東西冷戦と西側自由貿易体制の確立

平成 27 年 2 月 13 日(金)
国際経営経済論 B 第 3 回
東西冷戦と西側自由貿易体制の確立
1.世界恐慌から第 2 次世界大戦終結までの貿易
イギリスでは 19 世紀初頭、穀物法や航海法によって国内市場を保護するとともに、貿易
による利益が一部の特許会社に独占されていた。しかし経済が発展するのと共に国内市場
の保護は発展を阻害するものとして産業資本家から批判の声が上がった。このため、国内
市場を保護しないという方針は 19 世紀イギリスの基本政策となった。これに倣っていたの
が自由貿易圏諸国(欧州、米国、日本など列強とその植民地)であるが、この様相を一変
したのが、1929 年に始まったニューヨーク株式市場の大暴落による世界恐慌である。こ
の世界恐慌によって景気が急速に悪化した自由貿易諸国は自国の産業を守り、雇用を維持
し、国民生活を守ることが求められるようになった。特に先頭を行っていたイギリスは、
世界中に広大な植民地を有していたことからその影響は大きかった。なお、アメリカは
1930 年にスムート・ホーリー法を制定、保護貿易政策を採用した。
イギリスは世界恐慌後の 1931 年になると金本位制の離脱を行い、さらに 1932 年には
輸入関税法の制定によって事実上の保護貿易を復活させ、ブロック経済化を推し進めるこ
ととなった。この時期、アメリカではニューディール政策が開始され、翌年の 1933 年に
はイギリスに続いてアメリカも金本位制から離脱した。
一方、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツとオーストリアでは、アメリカ資本による
戦後復興を目指していたため、世界恐慌によってアメリカから資本の引き上げにあい、資
金不足によって企業や銀行が次々に倒産した。ただ、このような状況下でアメリカではフ
ーヴァー・モラトリアムが実施され、ドイツ経済を立て直すために一年間戦債や賠償の支
払いを猶予したが、時すでに遅く効果がなかった。このような世界経済の混乱によって、
国家社会主義ドイツ労働党などの台頭が起こり、1939 年に第2次世界大戦が勃発するこ
ととなった。
アメリカでは 1935 年に中立法(中立の立場をとり国際紛争に巻き込まれないようにし
ようという法律)があったが、ドイツにフランスが降伏し、イギリスが孤立すると態度を
変えることとなった。1941 年に武器貸与法が成立、中立の立場をとりながらも武器の援
助を可能とした。そして、アメリカはイギリスなどへの物資支援に乗り出した。
その後、1941 年 12 月 8 日、日本がアメリカの真珠湾を攻撃、アメリカと戦闘状態に
入り、アメリカも第2次世界大戦に参戦することになった。
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2.東西対立と戦後
第2次世界大戦が終結する直前の 1945 年 2 月、ソ連のヤルタにアメリカのルーズベル
ト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンが集まり、主に第2次世界大戦
後の世界について話し合った。これをヤルタ会談というが、ヤルタ会談は、①ヨーロッパ
とドイツを東西に分断し、東側はソ連、西側はアメリカが中心となって支援していくこと、
②ソ連が日本に進軍してアメリカを支援する代わりに、日本の領土の一部(北方領土)を
ソ連の領土にすることをアメリカが認めたこと、③戦後に設立する予定である国際連合に
おいて、常任理事国の五大国に拒否権を与えることを認めたことなど、戦後の国際秩序を
定める重要な内容が決定した。
東西冷戦の象徴、ベルリンの壁
東西冷戦において重要なのは①で、ヒトラーによってボロボロにされたヨーロッパ諸国
の復興を、力を持ったアメリカとソ連が支援することを決めたため、東ヨーロッパとドイ
ツの東半分の東ドイツをソ連が支援したため、東ヨーロッパの国々はソ連によってソ連の
味方の社会主義国になっていった。そして、西ヨーロッパを支援したアメリカとソ連は激
しく対立した。しかし、直接戦争が無かったことから、東西冷戦と言われるようになった。
特にこの対立のポイントとなったのが、西側諸国と東側諸国がお互いをけん制しあうよ
うに、NATO と WTO(Warsaw Treaty Organization)という軍事同盟を結んだことで
ある。
