夏 の 灯 籠 た ち 藤 原 平 城 ウ チ ら は 人 間 じ ゃ あ な い け ん ね 、 盆

夏の灯籠たち
ウチらは人間じゃあないけんね、盆灯籠じゃけん――。
祖父の墓参りのために広島を訪れた辰巳。
藤原 平城
《灯籠を買っていくこと》との父の指示に従って市内で灯籠を探し求めるも、あいにく仏具屋
では手に入らない。
途方にくれる辰巳の前に、やがて不思議な装束をまとった二人の少女が現れる――。
キャラクターデザイン
ゆんぴ 様
広島オタクマップ 様
広島を舞台に繰り広げられる、擬人化ファンタジー・ライトノベル。
広島弁指導
夏の灯籠たち
夏の灯籠たち
「えっ、売り切れですか?」
たつみ
藤原 平城
確実を期すべく仏具屋にまで足を運んだ末に、まさかそんな事実を言い渡されようとは思い
もよらなかった。
既にぐっしょりと汗で濡れた辰巳のTシャツに冷や汗が加わる。それでも表向きは動揺を隠
し、コンビニに雑誌でも買いに来たような調子でもう一度尋ねてみる。
と う ろう
「俺、テレビのニュースで見たんですよ。広島では使い捨ての灯籠にロウソクを灯して――」
「――お兄ちゃん、どっから来よったん?」
独特のアクセントを持つ広島弁のメロディアスな響き。五十の坂は越えているであろう仏具
屋の女店主の物腰はどこまでも穏やかではある。しかし広島弁を聞き慣れていない辰巳の耳に
は「ヨソ者の若造にいったい何がわかる?」
とのニュアンスがこめられているように聞こえて、
「ええ? あの、東京……ですけど」
辰巳は一瞬反応が遅れてしまう。
「ほいじゃあ、原爆の日は知っとるん?」
辰巳のイライラがますます募る。だが周囲を気にかけている余裕はない。ジーンズの尻ポケ
ルの空間は殺菌消毒済を思わせる空白地帯となった。
離を置きたがる群集心理は東京も広島も変わりはない。やがて辰巳を中心とする半径二メート
往来の盛んな繁華街で二十世紀の青春映画のセリフを叫ぶ。危険なオーラを発する者から距
「あ――――っ! こん畜生っっっ!」
んな原始的な作業で辰巳の気分がスカッと爽快になるはずもなく、
から汗が噴き出てくる。自らの胸倉を摑んで肌とTシャツの間にぱたぱたと空気を送るも、そ
酷暑と徒労感のダブルパンチ。全身がシャワーと化したように身体じゅうの毛穴という毛穴
れ右をして外に出ると、蒸し風呂と変わらぬ真夏のアーケードの中央で立ち往生してしまった。
仏具屋の店内に似合わぬ大声を張り上げた辰巳は高校球児のように深々と一礼、そのまま回
「し、失礼しましたっ!」
ということは、つまり――
慣習に通じている仏具屋がつまらない嘘で男子高校生を騙す動機と理由がない。
聞き直してから愚問だったと気づく。そもそも商売とは売ってナンボのもの、しかも地元の
「へ? そう……なんですか?」
「流し灯籠いうんは六日の夜に流すもんじゃけえ、今年はもう終わりなんよ」
「八月六日、ですよね?」
藤原
平城
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夏の灯籠たち
1
夏の灯籠たち
ットをまさぐり、汗が滲んで破れかけた再生紙を乱暴に広げる。プリントアウトされた広島市
内の簡単な地図の横には、殴り書きではあるが辰巳の父による筆跡ではっきりとこのように記
されていた。
《市内で灯籠を買っていくこと》
この「灯籠」の文字を見て辰巳が最初に思い浮かべたのは石灯籠だった。ここ広島から遠く
はない宮島の世界遺産、厳島神社の参道沿いに並ぶ「亭」の字に似た一本足のアレである。あ
んなに重たいモノをかついで墓地まで運べという指示でないことは、とりあえず学力フツーを
キープしている男子高校生の辰巳にも容易に読解できる。
そこで辰巳が考えた末に到達した結論が、広島の夏の風物詩として知られる流し灯籠だった
のである。静かに川面に揺れる幻想的な光の群れ。それが辰巳の墓参りとどのような関係があ
るかは依然として謎に包まれてはいる。
だが、
とにかく買えば何とかなるだろうと信じていた。
郷に入っては郷に従えとの言葉どおり、誰かが親切に使い方を教えてくれるに違いないと。
それなのに流し灯籠を売っていないとは。
「あ、の、クソ親父が…………!」
そもそもこんな紙切れ一枚で息子を墓参りの旅に送り出す方がどうかしているのだ。急に仕
唸りながら辰巳は再生紙をぐしゃりと残酷にひねりつぶす。
事が入ったから代わりに行ってくれと父から手渡された一枚の紙と新幹線の往復切符、それに
「お墓参りにゃ行かにゃあいけんよ!」
だが、
まった目つきでクケケケと笑い声を洩らす青年には誰だって近づきたくないに決まっている。
買い物を楽しむ人でにぎわう商店街のど真ん中、しかし辰巳の周囲に人はいない。イッてし
さらに安くつく。余った分はもちろん辰巳の臨時収入に加算される――。
い戻して普通列車で帰れば特急券代が浮く。いやいや、乗車券も払い戻して夜行バスにすれば
ば、こんな蒸し暑いだけの地方都市は早々に引き揚げるに限る。いや待て、新幹線の切符を払
巳の親戚は一人もいないから、墓が荒れたままでも父に密告される心配はない。そうと決まれ
そうだ、墓参りに行ったことにすればいい。どうせ誰にもわかりはしない。広島の周辺に辰
ポッと浮かんだアイデアの素晴らしさに辰巳は思わず手を打ってしまう。
「ああ、行かなきゃいいんじゃねえか!」
パーがバキッと壊れて脳内で必殺技コンボを繰り出しかけたその直後、
肉親に騙されたと知った辰巳の怒りゲージはさらに急上昇してMAXを突破、感情のストッ
際が良かったのはそのせいか。面倒な用事を息子に押しつけ――よくも押しつけやがったな!
今になってようやく気づいた。父は墓参りをするつもりなど最初からなかったのだ。妙に手
はすべて辰巳の臨時収入になるという破格の条件付きで。
手の切れるような一万円札。しかも広島での交通費と食費、それに灯籠の代金に支払った残り
藤原
平城
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夏の灯籠たち
2
夏の灯籠たち
「……?」
「お墓参りをせんと、ご先祖さまの罰が当たるけんね!」
どこからか聞こえる少女の声。
誰だ? しかも人の心を勝手に先読みしやがって。
後ろを振り向く辰巳の視界に、しかしそれらしき人の気配はない。あり得ない可能性が辰巳
の脳裏を不気味によぎる。
ヤバいのか俺? それとも本物の……アレが出没したのか?
