日本基督教団 麻布南部坂教会月報

青年会
第四主日礼拝後
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南部坂幼稚園
〒106−0047 東京都港区南麻布 4−5−6 Tel & Fax 03(3473)1276
婦人会
第四主日礼拝後
松 谷 祐 二
牧師
2014(平成26年)2. 9
聖書と祈り会
水曜午前 10 : 30 ∼
成人会
第三主日礼拝後
教会学校
日曜午前 9 : 00 ∼
日本基督教団
麻布南部坂教会月報
麻布南部坂教会月
報
ハンナの会
第一主日礼拝後
主日礼拝
日曜午前 10 : 30 ∼
谷 祐 二
﹁イエス・キリストの昇天﹂
牧師 松
使徒言行録 第一章三∼一一節
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きている
ことを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、
四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話
された。そして、
彼らと食事を共にしていたとき、
こう命じられた。
﹁エルサレムを離れず、前にわ
たしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさ
い。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは
間もなく聖霊による洗礼を授けられるからであ
る。
﹂
さて、使徒たちは集まって、
﹁主よ、イスラエ
ルのために国を建て直してくださるのは、この時
ですか﹂と尋ねた。イエスは言われた。
﹁父が御
自分の権威をもってお定めになった時や時期は、
あなたがたの知るところではない。あなたがたの
上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そ
して、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリ
アの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし
の証人となる。
﹂こう話し終わると、イエスは彼
らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆わ
れて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ
去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。
すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
言った。
﹁ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて
立っているのか。あなたがたから離れて天に上げ
マタイによる福音書 第二八章一六∼二〇節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イ
エスが指示しておかれた山に登った。そして、イ
エスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。
﹁わたしは天
と地の一切の権能を授かっている。だから、あな
たがたは行って、すべての民をわたしの弟子にし
なさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を
授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守
るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる。
﹂
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られたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが
見たのと同じ有様で、またおいでになる。
﹂
︵新共同訳聖書︶
およそ二千年前のパレスチナに生きたイエスと
いう方を、キリスト、神の子と信じる立場︵つま
りこれがキリスト者の信仰の立場です︶と、そう
は信じない立場││イエスは過去の人間の一人で
しかない、と見る立場とでは、ものの見方が相当
に異なります。人間観も世界観も、自分の人生に
ついての見方も違ってきます。キリスト者は、イ
エス・キリストは十字架にかかって本当に死に、
葬られたが、しかし復活し、そして天に昇った、
今も生きておられる、と信じています。信じない
立場からすれば、死んだ人間が復活するはずはな
く、もちろん今生きてはいない。イエスが復活し
たとか天に昇ったとかいうのは、死んだイエスを
慕っていた弟子たちの錯覚、失意を心理的に乗り
越えるために描いた夢、想像力をたくましくした
創作、
そうした類と見えるのではないでしょうか。
キリスト教は、イエスが今も生きているとしな
がら、目には見えないと言う。天に昇ったからだ
と。信じない立場からすれば、これはごまかしや
後づけの理屈にしか聞こえないかもしれません。
