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狙われたうどん 3
みずき
呆気にとられてぽかんと口を開ける瑞希の背後から、二輪車のエンジン音が唸りながら
近づいてきた。仲間を率いるでもなく一台だけでやってきた二輪車は、車道から駐車場に
乗り上げて、ふたりのそばに停まった。運転していたのは、試食会の手伝いをしていた目
つきの悪い若者、トーヤだった。ヘルメットを脱ぐと短い髪をがしがしと乱暴に掻き、パ
ーカーの襟ぐりを整えた。その後ろには若い女が乗っている。
「やっぱりいいねえ、トーヤさんの運転は」
とっさ
ゆ
か
ころころと笑いながら降りた女は、あの黒いワンピースの女だった。瑞希はびょんと飛
びすさり、咄嗟に夕夏の背中に隠れる。
「ゆ、幽霊!」
「誰が幽霊よ、失礼ね。これでもちゃんと生きてるんだから」
陰気な女が怒ると、トーヤが腹を抱えて笑い出した。
「いや、こいつの言うとおりだよ、マリ。いい加減、黒づくめは卒業しろよ」
もとはし
橋洋食店の死んだ娘だと思っていた女は、生きていた。
訳がわからず混乱した。幽霊、本
その証拠に他の人間と交流できている。夕夏を振り返ると、彼女は子供を叱る大人のよう
に腰に手をあてて黙っていたが、トーヤの笑いが収まったところで一歩前に出た。
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「どこに行ってたの? お父さんの手伝いするって言ってたじゃない、お姉ちゃん」
「何言ってんだ、ちゃんと手伝ったぞ。あの嫌な空気を我慢してさあ……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! お姉さんて? この人、男じゃなかったの?」
瑞希が大声を出して、ようやくふたりはこちらを向いた。夕夏は一、二度目をしばたい
てから、ようやく合点がいったと大きく頷いた。
「――改めて紹介するね、私のお姉ちゃん、山路トーヤ、冬の夜って書いて冬夜。よく男
の人に間違えられるけど、一応女よ」
「一応って何だよ、失礼な妹だな。お前の友達だって充分少年っぽいだろうが」
最後の台詞は瑞希にとって聞き捨てならないが、姉に頭をぐしゃぐしゃと撫でられて、
妹はなんだかんだと嬉しそうだった。
今年十八歳になった山路冬夜は、中学三年生からレディースに入っていた。たいしたき
っかけはないと言うが、元々天邪鬼で荒っぽく、斜に構えた性格の少女が、思春期の盛り、
火に誘われる小さな虫のように不良の世界へ入り、そこに馴染んだようだった。この地域
では暴走族への間口が広く、伝手はいくらでもある。煙草を吸って髪を染め、あてどもな
く夜の街を走り抜け、朝までバイクで駆けた。補導されたことも、父親から殴られたこと
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も何度となくあったそうだ。
ひ
足を洗ったのは昨年、幼馴染みの本橋浅子が車の事故で亡くなったからだった。
「これだけ迷惑をかけといて何だけど、轢いた犯人と自分は同じ穴のムジナだって、今更
気づいてさ。高校にも行かなかったから、今は親父の手伝いをするようにしてる」
きっと瑞希が夕夏の姉と勘違いしていたアサコこそが、本橋浅子なのだろう。しかし彼
女がすぐそばにいたとは決して口にしなかった。冬夜を傷つけてしまうからだ。
「ところで、お姉ちゃんはどうして川瀬さんのうどんだけ美味しくしたの?」
「ああ、
あんたひとりだけ舌がおかしくて、みんな目を丸くしてたよな。あれは笑ったわ」
からかわれて瑞希はむっとした。その時「失礼しちゃうよね、冬夜」と声が聞こえて、
横を見た。いつの間にか浅子が来ていて、なぜか彼女までも唇を尖らせ拗ねたような目つ
きで冬夜をにらみつけている。だが気づいているのは瑞希だけだった。
「とにかく知らないなあ。あたしは何もしてないよ」