神経をピリピリと尖らせた辰巳は怖いモノ見たさの心境で恐る恐る前を向き、そして――
「さっきからどこ見よるん?」
「うわあぁぁ――――っ!」
辰巳のまさに目の前で、二人の少女が辰巳を見上げるように立っていた。
「いいいいつの間に近づいてきたんだっ!」
人目もはばからず叫びながら、それは違うと心の中で反論する自分に気づく。なぜなら、こ
んな奇妙な格好をした少女はほんの一瞬前までどこにもいなかったから。
敢えて現代風に言うならばタック入りワンピース風の着物。僧侶の袈裟と巫女の袴を適当に
それにしても彼女たちの外見をどうやって表現すればいいのだろうか。
組 み 合 わせ た らこ う なりま し た と若 手 デザ イ ナーが 口 に しそ う な国 籍、 宗教 と も に不 明の
「つまり、二人とも……えええっ? ほ、ほんとに……売ってるのか?」
買っていく……灯籠を……つまり、女の子を?
《市内で灯籠を買っていくこと》
しゃの再生紙を再び引っ張り出して手書きのメモを読み返す。
あまりにも予想の斜め上を行く展開に辰巳はたじろぎ、焦り、唯一の拠り所であるくしゃく
所変われば品変わるという言葉があるが、広島では美少女のことを灯籠と呼ぶのだろうか。
――そうなのか?
「え?」
「灯籠いうんは流し灯籠じゃのうてウチらのことじゃけん」
「……ああ」
「さっき、そこの店で灯籠探しよったじゃろ?」
のと同じ声で、まさに辰巳が抱いた疑問に答えるジャストタイミングで、
ちょうど観察が終わると同時に、カラフルな方の少女が口を開いた。先程辰巳に話しかけた
に人間離れしたファッションセンスの持ち主と言える。
側は青で左側は白、それぞれに真鍮らしき黄金色の髪飾りが付いている。何というか、全体的
左側の少女はそれとは対照的に白一色である。対照的といえば二人お揃いの三つ編みの髪も右
前 衛 的 なデザインだ。向かって右側の少女は赤と黄色と緑の縞が縦に並ぶカラフルな装束で、
アバンギャルド
藤原
平城
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
戸惑いながら辰巳が指さした少女たちは、指の動きに合わせて交互にこくこくと頷く。まる
で辰巳が先生役で「すずめの学校」のお遊戯をしているようだ。
マジで買っちまってもいいんだろうか。ヤバいことになるんじゃないのか。誰だってそう思
う。ならば父はなぜそんな指示をわざわざメモにして辰巳に下したのか。きっと理由があるに
違いない。
そうか。自宅でも彼女の話ひとつ切り出さない息子を不憫に思った親心のなせる業なのか。
そういうことか。
つまり、その――このお金でオトナになって東京へ帰ってこい、と。
「……変なことばーかり考えとるようじゃけど」
少女の冷やかな声が辰巳の妄想を一撃で粉砕、そしてこう続ける。
「あいにくウチらは人間じゃあないけんね」
「……は?」
ぼ ん どう ろ う
「さっきも言うたじゃろ? ウチらは盆灯籠じゃけん。辰巳さんがお父さんに頼まれよったん
は、ウチらを買うてお墓に供えることじゃね」
知られている。世にも奇妙な物語が人知れず進行しているのか。いや、違う。そうじゃない。
さっきから辰巳の心の中を少女にズバズバと読まれている。さらに辰巳の名前までも少女に
夏だ。この夏の暑さが悪いのだ。身体じゅうから汗を噴き出しながら、同時に脳内ではヤバ
「ど、どうした?」
少女が忽然と消え失せた。まるで手品師が空に放った白い鳩のように。
後ろの少女が叫ぶと同時に白い少女の全身がふわっと持ち上がり――そして、一瞬。
「これが盆灯籠の本当の姿じゃけ……よう見んさい!」
った。その背後から三色服の少女が寄り添って、白い着物の両肩にそっと両手を置くと、
暑さと苛立ちと不信感から危険なまでに目を血走らせた辰巳の前に白服の少女がすっくと立
「あん?」
「これから辰巳さんに証拠を見せちゃるけえ」
い白服の少女を手招きで呼び寄せて何やら耳打ちをすると、
ひとり納得したように頷いた三色服の少女は、辰巳の前に現れてからまだ一言も口を利かな
「ふふっ、辰巳さんは盆灯籠のことを何も知らんのじゃね」
「それがどうした! シンキロウだろうがボンドウロウだろうが幻には違いねーんだよ!」
「それは蜃気楼じゃろ? ウチらは盆灯籠。最後の〝ロウ〟しか合うとらん」
実は幻で、近づくと煙のように消えてしまうという――
いだ。そんな現象に心当たりがないわけでもない。灼熱の砂漠でようやく見つけたオアシスは
要するに、暑さのせいで辰巳の頭が変になったのだ。ありもしないものが見えるのもそのせ
い物質をドバドバ分泌している、ような気がする。
藤原
平城
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
「妹ならここにおるよ」
手前の少女が消失した結果、必然的に辰巳に全身を見せることになった三色服の少女。
大きな和服の袖からわずかに覗いた小さい手には、いつの間にやら細い竹の棒が握られてい
た。棒は少女の肩幅より少し長く、一方の端には開いたコーヒーフィルタ形の紙細工が取り付
けてある。漏斗の形に開いた六本の竹ひごの間には三角形の白い和紙が貼ってあり、よく見る
と一面だけは中央に丸い穴が開けられている。その穴さえなければ、とある家庭用品にそっく
りの形と言っていいのだが――。
ウ チらに は人間 の考え とる ことが 全部わ かるん じゃ けえ
「辰巳さん、よりにもよってウチの可愛い妹をトイレ掃除の道具じゃあ思うたじゃろ?」
「え? いや、そんなことは」
「 ごまか そう 思うて もいけ んよ!
ね!」
白い紙と竹の工芸品――これを盆灯籠というのだろうか――を手にした少女が眉を逆立てて
辰巳に詰め寄ってきた。紙の漏斗で下から顎を突き上げられた辰巳はたまらず後ずさる。その
拍子に中が空っぽになった漏斗の内側がちらりと見えた。
籠は落下する間もなく、影も形も瞬時に消え去って、
辰巳との距離が少し開いたところで、不意に少女が盆灯籠を持つ手を開いた。手にした盆灯
「うわっ!」
灯籠と違っている。そして――現れた盆灯籠と入れ代わりに姿をくらましてしまった彼女の姉。
じように握られていた。紙細工が赤、黄、緑の三色で美しく彩られている点だけがさっきの盆
泣き出しそうな声で小さく叫んだ妹の細い手には、辰巳がさっき目撃したのと同じものが同
「お、お姉ちゃんっ!」
り返るとすぐさま「頼むわ!」と言い残して――ふわりと飛び上がった。
辰巳の返事も待たずに姉は純白の髪で編んだ妹の三つ編みをくいくいと後ろに引き、妹が振
いかんけえね!」
「ああ、辰巳さんはウチが変身するんも見たいんじゃね? そんならさすがに信じんわけには
は彼女が姉ということだろうが、
辰巳の質問に「そうよー」と快活に答えた赤と黄色と緑の服を着た青い髪の少女――つまり
「さっき、妹……って言ったよな?」
信じるわけにはいくまい。しかも、わからないことがさらに増えてしまっている。
たとえ目の前で実演されたって、実は少女の正体が盆灯籠だったなどという話をおいそれと
「いや……まだ信じられん」
「どうじゃ! これで辰巳さんも信じたじゃろ?」
る辰巳をきょとんした顔で見つめている。その後ろからは三色の少女の得意気な声。
白服の少女がまたもやドロンと辰巳の眼前に出現した。先程と同じ直立の姿勢で、呆然とす
藤原
平城
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
「お姉ちゃぁん……ウチ、ウチ……説明できんよぉ……」
一人残されて――いや、一本残されてと言うべきか。内気そうな妹は手をぷるぷると震わせ
て、半べその顔で必死に盆灯籠に語りかけ、しかも会話まで成立させようとしている。ここは
素直に信じるふりをしてやった方がいいだろうか。
「……なあ」
精一杯のカルさで辰巳は呼びかけたつもりだった。だが妹は茶羽の昆虫が飛びかかってきた
ように顔をひきつらせて後方ジャンプで飛び退き、はわはわはわはわと手をばたつかせて、
「ひゃうっ! ひっ、ひっ、ひっ、
」
「その……おまえが手に持ってるのは本当にお姉ちゃんなのか?」
「~~~~っ、~~~~っ、~~~~っ!」
ぽろぽろと涙をこぼす少女の様子は誰がどう見てもパニック状態。少しでも彼女を静めるべ
辰巳さ ん、わ かっ とる
く、どうしようかと迷った末に辰巳が妹の肩に手を伸ばしかけた瞬間、
「こらっ! ウチの妹に何しよるん!」
突如現れて妹をかばうように立ちはだかる姉に怒鳴られた。
「 妹は人 見知 りしよ るけえ 、もっ と優 しく言 わにゃ あいけ んの よ!
