日本基督教団 麻布南部坂教会月報

﹁主の祈り ︵2︶
﹂
0
谷 祐 二
ころではありません。わたしたちの体には、
事実、 神に赦される資格がある﹂と、神に主張できるの
必要なものがあります。ただ、わたしたちに本当
でしょうか。いいえ、わたしたちがもし神に赦さ
に何が必要であるかは、神がご存知であり、神が
れるとすれば、イエス・キリストがわたしたちの
備えてくださる、というのが聖書の教えです。
罪の代償として死なれたおかげであって、自分の
功績にはよりません。そもそもわたしたちは、ど
この﹁神が備えてくださる﹂とは、奇跡的に神
が何かをくださる、ということだけを言うのでは
んな罪を犯されたとしても、赦すということが本
ありません。わたしたちが仕事を見つけ、お金を
当にできるのでしょうか。できるとすれば、神が
稼ぎ、必要なものを買って生活していく、それは
わたしたちの心を刷新してくださるときだけで
わたしたちの努力の結果だと思いがちですが、そ
す。ただ、この言葉をもって祈るたびに、わたし
の﹁わたしたちが労して得る﹂ということを根底
たちは覚えるでしょう。
神に罪の赦しを願う以上、
において可能にしてくださっているのは、神であ ﹁わたしたちも⋮赦しました﹂と言えるようにな
られます。普通の人間社会の営みを通して、神が
るべきなのだということを。そして、
﹁赦す者と
備えてくださるのです。
ならせてください﹂
と聖霊の助けを求めるのです。
﹁わたしに必要な糧﹂ではなく﹁わたしたちに
六番目は、
﹁誘惑に遭わせず、悪い者から救っ
必要な糧﹂
、広く隣人に、世界の人々に必要な糧
てください﹂
︵
﹁我らを試みに遭わせず、悪より救
を願う、というのも大事な点でありましょう。今
い出したまえ﹂
︶
。
﹁誘惑﹂は罪を犯すことへのい
日、貧富の格差が広がり困窮する人々が増えてい
ざない、
﹁悪い者﹂は悪の擬人化した言い方です。
五番目で罪の赦しを願っているのですが、それに
ると言われる中で、公正な再分配が世界的に実行
に移される︵そうあってほしいものです!︶とい
もかかわらず、罪はあたかも良いことであるかの
うことがもしあるならば、それは人の善意や良き
ような装いで、常にわたしたちを魅惑するもので
政策の結果と見えるかもしれませんが、根本的に
す。ちょうど、禁じられた木の実が、アダムとエ
は、わたしたちをそのような方向に導きたもう神
バの目を引きつけたように。そして、
﹁このくら
のご配慮、
神の御手の働きあってのことなのです。 いは﹂と誘惑に負けて罪を犯すことを続けている
必要な糧を﹁今日﹂与えてくださいという願い
と、しだいに慣れて無感覚になっていき、人と人
は、わたしたちは、一日一日、その日に必要な分
との関係を損ない、ついには神の御前で自分を滅
を神様が備えてくださるならば生きていけます、 ぼすことになります。そうした誘惑から逃れられ
るように、また誘惑を受けるときにも、キリスト
そうやって生涯、日ごとに神様のお世話をいただ
いてこそわたしたちは生きていけます、という、 がそうあられたように、悪に負けることなく、善
神への信頼を表明しています。これと正反対なの
をもって悪に打ち勝てるよう、聖霊の助けを祈る
は、
﹁わたしに一生分の大儲けをさせてください。 のです。
﹁わたしたち﹂についての願いの中でも、四番
もう神様のお世話にならなくても自分で生きてい
けるように﹂というような態度です。果たしてこ
目︵日ごとの糧︶は比較的分かりやすいとしても、
五番目︵罪の赦し︶
れを神は喜ばれるでしょうか。
、六番目︵誘惑からの守りと
五番目は、
﹁わたしたちの負い目を赦してくだ
悪からの救い︶は、わたしたちが普通に思いつく
さい﹂︵
﹁我らの罪を赦したまえ﹂
︶
。﹁負い目﹂
は
﹁罪﹂ 願いではないかもしれません。それらは、わたし
のことで、神に対するわたしたちの罪を赦してく
たちがあまりその必要を自覚していない、しかし
ださい、という願いです。そして﹁わたしたちも
本当は切実に必要としていることだからこそ、イ
自分に負い目のある人を赦しましたように﹂
︵
﹁我
エス・キリストは﹁こう祈りなさい﹂と教えてく
らに罪を犯す者を我らが赦すごとく︶
︶という言
ださっているのだと思います。
葉を加えます。大胆とも思える言葉です。
﹁わた
したちは人の罪を赦した。だから、わたしたちは
0
0
牧師 松
マタイによる福音書 第六章九∼一三節
だから、こう祈りなさい。