「嘘。お姉ちゃんしかいないもの。計画を実行できる人も、こんなこと考える人も」
冬夜は薄い唇の端を持ち上げてにやりと笑い、挑戦的な目つきで妹を促した。
「証拠は?」
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きびす
すると夕夏はくるりと踵を返してテーブルの上のやかんを取り、紙コップに注いでこく
りと飲んだ。やかんはつるりとして、底についたわずかな焦げ目の他は新品同様だった。
「……ああ、美味しい。お姉ちゃんも飲む?」
にっこりと笑う夕夏に、冬夜は降参、といった素振りで両手を挙げた。
「何、どういうこと? 麦茶が何か関係あるの?」
訳がわからずにいると夕夏が自分の飲みかけを渡してきた。中身をひとくち飲み、そし
て吹き出した。しぶきが盛大に散って黒づくめのマリが「ぎゃっ」と飛び退く。
「な、なんだこれ! めんつゆだ!」顎にしたたるべたつくつゆを手のひらで拭う。「そ
れに、これ、間違いなく私が飲んだ美味しい方のやつだ」
夕夏と冬夜は揃ってにやにやと笑っている。
スカートをハンカチで叩いているマリ以外、
(全然似てないと思ったけど、やっぱり姉妹だなこのふたり)
同意を得たくてちらりと横を窺ったが、浅子の幽霊はどこかへ消えてしまっていた。
「やっぱお前をお使いに行かせて正解だった……どうしてわかった?」
「川瀬さんのうどんが熱かったから」
それだけのことでわかったの? 瑞希は口を挟もうとして、ぐっと堪えた。夕夏は落ち
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着いた、しかし真剣な口調で姉に答えている。
だ し
「コンロはふたつしかなく、
どちらもお鍋で埋まっていた。色が薄くてこくのある出汁が、
色が濃くて味気ない出汁の鍋から出たとは考えられない。ということは、まったく違う容
器から注がれたということになるよね。でも火がないにもかかわらず直前まで温められて
いた。だけど、ここにはもうひとつ火力がある」
夕夏は雑然とした配膳台の裏を指さした。駐車場の隅に置かれた小さな石油ストーブ。
先程夕夏と暖を取ったストーブだ。おそらく朝夕は肌寒いからと用意されたものだったの
だろうが、日中は気温があまり下がらなかったので、試食会中ほとんど使われなかった。
石油ストーブは電池と灯油を備えれば点火でき、天板で煮炊きもできる。
「配膳台には他にお鍋はない。でもやかんがふたつある。いつもうちで麦茶を淹れるのに
使っている煤けたやかんと、新品同様のやかん。やかんならストーブにかけていても不自
然じゃないし、誰も中にめんつゆが入っているとは思わない。出汁のにおいが立っても、
すでに本物の出汁のにおいが充満していたから、気づかなかった」
瑞希はあっと思った。夕夏の母親に挨拶をした時、渡された麦茶は、やけどしそうなく
らいに熱かった。コンロは塞がっていたのだから、その時点でストーブに気づけば簡単な
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謎だったのかもしれない。
「うーん」と唸って口をへの字に曲げた。
夕夏の推理に口を挟んだのは、染みを拭い終わったらしい黒づくめのマリだった。
「でもやかんの注ぎ口は結構細いわよ。一杯分を注ぎきる前に、もしこの子がすぐに振り
返ったら? それにやかんって大きいから、隣のお母様が気づくんじゃなくて?」
しかしその突っ込みは想定していたのか、夕夏は特に慌てもせず淡々と答えた。
「だから紙コップを使うんです。参加者は七、八人と少なかったから、配膳直前に紙コッ
プに注いでおけば、冷める心配がなかった。ゆっくり用意できたはずです。そして計画通
りバイクが来て、みんなの気が逸れた隙に一気に紙コップで注いだ」
傍目には麦茶とさほど変わらないから、すぐ隣にいた母親にも父親にも見咎められなか
った。寒さを気遣ってストーブを用意する家族だ、娘が手伝い中に喉の乾きを潤すのを止