ん?」
わかんねえよ、そんなこと――とは辰巳も言い返さない。
だが、かなりの剣幕で辰巳にかみつく勝気な少女とその陰に隠れて涙ぐむ内気な少女が姉妹
らしいということは理解できた。
そして、この二人――いや、二本が盆灯籠なる謎の仏具の化身に違いないことも。
辰巳と二本の愛くるしい盆灯籠の少女たちは仲良く横一列に並んで、真夏のアーケードをゆ
っくりと歩いていた。辰巳の右側には彩り豊かな姉がポジションを取り、左側からは純白の妹
がしずしずとついてくる。
ゆっくり歩くと言ってものんびりしているのではない。歩きながら辰巳は姉妹から盆灯籠に
ついての説明を聞かされているのである。補足すると一方的にしゃべり続けているのは姉だけ
で、妹はやはり一言もしゃべらない。
「盆灯籠いうんは広島あたりの風習じゃけどね。お盆の時期になるとスーパーとかでも売りよ
るんよ」
「それは変わってるな。普通そういうのは仏具屋さんで扱うものだろ? それなのに、さっき
は売り切れだって言われたんだぞ」
「それは辰巳さんがわざわざ『流し灯籠ください』言いよるけん。仏具屋さんでも当然置きよ
るよ。ウチらも仏具屋さんから来たんじゃけ」
平城
藤原
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
「それって俺がさっき入った店のことか?」
「そうよー。お店の前んとこで大人しゅう座っとったとこへ辰巳さんが入ってきよったん」
「そうだったのか?」
仮にそうだったとしても、注意を払っていなかったもののことなど覚えてはいない。
それよりも、
「おまえら商品なんだろ? 勝手に店を抜け出してきてもいいのか?」
「ま、今日の営業はサービスじゃね! 何も知らん県外の人に盆灯籠のことをわかってもらえ
る思うたら、お店の人も大目に見てくれるじゃろ!」
そんな話をしながらアーケードを端まで歩き終えた辰巳たちは、大きなスクランブル交差点
の前で信号を待った。信号の向こう側にもアーケードの入り口があって、多くの歩行者が同じ
ように信号待ちをしている。商店街はさらに先まで続いているようだ。大通りを横切る路面電
車が一時的に辰巳の視界を遮って、またどこかへと走り去っていく。
周囲を見回してみても、こんな風変わりな少女たちを従えている者は辰巳を除いて一人もい
ない。そもそも自分たちは周囲からどんなふうに見られているのだろうか。姉妹の見かけは可
愛い女の子でも、その実体が竹細工の盆灯籠であることは彼女たちが実証してみせたばかりだ。
もしかして俺は化かされているんじゃないのか? 両手に盆灯籠を握りしめながら、ぶつぶ
つと独り言をつぶやいているだけじゃないか?
旅の恥はかき捨てという言葉があるが、それは恥を通り越してイタすぎるだろう。
「た、辰巳さん……」
Tシャツの裾が左側からつんつんと引っ張られて、
「あっあっ、あの……しし信号がっ、その……」
「え? ……ああ、ほんとだ」
とっくに青に変わっていた歩行者用信号をチラ見してから横断歩道を渡り出す。礼を言おう
とすると、妹はぷるぷると首を振りはわはわと腕をばたつかせて、
「い、い、いえっ、そ、そっ、そんなことは、あ、あ、
」
「あっはっは! 辰巳さん、ウチの妹に好かれとるんじゃねえ!」
「おっ、お姉ちゃんっ! ウチは、そんなっ、
」
「そうじゃ、辰巳さんにも教えちゃろ! ウチの妹なあ、辰巳さんが店に入ってきよった時も
『素敵な男の人じゃねえ、ウチはあの人がええわ』言うとったんよ!」
「そっ、そんなこと……言わんでええのに……」
「恥ずかしがらんでもええんよ! ウチも辰巳さんはええ男じゃ思うとるけえね!」
辰巳を挟んで交わされる広島弁の姉妹の会話は微笑ましく親近感も持てる。だが彼女たちが
辰巳に好意を抱いているというのは果たして本心からだろうか。
「つまり、これはおまえらのサービスってことか」
平城
藤原
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夏の灯籠たち
「何のことね?」
「どうしてこんなに俺に密着してくるのかって聞いてんだよ」
その実体は盆灯籠とは言え、見た目は普通の女の子である。どのように見られているのかわ
からないまま、一応は人の目を気にして節度ある距離を保っていたつもりだ。
なのに二人、いや二本は辰巳の気遣いなどお構いなしに、あろうことか両側から腕まで組ん
でいるのである。積極的な姉だけならばまだしも、内気な性格と紹介された妹までも辰巳の左
手をしっかり摑んで離そうとしない。
「ウチらがくっつきよったら辰巳さんは迷惑じゃろうか?」
そんな無邪気な質問を投げてくる。
いや、決してそんなことはない。むしろ嬉しい。そう答えても構わなかったが、敢えて言わ
ないでおく。
「ならええんじゃけど」と姉はいくらかほっとした様子で、
「ウチら、雨と風が苦手じゃけ」
「竹と紙でできてるんだから無理ないよな。でもさ、それでどうして腕を組む必要が――!」
むぎゅっ。
そんな効果音を吹き込みたくなる勢いと色気で、なんと白服の妹がいきなり辰巳に抱きつい
てきたのだ。
辰巳の首筋に息がかかるほど近づいた彼女の身体は羽毛のように軽く柔らかく、鼻先をくす
ぐる純白の髪からは線香らしきアロマティックな芳香がほわんと伝わってくる。
まるでド真ん中高めのストレート。しかし辰巳に抱きつかれ耐性はなく、
「わーっ! 何してんだよっ!」
「ああっ! ごっごっ、ごごご、ごめんなさいっ!」
気の毒に思ってしまうほど恐縮し、顔を真っ赤に火照らせて叫んだ妹は必死に辰巳から身体
を引きはがそうとしているが、どういうわけかちっとも離れない。
「俺は何もしてねえからな! そっちが勝手に!」
「ウ、ウ、ウチのせいじゃないん……風が……」
と、今度はいきなり右側がふうっと軽くなった。
今度はどうした、と右を向いた辰巳はあまりにも異様なその光景を目にした瞬間、初期化さ
れたロボットのようにその場で硬直してしまった。
順風をまともに全身で受けた姉は、辰巳の右手を摑んだ状態で鯉のぼりのように風下方面に
ひらひらとはためいているのだった。
「きゃあぁ――――っ! 辰巳さぁ――――ん!」
「お、お姉ちゃんっ! しっかりっ!」
「おまえらなぁ……いったいどんだけ軽いんだ?」
驚くのにも疲れて呆れてしまった辰巳。風上にいる妹とて風の力に抗うことはできず、台風
平城
藤原
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
の日に飛んできたコンビニの袋のように辰巳にまとわりついて離れない。
「た、た、辰巳さんっ! お姉ちゃんをっ、お姉ちゃんを助けてっ!」
ふたたびパニックに陥った妹の叫び声は辰巳の耳元一センチの至近距離から。一方、
「きゃあ
ぁー!」と絶叫する姉の声は風に流されてさらに小さくなっていく。
