7) 教会の歴史と現在の在り方

7) 教会の歴史と現在の在り方
使徒たちの時代(初代教会)
イエス・キリストの復活後50日目、エルサレムで集まっていた弟子たちに聖霊が降りた。彼らは霊に満たされ、新し
い心と勇気を与えられ、「ナザレのイエスこそ、神によって死者のうちから復活した真(まこと)の救い主(キリスト)であ
る 」とエルサレムの人々に伝えはじめたが、わずか20~30年の間に遠く離れたローマをはじめ地中海沿岸の町に
キリスト信仰が伝播(でんぱん)していき教会が形成されていく。
イエスが「この岩の上に教会を建てる」とことばをかけたペトロが活躍し殉教したローマの教会は、エルサレムの教
会に代わって全教会の中心的役目を果たすようになり、今日(こんにち)でもローマ教会の責任者(教皇)はペトロ
の後継者であり、全世界に広がる教会の最高責任者としてまとめ役を担っている。各地に生まれた教会にはそれぞ
れ世話役が決められ、その役目は今日の司教や司祭たちとほぼ等しく、すでに奉仕職が定着していた。
迫害の時代からローマの国教へ
当時義務だった「皇帝礼拝(=偶像礼拝)」を拒むキリスト教は社会秩序を乱すとして迫害が始まり、64年ネロ皇帝
による迫害でペトロとパウロがローマで殉教し、信者は棄教を迫られ数千人が棄教や殉教の犠牲になりながらも各
地域でキリスト教共同体を成長させていった。
313年、コンスタンチヌス皇帝の「ミラノ勅令」をもって、ローマ帝国はキリスト教を合法的なものとし、さらに4世紀の
終わりには、テオドシウス帝がキリスト教を国教と定めるに至った。背教者にも復帰が認められ、一部の信者は修道
生活を始めた。3世紀の半ばにエジプトのアントニオは修行するために砂漠へ退いて、その後共同生活を営むよう
になり、清貧・従順・貞潔を中心とした戒律ができた。バジリオ(379年没)の戒律は東方の、ベネディクト(547年没)
の戒律は西方の、それぞれの修道院に採用された。特にベネディクトに従った者はヨーロッパの文化(文学、科学、
農学)の確立と宣教に貢献した。
正統と異端
宣教によって各地に広まったものの、ローマの多神教とヘレニズム文化の中、本来の信仰を保つために当初から
様々な戦いに直面しなければならなかった。司教団が使徒たちから受け継いだ使徒信条に対して異説を唱える者
が相次ぎ、特に三位一体、キリストの本質、聖母マリア、政治とキリスト教の関係についての歪曲(わいきょく)が起こり
はじめる。このような異端が広まり問題が生じる都度、司教たちは各地から集まりローマ教皇を中心に公会議を開催
し、使徒伝承の正統信仰を再確認し解決してきた。
ローマ帝国崩壊後のキリスト教と十字軍
4世紀から10世紀にかけて、地中海周辺に限られていたキリスト教が、民族大移動と共にアルプスを越えて全ヨー
ロッパに広がった。476年にローマ帝国が崩壊した後も教皇の指導と援助のもとにアングロサクソン、ゲルマン諸族
のキリスト教化がねばり強く行われた。アイルランドの使徒パトリック、スコットランドで活躍したコロンバン、ゲルマン
人の使徒と呼ばれるボニファチオなどが有名である。
7世紀半ば、マホメットを指導者とするイスラム教やサラセン勢力が拡大し、ヨーロッパ世界を包囲する。短期間で
キリスト教発祥の地や初代教会が栄えた地中海沿岸が奪われ、後に聖地奪回の十字軍遠征を企てる原因となる。
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東方教会の分裂
4世紀の終わりころにローマ帝国は西(ローマ)と東(コンスタンティノポリス)に分かれた。コンスタンティノポリスを
首都とした東のビザンティン帝国は15世紀まで続き、文化的や経済的にローマよりも優れていた。帝国がわかれた
中でキリスト教も一致を保つことが難しくなり、1054年にギリシャとロシアに根を張っていた正教会は、こじれた教会
政治と典礼解釈の相違のためにローマ教会から分裂した。
ルネサンス~宗教改革時代
11世紀から13世紀は教会の指導力が頂点に達するが、14世紀には教皇庁が分離し衰退を見せる。15世紀にイタ
リアを中心に始まったルネサンス(再生)運動は、またたく間にヨーロッパ全域に拡大し、歴代教皇はこの運動の推
進に力を注ぎ、文化、美術、建築を栄えさせ教会の再興を図った。結果宗教的混乱を招き、修道者のアシジの聖フ
ランシスコ(1226年没)、聖ドミニコ(1221年没)などは教会の霊的刷新を展開した。
16世紀になると、教会の指導者たちの間には世俗の欲にとらわれる傾向が強まり、これを批判する動きが高まる。
