく、人の心の暗闇を照らす光です。創世記を書 いた作者は当時、国を滅ぼされ、土地を奪われ、捕 虜として異国の地に連れて行かれ、絶望という闇の 底に沈んでいたイスラエルの人々に、神さまを信じ て生きる希望という名の光を示そうとしたのです。 今日読んだ聖書の御言葉にも、 「光」という言葉 が繰り返し出て来ました。 「言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝い ている。暗闇は光を理解しなかった。 」 (4~5節) れてひとりのひとがそこに「存在した」というより は、 「現れてきた」のです。そして、その名はヨハ ネです。 「彼は光ではなく、光について証しをするために 来た。 」 (8節) 「わたしの後から来られる方は、わ たしより優れている。 」 (15節 b)その光があなた を生かす、その光があなたの慰めになるのです、と いうことを私たちが身を持って証しをする。証人と いうのは、なくてはならない存在です。しかし、そ の存在が透けて、そこに向こう側にあるものが見え て来る。それが「すべての人が彼によって信じる」 (7節)ということです。この彼というのはヨハネ です。ヨハネは存在そのものがキリストの証人でし た。 「彼によって」と訳されている言葉は、英語で しばしば through「通り抜ける」という意味の前 置詞で訳されます。彼を通り抜けるのです。通り抜 けて向こう側の光が見えてくる。目には見えないけ れども、しかし確かな神の恵みが見えてくる。皆さ んが自分の家族の中に生きているときに、学校で、 職場で生きているときに、皆さんの存在、そのしぐ さ、その言葉を透かして、共にいる人びとに何かが 見える。そういう体験を周りの人がひとりでもする ことができたとき、私たちは証し人として立たされ たのだということが明らかになるのです。 Ⅲ.主イエスは私たちを照らす光 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人 この光は闇を後退させます。ヨハネによる福音書に を照らすのである。 」 (9節)この光と命を持った言 おける暗闇とは、死の世界、神の意志であるいのち が人間になりました。簡単に言えば、神さまが人と に抵抗する世界を意味します。 なって、私たちの世界に来てくださったのです。そ のことを表しているのが、 「言は肉となって、わた Ⅱ.洗礼者ヨハネの登場 ここでヨハネが登場します。 「神から遣わされた したちの間に宿られた」 (14節)という御言葉で す。言が肉となった。神が人となって、この世に来 られた。それがクリスマスの出来事です。そして、 輝きます。人生に、苦しみや悲しみはないに越した 人となってこの世においでくださった神さま、それ ことはありません。苦しみ悲しみのない人生はない がイエス・キリストです。このイエス・キリストが、 でしょう。けれども、その暗闇に射す光があること その教えにより、行いにより、愛によって、すべて を信じて、私たちは自分の人生を歩いて行くことが の人を照らす光となってくださいました。 できるのです。ヨハネはやがて主イエスを指差して 言が肉となる。神が人となって、すべての人を照 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いまし らす光となってくださった。このことを考えながら、 た。29節です。 「神の小羊」 、ラテン語でアグネス・ ふと連想したのが、 〈家政婦のミタ〉というドラマ デイ、あるいはアニュス・デイです。 「世の罪を取 でした。最終回は視聴率40%という数字を残しま り除く神の小羊」 、皆さんがどこかで聞いたことが した。母親の死により崩壊寸前の阿須田家に、三田 ある言葉です。ミサ曲のなかで必ず歌われます。プ という家政婦が派遣されてきた。仕事は全て完璧に ロテスタント教会の礼拝でも、賛美歌となって歌わ こなすが、常に無表情かつ機械的で、さらに命令さ れます。証し人ヨハネの言葉がそのようにして教会 れれば犯罪行為も平然と行う三田に振り回される の言葉になりました。この「世の罪を取り除く神の 阿須田家の人々。しかし、その三田の型破りな行動 小羊」という言葉が繰り返される礼拝の場所は聖餐 により、バラバラだった家族は絆を取り戻していく。 です。この言葉が告げられ、歌われ、指し示すキリ 阿須田家は三田に信頼を置くようになり、一見突飛 ストの恵み、そこに逃げ込み、そこで立たせていた な数々の行動の裏にも、実は愛情や思いやりが秘め だく。そこで立たせていただいて、私たちはこの世 られていたことに気付いた子どもたちは、三田に本 にあってますます透明度を増して、わたしが生きて 当の家族の一員となってほしいと望む。しかし彼女 いるのはわたしによるのではない、わたしの内に生 は、その申し出を素直に受け入れることのできない きておられる主イエス・キリストによるということ 壮絶な過去と大きな心の傷を抱えていた。何と三田 を、存在と言葉とをもって証しすることができるよ は、子どもの頃に川で自分を助けようとした父を失 うになる。いやもうすでに、そのようにされている い、結婚してからは、父親の違う弟に、家に放火さ のです。 れ、最愛の夫と息子を失うという過酷な過去を背負 洗礼者ヨハネのおかげで、弟子は「神の小羊」 っていました。しかも、葬式の場で夫の親から、 「こ (36節)である主イエスに遭うことができました。 れから一生笑わないで」と言われ、その刃を心に受 この出会いは、ヨハネの弟子の生き方を変えました。 け止めて、感情を押し殺して生きているのでした。 この弟子がいのちや光、その対局にある死や闇につ けれども、阿須田家の家族のひたむきな優しさに心 いて語る時、ヨハネは、自分が経験したことについ を動かされ、遂に最終回で微笑む、という話です。 て語っているのです。つまり、ヨハネにとって、イ 神さまが人となられたからこそ、人となって私たち エスはいのちであり光であるのです。その光はここ、 と同じ苦しみ、悲しみ、絶望を味わわれたからこそ、 教会に今も輝いています。ここで私たちは主イエス 私たちは神さまに心を開き、心を通わせ、癒され、 との深い出会いを経験したいと願います。そして、 救われることができる。そのようにしてイエス・キ 私たちもキリストの恵みの証人として涙を流すこ リストは、私たちの苦しみ、悲しみを背負い、私た とを覚えて、手を取りあって証人としての群れを造 ちを照らす光となってくださったのだ。そう思いま っていきたいと、こころから願います。お祈りいた した。 します。 Ⅳ.キリストの恵みを証しする キリストという救いの光は、暗闇の中でこそ光り
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