「あーっ、面倒くせえっ!」
「「きゃっ!」
」
辰巳は両腕で姉妹を一気に引き寄せ、そのまま両方の小脇にがっしりと抱えこむとラグビー
選手のように一目散に横断歩道を走り出す。
道行く者が投げかける好奇の視線など、もう構っている場合ではない。
蒸し風呂のごとき市中とはうってかわって、ここは空調が程よく効いた店の中。
汗をかいたグラスの氷水を辰巳は手に取り一息に飲み干す。冷たい液体の感覚が五臓六腑に
しみわたり、それだけでも生き返った心地がする。
「ああ」
「……さっきは、あのっ、ありがとう……ございました」
「ほんま、辰巳さんは命の恩人じゃね!」
「…………」
「ウチら盆灯籠じゃろ? 中がスカスカじゃけえ、いっつもお腹すかせとるんよ!」
「だから、そういう問題でもなくて」
「あのぉ……お好み焼きが、嫌い……なんですか?」
「いや、そういう問題じゃなくって」
「そら辰巳さん、広島の名物いうたらお好み焼きじゃけん!」
しかしどうして、こんな真夏のしかも昼間っからお好み焼きを食べなければならんのだ?
イミングよく誘われて一も二もなく承諾してしまったこともしっかり覚えている。
ペコなのは疑いない。そんな折りに姉から「辰巳さん、お昼を食べんと倒れてまうで!」とタ
はフラフラ、おまけに新幹線の車内で腹に詰め込んだ菓子パンはとっくに消化済みで腹もペコ
うだるような暑さの中、横断歩道からここまでダッシュを一本決めたせいで汗はダクダク頭
自分たちはなぜお好み焼き屋にいるのだろうか。
「……だろうな」
「ごっ、ごめんなさい、お姉ちゃん!」
「ほら、気いつけんさいよ! 鉄板に頭ついたら燃えてしまうよ!」
テーブルを挟んで向かい合わせに座る姉妹はかわるがわる頭を下げていたが、
「ああ」
藤原
平城
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
どうして真夏にお好み焼きなのか。そんな疑問はもう捨ててしまってもいいと辰巳は思った。
こいつらは――盆灯籠は――お好み焼きを食べるのか?
これが広島の常識なのか? メモを残した父はそのことを知っているのか?
だがしかし、新しく生じた未解決の難問も、
「お待たせ!」との声とともに運ばれてきた二枚
の皿の前にうやむやにされてしまう。
姉が「辰巳さんは男の人じゃけえ、ようけ食べた方がええよ!」と言いながら、香ばしい湯
気を放つ皿の一枚を辰巳の側に押し出してくれた。
「ウチらはこっちの一枚を分けて食べるけえね!」
「……こんなの、いつの間に注文したんだ?」
「店に入った時にウチが『肉そばネギ』じゃ言うたん、辰巳さんは覚えとる?」
「そのニクソバネギってのは、お好み焼きの名前なのか?」
「もちろん! 肉・そば・ネギはお好み焼きの基本じゃけん!」
「本当かよ。ネギなんて乗ってるだけにしか見えんぞ」
「そのネギがええんよ、頭ようなるけえね。ウチの服も、ほら……肉・そば・ネギ」
返した。そんな姉とテーブルの上のお好み焼きを辰巳は交互に見比べてみる。盆灯籠なる仏具
着物の赤・黄・緑の縦縞を一つずつ指差しながら、姉は「肉・そば・ネギ」と二度ほど繰り
がお好み焼きをイメージしながらデザインされたとは到底思えないから単なる奇跡の一致だろ
ら向かいの席に視線を移した。そこでは盆灯籠の姉妹が仲良く並んで一枚のお好み焼きを分け
何もすることがなくなった辰巳は、皿に残ったソースを使って箸先で「の」の字を書きなが
ている間もなく、気づいた時には皿の上にはキャベツの切れ端すらも残ってはいなかった。
ッと炒めたそばの嚙みごたえ、シャキシャキしたネギとのコンビネーションを口の中で確かめ
まさに飢えた象の鼻先にリンゴを差し出すようなものだった。キャベツのしっとり感にパリ
ットを注文し、夕食にカレーを二皿平らげてもまだ物足りないのだ。
なにしろ青春食べ盛り、友人たちと学校でお弁当を食べた帰りにファストフード店でLLセ
けてしまった辰巳は少々時間を持てあましていた。
――と威勢よく言ったまでは良かったものの、勢いに任せてお好み焼き一枚をぺろりと片づ
「よぉーし! いただきまーす!」
姉の魅力的な呼びかけに、ついに辰巳もすべての思考を放棄した。
「さ、早う食べよ! お好み焼きは熱いうちに食べるんが一番じゃけん!」
いずれも劣らず攻撃的で、辰巳の喉も思わずゴクリと動く。
ネギを山盛りに装備。食欲をそそる絶妙な色彩と鼻を刺激するフルーティーなソースの匂いは
べんなく塗られ、さらに青海苔で鮮やかにトッピングされている。その上には細かく刻んだ青
オムレツをドーム型にしたような独特のフォルムの生地には照りのある褐色のソースがまん
うが、今はそんな雑念に思いふけっている場合ではない。
藤原
平城
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夏の灯籠たち
10
夏の灯籠たち
合っているところだった。辰巳の目はつい皿の上に吸い寄せられてしまう。
よほど物欲しそうな顔をしていたのだろう、
「辰巳さんはそれじゃと足りんじゃろ?」と姉が
お好み焼きをはふはふと頰張りながら皿を差し出してきて、
「ウチらの残りでよかったら食べんさいよ」
「……いや、いい」
無意識のうちに伸ばしていた手を慌てて引っ込め、精一杯取り繕った表情で首を振ってみせ
る。江戸っ子の痩せ我慢と言われようとも、盆灯籠姉妹の優しい気持ちさえもらえばそれでい
い。遠慮して自分たちの分を一枚しか頼まなかった彼女たちに甘えてはいけない。
「辰巳さんの分は『そばダブル』にしとくんじゃったね」
そう言って姉は残る一切れを妹に取り分けてやりながら、
「ウチらはこれでもう十分じゃけん。ごちそうさま!」
至上の幸福を顔に表して妹がぱくつくお好み焼きを横目に辰巳は「ああ」と力の抜けた相槌
を打ってから、最後の言葉に含まれる微妙なニュアンスに引っかかって姉妹に向き直る。
「今、ごちそうさまって言わなかったか?」
「待て。俺はおまえらにお好み焼きをおごるなんて一度も言ってねえぞ」
「言うたよ。ごちそうしてもろうたら『ごちそうさま』を言うんが礼儀じゃけ」
「じゃが、ウチら盆灯籠じゃけん。お金持っとらんよ」
ることにしたようで、
上昇し続ける気温に反比例して戦意を喪失していく辰巳の心中を盆灯籠の姉妹は勝手に察す
い。
すらそう感じるのだから、日影のない炎天下の墓地がどうなっているかなんて想像もしたくな
一歩進むごとに熱気が足元から這い上がってくる。直射日光が当たらないアーケードの中で
エアコンが効いたお好み焼き屋ののれんをくぐり出ると、外は相変わらず酷暑の世界。
のだ。
盆灯籠に本気で腹を立てるなんて、どう見ても真っ当な人間のすることではないように思う
だが怒ってはならない。そう、この程度のことは我慢しなければ。
――異常だ。何もかも異常だ。どうして仏具に神頼みされなきゃならんのだ?