﹃天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。
﹄
︵新共同訳聖書︶
印刷 有限会社 創文社 Tel(3491)8321
イエス・キリストが弟子たちに教えてくださり、
﹁主の祈り﹂として教会で受け継がれてきた祈祷
文の、後半を学びます。
前半の三つは、
﹁御名﹂
﹁御国﹂
﹁御心﹂と、す
べて神の事柄についての願いでした。それに対し
て後半の三つ︵四、五、六番目︶は、すべて﹁わ
たしたち﹂
の事柄についての願いになっています。
わたしたち自身のことも、率直に神にお願いして
良いのです。神とわたしたちとの間に立っていて
くださる、イエス・キリストの仲介に信頼して。
︵かて︶
四番目の願いは、﹁わたしたちに必要な糧
を今日与えてください︵教会でよく使われている
文語文では、
﹁我らの日用の糧を今日も与えたま
え﹂
︶
﹂
。これは、
﹁わたしたちに必要な糧﹂││代
表的には食べものですが、それだけでなく、わた
したちが生きていくのに必要な、着る物、住む場
所、健康、仕事、お金、家族、友人、安定した社
会や良き政治、気候や自然環境⋮そうしたものを
願い求めています。
食べるものが無くてもただ信仰があれば生きら
れる、といった無謀な精神論は、聖書の教えると
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教会附属
南部坂幼稚園
http://www.nanbuzaka.com/
E-mail [email protected]
聖書と祈り会
水曜午前 10 : 30 ∼
〒106−0047 東京都港区南麻布 4−5−6 Tel & Fax 03(3473)1276
青年会
第4日曜 礼拝後
松 谷 祐 二
牧師
2016(平成28年)2. 14
教会学校
日曜午前 9 : 00 ∼
婦人会
第4日曜 礼拝後
主日第二礼拝
日曜午前 10 : 30 ∼
日本基督教団
麻布南部坂教会月報
麻布南部坂教会月
報
成人会
第3日曜 礼拝後
主日第一礼拝
日曜午前 9 : 00 ∼
〔2〕
麻布南部坂教会 月報
佐 柳
理
久
今回、宍戸兄より月報の原稿のご依頼を
受け、いつものように優しく﹁難しいこと
は書かなくても大丈夫ですから﹂とお声を
かけていただいたものの、まったく何を書
いたら良いか検討もつかないまま時間が過
ぎてしまいましたが、恥を覚悟で以前から
感じている聖書にまつわるいくつかの疑問
について書いてみたいと思います。
私は五十代も後半になってようやく毎週
の主日礼拝における松谷先生のお説教や毎
月の成人会における聖書の勉強会を通し
て、聖書の読み解きというものに接してき
ましたが、その学びの課程で度々出てくる
のが以下の二つの疑問です。
●神様は時に何故、厳しい試練をお与えに
なるのか?
聖書の中で時々神様のお与えになる試練
の厳しさに遭遇します。それはともすれば
神様に対して一般的に︵こちらが勝手に?︶
抱いている優しさや寛容さといったものと
は対極にあり、驚くことがあります。
特に成人会に入って間もなく読んだ﹃ヨ
ブ記﹄では、そんなに厳しくしなくてもで
すとか、何故そのように厳しく接しなさる
のだろう、
とついつい考えてしまいました。
その﹃ヨブ記﹄では、主が﹁私の僕﹂と
呼ばれ、信仰深くまた富や家族に恵まれて
幸せに暮らしているヨブに対して、サタン
がヨブの信仰心はその富や家族との幸せを
取り上げることでなくなる、と主に挑戦を
し ま す。 神 様 も そ れ を お 受 け に な り︵
﹁た
だし彼には、
手を出すな。
﹂という条件で︶、
その結果ヨブは富や家族を次々と失い、そ
して自分自身も皮膚病に苦しまされ、それ
でもなお信仰心を失ないませんでした。
しかしそういったヨブもあまりもの境遇
にだんだんと心が揺らぎ、心配して駆け寄
ってきた三人の親しい友人たちとの議論の
中では葛藤をしています。しかし土壇場で
主がヨブに語りかけ、ヨブの信仰心が確か
められ、再び主はヨブに以前にも増して富
と家族との幸せ、そして健康と長寿を与え
られます。また、同時に主は、三人の親し
い友人が正しく語らなかったと怒られます。
あ る 程 度、 劇 的 な 要 素 が あ る と は い え、
ここまでの試練を与えられることで信仰心
が試されるというのは、大変厳しいなとい
うのが正直な印象でした。自分だったら途
中で耐えられなくなったに違いありません。
●何故、ユダヤ系の人々がもっと多くキリ
スト教徒にならなかったのか?
