Hirakou 第44号 no kaze 平高の風 ( H27.3.12 ) ~ シャルリー・エブドの風刺画 ものの理(ことわり)を考え、正義を考えよ 島根県立平田高等学校 校長 長野 博 ~ 今年 1 月 7 日、風刺画の週刊誌で有名なフランスのシャルリー・エブド本社が武装したイスラム 過激派により襲撃され、12 人が殺害されるという事件が起きた。世界中の多くのメディアは表現の 自由への攻撃としてイスラム過激派を非難した。多くの国もこれに同調し、日本政府も「言論の自 由、報道の自由に対するテロを断じて許さない」と襲撃事件を非難するコメントを発表した。フラ ンスでは数万人の規模で犠牲者を追悼する行進が行われ、ドイツのメルケル首相をはじめ、40 人を 超える各国首脳が参加した。そして、1 月 14 日、シャルリー・エブドはムハンマドの風刺画を表紙 に掲載した特別号を発行した。・・・何のために敢えて掲載したのか。 翌 15 日、ローマ法王は襲撃事件を強く非難しながらも、「あらゆる宗教に尊厳があり、何事にも 限度というものがある。」と指摘して、他人の信仰について挑発したり、侮辱したり、嘲笑してはい けないと訴えた。16 日には、事件後もシャルリー・エブドが預言者の風刺画を掲載したことに対し て各地で抗議デモが発生した。 その後、1 月末から 2 月にかけての邦人人質事件により、人々の目は「イスラム国」の蛮行に向 けられるようになり、シャルリー・エブドの風刺画掲載に関する報道は急減した。風刺画掲載につ いては様々な意見があり新聞社も対応が分かれたようだが、各社が意見を戦わすことはなかったし、 突っ込んで議論するような特集も私の見聞きする範囲では無かったように思う。 「表現の自由」や「言論の自由」は基本的人権の中の大きな柱であり、当然保障されるべきもの である。しかし、これらは本質的に国家権力からの自由であり、相手を侮蔑するような言論や表現 まで許される訳ではないはずだ、相手にだって人権はある。もちろん問題解決のために暴力を利用 することは許されることではない。 イスラム教では偶像崇拝は禁止されている。私の聞いた限りでは、預言者を描くこと自体が許さ れていない。そうであれば、今回の問題は「どのように表現するか」というレベルではないのでは ないか。風刺画であろうと肖像画であろうと、描くこと自体が許されないということだ。風刺画を 掲載することにより議論を巻き起こすという意見もあるようだが、そうであれば方法が間違ってい ると思うが諸君はどう考えるだろうか。 ところで、人質事件後に、日本国内にあるイスラム教モスクへの電話など、イスラム教徒への嫌 がらせがあったとも報道された。 「イスラム国」とイスラム教は別の次元として捉えるべきであるが、 残念なことだ、成熟した国の国民のすることでは無い。感情的に反感を抱くことは、我々には良く あることで、私も先入観を持って相手を見ることは多くある。しかし、その後のいくらかの時間と 熟慮が先入観を取り払ってくれたり、直情的な行動を抑えてくれる。 さて、私は生徒諸君に何度も「ものの理(ことわり)を考え、正義を考えよ」と言ってきた。そ して、卒業式の式辞でも次のように述べた。昨年度も今年度も、この部分は全く同じだ。 幼い頃、我々は世の中に正義は一つしかないかのように思ってきたし、あるいは教えられてきた。 しかし、実際には、ある人の正義と別の人の正義が違うことが多くある。民族、宗教、文化の違う 国家間では価値観が違うのは当然だろうし、企業と企業、人と人の間でも同様だ。 「自由」や「権利」について議論をすると、つい何事にも優先するかのように思ってしまいがち だ。しかし、自由を訴え、権利を主張するとき、今一度立ち止まって考える姿勢が時には必要だと いうことは認識しておきたい。 そう言えば 30 年近く前、あるお笑いタレントが写真週刊誌側の度を超えた取材等に抗議し、仲間 とともに出版社を襲撃した事件があった。この時も「言論・出版の自由」が議論されたはずだ。シ ャルリー・エブド襲撃事件とは次元が違うが、あの時はどんな整理がなされたのか、今となっては 興味がある。
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