「「お願いしますっ!」
」
を合わせるとパンパンと柏手を二拍。そして、
姉は先手を打つことに決めたらしく、口をもぐもぐさせる妹を肘で小突き、二人揃って両手
握った拳をわなわなと小刻みに震わせる辰巳。
「あ、の、なぁ…………」
藤原
平城
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夏の灯籠たち
11
夏の灯籠たち
「あのぉ……辰巳さん、お墓参りには……?」
珍しく妹が先に口を開いた。震える声で、辰巳とは目も合わせられず、それでも辰巳を気遣
ってあらん限りの勇気を振り絞ったのだろう。
「ウチらのことなら心配せんでええんよ」と姉も援護に加わり、
「お好み焼きのおかげで身体も
重うなったけえ、もう風で飛ばされたりせんよ!」
「……お好み焼きは重石がわりなのかよ」
「そうよー。しかもお好み焼きはうまいけえ、一石二鳥じゃね!」
そう言って姉はけたけたと屈託なく笑った。つられて妹もくすくすと微笑む。性格とカラー
リングは違えども、こういう仕草を比べてみるとやはり姉妹だなと思う。
爽やかな一陣の風が辰巳の胸の中を何分の一秒か吹き抜けて、だがそれはすぐに元に戻って
しまう。
暑い。暑くてたまらない。やってられない。
「辰巳さん。外はまだ暑いけえ、もうちいと涼しゅうなってから墓参りに行った方がええよ」
まさに意にかなったその言葉に辰巳も「そうか?」と声のトーンを上げる。
「もちろん!」と姉は自信たっぷりに頷き、
「さあ、喫茶店に入ってもみじ饅頭食べよ!」
「だよな? やっぱりそう思うよな?」
「だな。さっそく喫茶店に……え? 喫茶店にも行くってのか?」
「ひゃっ、ひゃうーっ!」
「もみじ饅頭なんて買わねえぞ。おまえらの計画は全部お見通しだからな」
「あっ、あっ、あのっ、辰巳さんっ、実はっ、
」
すぅ、はぁ……と深呼吸した妹は意を決して前を向き、小犬の瞳で辰巳を見つめると、
「は、箱で……! うん、ウチがんばってみる!」
るかもしれんよ」
「辰巳さんは優しい人じゃけ、心配せんでええ。きちんとお願いしたら饅頭を箱で買うてくれ
「ええっ? ウチ……ウチよう言わんよぉ……」
けん』言うて」
「あんたから辰巳さんに頼んでみんさい。『墓前のお供えは昔からもみじ饅頭じゃと決まっとる
人して辰巳にくるりと背を向ける。
妹の言葉に姉ははたと立ち止まり、その場で手招きをして「耳貸しい」と妹を呼び寄せ、二
「ええなあ、仏壇さん……。ウチらも饅頭と一緒にお供えしてほしいわ」
「ううん。仏壇がそないに言いよったんよ」
「ほんまに?」と妹が果敢に食いついて「お姉ちゃん、饅頭食べたことあるん?」
んも一度食べてみんさい!」
「だって辰巳さんはまだお腹すきよるんじゃろ? 焼きたての饅頭はぶちうまいけえ、辰巳さ
藤原
平城
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夏の灯籠たち
12
夏の灯籠たち
「な、な、なんでバレよったん! 辰巳さん、盆灯籠の心を読みよるんじゃ……?」
「会話が全部丸聞こえなんだよ! おまえらなぁ……お好み焼きだけじゃ足りずにもみじ饅頭
まで俺にたかるつもりなのかよ!」
妹は姉の背中に隠れて涙目で辰巳の機嫌を窺っている。両腕を大きく広げて辰巳から妹をか
ばっていた姉もついには耐えきれずに、
「ごめんね、辰巳さん……」
辰巳の前にがっくりと首を垂れてしまった。
「ウチ、一度だけでええけえ……妹にもみじ饅頭を食べさせたい思うて……そいでね……」
うつむきがちにぽつりぽつりと綴られてゆく妹思いの姉の言葉に、辰巳の怒りはもうどこか
へ消し飛んでしまっていた。
東京生まれの東京育ち、あっけらかんと威勢のいい辰巳の江戸っ子気質が真夏の入道雲のよ
うにむくむくと湧き上がってくる。
「行こうぜ、喫茶店に」
「えっ?」
「ほ、ほんまに……ええん?」
「どのみち時間をつぶさなきゃいけねえんだ。もみじ饅頭、好きなだけ食っていけよ」
「ああ。俺は甘いモンが苦手だから遠慮しとくけどな」
服姿の彼女たちは焼きたてのもみじ饅頭に舌鼓を打ち、おしゃべりを楽しみながらころころと
もちろん辰巳は後悔などしてはいない。アーケードの奥まったところにある和風喫茶で、和
と言いながら盆灯籠の妹が持ち歩く、もみじ饅頭詰め合わせセットのために。
「辰巳さぁん、ありがとう!」
なぜなら昼に食べたお好み焼きと――
着いて東京に帰らなくてはならないのだ。ホテルに泊まれるだけのお金はもう残っていない。
だがこれ以上待ってはいられない。どんなに遅くとも最終の新幹線の時間までには広島駅に
温度では全然涼しくなった気がしない。
夕方の市街地はいくぶん気温が下がったものの風もぴたっと止まってしまったようで、体感
かゆくてたまらなってくるのだった。
何のことはない。キザに振る舞って姉妹を喜ばせたことを思い出したら、辰巳の背中がむず
辰巳は敢えて聞こえないふりをしてやる。
き合う声が辰巳の耳にも入ってくる。盆灯籠の姉妹はひそひそ話が本当に苦手らしい。だから
げて後を追う姉妹が「やっぱり優しい人じゃね」とか「お姉ちゃんの言うたとおりじゃ」と囁
まだ呆然としている二人をそのままに辰巳は商店街を歩き出した。きゃいきゃいと嬌声をあ
藤原
平城
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
本当に楽しそうに笑っていた。
引っ込み思案の妹も今ではすっかり辰巳になついている。生まれてはじめてのもみじ饅頭を
堪能した上にお土産まで買ってもらえたことがよほど嬉しかったのか、朱色の包装紙にくるま
れた箱をクマのぬいぐるみのように抱きしめている。
「辰巳さんのご先祖も喜ぶじゃろねー」と
か「そうじゃねー」といった姉妹の呑気な会話も聞こえてくる。
「お墓参りに来た人の心をご先祖さんに伝えるんがウチらの仕事なんよ。ほいじゃけえ、ウチ
ら盆灯籠は人間の気持ちがわからんにゃあいけんのよ」
「なるほど」
もしかすると盆灯籠たちは、お供物を先祖の霊に渡す役割までも担っているかもしれない。
だとしたら少女が持っている饅頭の箱こそ、冥土の土産と呼ぶにふさわしい。
そんな妄想めいた想像をしていると、
「なあ、辰巳さん」と姉が呼びかけてきた。
「これからお墓参りに行くんじゃろ?」
「ああ。そのために来たんだし、そのために時間つぶしたんだからな」
「そのお墓はどこにあるん?」
「えっ?」
何かにつまづいたように辰巳の足がつんのめる。