ローマ教皇庁に対する抗議(プロテスト)は、贖宥符問題を契機にアウグスチノ修道会士のマルチン・ルター(ルー
テル)を発起としてドイツから北ヨーロッパに広がり、討議の末ルターは破門されるが、ドイツ人の半分を占めるまで
に増大した福音主義運動は新しい教会(プロテスタント)となった。
イギリスがローマ教会から分かれた要因は、ヘンリー八世の離婚問題であった。キャサリン王妃との婚姻解消をロ
ーマが認めなかったため、1534年に自国の教会をローマ教皇の支配から切り離して英国国教会を設立し、教会統
治権を王位のもとにおいた。アングリカン・コミュニオン、日本では日本聖公会という。
カトリック教会の宗教改革
同じころ、イグナチオ・ロヨラによってイエズス会が創設され、カトリック教会改革の有力な担い手となった。同会は
厳格な規律と絶対服従の精神、献身と優れた組織力によって、キリスト教の伝えられていない海外諸国への宣教に
貢献した。日本へのキリスト教伝来は、こうした世界宣教活動の一環であった。
改革の総決算はトリエント公会議(1545-1563年)に見られる。この公会議は、教会内にみられた種々の悪習を撤
廃し、司教による司祭への監督強化などをもって規則の引き締めをはかった。また原罪の教義と、洗礼、堅信、聖体、
ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の七つの秘跡とその教義を確認し、ミサの典礼文をラテン語に統一した。さらに神
学校制度を制定し聖職志願者の養成に力を入れることによって教会に実のある刷新をはかろうとした。
18世紀
ヨーロッパでは宗教や信仰に対する関心が自然科学へと移っていった。コペルニクス、ケプラー、ガリレオなどの
天文学上の新発見は、ギリシャ以来の宇宙観を根底から覆すものであった。当初、教会は新しい科学の動きに対し
警戒を示したが、ニュートンの時代になると客観的真理を示す科学的姿勢を評価するようになった。しかし、合理主
義哲学はキリスト教から超自然的な要素を大幅に奪い、教会はほぼ守りの姿勢に終始し、指導力を失って孤立し
た。
19世紀
フランス革命とそれに続くナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱の中で、カトリック教会は再び力を取り戻した。
第一バチカン公会議(1869-1870年)の開催、多くの修道会や、司祭によって構成された宣教会が次々と誕生した。
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修道生活を営みながら霊的指導、教育、福祉、医療、学問、芸術など多岐にわたる分野をそれぞれの専門としてめ
ざましい活動を繰り広げた。
20世紀
二つの世界大戦とその後の世界の動きは、教会にも深い自覚を促し、交通や通信網のめざましい発達によって
ますます強まった。またヨーロッパにおけるキリスト教離れと、それに反比例するかのようなアジア、アフリカ、南米で
のキリスト教の拡大、さらに地域紛争とテロの危機意識の中に、イエス・キリストから教会に託された救いの恵みと使
命が、人類や社会にとって何であるかを改めて問うことになった。
新しい時代に生きるためカトリック教会は、教皇ヨハネ二十三世の招集による第二バチカン公会議(1962-1965
年)から、全面的な自己改革の道を断行した。この公会議では特に、人類とともに歩む教会の本質と使命を深く理解
すること、さらに現代社会の苦悩と人類の希望を鋭く洞察した。また、これまでの閉鎖的な護教主義を撤回し、カトリ
ックの伝統を保持しながらも、さまざまな改革路線を大胆に打ち出し、「開かれた教会」をめざして歩み始めた。典礼
の刷新、教会一致運動、司教・司祭・修道者・信徒の使命の養成、諸宗教との対話、社会正義の実現など、多岐に
わたる課題への実践的な取り組みなどが進行中である。
日本のカトリック教会の歴史
日本におけるカトリック教会の歴史は殉教の歴史といえる。宣教は1549年8月15日、スペインのイエズス会士聖フ
ランシスコ・ザビエルの鹿児島渡来によって始められた。当時交通は極めて不便であったが、イエズス会、フランシ
スコ会、ドミニコ 会、アウグスチノ会等の会員がインド、フィリピン等から相次いで来日し、各地 に教会、修道院、学
校、病院等を建設した。しかし1587年豊臣秀吉の時代に禁教令が敷かれ、迫害が激烈化、1597年2月2日、長崎に
おいて26名の信徒・修道者・司祭が殉教を遂げたのを皮切りに、多くの信徒が追放、死刑等の極刑に遭った。1614
