中 島 葵

数奇な血統の女優
Aoi Nakajima
中島 葵
俳優
一九九一年五月十六日没(四十五歳)、子宮頸がん
中島葵は女優。日大芸術学部を中退して、一九六六年、二十歳で文学
/
」
で活動した。
(現「劇団黒テント」
)
座の研究生となった。三年後に劇団員に昇格したが七〇年に退団、七二
年からは「演劇センター
曜ワイド劇場」
「火曜サスペンス」など単発作品の、おもに脇役を演じた。
に嫉妬する石田の妻で料亭のおかみの役が記憶に残る。テレビでは「土
渚監督)
で、 主 人 公 の 石 田 吉 蔵(藤竜也)
が 溺 れ た 相 手、 阿 部 定(松田英子)
なった。七四年には滋賀銀行OLの横領事件を扱った『OL日記 濡れ
た札束』など十三本に出演した。ほかに『愛のコリーダ』
(七六年、大島
その後映画出演に軸足を移し、七三年、日活ロマンポルノの主演者と
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中島 葵
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〈祇園山から二本木みれば 金はなかしま 家も質
「しののめのストライキ」は一九〇
〇(明治三十三)
年頃のはやり歌である。
日清日露戦間期は日本の産業革命が
本格化した時代で、物価上昇をともな
った好景気から、都会では工場を中心
に著しい人手不足となった。労働力の
流動性を背景に、身分差別と低賃金と
いうそれまでの労働慣行に集団で抵抗
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しののめのストライキ さりとはつらいね
おっ
てなこと仰しゃいましたかね〉
『OL 日記 濡れた札束』より.
しり うち
する機運が生じ、一八九七年には「同盟罷業」ではなく「ストライキ」
という言葉が早くも定着した。
有 名 な の は 日 本 鉄 道( の ち の 国 鉄 東 北 本 線 )
の ス ト ラ イ キ で あ る。 尻 内
、青森、盛岡、一ノ関、福島、宇都宮と各機関庫の機関方(蒸気機
(八戸)
関車の機関士と助士)
が電報で連絡を取りあい、
「キカンコミナヤメタ」と
一 斉 ス ト ラ イ キ を 実 行 し た。 そ の 結 果、 要 求 の 大 半 は 認 め ら れ、 以 後
「労働者」は無視できない社会的勢力となった。
ストライキの波は遊郭にもおよんで、娼妓の「自由廃業」が続発した。
「しののめのストライキ」の「しののめ」は熊本二本木遊廓の最大の妓楼
「しののめ楼」のことで、七十余名いた娼妓がこの時期つぎつぎ廃業、つ
いに二十名を割って火の消えたようなありさまになったことを皮肉った歌
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中島 葵
である。楼主の名が中島茂七であったので、
「 金 はな か し ま 」
「家も質」
と織りこんだ。
この中島茂七が中島葵の曽祖父である。現在の宝塚音楽学校を卒業し
て梅香ふみ子を名のった茂七の孫娘は、第二次大戦末期に映画俳優の森
雅之と恋愛、終戦直後の四五年九月に出産した女の子が中島葵であった。
森雅之は本名有島行光、一九一一年、作家有島武郎の長男として生ま
れた。父の有島武郎、陸軍大将・男爵神尾光臣の娘であった母安子、と
もに美貌で、行光、敏行、行三、有島家の年子の三兄弟はみなそれを受
け継いだ。しかし、母は行光が五歳のとき肺結核で死んだ。父は行光が
十二歳の夏、軽井沢の別荘で中央公論社の有夫の美人編集者波多野秋子
と心中死した。四十五歳であった。
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中島葵にとって有島武郎は
祖父、有島生馬、里見弴は大
叔父ということになるが、葵
が生まれた頃にはすでに森雅
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之と梅香ふみ子の間柄は終っ
ていて、父は娘を認知しなか
った。妻帯者であった森雅之
半以降のことである。そうして吉村公三郎の『安城家の舞踏会』
、黒澤
して文学座結成に参加した森雅之が映画に転じたのは、戦後、三十代後
旧制成城高校時代に学生演劇を始め、三七年、京都帝大文学部を中退
は、四六年、最初の妻と別れ再婚した。
森雅之.
明 の『 羅 生 門 』
『白痴』
、溝口健二の『雨月物語』
、成瀬巳喜男の『あに
いもうと』『浮雲』など、映画史に残る作品に出演した。
中島葵は、しどころある中年女性の役で活躍できる年頃にようやく達
した一九九一年、子宮頸がんで亡くなった。数奇な生まれの女優の人生
は、わずか四十五年であった。彼女は結婚せず母子二人暮らしであった
から、老いた母が残された。森雅之は七三年、直腸がんで死んだ。彼も
また六十二歳と早死にであった。
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