1C 命令の遵守 2C 主人の財産 1C 主にある成果 2C 「小さなこと」

マタイによる福音書 25 章 15‐23 節 「忠実な、良いしもべ」
1A 僕の身分
1B 主人の召し
1C 命令の遵守
2C 主人の財産
2B 忠実であること
1C 主にある成果
2C 「小さなこと」
2A 主人の帰り
1B 遅く見える時
2B 主に任される大きな事
3B 最後までの競争
本文
マタイによる福音書 25 章を開いてください、今朝は 15 節から 30 節までにある、有名な喩えで
ある「タラントの話」を読みます。今朝は、私たちがカリフォルニアの旅行で参加した、カルバリーチ
ャペルの宣教会議で受けた恵みを分かち合いつつ、本文の説き明かしをしていきたいと思ってい
ます。今年の会議のテーマは、マタイ 25 章 21 節にあるイエス様の言葉でした。「良い、忠実なし
もべだ。」であります。宣教の働きにおける忠実さに焦点を当てていました。
本文の喩えは、イエス様が、ご自分が再び来られる、終わりの日のことを話している中で、話し
ておられます。その前には、思慮深い僕と愚かな僕の話をしており、主人が戻ってきた時に忠実
に食事を与えているのを見られることを願っておられます。イエス様が戻ってこられる時に、ご自
身に従う者たちが忠実に、言いつけられたことをしているかどうか試される、ということです。その
後に、十人の乙女の喩えがあります。ここでは、婚姻において花婿が来る時に、その行列に付い
ていくのですが、灯を用意します。その灯に必要な油を用意した五人の賢い娘がいる一方で、用
意していなかった愚かな娘が五人いて、愚かな娘は油を買っている間に、花婿の家に入ることが
できなかった、という教訓です。聖霊の中に留まり主を待っているかどうかが、問われています。
そしてタラントの喩えです。ここでも、主人が戻ってきた時にどのように評価されるのかが、問わ
れています。その時に試されるのが、主に対する忠実さということです。
1A 僕の身分
1B 主人の召し
私たちは、イエス・キリストの福音を信じることによって、神に仕える生活に入ります。それは、神
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を信じる生活そのものであり、生活の全てについて神に聞き、神から語られたことを行っていく生
活です。そこで、大事な教理、教えがあります。「召し」ということです。「ローマ 8:30 神はあらかじ
め定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与
えになりました。」私たちは信じる時に、神と主イエス・キリストに従うという選択と決断をしました。
けれども、神から見れば、それは「呼んだ」ということに他なりません。神がご自分の家族の中に入
れるために、召し入れたということです。
私たちは自分で選んだ道を歩むというように捉えますが、それも一面ではその通りなのですが、
それよりも、神ご自身が私たちをキリスト者になるべく選んでくださり、召し入れてくださったという
ことのほうが正しいのです。いかがですか、皆さんが、自分がなぜキリストへの信仰を持っている
のか、どのように説明するでしょうか?時に、自分がなぜ信じているのか、不思議にならないこと
はないでしょうか?それは、信じるという行為すら、神の主権の中で行われたことを表しています。
イエス様が弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしが
あなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあ
なたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ 15:16)」
1C 命令の遵守
したがって、私たちの生活は、選ばれて、召されたところの生活です。主体は神であり、主イエ
ス・キリストです。私たちに権利があるのではなく、主人に従う生活に変えられました。キリストは、
初めに私たちに仕えてくださり、ご自分の命を身代金にするほどまで仕えてくださいました。その
へりくだった方が、私たちに軽い頚木を載せて、私たちはこの方から学び、そして仕えるのです。
使徒ペテロは第二の手紙で、「1:10 あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとし
なさい。」と言いました。召されたこと、選ばれたことを確かなものとしていくのが、私たちの生活で
あり人生です。
私たちは、個人的に神に召されただけでなく、キリストの体の一部になるように召されました。し
