本誌掲載分(冒頭のみ)〔PDF版〕

「国 体 」 と 昭 和 維 新 運 動
――北一輝を巡つて
二・二六事件の首魁?
昭和十一 (一九三六)年二月二十六日未明、陸軍の
一部青年将校が部下を率ゐて首相官邸などを襲撃し、
本稿は十二月二十日に開催された〈国体学講座・
むねのり
近代日本の政治思想――その国体論を中心に⑧〉
の講義録に加筆したものです
かね こ
金子 宗德
里見日本文化学研究所主任研究員
た。しかし、陸軍内部には「皇軍相討つ」ことに対す
る抵抗感があつたやうで、事態収拾を目指して様々な
努力が続けられた。
二十八日早朝、青年将校らに対して原隊復帰の奉勅
命令が下る。自決を覚悟した青年将校らは勅使の差遣
を嘆願し奉るも、昭和天皇は許し給はなかつた。
る。三月四日、東京陸軍軍法会議の設置に関する緊急
二十九日早朝には鎮圧部隊に対して攻撃命令が下
る。 こ こ に 至 り、 青 年 将 校 た ち は 抵 抗 を 断 念 し て 縛
常の軍法会議と異なり、審理は非公開であるばかりか
重臣を殺害。維新の断行を昭和天皇に奏請するも、青
は、新内閣の樹立を許さなかつた。
弁護人すら付かない。判決が不服だつたとしても上訴
に つ く。 陸 軍 上 層 部 は、 青 年 将 校 を 徹 底 的 に 弾 圧 す
昭和天皇の強い御意思を受け、参謀本部は討伐の準
備を進める。二十七日未明、戒厳令に基づいて行政権
年将校のクーデターを許し難き叛乱と断じた昭和天皇
や警察権の一部を陸軍に移行する緊急勅令が発せられ
きを図つたのである。
北辺の孤島に生まれて
勅令が発せられた。この特設軍法会議においては、通
することはできず、検察官と裁判官を同一人物が兼任
したケースさへあつた。七月五日、中核たる青年将校
二十三名中十六名に死刑判決が下り、わづか一週間後
確かに、クーデターに参加した青年将校は国家改造
を目指してゐた。けれども、
『国家改造法案大綱』の
月十九日に銃殺された。
十二 (一九三七)年八月十四日に死刑判決を受け、八
が始まる。事件の首魁と位置づけられた一輝は、昭和
間人に対する裁判も行はれた。十月一日、一輝の裁判
軍法会議の対象は原則として軍人および軍属や俘虜
に限られてゐるが、この特設軍法会議では北一輝ら民
民 叢 書 」 を 通 じ て 社 会 問 題 に も 関 心 を 持 つ が、 眼 病
愛読すると同時に、徳富蘇峰が創設した民友社の「平
に進学する。与謝野鉄幹が創刊した文芸誌『明星』を
明治二十一 (一八八七)年、近所の湊小学校に入学。
成績は優秀だつたといふが、眼病を発症して休学。加
人望が厚かつた。
営む有数の資産家であり、慶太郎は町長を務めるなど
リク夫妻の長男として生まれた。北家は酒造業などを
の十二日に大半が銃殺される。
直接的影響を受けた者は一部に過ぎない。また、クー
一輝の本名は輝次。輝次は明治十六 (一八八三)年
四月三日、新潟県佐渡郡湊町 (現・佐渡市)で北慶太郎・
デター計画の存在は側近の西田税を通じて聞かされて
の再発により右目を失明。明治三十三 (一九〇〇)年
茂高等小学校を経て佐渡中学に入学して飛び級で三年
ゐたものの、その立案に一輝は関与してゐなかつた。
り、反統制派といふ点で皇道派と青年将校は結びつい
国家改造の手法を巡る統制派と青年将校との対立であ
制派と真崎らを中心とする皇道派の対立、もう一つは
奪に明け暮れてゐる、と揶揄した一文が物議を醸した
抗してゐた闘士が今や政党人としてポストや利権の争
発表し始める。かつて自由民権を訴へて藩閥政府に抵
けれども、輝次は逆境に屈することなく、父の友人
であつた森知幾が主筆を務める「佐渡新聞」に文章を
十一月には佐渡中学を退学する。
てゐた。けれども、陸軍上層部は自らの襟を正すこと
こともあつた。
そも〳〵、二・二六事件は陸軍内部における二重の
対立を背景とする。一つは永田鉄山らを中心とする統
なく、在野の政治活動家に過ぎぬ北に罪を着せて幕引
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【国体文化】平成 27 年 3 月号
3 「国体」と昭和維新運動
北 一輝
連載を開始する。その書き出しは、以下の通り挑発的
輝次は六月二十五日から「佐渡新聞」に「国民対皇
室の歴史的考察(所謂国体論の打破)」といふ論考の
