島市から十一一キロばかりさかのぼったあたりで、 三篠川が太田;pdf

寵
流
し
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山の家
c 向こうの山裾を流れる河の瀬音、が、静かな夜半などにはそこまで聞えてきた c農
ο
私はそう思った。
迎えにきていた
﹂いつらのために、俺はまだ生きねばならぬ
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子供たちの顔を見たとたん、
央部にあるみすぼらしい田舎駅に降り立ったのは、満十年前のことであった。 駅には子供たちが
私の少年時代の夢を育んでくれた故郷でもある。 私が敗戦に打ちのめされた姿で、部落のほぼ中
た小さい部落であるが、私の一戦後の心と体を休めさせてくれた、忘れられぬ場所である。 そして
夫たちは、 その川の水を引いて、祖先伝来の乏しい田地を守っている。 そこは山と山とに挟まれ
の麓にあった
というのは、そこからコ一篠川に沿って、 さらに一キロばかり上ったあたりの部落の南を隈どる山
島市から十二キロばかりさかのぼったあたりで、コ一篠川が太田川の本流に合流している
私は昨年四月、十年近く住みなれた山の家を出て、広島の町に住むようになった。 太 田 川 を 広
燈
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流
今の家は、太田川が広島市内に入ってからいくつかに分かれ、それぞれの名前を持って流れて
いる、その一つの流れの河口に近い所にある。川幅はもうコ一百メートルにもひろがっている。山
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元来山好きの私ではあるが、海へのあこがれが、
の家を出て、河口から海へのひろがりの見えるあたりに住むようになったので、﹁海の見える町﹂
などと、友への転居通知に書きそえたりした
私の心の奥に全くないわけではなかった。 聞かれた世界への思いが、 わびしい山家の生活の聞に
いつしか萌していたのかも知れない。
二、三年前からと思うが、広島の原爆記念日の夕べ、 川祭と称して、空には花火を打ち上げ、
何千とも知れぬ燈寵が引き潮に乗せて流される燈
川には燈龍を流す行事が持たれるようになった。 昼間市民広場で行われる式典には、なぜか参列
する気になれない自分であ一ったが、夜に入り、
寵流しは、私の心をあたためてくれるものがあった。 昨年はあいにく旅行中だったので、それを
見ることができなかったが、 今年は家にいたので、その晩は引き潮の時刻を見はからって、裏の
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私は暗い河面を前後にかるくゆれ
川土手に出てみた。 すでに燈龍群の先頭のあたりが、 目の前を通りす、ぎようとするところであっ
た。上流を見ると、まさに燈寵の海である。
脚下には、川水がひたひたと音をたてて岸に当たっている
ながら流れてゆく、 赤や黄や青や白や、色とりどりの燈寵のひとつひとつを数えるように目で追
うていた。﹁即身成仏﹂の横に、原爆で命絶えた人の戒名が書かれ、遺族の名がその下にしるされ
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し
籍
燈
てあるのもみえた
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c三つつないだうちの、二つは大きく一つは小さいのもあったが、
なかには、二つの燈寵がつながったままで流れてくるのもあった。これは夫
婦の犠牲者のそれでもあろうか
﹂れは親子づれのものでもあろうか。 独りぼっちのものも、家族づれのものも、それらがみな生一
c
しかし、
一燈を夜の河面にうかベ、非命に朴
原水爆禁止の発言をする権利と
き物のように、暗い海の方へ向かって流れてゆく。 それらをじっと見ているうちに、熱いものが
胸の底からたぎってきた
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毎年一度めぐってくる原爆記念日に、世界の広場へ向かって、
義務が、広島市民にあることはよく分かっている
れた人の一霊をただ黙々として弔う、そういう庶民の心を大事にする人の言説であってはじめて、
その人の発言、が、世界の人々の心を動かすカを持ってくるのではないかと思う。
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(二二一・一
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