たがって、教会生活というのも、自分の選びや好みではなく、「神に言われたから」という一つの理
由だけで成り立つものです。宣教会議では、宣教師に対するメッセージであったので、さらに一歩
踏み出て、「主に命じられ、召されて、他国に、他文化の中に入って福音を伝える。」ということが
強調されます。自分がどうこうということではなく、福音を語らざるをえない、しかも世界に出ていっ
て語らざるを得ないという、務めを果たす情熱に突き動かされています。
みなさんの中には、どれだけ「神に言われたから」という意識があるでしょうか?礼拝に集ってい
るのは、神に召されているからという確信があるでしょうか?自分のしている奉仕、兄弟姉妹との
交わり、その他の活動において、どれだけ「神に言われたから」という理由だけで動いているでしょ
うか?自分の信仰の素養に必要だから、という自分の選択や好みを基にしているでしょうか?ま
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た、自分の仕事や家庭、また趣味が中心で、追加として礼拝生活を考えているでしょうか?けれど
も、それでは豊かな霊的生活を楽しむことはできません。主人である神に呼び出されたのだ、とい
う意識と確信に満たされる必要があります。自分はあくまでも僕であり、主に忠実になることが全
てであるという意識が必要なのです。そこに、聖霊の導きがあり、その力を受けることができるの
です。
2C 主人の財産
そこで、14‐15 節を読んでみます。14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、
旅に出て行く人のようです。15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりに
は二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
僕として生きるということは、いかにも窮屈に思えます。けれども、その意識は間違いです。むし
ろ、すべての被造物をご自分の財産としている神ご自身に仕えることは、とても楽であり、恵まれ
ています。ここで、「自分の財産を預け」という言葉が大事です。自分の財産を使って、会社で働く
ということはあり得ませんね。提供される仕事着があります。また、机もあり、その他、会社の提供
するものによって働きます。会社ではなく、例えば兵役だったらどうでしょういか?その命令は絶対
です、けれども自分がすべきことははっきりしており、後はすべて国が提供してくれるのです。
もし、自分が主体で生きていこうとするならば、そのために必要なことも自分自身ですべて用意
しなければいけません。主からの財産ではなく、自分の財産を使って行わなければいけないので
す。これは大変なことです。どのようにして、愛をもって互いに仕えることができるでしょうか?自分
の能力や性格の強さは、罪人の集まりという現実の前に打ち砕かれてしまいます。自分の優しさ
や寛容がいかにちっぽけなもので、また自分がいかに醜い存在であるかを見せつけられます。人
間の愛が枯渇する時に、初めて神の愛が聖霊によって心に注がれます。
そして、「おのおの」という言葉も大事ですね。それぞれが、神から自分に与えられた行程があり
ます。他の人が何をしているかということではなく、他の人に合わせているのではなく、主が自分
い語られたことがはっきりしいて、それを行なうことに集中するのです。そして、それぞれが五タラ
ント、二タラント、一タラントというように、異なる賜物が与えられています。聖霊は、それぞれ異な
る賜物を私たちに与えておられます。賜物また能力という言葉を聞くと、「いかに自分が用いられ
るか」という、自分の可能性を考えてしまいます。いいえ、もう一度いいますが、その能力そのもの
も聖霊なる神が授けてくださるものです。すべて「借り物」なのです。
それから、「旅に出かけた。」とあります。これは、イエス様が天に昇られて、神の右の座に着い
ておられることを示しています。戻ってくるまでは、「もうひとりの助け主」であられる聖霊を、父なる
神と共に遣わしてくださいます。それまでは、イエス様を目にすることはありません。聖霊によって
イエス様は私たちと共におられるのですが、けれども終わりの日に顔と顔を合わせて会うまでは、
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この方を肉眼で見ることはできないのです。
ここで大切なのは、「信仰」です。信仰と希望と愛は、いつまでも残りますが、信じるというのは難
しいことです。私たちは、終わりまではっきりと見ることができれば、どれほど楽なことでしょうか?