しかし、イエスという方を知り得る史料は聖書
しかないので、信じるにせよ疑うにせよ、知りた
ければ聖書を読むしかありません。そして、
﹁聖
書のこの部分はイエスの実像らしく思われるが、
この部分は疑わしい、
きっと後から作られた話だ﹂
と性急に自分の判断基準で切り分けるのではな
く、
今あるままの聖書全体で、
首尾一貫したストー
リーが語られているという可能性を真剣に考えた
ほうが良いと思います。イエスという方と、それ
以前の歴史、それ以後の歴史、特に教会、キリス
ト教の展開は、実は嘘も矛盾もなく、そうなるべ
くしてなってきたのかもしれないではありません
か。何と言っても、聖書によれば、イエス・キリ
ストの受難と死、復活、昇天は、生前からご自分
で何度も予告しておられたことなのです︵昇天に
ついては、ヨハネによる福音書三章一四節、七章
三三∼三四節、一二章三二節、一六章、一七章な
ど︶
。
イエス・キリストの昇天の意味の一つは、神の
御心に従い通し、十字架の死による贖罪をなしと
げたことに対する、神からの栄冠の授与、天地万
物を治める権能、王位の付与ということでした。
別の観点から、キリストは、地上で果たすべき
務めを全うして、本来の住まいに戻られた、とも、
また、今度は天においてなすべき務めを開始され
た、とも言うことができます。キリストの地上で
の務めには、
弟子たち︵キリスト者︶の共同体︵教
会︶の基礎を据える、ということもありました。
キリストが弟子たちを集めて訓練していたのは、
彼らをやがて伝道者として遣わし、ご自分の死と
復活によって救いの道が開かれたことをあまねく
知らせ、すべての人を神の国に招くためだったの
です。知恵にも力にも乏しい弟子たちが、キリス
トの使者として全世界に出て行き、福音を宣べ伝
える││それは、神からの力、聖霊の力を受けな
ければ、到底なしえない重大任務でした。だから
こそ復活後のキリストは天に昇り、そこから弟子
たちに聖霊を送り続け、なすべきことを教え、力
づけてくださっているのです。今もなおキリスト
は、弟子たち︵キリスト者︶の共同体︵教会︶を
守り導き、彼らを通して天の御座から治め、今や
全世界をフィールドとして働いておられるのです。
また、キリストが今や地上ではなく天にいてく
ださるからこそ、全世界のどこでも、すべての人
がこの方を呼び求めることができ、祈りを聞いて
いただき、助けていただくことができる、という
ことも忘れてはなりません。もし、復活後のキリ
ストが今でもエルサレムかどこか地上の﹁聖地﹂
の謁見の間に居て、
わたしたちがはるばる巡礼し、
運がよければ数分、遠くから拝めるだけ、という
ような次第であったとしたら││わたしたちの受
ける恵みの大きさは、まさに天地の差です。
イエス・キリストはなぜ天に昇られたか。常に
聖霊を送り、信じるわたしたちすべてに恵みを、
また奉仕の力をくださるためです。目には見えず
とも、今も生きて働いておられ、心配せずとも、
再び来てくださる時、必ずお目にかかれます。た
だ、
務めを忠実に果たして御前に出たいものです。
〔2〕
麻布南部坂教会 月報
松 谷 佳 子
昨年の七月に牧師館の耐震工事をして頂
いた際の引越しを機に、私たち家族はテレ
ビを見る生活をやめてみました。綺麗に張
り 替 え て も ら っ た 白 い 壁 紙 に 私 と し て は、
テレビを引っ掛けるのが嫌になってしまっ
たのです。
それまでは、ついついテレビをつけてし
まう生活リズム。
夕方のニュースに始まり、
BGMを聴くような感覚で、だらだらと電
源を切れずじまい。小さい時からテレビ中
毒の私ではありましたが、テレビ離れをす
るきっかけが欲しかったのかも知れません。
子供も﹁見たいみたい﹂といい始め、そ
ろそろ悪影響が出はじめたと思って反省は
していたのですが、何せ、目の前に電源を
つければ見られるのに、駄目駄目というの
もストレスフルでしたので、流されるまま
という感じの生活だったと思います。
新聞も紙で読むのは、やめてしまいまし
た。公告が沢山入ってきて家が片付けられ
なくなり、ついつい目に止まる広告に時間
がとられたり、テレビ欄をついでに確認し
てしまったり。雑多な情報に振り回されて
いるような気がし始めうっとうしくなって
きたのです。
意を決して﹁新聞をデジタルだけにした
い。﹂ と 言 っ た 時 は、 初 め は 主 人 も 躊 躇 し
ていましたが、試しにやってみようという
ことになりました。
結果は、読み忘れるときもしばしばあり
ますが、テレビも新聞紙も無い生活はすっ
きり感のほうが強く、良かったです。
夫婦二人で同時に同じ記事を読みなが
ら、 あ ∼ だ こ ∼ だ と 言 う こ と も あ り ま す
し、テレビの代わりに活躍しているラジオ
か ら は、 少 な い ニ ュ ー ス で は あ り ま す が、
大抵のことは把握できます。
さらに良かったことは、ラジオから沢山
の曲を聴くことが出来るようになったこと
です。演奏者のことも色々と情報を流して
くれるので、前より知ることが多くなった
気がします。
子供にも面白い変化がありました。耳を
傾けるようになりました。難しい言葉も聞
き取れるようになっていたので、耳からの
情報は結構あなどれないものなのだなあと
感心します。以前はアニメソングのほかは
興味を示しませんでしたが、ラジオから流