めることもなかっただろう。
「正解だ。うちの妹はたいしたもんだろ。でも紙コップにしてよかった、あたしも、あん
たが急に振り返ったから、慌てて麦茶を飲むふりして誤魔化したんだ」
「そういえば、私が会長さんに列の後ろに行かされたのも、計画のためですか?」
「ああ、会長はあたしに全面的に協力してくれたからさ。あんたには他の奴らができるだ
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け近くにいない位置にいてほしかったんだ」
すると夕夏が悔しそうに言った。
「うっかりしてた、そこは見抜けなかったなあ……仲間をどのタイミングで走らせるか指
示を出していたのは、マリさんですよね?」
「ご名答。この子を標的にするのは決まっていたから、近くで見計らっていたのよ」
塀の陰で見かけた時、ぼそぼそと不気味に呟いていたように見えたのは、ただ携帯電話
で仲間と連絡をとっていただけだったのか。瑞希は空を仰ぎ、ふっと溜息をついた。淡い
紺色の空に白い月が浮かび、カラスの群れが飛んでいく。
日が完全に沈んで、気温が一段と下がってきた。手をこすり合わせていると、冬夜がふ
いに真面目な顔つきになって、静かに話しはじめた。
「浅子が生きてた時は、商店街の連中も愛想があったよ。でも死んでからはまるで毎日葬
式だ。あの明るいところしか取り柄がなかったような女が、こんなギスギスした状態を望
んでいたと思うか? そんなわけねえ。だけど不良のあたしが言ったところで、誰も耳を
貸さない。だから会長に頼み込んで、もう一度コンテストに参加する準備にかかろうと決
めたんだ。でも他の連中は誰も乗らなかった。うちの親父なんかわざと不味く作ろうとし
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やがるしな」
何とか逆転の目はないかと考えた冬夜は、マリにインターネットで検索させ、京都に評
判の鮎うどんを出す店があると突き止めると、昔の仲間たちを京都まで走らせた。
「昔から冬夜さんは大胆だからね。それに昔と違って今の族抜けは平穏なものだし、友人
あんぎや
として付き合い続ける人が多いの。特に浅子は同級生だったから、弔い行脚ってわけ」
仲間たちはなるべく大人しい格好をしてバイクを駆り、警察がこない程度の速さを心が
けつつ、高速道路を抜けて京都へやってきた。目的の店で鮎うどんを頼むと、こっそりつ
ゆをジッパー付きのビニール袋に入れて、また持ち帰った。明け方に行われたパレードは
この帰り道の、歓喜の騒音だったらしい。
「楽しかったわあ、密輸してるみたいで」
ぺろりと舌を出すマリに、しゃれにならないよ、と瑞希は内心突っ込んだ。
「あとは夕夏の想像どおりだ。あんたもありがとな、素直に美味しいって言ってくれて」
「でもどうして私の分だけ美味しくしたんですか? なぜこれが逆転の目に?」
「あの状況は、あたしにとっても商店街の連中にとっても、浅子の一番の欠点で可愛いと
ころの再現なんだ。つまり」
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そのまま続けようとした冬夜を、夕夏が制した。
「お姉ちゃん、私に答えさせて。わかったの」
晴れやかだがどこか哀しげな声だ。車道を行くサーチライトが夕夏の瞳を輝かせた。
「ずっと不思議だったの、浅子さんがどうしてうちでうどんを食べてくれないのか。でも
わかった。私の前でだけは食べたくなかったんだ。浅子さんは私のことすごくかわいがっ
てくれたけど、見栄っ張りなところもあった。お姉ちゃんや商店街のみんなは知ってたけ
ど、妹分の私には言いたくなかった。でもやっとわかったよ」
夕夏は息をつき、泣き笑いのような、くしゃくしゃの表情を浮かべた。
「浅子さんたら、味音痴だったんだねえ」
「夕ご飯、食べていけばいいのに」
自転車のスタンドを起こすと、浅子が柳の下からこちらを見ていた。相変わらず明るい
