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新潟県立新潟翠江高等学校
校長通信 No. 20 (H28、1.21)
萩野
俊哉(はぎの・しゅんや)
ぶち当たれ!(Go for it!)
君たちは野球が好きですか?最近はサッカーブームで、サッ
カーをする少年少女がとても増えてきましたが、昔は、という
か、少なくとも私が「少年」だった頃(1960 年代~70 年代前
半)は、こどもたち、特に少年たちのするスポーツといえば「野
球」に決まっていました。
小学校の時は、授業が終わると家にすっ飛んで帰ってランド
セルを置いて、グローブを持って学校のグランドや近くの広場
に行きます。すると、特に約束をしているわけではないのに、
必ず何人かは同じようにグローブやバットやボールを持って集まっていました。ある程度
集まったら、早速「グーパー」でチーム分け。即、試合の始まりです。当時はなんといっ
ても、野球のうまいヤツがヒーローでした。女の子にもモテました。野球のうまいヤツは。
さて、ちょっと前置きが長くなりましたが、ところで君たちはあの清原和博選手のこと
を知っていますか。現役は引退しましたが、彼はかつて読売巨人軍で活躍していた頃は、
一流バッターの証といわれる通算2、000本安打を達成しました。
清原選手といえば私たちの世代以上では、彼の高校時代がまことに鮮烈な光を放ってい
ました。大阪・PL学園高校出身。春と夏、合わせて5回甲子園に出場し、優勝2回、準
優勝2回。通算13本のホームランを放ちました。PL 学園時代は、かつて読売巨人軍や大
リーグで頑張っていた桑田真澄投手と「KKコンビ」と呼ばれ、当時の PL 学園高校は、
高校野球史上最強のチームと評されています。
昭和60年(1985年)、彼の意中の球団である読売巨人軍は秋のドラフト会議で、当
の清原選手ではなくチームメイトの桑田選手を一位指名。清原選手との交渉権を獲得した
のはリーグの違う西武ライオンズでした。涙をのんでの西武入り。桑田選手が脚光を浴び
る中、くやしさで唇をかみ締める姿がテレビで印象的でした。しかし、清原選手はその後
発奮しました。入団1年目で打率3割4厘。打ったホームランは31本。見事その年の新
人王をもぎ取ったのです。そして翌年には日本シリーズで巨人を倒して日本一になりまし
た。そのときの様子を私もテレビで見ていましたが、清原選手のうれし涙に私も思わず胸
がジーンと熱くなったことを覚えています。その後、彼は平成8年(1996年)秋にフ
リーエージェント制を利用して巨人軍に移籍。平成14年(2002年)の日本シリーズ
では今度は古巣の西武ライオンズを倒して、巨人軍を日本一へと導きました。
さて、そんな清原選手。前述のように2、000本安打達成という偉業を達成したわけ
ですが、実はすでに彼は2つの日本記録を持っているのです。それは何だと思いますか?
答えは、ひとつは彼が2000個近くの三振を喫していて、
「三振日本一」の記録保持者
であるということです。もうひとつはデッドボール。なんと200個以上ものデッドボー
ルを受けているのです。これはもう何といっても日本一です。
「三振日本一」そして「デッドボールを受けた数日本一」。このことは一体何を物語って
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いるのでしょうか。そうです、何より投げられたボールに立ち向かっていくその気力と迫
力。決して逃げない。勝負していく。その勝負師魂。これですよね。だから清原選手がバ
ッターボックスに立つとあれだけ大きな声援が湧き上がり、そして、何かをやってくれる
というわくわく感を感じさせてくれるのです。この「わくわく感」、それは私が小学生のと
き野球の試合をしていて自分の番が来てバッターボックスに立ったときの気持ちと何だか
よく似ているような気がします。私たちが少年だった時、野球をしていて相手から逃げよ
うとしたり、小細工をしようとしたようなヤツらは自然とみんなからバカにされて、結局
姿を消していきました。そんなもんです。何でも逃げずに挑みかかる。たとえその結果が
「三振」に終わろうと、
「デッドボール」に終わろうと、そんなことはどうでもいいのです。
思いっきりやって、その結果は結果でしょうがない。いいときもあるし、悪い時もある。
悪くったって絶対にクサらない。また相手の投げる全力投球のボールに挑みかかる。それ
しかないんじゃありませんか。
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