「おまえら、お墓の場所を……知らねえのか?」
「ウチら盆灯籠じゃけ。道なんか知らんよ」
「そ、そう……だよ、な…………」
人間の意地で辰巳は強引に怒りをねじ伏せて、乱暴にポケットから抜き出した地図を赤点の
答案用紙を見るように睨んでいたが、
「くそっ! まるっきり反対方向に歩いてたんじゃねえか!」
「あらあら」
「あらあら、じゃねえっ! 今日じゅうに東京へ帰れなくなったらどうすんだよ! 寝るとこ
ねえんだぞ!」
「そがあなことになったら辰巳さんとウチらも一緒におったらええよ。朝まで添い寝じゃね」
「あ、朝まで……添い寝?」
そんな甘い話があるわけない。だが、辰巳が散々恩を売ってやった盆灯籠の姉妹のことだ。
もしかすると甘い話が本当にあるかもしれないじゃないか。
結局は見事につられて身を乗り出した辰巳に、
「ウチらが今晩から泊まるお墓でじゃけどね。静かでええよ」
「……絶対に、いやだ」
平城
藤原
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
広島に着いた直後から結界のように囚われていたアーケードをついに抜け出した一行はすぐ
に川沿いの道にぶつかった。広島市内の地理に疎い辰巳がぶつくさ言いながら地図と格闘した
末に「こっちだ」と示した方角へ歩き出す。そんな三人――正確には一人と二本の背後から少
し長くなった影法師が追いかけていく。
最初の橋を通り過ぎたところで、姉がふと思い出したように言った。
「辰巳さん、今日は誰の墓参りに行きよるん?」
辰巳は少し考えてから「じいちゃんだな。俺の親父の親父。昔は広島に住んでたってよ」
「そしたら、辰巳さんも昔は広島に住んどったん?」
「いや、じいちゃんの代から東京に住むようになったんだ。理由はわかんねえんだけど、じい
ちゃんが死ぬ時に『絶対に広島に埋めてくれ』って言い遺したみたいでさ。俺が小っちぇー頃
だったから全然覚えてねえけど」
「昔のことなんじゃねえ」と妹が頷きながら、
「最近亡くなった人はおらんの?」
いねえよ、と辰巳がぶっきらぼうに答えると妹はぴたりと黙りこくってしまった。
「なんだよ、いきなり縁起でもねえことを言いやがって」
眉をひそめる辰巳に、今度は姉が「辰巳さん、気い悪うしたらいけんよ」と声をかける。
「妹はお役に立てんのんがわかってしもうたけえ、そいでめげてしもうたんよ」
質問の意味も、方言の意味も理解できない。辰巳が首をかしげていると、
「ウチと妹じゃあ役割が違うけえね。妹は白い色しとるじゃろ?」
「ああ、変身した時にも見せてもらったよな」
「白い盆灯籠は初盆の時に使うもんじゃと決まっとるけん。そいで二年目のお盆からは色飾り
をつけたウチの方を使うんよ」
ようやく辰巳は理解できた。なぜ姉妹を色で区別しているのかを。そして、なぜ妹が落ち込
んでしまったのかを。
そんな辰巳の心中を読み取ったのか、色とりどりの姉は勝手にうんうんと納得して、
「ウチの妹はぶち優しゅうて、ほんまにええ子なんよ! しかも辰巳さんをこんなに好いとん
のに、可愛そうじゃ思わん?」
「あ、ああ……そうだよなあ」
「ほいじゃけえ、来年のお盆は絶対に妹を使うてほしいんよ。そうじゃ、辰巳さんがお墓に入
りよったら、妹もようけお世話できるけん」
「それは俺に死ねと言ってんのか?」
辰巳の言葉に妹が「えっ!」と目を丸くして、「辰巳さん、ウチのために死んでくれるん?」
「死なねえよ! 希望で勝手に俺を殺すなよ!」
「そう……残念じゃねえ。じゃけど、ウチはいつでも応援しよるけえね!」
「応援なんかせんでもいいっ!」
平城
藤原
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
錆の色が染みこんだ路面電車の敷石を踏み越えて、道路を渡った先には緩やかな上り坂があ
った。ちょうど測ったように町並みも途切れて、こんもりと繁った森に覆われた狭い道がくね
くねと続いている。
せり出してきた木陰は涼しいが、
日なたにはまだ昼間の熱気が残っていた。
頭上からシャワシャワと降る蝉時雨にばかり気を取られていると、無音で飛び交う蚊柱の真ん
中に顔を突っ込んでしまう。
上るごとに勾配がきつくなっていく。見通しが利くカーブの手前で辰巳は立ち止まって後方
を窺い、そこで盆灯籠の姉妹が追いつくまで待つことにした。姉妹の背後から照りつける夕陽
が、もみじ饅頭の箱に描かれた鳥居のように赤い。
「はぁ……はぁ……この坂は……盆灯籠には……たいぎいの……」
「人間にだってキツいんだよ。ほら、墓地の看板が見えてきたぞ。もう少しだ、がんばれ」
辰巳の檄を受けて言葉もなく頷いた姉ではあったが、後ろを振り返るやいなや上ってきたば
かりの道をぱたぱたと引き返して、道端で苦しそうにうずくまっている妹の傍らに心配そうに
腰を下ろした。
いつまでも二人が上ってこないので、ついに辰巳も坂道を下りてきた。ちょうど辰巳が近づ
いた頃合いを見計らったように「ごめんね、辰巳さん」と姉が言った。
「この子、あんまり身体が丈夫じゃないけえ」
姉の呼びかけに応じてゆっくりと持ち上がった妹の顔に、もみじ饅頭を頰張った時に見せて
いたあの明るい笑みはない。血の気を失った顔の色は紙のように――そう、最初に彼女が変身
してみせた盆灯籠のように白く、姉が「大丈夫?」と訊いても返事すらしない。
だが、
「あんた、お店に帰り」と姉が命じた時に妹はきっぱりと首を振った。
「行くん……ウチも、お墓に行くん……」
「もう歩けんのじゃろ? な、ええ子じゃけえ、お姉ちゃんの言うこと聞いて」
「ウチも行くんーぅ!」
残る力を振り絞るように叫んだ妹はもみじ饅頭の箱を顔に押し当てて、ひっくひっくと泣き
出した。
「ひっく、ウチ……辰巳さんに、ようけ世話んなったけえ……ひっく、辰巳さんの、ご先祖さ
んに……お礼を、お礼を言いに行くん……もみじ饅頭、持って行くん……」
――なんだ、そうだったのか。
華奢な妹の身には重すぎる箱を後生大事に抱えて、来なくてもいい墓参りの道を文句も言わ
ずに辰巳について歩いてきたのにはそんな理由があったのか。
それなら――
「だったら一緒に上まで来てくれよ。ほら行くぞ」
平城
藤原
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
中腰にかがんだ辰巳は泣きじゃくる妹の細い腰に腕を回すと、
「よっ!」と一息に肩の上まで
担ぎ上げた。