もっぱら、神が言われたことを信じて、また神が良い方であることを信じて、人生の中で立ちはだ
かる障害物に対して、耐え忍んで待つのです。しばしば、私たちは信仰生活を占いとさほど変わら
ないように考えてしまいます。こうした徴がなければ、私は前に進まないと決めてしまっているので
す。信仰は、目に見えないからこそ、徴と呼ばれるものがないからこそ、発揮されるものです。主
が、こちらに行きなさいという語りかけや、印は確かに与えてくださいますが、その後どうなるかは
ただ信じるだけなのです。
今回の宣教会議で、世界の地域毎に集まる時間がありました。私はもちろん、アジアのところに
行きました。八十人ぐらいいたでしょうか、そのほとんどがアジアの各地で何らかの働きをしていま
す。私は思いました、「もし信仰がなければ、これ、気違い集団だ」と。思えば、私が初めて教会に
行った時は、英会話教室だったのですが、そこでアメリカ人の白人の宣教師が教えていました。そ
の時の私は、彼のことを見下しましたが、後でクリスチャンになって不思議になりました。「どうして、
住みにくい外国の地にわざわざやってきたのか。アメリカにいたらよほど楽だったのに。」純粋に、
主の福音を伝えるために、ただ神を信じて来たのです。まだ見えないものを、見ているかのように
して動いている人々の姿は、麗しいです。
2B 忠実であること
16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。17 同様
に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。18 ところが、一タラント預かった者は、出
て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰
って来て、彼らと清算をした。20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言
った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもう
けました。』21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物
に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』22
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二
タラントもうけました。』23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、
わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んで
くれ。』
1C 主にある成果
戻ってきた主人は、ここで五タラントもうけた者にも、二タラントもうけた者にも、等しく「よくやった。
良い忠実なしもべだ。」とほめておられます。その成果は、五タラントと二タラントという違いはある
のですが、元々がそれぞれ五タラント、二タラントと異なっていたのですから、主人としてはどちら
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も同じような成果をあげています。
使徒パウロは、「1コリント 4:1-2 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管
理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」と言いました。
私たちは、主から任された者を管理する管理者です。管理者に必要なのは、自分で何かを生み出
すことではなく、いかに任されたことを忠実に成し遂げるかということです。主に命じられて、任され
たことをしっかりと行い、耐え忍び、最後まで走ることが私たちに問われています。
つまり、結果に責任を負っていません。主から命じられたことを行っていること、神のみこころを
行なうことが私たちの満足であり、私たちの全てです。私たちは結果や目に見えるものによって、
左右されてしまいます。成果が見られないと、あたかも自分に何か欠けたことがないか、原因はな
にかと探して、自分たちが結果を出さなければいけないと焦るのです。しかし、主は、それはすべ
て神のなさることであるとして、ゆっくりしなさいと命じられるのです。
忠実な神のしもべとして、モーセがいます。彼は、何百万人ものイスラエルの民をエジプトから
連れ出し、エジプト軍を海の中で殺し、無事に約束の地まで導く偉業を成し遂げました、と言いた
いところですが、彼のしたことは何だったのでしょうか?「主が命じられた。それでモーセは行っ
た。」という言い回しが出エジプト記等に何度も出てきます。彼の行なったことと言えば、主の命じ
られたことをそのまま実行することでした。それは、持っていた杖を上に挙げることでした。また、
主から命じられたことを民に告げ知らせることでした。エジプト人からイスラエル人を救おうとして、
自分の手でしたところ、一人も救えずエジプトから逃げた彼が、主から命じられたことだけを行った
時に、それだけの成果を上げることができたのです。ところが、それは主が行われたことです。モ
ーセはしもべとして主から語られたことのみを行っていましたが、それらの御業はすべて主がもた
らしたものでした。主が自分の僕としての従順と共に働き、主ご自身が事を成し遂げてくださるの
です。
これが僕の姿です。モーセに必要だったのは、「信仰と従順」でした。主から命じられることは、
理解できるものではありませんでした。誰が、杖を上げたら海が分かれることを理解できるでしょう
か?自分に悟りに頼らず、力を尽くして主なる神を信頼するのです。そして、命じられたことを問い
質して反発するのではなく、ただ、「あなたが言われることですから。」ということで受け入れ、その
まま行います。これだけだったのです。ですから、僕に必要なものはもう一つ、「へりくだり」です。
「命じられたことだけを行っているだけです」とする、へりくだりが必要でした。ですから、自ずと主
に用いられる人は、自分にその功績を持って行きません。なぜなら、行なっているのは自分では
ないことを、本人がよく知っているからです。すべてが、神の恵みによることを知っているからです。
使徒パウロがこう言いました。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私