年の統計によれば、聖職者150名、信徒数 65万を超えていたとされている。
1857年、鎖国令が解除されジラール師が江戸領事館付司祭として来日し、1862年はじめて横浜に教会を建てる。
また、プティジャン師が長崎 に上陸し、1865年に大浦天主堂を建て信徒を発見、日本におけるカトリックは漸く復興
した。1889年に信教の自由が保障されると、パリ外国宣
教会は次第にその宣教網を拡大して各地に教会を建設
すると共に、海外から様々な修道会を招致して学校並び
に病院その他の事業を興し、共に宣教に励んだ。
1927年に長崎教区、1937年には東京教区が邦人教区
として独立、現在日本のカトリック教会は16教区になって
いる。
なお、終戦後消失した東京教区の各教会に、ドイツ・
ケルン教区の大きな支援があり復興したことは、東京カ
テドラル関口教会聖マリア大聖堂が後世に伝えるもの
である。
国宝:大浦天主堂信徒発見の聖母子
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像
現在の在り方
21世紀の教会はキリスト生誕2000年にあたる大聖年から始まる。教皇ヨハネ・パウロ二世が1994年に使徒的書簡
「第三千年期の到来」で大聖年への心構えを記し、特に神のあわれみと罪のゆるしの特別な記念の年とすることを
表明する。準備として1997年はおん子イエス、1998年には聖霊、1999年にはおん父をそれぞれのテーマとされた。
またこの年に教皇は貧しい国の債務帳消しを訴え、以降教皇は、2004年・聖体の年、2008年・聖パウロの年、2009
年・司祭の年、2012年・信仰の年と定め、世界中の信者に信仰の本質と使徒伝承の教会について思い起こし、絶え
ず刷新を促している。
さらにカトリックと、プロテスタント諸会派、聖公会とのエキュメニカルな動きとして、1987年の聖書の新共同訳刊
行に続いて2000年の大聖書展開催、そして聖公会と同じ『主の祈り』が与えられた。現在も合同礼拝や音楽祭、祈り
の集いなどが各教区で行われている。
ワールド・ユース・デー(World Youth Day)
国連が1985年を「世界青年の年」と定めたことを受け、1984年の特別聖年で教皇が青年たちにローマへと集うよう
呼びかけたことから始まり、以後2~3年ごとに世界各地で大会が開催されている。また、これより毎年「受難の主日
(枝の主日)」が「世界青年の日」とされた。数十万人から数百万人の世界のカトリックの若者たちが教皇の下にひと
つに集い、回心、受難と復活の神秘を祝う巡礼として、交流と信仰の育みの場となっている。
日本の社会とともに歩む教会
日本では、1987年の第1回福音宣教推進全国会議(NICE)以降、教会は人々と苦しみを分かち合い、社会の良
心となり、新しい社会を作るための勇気と指針を以て、それぞれの立場で成すべきことを行なうよう呼びかけている。
また、生活をとおして育まれる信仰は、職場、家庭の中で証しすることが可能となり、青少年の心身の健全のために
望ましい環境を整えることにつながるとしている。さらに教会は地域に開かれるべきで、信徒と司祭は共同体として
連携し一人ひとりが共同責任を担っている自覚を持つことと、小教区の壁を超えて交流と協力を求めることが発信さ
れている。
適切な日本語訳を目指して
第二バチカン公会議から母国語での典礼が可能となり、日本はそれまでのラテン語から日本語の典礼に変わっ
た。長い間文語体の祈りであったものを、現代の様式に合わせ徐々にわかりやすく適切な口語体に変更され、祈り
を身近に、深く味わうことができるよう目指している。
東京教区の優先課題
1987年のNICEから「福音的使命感の危機」「若者の教会離れ」「内向きな小教区」はほとんど改善されることがな
かった。そのため教区は2001年、大司教から発信された『新しい一歩』に沿って再編成を行い、宣教協力体を置い
た。10年余り経過した今、ようやく小教区の壁が低くなりつつある。しかし、今後は圧倒的な司祭の不足と少子高齢
化社会を目前に、一人ひとりが「信徒使徒職」の原点に立ち返り、意識と制度の改革を行い、信者が自発的に教会
運営と宣教に関わる必要性を自覚することが求められている。
神の愛と聖霊の働きに強く憧れ、主の食卓を囲む喜びを分かち合う共同体作りは、「わたしたち」一人ひとりの中
におられるイエスの想いの実現と言える。
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