3.西側自由貿易体制の確立
ヤルタ会談に先立って、アメリカは枢軸国の敗戦が濃厚となった 1944 年に、戦後の新
たな国際秩序構築のため戦後体制について話し合う会議が行われた。この中でも戦後の金
融体制を確立する重要な会議となったのがブレトン・ウッズで、そこで締結された協定を
ブレトン・ウッズ協定という。この協定では経済安定のために国際通貨基金(IMF)及び国
際復興開発銀行(IBRD)の設立が盛り込まれた。なお、国際復興開発銀行は現在一般的に
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世界銀行と呼ばれている。また、国際貿易機構を設けることとされ,そのための ITO 憲章
(International Trade Organization Charter)と、関税と貿易に関する部分の抜粋と各
国の関税譲許表を併せた GATT が策定された。このうち GATT は 1947 年採択、翌年 1
月に発効したが、ITO 憲章は発効に到らなかった。GATT は輸出入制限の廃止、関税の軽
減,無差別待遇の確保を基本原則として、自由貿易の維持強化を図ろうとするものである。
戦前の 2 国間相互関税引き下げと異なり、GATT 関税引き下げ交渉においては、2 国間の
引き下げの結果を無差別に他の加盟国に及ぼすことが特徴であった。
これはアメリカを中心とした先に述べた西側諸国の戦後体制であり、この体制の確立に
よって、第2次世界大戦後、西側諸国は大きな発展をしていった。
ブレトン・ウッズでの会議風景
国際通貨基金(IMF)
・現在
国際復興開発銀行(IBRD)(世界銀行)
・現在
この戦後体制を揺るがしたのが 1971 年にニクソン大統領が行った宣言であり、ブレト
ン・ウッズ協定により固定比率であったドル紙幣と金との兌換停止を宣言し(ニクソン・
ショック)
、世界に衝撃を与えたものである。
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アメリカ・ニクソン大統領
東西冷戦構造の中で世界が安定的平和を実現したかと思われたこの時代、ニクソン・シ
ョックによって西側諸国に動揺が走った。さらにアメリカを中心としたモータリゼーショ
ンのさらなる発展や、石炭から石油へのエネルギー革命などにより、化石燃料の増産、環
境破壊の進行によって、将来的に人類は発展できなくなるのではないかと危惧する人々が
現れた。特に有名になったのがレイチェル・カーソンの沈黙の春とローマクラブ(イタリ
ア・オリベッティ社会長だったアウレリオ・ペッチェイとイギリスの科学者で政策アドバ
イザーでもあったアレクサンダー・キングが設立した民間のシンクタンク)が 1972 年に
発表した成長の限界である。ニクソン・ショック後の 1973 年と 1979 年にオイルショッ
ク起こった。
その後、GATT ではウルグアイ・ラウンド(1986 年-1995 年)交渉が行われた。こ
の交渉では、サービス貿易や知的所有権の扱い方、農産物の自由化などについて交渉が行
われた。中でも農業分野交渉が難航し、将来的に全ての農産物を関税化に移行させること、
最低輸入機会(ミニマム・アクセス)を決定するにとどまり、完全な自由化には至らなか
った。また、この交渉によって GATT を改組して世界貿易機関(WTO)を設立することが決
定された。この世界貿易機関を設立する協定がマラケシュ協定(WTO 設立協定)であるが、
マラケシュ協定に基づいて 1995 年 1 月 1 日に GATT を発展解消させて WTO が成立し
た。
世界貿易機関(WTO)
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WTO は GATT を継承したものであるが、GATT が協定(Agreement)に留まったの
に対し、WTO は機関(Organization)であるという根本的な違いである。そして、①自
由(関税の低減、数量制限の原則禁止)
、②無差別(最恵国待遇、内国民待遇)
、③多角的
通商体制を基本原則とし、物品貿易だけでなく金融、情報通信、知的財産権やサービス貿
易も含めた包括的な国際通商ルールを協議する場となっている。
この WTO の成立により、今日の自由貿易体制が確立していったのである。
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