きゃっ、と妹は小さく悲鳴をあげる。その身体は彼女が持っている饅頭の箱よりも確実に軽
い。
最初からこうしときゃよかったな、と辰巳は自分に聞かせるように言って、
「もみじ饅頭を運ぶのは大変だったろ。ここからは俺が饅頭ごと連れてってやるよ」
小鳥のように辰巳の肩に乗せられた妹は泣くことも忘れて辰巳の頭にしがみつき、
「そっ、そっ、そんなっ、辰巳さんっ、ウチっ、」
だが「辰巳さんに甘えたらええんよ」と姉に言われると、妹は夕陽のように染まった顔をも
みじ饅頭の箱で隠して「うん……」と恥ずかしそうに頷いた。
そんな妹の様子に姉も嬉しそうに目を細めて、
「よかったのー、辰巳さんがほんまにええ人で。……ん?」
姉の前に差し出された、辰巳のもう一方の腕。
「ほら、おまえも乗れよ。まだこっちの肩が空いてんだ」
「盆灯籠みたいに軽いヤツがあと一つぐらい増えたって、どうってこたねえんだよ。それにだ」
「じゃけど、辰巳さんが」
そこで言葉を止めた辰巳にじっと見つめられ、姉が「ど、どうしたんね?」と睨み返す。
中央が少しすり減った石段は丘の斜面を回りこみながら、墓地のさらに奥まで続いているよ
墓地の入口はきつい傾斜の石段になっていた。
「着いたよ! お墓じゃ!」
た声が同時に叫んだ。
ふりをしながら、曲がりくねった急な坂道を看板に従って歩き続ける。やがて、姉妹のよく似
優しい人じゃね」というひそひそ声の会話が辰巳の肩の上で始まった。辰巳は当然聞こえない
側から支え持った。歩き出してしばらくすると「一緒に行けてよかったねー」とか「やっぱり
両腕を案山子のように広げた辰巳が「行くぞ」と言ったのを合図に彼女たちは辰巳の頭を両
黙りこんでいた。
そう言ったきり姉は口をつぐんでしまい、辰巳が彼女を肩の上まで持ち上げた時にもずっと
「辰巳さんは……ほんまに、盆灯籠の心を読みよるんじゃね……」
泣き出しそうに歪めて、
辰巳を睨む姉の目が急に大きく見開かれた。それから二度三度瞬いて、固く結んでいた唇を
妹と同じ竹と紙でできてるんだもんな」
「 妹に強 いと ころを 見せて るけど さ、 姉貴だ からっ て妹よ り丈 夫って わけで もねえ んだ ろ?
藤原
平城
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
うだった。気休めのような金属製の手すりが取り付けてはあるものの、両手を真横に伸ばした
辰巳はそれを摑むことができない。平均台の上でバランスを取る姿勢でそろそろと石段を上っ
ていくと、切り立った斜面をひな壇のように整えた墓地が少しずつ辰巳たちに迫ってきた。
姉妹のどちらかが「相当古い墓地じゃねえ」と感想を洩らす。それに辰巳も同意してから、
ついさっきまで忘れていた重大な事実をふと口に出した。
「あれっ、俺ん家の墓ってどこだっけ?」
辰巳が父に連れられて墓前に立ったのは幼い頃に一度きりで、当時のことを辰巳はまったく
覚えていない。父から地図を受け取った時には「墓地まで行けば何とかなんだろ」と気軽に考
えていたが、こうして墓地を見渡してみると結構広い。墓石の場所を尋ねたくとも、日暮れ時
の墓地には辰巳たちのほかには誰もいなかった。
一つずつ当たっていくしかねえな、と辰巳が覚悟を決めた時に、
「辰巳さん、あっち!」
見上げると、妹の指先が奥の一角を揺るぎなく示していた。
「辰巳さんの名字は天野いうんよね? ほら、あそこに『天野家累代之墓』いうんがある」
「おまえ、あんなところの字が読めるのか?」
辰巳は瞬きながら目を凝らすが、妹は平然と首を振り、
「ううん、おじいちゃんが呼んどるん」
「え……?」
ますます辰巳は目を凝らす。見てはいけない何かが浮遊でもしていようものなら全力で脱走
しようとひそかに心に決めていたが、幸か不幸かその手のモノは見当たらない。
姉が「辰巳さん、早う行こ」と言って肩からぴょんと飛び下り、まだ辰巳の肩に腰かけてい
る妹の尻を叩いた。
「あと少しじゃけ、あんたも歩き。辰巳さんのおじいちゃんに笑われよるよ」
墓地の中は妹が先導し、水桶を提げた辰巳が続き、その後ろから姉がついて歩いた。
お盆が間近に迫ったこの時期は、誰かが既に墓参りに訪れたとおぼしき墓が特に目立つ。綺
麗に磨かれた墓石の前に鮮やかな花が活けてあるから、仏教の行事にまるで縁のない辰巳の目
にもそれとわかった。
ついに最終目的地に到着した辰巳と盆灯籠の姉妹は墓前に整列して直立不動の姿勢をとり、
「まずは手を合わせて……おい、どうやって拝めばいいのか知ってるか?」
辰巳の質問に妹が、
「お墓を綺麗にするんが先よ」と囁き声で答える。
「ウチらは水が苦手じゃけ、墓石を拭くんは辰巳さんの仕事じゃね。その間にウチらはゴミと
か落ち葉とか拾うとくけえ」
「ええーっ、まだ仕事があんのかよ!」
「辰巳さん、おじいちゃんが見とるよ」
平城
藤原
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
「…………」
声の調子は静かで優しくても、そんな馬鹿なとは言い返せない説得力を持っている。さすが
は仏具、墓地の中では迫力が違う。こうなったら仕方がないと辰巳はTシャツを肩までまくり
上げ、ぶつくさ文句を垂れながら慣れない水仕事に取りかかった。
「おい、もみじ饅頭の箱はどうすりゃいいんだ?」
「普通はお墓の前に置くもんじゃけど、今日は墓石の上でええよ。どうせすぐに食べるけえね」
「辰巳さんのおじいちゃんと一緒に食べるんじゃね? お姉ちゃん、ウチの分もあるんよね?」
「……気楽なことを言いやがるなあ」
一時は長期戦を覚悟したものの、墓石の表面を雑巾で拭き取るだけの作業は意外と早く結着
がつきそうだった。土埃と一緒にこびりついた落ち葉が少々厄介ではあったが、それとて男子
高校生の腕力の敵ではない。力任せにこすりまくって汚れをこそぎ落とした後には新品同様に
滑らかで美しい花崗岩の光沢が蘇った。
「ほんま、綺麗じゃねえ」
盆灯籠の姉妹のどちらかがそんなことを言った。
づき、そのまま彼女たちの視線が示す先に顔を向けた。そして辰巳もつい作業の手を休めて見
「な、綺麗になったろ?」と顔を上げた辰巳は姉妹のどちらも墓石の方を見ていないことに気
入ってしまう。
思うとるんよ」
「そうよ。お墓参りしよる人は流し灯籠と同じ思いを盆灯籠にも伝えるんじゃと、ウチはそう
辰巳は聞き返す。
「流し灯籠って、原爆の日の晩に川へ流すやつのことだよな」
「流し灯籠だって?」
「ウチら盆灯籠も――流し灯籠と同じじゃあ思うけん」