ユダヤ系の人々は我々キリスト教徒が旧
約聖書としている部分を共有していますが
︵というか、我々キリスト教徒がユダヤ教
の旧約聖書を利用しているのでしょうが︶
、
イエス様こそが旧約聖書で予言されていた
方であるように思われるのに、何故ユダヤ
系の人々の多くはイエス様を信じてキリス
ト教徒にならなかったのかということを良
く不思議に思います。
ご存知のようにユダヤ系の人々には優秀
な人が多く、苗字の終わりに﹁バーグ﹂と
か﹁シュタイン﹂が付くのですぐわかりま
すし、世界中で各界︵科学や音楽、そして
メディアや金融など︶に、優秀な人材を数
多く輩出しています。
アメリカで通った大学ではアジア系も優
秀でしたが︵念のために私はその内の一人
ではありませんでしたが︶、アジア系が睡
眠時間を削っていくら頑張っても二番止ま
りなのに対して、必ず一番上にはユダヤ系
の学生がいる、
という構図を良く見ました。
そのように優秀なユダヤ系の人たちが何
故イエス様の登場が旧約聖書と結びつかな
かったのか、というのがもう一つの疑問で
す。
どちらの疑問に関しても、成人会などの
場でほんの少し口にしたことはありますが、
まだそれ程深く追求をしたわけでもありま
せんし、まだ答えは見出せておりません。
これから更に聖書の読み解きを行うこと
で、これらの疑問に対する答が見つかるの
か、或いは見つかる必要があるのかも、分
かりませんが、引き続きキリスト教徒とし
ての学びに牧師先生や兄弟姉妹に手を差し
伸べていただければと思います。
報
告
*一月一日︵水︶午後二時より、西南支区
の新年礼拝が渋谷教会で行われ、当教会
からも多くの方が礼拝に参加されました。
*南部坂幼稚園では八日︵金︶から三学期
が始まりました。
*当教会で礼拝を守ってこられた酒井ユリ
さんが、受洗を目指して準備に入ること
を志願されました。お祈りに覚え、お励
ましください。
*東京神学大学に四月に入学予定の高橋優
美子神学生︵現在、日本基督教団麻生教
会︵北海道︶教会員、六十一歳女性︶を、
当教会でお受入れすることになりまし
た。お祈りと献金によるお支えをお願い
します。
*受洗、信仰告白、伝道者としての献身を
お考えの方は、牧師までご相談ください。
人 会
︽各部報告 一月度︾
成
日 時 一月十七日 午後一時半∼三時半
まで
場 所 教会堂会議室
出席者 九名
開会祈祷 水沼和子姉
内 容
昨年に引き続き、
ダニエル書九章を読む。
この聖書箇所を読むにあたりエレミヤ書の
二十五章一∼十四節、二十九章一∼二十三
節を参照しつつ学んだ。
ダニエルは捕囚の地にあってダレイオス
王 治 世 の 一 年 の 時 に エ レ ミ ヤ 書 を 読 ん だ。
主 が 預 言 者 エ レ ミ ヤ に 告 げ ら れ た よ う に、
エルサレムの荒廃のときが終わるまでには
人
会
七十年という年数があることを悟る。
九章はこの前半のダニエルのイスラエル
の民のための懇願の祈りと、さらにダニエ
ルに悟らせるべく、この祈りに応えられた
神の御言葉と幻がダニエルに与えられると
いう構成になっている。この時与えられた
御言葉と幻とは、エルサレムとメシアに関
する預言であり、神が定めた時が満ちれば
苦難と迫害が終わり、救いの年が来ること
を告げるものであった。
次回は二月二十一日、司会木村信太郎兄
黙祷をもって閉会。
婦
年
会
日 時 一月二十四日 主日礼拝後
場 所 会堂会議室
出 席者 七 名
開会祈祷 原麗子姉
閉会祈祷 松谷祐二牧師
内 容
一、聖書研究 詩 第一、二編
全員で輪読した後、松谷牧師の解説を聞
いた。
第一編 神を畏れ、掟、律法に従う者は幸
せ と、 繁 栄 が 齎 さ れ る。 神 に 逆 ら う 者、
傲慢なものは無益でゴミのようなもので
あり、その先は滅びに至る。
第二 編 地 上 を 二 つ に 分 け、 個 人 を 越 え、
国々、民族の単位で神を敬い主を畏れる
指導者と主に逆らい、主の憤りを招く支
配者を並列し、主を避けどころとする王
を い た だ く 人 々 は 幸 い が 齎 さ れ る、 と
歌っている。
次回 二月 詩 二十二、二十三編
青
休会