れ て く る ク ラ シ ッ ク に も 耳 慣 れ し た の か、
私がクラシック曲をかけても一緒に楽しむ
ようになりました。時には音楽に合わせて
踊って見せてくれるときもあります。
今はやっと、静けさを受け止められる余
裕が私の中に出てきました。前は具合が悪
い時以外は、静かだと何だか落ち着かずに
いましたし、中毒症状のようなものもあり
ました、少しずつ解毒されてきたような感
じです。
家では、毎晩主人が、子供の就寝前に絵
本を沢山読んでくれます。時には出身地方
の東北なまりで笑いを誘ってみたり、とて
も楽しい時間なので子供もすごく楽しみに
しています。
その本の量が、テレビを見ていた時より
も随分多くなった気がします。子供も本の
台詞を一人遊びの中で使ってみたり演じて
みたりするようになりました。
私も耳を澄ますようになりました。今ま
で何度も読んだ絵本なのに、言葉を聞き飛
ばしていたような、新しく聞いたような気
絵本の言葉の風景が想像できて、
持ちなり、
それがとても楽しいと思えるようになりま
した。この変化は自分でも驚きでした。
聖書の話もそうなのですが、聖書に書か
れ て い る よ う な 時 代 に 生 き て い た 人 は、
きっと音がとても少ない静かな時間を私た
ちより沢山もっていたのではないかなあと
思います。情報はすごく少なくても、耳を
澄ましよく聞き、深く考える時間があった
のではないでしょうか? 想像力もずっと
たくましくて。
神の声を聞きに行く人は、さらに静かな
荒れ野や山や人里はなれたところへ敢えて
行くのですから。イエスさまもそうなさい
﨑
巧
ました。現代の私たちには、神の声がもし
聞こえたとしても、雑多なことに気を取ら
れ、到底聞き取れないのだろうなと思いま
した。心を静かにする、ということは、今
の私たちにとってはとても難しいことなの
ですね。今度はインターネットから如何に
離れるかに挑戦してみたいと思いつつ⋮⋮
まだまだ心静かに出来ずにいる自分と格闘
中です。
山
教会学校では、朝九時からの礼拝後、
〝分
級〟といって、子どもたちの交流の時間を
設けています。聖書を学んだり、讃美歌を
歌ったり、工作をしたり、有栖川公園に散
歩に出かけたり、三十分程ではありますが、
各クラスの子供たちが楽しみにしている時
間です。
今回は、小学科の分級で、種なしパンを
作った時の事をお伝えしたいと思います。
種なしパンとは、出エジプト記の〝主の
過越〟の箇所に出てくる酵母を入れないパ
ンのことです。当時のイスラエルの人々が
味わったパンを作って、食べてみようとい
うことになりました。ところが、パンを作
るとなると、粉を練り、ちぎって、オーブ
ンで焼く。さらに、およそ二十人の子供た
ちが手を洗って、いただくとなると、とて
も時間内には終わりそうにありませんでし
た。そこで、知人のクリスチャンに相談し
た所、ある教会の先生が作られたレシピを
入手する事ができました。以下、種なしパ
ンの作り方です。
材料⋮全粒粉︵または小麦粉︶四十g 水三
十cc 塩小さじ四分の一くらい
①塩を入れた全粒粉に水を少しずつ足し
て、混ぜていく。②まとめたらできるかぎ
り薄く延ばす。③フォークなどで穴を開け
る。 ④ ク ッ キ ン グ ペ ー パ ー に 生 地 を 置 く。
⑤オーブントースターに入れる。⑥二分ぐ
らいしたら裏返しにして、合計三∼四分焼
いてできあがり。
こ の レ シ ピ に よ る と 、 一 番 大 事 な 事 は、
麦粉に水を入れてから十八分ぐらいで発酵
が始まってしまうので、それまでに急いで
完成させなくてはならない、とのことでし
た。なぜ、そんなに急ぐのだろう?と思い、
改めて聖書の出エジプト記を読んでみる
と、その理由が分かってきました。
出エジプト記で神様はモーセとアロン
に、
〝 そ れ を 食 べ る と き は、 腰 帯 を 締 め、
靴を履き、杖を手にし、急いで食べる︵十
二 章 十 一 節 ︶〟、〝 酵 母 の 入 っ た 物 は 一 切 食
べてはならない︵二十節︶〟と言われます。
さ ら に、 三 十 九 節 に は、〝 彼 ら が エ ジ プ ト
から追放されたとき、ぐずぐずしているこ
とはできなかったし、道中の食料を用意す
る い と ま も な か っ た か ら で あ る。〟と 書 か
れています。この時、イスラエルの人々は、
ただ神様が言われた事を守り、四百三十年
間住んだエジプトの地を、一刻も早く出発
するために、十八分も惜しんで、酵母を入
れないパンを焼いたという事を学びました。
当日、子供たちは、出エジプト記のお話
を聞きながら、幼稚園の先生が、作ってく
れるパンの香ばしい香りが部屋いっぱいに
広がり、パンが焼き上がりました。小さく
ちぎって、みんなでいただきました。味は、
クラッカーのような、本当に素朴な味でし
た。オーブントースターの周りに集まって
お 代 わ り を す る 子、 作 り 方 を 確 認 す る 子 、
一人ひとりが当時の事に思いを馳せて、種
なしパンを味わっていたようです。あっと
いう間に売り切れました。
よろしければ、一度お試しください。
こどもさんびか
〝二ひきのさかなと〟より
二ひきのさかなと 五つのパンを
イェスさましゅくして わけました
おとなもこどもも なかよくすわり
みんなでいっぱい たべました
アーメン