に置かれたが、彼の関心は家業より政論にあつた。
長となつた輝次は母や二人の弟を養はねばならぬ立場
明治三十六 (一九〇三)年五月、父が病死する。父
の生前から北家の経済状況は悪化してをり、新しく家
子』なりき」と忠君愛国史観を揶揄する。
どの専横振りを記し、「吾人の祖先は渾べて『乱臣』
『賊
も主権者とは云ひ難いと指摘。さらに、蘇我氏・藤原
方里の地に於いて尊崇されていたことは確かだとして
その上で、大化改革に至るまでの日本国は厳密に云
へば「国家」と称するに値せず、皇室にしても近畿数
に殆ど神聖視さる。
どに掲載され、輝次に大きな影響を与へた。その後、
明治三十四 (一九〇一)年五月、本邦初の社会主義
政党として社会民主党が結成される。同党は僅か二日
帝国主義と社会主義との結合
氏・平氏・源氏・北条氏・足利氏・豊臣氏・徳川氏な
なものだつた。
けれども、この連載は不敬であるとして僅か二回で
打ち切りとなつた。
克く忠に億兆心を一にして万世一系の皇統を戴
く、是れ国体の精華なりといひ、教育の淵源の存
無分別なるは日本国民かな、其の歴史の如何に
光栄ある事実を以て綴られたるかを知らず、其の
同党の旧関係者が平民社を結成して「週刊平民新聞」
する所なりといふ。而して実に国体論なる名の下
祖先の如何に大いなる足跡を残したるかを顧み
を創刊すると、輝次は何十部も購入して知友に配布し
間で結社禁止処分となつたが、宣言書は「万朝報」な
ず、却て奇怪にも国体論の如き妄想を画く。……
十 月 二 十 七 日 ~ 十 一 月 八 日 )に 連 載 さ れ た「 咄、 非 戦
まりつつあつた。輝次は、
「佐渡新聞」(明治三十六年
の独立を犯し、信仰の自由を縛る所以の者……
極めたる国体論といふ妄想の横はりて以て、学問
見る。即ち茲にいふ国体論是れなり、迷妄虚偽を
帝国主義の理念を確立するため、輝次郎は早稲田大学
した。既成の国体論を破折し、彼の信ずる社会主義=
明治三十六 (一九〇三)年十月に名を輝次郎に改め、
日露戦争開戦後の明治三十七 (一九〇四)年夏に上京
ある。時あたかも、朝鮮・満洲を巡る日露の対立が深
な国家なしに社会主義の実現は不可能に思へたからで
しかしながら、軍備撤廃論に関しては輝次の受け入
れるところとならなかつた。輝次にしてみれば、強大
たといふ。
論を云ふ者」
の中で社会主義と帝国主義の結合を説き、
さはれ能ふだけの範囲に於ては固より沈黙すべ
きにあらず。否、吾人は黙すべからざる者あるを
日露開戦を訴へる。
の講義を聴講する傍ら、図書館に通つて猛勉強する。
明治三十九 (一九〇六)年五月、その成果を『国体
論及び純正社会主義』と題する千頁の大著として世に
『国体論及び純正社会主義』
以て国民の正義を蹂躙す、社会主義の敵なる所以
問うた。
……社会主義は『国民』の正義の主張なり。帝
国主義は『国家』の正義の主張なり。経済的諸侯
なり。而も其の経済的諸侯の侵入に対して国家の
その諸言に曰く。
の貪欲なる帝国主義は、労働過多と生産過多とを
正義を主張する帝国主義なくば、国民の正義を主
ず。世界併呑の野蛮なる夢想に対して、満韓に膨
らず、皇帝や政治家の名利より出づる外征にあら
し。日露の開戦は経済的諸侯の貪欲なる外侵にあ
国民の正義を主張する社会主義は夢想に止まるべ
に対して国家の正義を主張する帝国主義なくば、
の敵なる所以なり。而も其の帝国や政治家の侵略
益の殺人とを以て国民の正義を蹂躙す、社会主義
家の名利より出づる帝国主義は、無益の租税と無
り。
識の上に社会民主々義を樹立せんとしたることな
法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知
諸 科 学、 即 ち 経 済 学、 倫 理 学、 社 会 学、 歴 史 学、
るは論なしと雖も、僭越の努力は、凡ての社会的
少なる著者の斯ることの任務に堪ふるものに非ざ
ず、誠に渾べてに渉る統一的頭脳なり。固より微
科的研究に非らず、材料の羅列事実の豊富に非ら
現代に最も待望せられつゝあるものは精細なる分
張する社会主義は夢想に止まるべし。皇帝や政治
張せる国民の正義を、国家の正義に於て主張する
者なり。
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【国体文化】平成 27 年 3 月号
5 「国体」と昭和維新運動