そう言って頷いた姉は、ぽつりと一言付け加えた。
「まあ、人の気持ちを祖先に伝えるんが盆灯籠の役目じゃけん」
「海なんて見えなくたって、この盆灯籠の景色は本当に凄えよ」
「昔はここから海まで見えたんじゃろうねえ」と姉が言った。
どうして盆灯籠はこんなに美しく、そして人を悲しくさせるのだろう。
ちにさせたのだった。
東京しか知らないはずの辰巳の心に郷愁の念をかき立て、同時に辰巳をひどくやるせない気持
てしまった花飾りを辰巳に思い起こさせた。初めて見たのになぜか懐かしく感じるその光景は
の決して広くはない空間を精一杯使って立てられた淡い色彩の紙細工は、雛祭りの後で色褪せ
の束は、花畑にたとえられるといっても華美なものではない。ピラミッドの斜面のような墓地
乱れる極楽浄土のようだった。変身した姉妹が辰巳に見せてくれた三色の盆灯籠と白い盆灯籠
墓地といえば寂しい場所と相場が決まっているものなのに、ここはまるで盆灯籠の花が咲き
藤原
平城
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
それは、つまり――流し灯籠の行事と同じように、盆灯籠もまた原爆で亡くなった人たちの
慰霊のために存在するのだ、と。
「そうと決まっとるわけじゃあないんじゃけどね。お墓に盆灯籠を飾る習慣は江戸時代からあ
った言われとるけん。じゃけど」
姉はそこで言葉を切り、墓地に立つ盆灯籠の仲間たちをぐるりと見渡した。
「原爆で死んだ人は、原爆がなかったら死なんで済んだんよ。もちろん、お墓参りに来よった
人もそう思うじゃろうね。原爆みたいなもんはのうなったらええ、そう思うてお祈りする人も
多いじゃろうね。ウチら盆灯籠は、そういう思いを伝えにゃあいけんのよ」
そうか。ようやく辰巳にも理解できたような気がする。
珍しい盆灯籠の習慣がなぜ現在も広島に伝えられ、受け継がれているのか。
盆灯籠は単なる仏具なのではない。盆灯籠そこには過去の人に伝えるメッセージがこめられ
ているのだ。
そのメッセージとは――
「ま、全然違うかもしれんけどね」と姉が言った。
「ウチら頭が空っぽじゃけえ、難しいことは
よう考えん」
その言い草に辰巳は笑ったが、すぐに真顔に戻ってこう言った。
「いや、俺もそう思うよ。信じることにするよ」
それからは互いにほとんど言葉を交わさなかった。薄紫色に変わってゆく夕空の下で、墓前
に整列した辰巳と盆灯籠の少女たちは恭しく手を合わせて祈りを捧げた。
だが、
「辰巳さん、ちょっと聞きたいことがあるんじゃけど」
「こんな時に何が聞きたいんだよ」
「こんな時じゃから聞いとるんよ。ウチら盆灯籠を使うて、辰巳さんはおじいちゃんに何を言
いたいん?」
「え? じいちゃんに?」
「辰巳さんはお墓参りのために広島まで来たんじゃろ? ほいじゃけえ、ご先祖さまに何か言
いたいことがあるんじゃろ?」
「それは……何だっけ、ほら……ええっと……」
――何だっけ。
自分はいったい何のために墓参りに来たのだろう。
代わりに墓参りをしてくれと父に言われたから、こうして足を運んで義務を果たしたまでの
こと。それだけだ。墓の前に立って言いたいことはないかと尋ねられても、答は一つしかない。
言いたいことなど初めから何もありはしないのだ。
それなら――自分はいったい何のために? 誰のために?
平城
藤原
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夏の灯籠たち
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夏の灯籠たち
「おじいちゃんに伝えることは、何にもないんじゃね?」
姉にそう念を押されても、言葉はもとより返事すらできなかった。
「まあ、普通はそういうもんじゃけん」と姉が笑い、妹も「ウチらが代わりに言うとくね。辰
巳さん、ぶち優しい人じゃったよー、言うて」
「……ああ、頼むよ」
その言葉が彼女たちとの別れの挨拶になった。
闇の色を次第に濃くする墓地の中、盆灯籠の姉妹はずっと辰巳に手を振り続けていた。純白
の妹はぐすぐすと泣きながら、色とりどりの姉は涙をこらえた笑顔を見せて、先祖代々の墓に
背を向けて歩く辰巳を見送っていた。
辰巳は後ろを振り向かない。彼女たちの姿を見てしまったら、爆発寸前の感情が辰巳の足を
引き止めてしまう。墓場の夜は盆灯籠たちの世界だ。現世を生きる者から託されたメッセージ
を彼女たちが先祖に届ける役目を果たす時間だ。その邪魔をしてはいけない。
その時、夜の涼気をまとった風が辰巳の足元をさらりと吹き抜けた。その風は墓地に飾られ
た幾百もの盆灯籠を同時に揺らしていった。さわさわ、さわさわと一斉に鳴り出した盆灯籠た
ちが辰巳に何かを囁きかけているように聞こえた。
そうか、と辰巳はひとりごちて、夏の星座が見え始めた夜の空をぼんやりと眺める。
「俺、じいちゃんがどうして広島に埋めてほしいって言ったのかわかったよ」
静かに墓地を飾り立てる素朴な盆灯籠たち。初めてなのになぜか懐かしい気がする。伝統的
で華やかなその色彩はどこか悲しく、それでいてとても温かく感じる。辰巳の祖父は墓参りの
たびにこの優しい光景を見てきたのだろう。そして思ったのだ。いずれ自分も墓に入る日が来
るならば、この盆灯籠に囲まれて楽しいお盆を過ごそう、と。
今頃は自分の墓の上で盆灯籠の姉妹と一緒にもみじ饅頭でも頰張っているんだろうか。あの
姉妹に花束を持たせてやればよかったと辰巳は思う。来年は酒も供えてみようか。美人の姉妹
にお酌してもらえば、祖父もさぞ楽しいお盆が過ごせるだろう。もっとも、酔った勢いで祖父
が不埒なことをしでかさないように姉妹の口からきつく注意しておいた方がいいかもしれない
が。
またここへ墓参りに来てみたい。さっきは何も言えなかったけれど、今はそれを盆灯籠たち
と祖父に伝えたい。
「じいちゃん、盆灯籠、また来年会おうな」
石段の手すりに手をかけた時に、辰巳は一度だけ墓地を振り返った。けれどもすっかり暗く
なった墓地にはもう姉妹の姿は見当たらず、ただ盆灯籠のシルエットが夜風を受けてさわさわ、
さわさわと揺らめいているだけであった。
《了》
平城
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夏の灯籠たち
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