に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。
しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(1コリント 15:10)」
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2C 「小さなこと」
そして、主人はしもべに、「あなたは、わずかな物に忠実だったから」と言っています。小さな事に
忠実であることを強調しています。主はいつも、小さな事から私たちに取り組むようにさせます。五
千人の給食の奇蹟において、「あなた方の中から用意しなさい」と命じられて、アンデレが連れて
きた少年が、五つのパンと二匹の魚がそうでありました。また、預言者エリヤが、パンの粉と油が
もうなくなり、これで死んでしまうという寡とその息子に対して、「それでパンを作り、私に持ってきな
さい。」と言いました。そこから、パンの粉も、油もつぼから尽きることがなかったのです。小さなこ
とを、主は大きくしてくださいます。
宣教会議であるスピーカーが、尋ねました。「宣教師としての支援金は、誰かがたくさん捧げると
いうことはありますか?」誰も手を上げません。これは、統計的にそうだと思いますが、宣教の働き
の支援金は、裕福な人が多額の金額を出すことによってではなく、少額であっても捧げる忠実な
人がいるので、それで成り立っています。いつの間にか、主が必要を備えてくださるのです。
私たちは目に見えること、人目に付くことをしようとします。そして、それが気になります。けれど
も、イエス様がいつも目に留めておられるのは、小さな事柄に対して、信仰を働かせ、愛によって
行うその忠実さです。イエス様は、貧しいやもめが、生活費をすべて叩いて捧げた献金のほうが、
あり余った中から捧げる大金よりも、はるかに価値があると認められました。
イエス様の生涯そのものが、小さな事でした。この方は宇宙を造られた神の独り子です。けれど
も、神はヤコブの家という、力なき弱い家族を増やしてくださり、それを愛し、選ばれました。そして
イエス様は、貧しいユダヤ人家庭の中で生まれ、ガリラヤ地方という田舎で活動されました。確か
にたくさんの人が、各地からイエス様のところに来ましたが、イエス様のところに残ったのは、復活
して昇天された後は、屋上の前に百二十人の弟子が祈っていただけでした。もちろん各地に信じ
ていた人たちはいたでしょうが、それでも大能の神の御子は、百二十人という弟子たちの祈りから、
聖霊を注がれたのです。
けれども、人の評価ではなく、主ご自身の評価を私たちは気にします。ある宣教師の方が、先ほ
ど引用したコリント第一 4 章を読んでくださいました。4 章 1‐2 節を先ほど読みましたが、その続
き、3 節から 5 節までを読みます。「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およ
そ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえ
しません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのでは
ありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、
先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはか
りごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」評価はもっぱら、
主から来ます。その間、他の人々の評価や判定が来ます。けれども、パウロのように、忠実な管
理人はそのことは非常に小さなこととしているのです。けれども、私たちは自分自身に対して、ま
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た他の人のことについて、早まった判定をしてしまいがちです。けれども、主が再臨の時に判定し
てくださるのです。
2A 主人の帰り
1B 遅く見える時
さて、19 節には「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て」とあります。主人が帰
ってくるのは遅いと感じていたのだろうと思います。けれども、耐え忍んで待っていました。私たち
も同じように、主の時が来るのは遅いのではないか、と感じる時があります。私たちはすぐにでも
結果を見たいと願います。けれども、耐え忍んで待てと主は言われます。「ハバクク 2:3 もしおそく
なっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」
2B 主に任される大きな事
そして、主人は僕に、「たくさんの物を任せよう」と言ってくれました。主に忠実な者は、その小さ
な事柄に忠実である者は、その影響力を増し加えてくださいます。初めは小さいと思われるもので
あっても、主に語られている、命じられているという理由だけで留まっているならば、主がそれを大
きくしてくださり、多くのものを治めるようになります。これが、奉仕の姿です。今、与えられていると
ころで主に仕えてください。そして、何か大きなものがあると思っても、自分がどこに召されている
かを確かめてください。そこから離れないでください。成果が見えないかもしれません。不毛に感じ
る時さえあるでしょう。けれども、主が次に「こちらに行きなさい」と言われるまで、拙速に動かない
でください。主が増やしてくださり、大きくしてくださり、たくさんのものを任せてくださいます。
3B 最後までの競争
私たちの焦点は、この主が戻って来られること、この最後の時まで走ることです。初めは走って
いても、途中でやめてしまえば、走った意味がありません。最後まで、というのが大事です。主が
戻ってこられて、私たちを引き取る時が近づいています。その最後まで走ります。途中で疲れて、
あきらめたくなるでしょう。信仰というのは、持久戦です。だからこそ、互いに励まし合い、勧めて、
愛と善行を促すようにしなさいと、ヘブル書 10 章で進められているのです。また、励ましの源であ
られる聖霊に満たされるのです。
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