笑顔で、とても死んでいるとは思えない。瑞希は複雑な気持ちで自転車を後退させた。
「外で食べてくるって言ってないから、とりあえず帰らないと。また遊びに来ます」
「……ありがとね、冬夜に話さないでいてくれて」
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少し寂しげに笑う浅子に、瑞希はこくんと頷いた。普通の人は幽霊を信じない。だから
もし本当のことを打ち明けたら、冬夜は瑞希を調子のいい嘘つきだと思うだろうし、浅子
に対する思い出さえも汚してしまいかねない。そう考えて夕夏にも黙っていた。
「いつか、言ってほしくなったら教えてください。まだいるんでしょ?」
幽霊がいつ現れていついなくなるものなのか知らなかった。夏に死んだ曾祖母は十月の
のんき
今も暢気に家にいる。浅子は特に答えず、トタン壁をそっと見上げた。
「懐かしいな。遊びに来ると必ず自転車をここに停めたの。冬夜が不良になっちゃった後
もね、夜中に外階段から潜り込んで愚痴を言い合ったりしたんだ。それにしてもあいつっ
たら、本当に私たちのこと馬鹿にしすぎだよね。味覚なんて三者三様だっつうの」
別に味音痴じゃないんだけど、と反論したかったが、瑞希は我慢した。
今回の件を起こした冬夜の狙いは、商店街の面々の心に浅子を蘇らせることだった。冬
夜は「だめなら全部ぶちまけるつもりだった。でもあんたのおかげで成功した」と笑った
が、瑞希はそれだけではない、と感じていた。
(もし外野の私が美味しいと言わなかったとしても、冬夜さんが自分たちを説得するため
にこんなことをしたと気づいたから、あの鬼瓦さんは動いてくれたんじゃないかなあ)
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瑞希が「美味しい」と言った後、ムラマツは紙コップとやかんを持っていた。やかんは
真新しい方だったのを覚えている。大胆な冬夜らしい、やたらと壮大な計画の果ての結実。
あの時のムラマツの底抜けに明るい笑い声が忘れられなかった。
「ねえ、瑞希ちゃん。これからもしょっちゅうここに自転車を停めてね」
「え?」
「夕夏ちゃんのために。あの子、冬夜がああだったから怖がられちゃって、ずっと友達が
いなかったの。本人は気にしてないって言ってたけどさ」
はっとした。ぎこちなかったり家に誘うだけでお辞儀をしたりしたのは、まだ友達とい
うものに遠慮があるせいかもしれない。瑞希はぐっと拳を握って見せた。
「望むところです。何度だって来ます。夜中だって」
「よかった。期待しているからね」
朗らかに笑って踵を返し、柳の角を曲がった。瑞希が自転車を転がしながらついて行く
と、もう浅子の姿は消えていた。
帰り道、明かりが点った商店街は、来た時よりも少しばかり気安い雰囲気に変わったよ
うに感じた。菊の花が揺れる電信柱の前で一度止まり、手を合わせる。向かいの本橋洋食
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店から穏やかな橙色の光が漏れ、窓越しにムラマツのごま塩頭や会長、商店街の面々が何
か話し合っている姿が見えた。
瑞希は顔をあげてペダルを踏み込み、ぶんぶんと勢いよく漕いで、暮れたばかりの夜の
道を駆けた。途中でハンドルを握る手を回して「パラリラ、パラリラ」と呟き、通りすが
りの若い男女に笑われた。
ひんやりと心地よいキンモクセイの香る風が、追い風となって背中を押した。
後日、夕夏から聞いた話では、商店街企画の新メニューは改めて見直され、京都の焼き
鮎の骨でとった出汁を参考にしつつ、関東風に仕立てて作ることになったという。
「また試食会があったら、来てもらってもいい?」
おずおずと尋ねてくる夕夏に、瑞希は満面の笑みで答えた。もうお辞儀なんてさせない。
「もちろん!」
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