校長通信 No. 20 (H28、2.4) 出口の見つからない魂たちに 出口の

新潟県立新潟翠江高等学校
校長通信 No. 20 (H28、2.4)
萩野
俊哉(はぎの・しゅんや)
出口の見つからない魂たちに(
出口の見つからない魂たちに(For the “gemstones”)
“gemstones”)
学生時代に、感じたこと、考えたことや知りたいことを乱雑に書きなぐっていた雑記帳
を久しぶりに開いてみました。その大方は、稚拙でひ弱で未熟な甘っちょろい内容なので
すが、また同時にそこには現在までに失ってしまった新鮮な感受性があって、思わず昔の
自分に微笑んでしまったりもしました。
大学時代に綴ったあるページには私はこんなことを書いていました。
「社会の荒波を大学という温暖な孤島から眺めているだけの我々にとって、空虚とか苦
悩がどれだけのことを意味するものか。その中で、懸命に土を掘ることも狩りをすること
もない我々の感じ得る痛みとは、ただ木の実が上から頭に落ちてきた時のそれに過ぎない
のではないか。我々の歩き回っている世界は限りなく小さい。そして、そこで味わう悲哀
や苦しみも甚だしく小さいものと言わねばならない。涙が枯れるまでの悲しみ、人間の醜
い生態を目の当たりにしたときの空しさ、骨が溶けてしまうような苦しみ、そんなものに
比べたら、我々の悩みなどなんと取るに足らぬものであることか!『空しい』
『つらい』な
どという言葉を使うことを、若者の特権であるかのように誇大に美化するのはよそう。」
その頃の私は、寂寞とした日々を送っていました。人と上手く交わることができずに、
孤独感にさいなまれ、何をする気も湧かない自堕落な生活を送っていました。その頃書い
たものには、自分を形容して、「妥協の醜さ」「自己欺瞞」「寛容心の欠如」「卑怯」といっ
た言葉が目立ちます。そんなもやもやを払拭し、自分をわざと奮い立たせるために書いた
のが、上の一節であったように記憶しています。事態はそんなにたやすく変わることはあ
りませんでしたが、これを書いたことで随分と気分が楽になったことを思い出します(そ
れも結局は「甘え」の表出であったのかもしれませんが)。
若い心は傷つきやすく脆いものです。ちょっとしたことで落ち込んだり意欲を失ってし
まうことがよくあります。必要以上に自意識が強くなり、人の目が気になり、一挙手一投
足がぎこちなくなり、その結果自分の殻に閉じこもってしまいます。一旦それに引きこも
ると、それを打ち砕くのは容易ではありません。ますます閉塞感や孤独感がつのり、意識
が混乱してしまいます。
そのような心は出口を求めています。人に言うことができれ
ばそれでいい。しかし、いかに親しい人にでも、それはつらい
ことです。そんな時は、思いのすべてをノートに書きなぐると
よいと思います。それも、自分の中の素晴らしい部分を見つめ
ながら書くのです。自分が世界で一番えらいと思って書く。誰
に見せるためでもない。自分の分身をノートに刻み付けるよう
な気持ちで書きなぐるのです。
それは、後になって読み返してみたとき、自分の醜さではな
く純粋さを発見させてくれます。対人関係で悩み、空虚感にや
るせない思いをしたことが、決して無駄ではなく、何らかの形
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で自分の人格の大切な部分を形成していることに気付くことができます。作詞家である阿
木耀子氏は次のように言っています。
「長い間自分を閉ざしてきたことも、マイナスばかり
じゃなかったんだと思えるんです。厚い殻の中で自分を守りながら、何かをゆっくり育て
てきたのかもしれない。長いこと蓄積してきた願いが、いつか宝石に変わるように。」
今日の一言
すべての山に登りなさい 道を探りながら
どんな脇道も試してごらん
すべての山に登りなさい
谷川を渡って 虹を追っていけば
夢はきっと見つかる
(ミュージカル The Sound of Music より)
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