第8回 河辺 おいくつぐらい?60歳の時ですか? 先生にかんしては「年齢

第8回
河辺 おいくつぐらい?60歳の時ですか?
先生にかんしては「年齢」など考えたことがなかった。男が男に魅力を感じるとき
は「歳」は関係ないことを実体験していたあたしであった。
頓所 退職してからですからね。だからあの、あの頃は、58だったですか。それから…。
河辺 まあ、60ぐらいですかね。
ここはあまり考えないようにしたのでついつい奥様の言葉を切っている私であった。
頓所
そうそう、60ちょっと過ぎたぐらいだと思うんです。それから作ったんですから
ね。もう、あっちの部屋で…。冬なんかストーブたきっ通しですよ。室温が一定し
ないとね、何とかがダメんなるとか言って。だから、四六時中たいていました。
できることはやっておく。考えさせられます。
河辺 奥様はどちらのお生まれだったんですか?
頓所 私は主人のちょっとそばです。
河辺 あ、じゃあ、長野?
頓所 はい、長野市です。善光寺さんのそばです。
善光寺、、なんといい発音でしょう。Z がいい響きです。口慣れた感じを耳に残す響
きでした。
河辺 ああ、そうですか。いやあ先生をお探しする最初のころは関係筋からは「頓所さん、
多分長野に帰ってあるはずよ」っていって、場所探しから始まったんです。
当初先生のおられる場所がわからずいろいろ聞きまわっていたが「個人情報」とい
う壁がくだけなかった。なんだかヒトシレズ隠居されるマイナスのイメージを引き
起こすこのシステムです。
頓所 ああ、そうですか。ものでも書くような活動があればよかったのにね。
河辺 お写真が好きだったんですね。
しかし写真記録が山ほど拝見できた。
頓所 そうですね。ま、最初はもうもっぱら写真でしたね。8ミリがなかったから。
河辺 はい。
頓所
これはね、このカバーもね、ひとつひとつ自分で作ってね。翼を中に入れられるよ
うになってて。そして運べるようにって。そん時にここに、赤いきれをこうやって
まいてね。
車の上に載せるキャリーです。パイプ構造でハンプをかぶせてあります。長尺物に
なるので道路交通法に従って「赤布」を縛ってある写真を見ながらの会話です。
河辺 はい、それを今日お持ちだったんですね。はあ…。これですね。
この赤い布切れを振ることは奥様が思いつかれたことらしい。すごくロマンがあり
ます。
誰かを訪ねていって遠く遠くから「ハンカチや布切れ」を振っていただかれた方っ
ておられますか??感激ですよ。ついつい小走りになって「抱きたい」衝撃です。
ここはラストでなくスタートのシーンなんです。この味わいを受けた「マイウイン
グ」筆者も感激されて書かれていますね。
頓所 そうです。お恥ずかしい。
河辺 こんな貴重な写真があるとは私は思わなかった。検査官、検査官という頭があって、
それでハンググライダーを戦前から作るという生粋の信州人・・ねばりの性格が知
りたいのですよ
頓所 この、グライダーの人生でしたね。今考えると。
よほどの思い入れがあったのでしょうね。
河辺 うーん…。これだけに、走ってこられましたもんね。
頓所
そうなんですよ。はじめにね、やっぱりそういう性格がわかるまではね時間がかか
ります、まあ、そうとう経ってからでね。だんだん、わかってくるんですけどね。
最初はこんなことは知らないで結婚したんですからね。今考えるとびっくりですが
家族はしっかり守ってくれました。
知らない間にここまで時間が経過してしまったようなため息でした。出兵されなか
っただけでも良としておきましょう。
河辺
うらやましいです。先生も自分の強い性格はどうにもできなかったのだと思います
よ。
河辺には先生の心がよく見えてきました。それは「怖いものは自分」であったはず
です。
頓所 はあ。はは。ほんと。
河辺
親父がずっと戦前は南方で戦後は戦後昭和27年から航空機やグライダーに乗って
ましたからね、頓所先生が博多ブレデイー基地(以前の雁の巣飛行場)近辺におられた
とき N 新聞社が購入希望の単発機を父が専属で乗る話があったとききたい検査に頓
所先生に見ていただいたことがあるのですよ。お袋が言いよりました。「あのー…、
食べていけん、と。グライダーしよっても。
」だから他の仕事についてほしい、と。
ははは。覚えてますよ。で、お袋がずっと、夜、毛糸をこう…。セーター編むやつ
を…。
ついつい昔を思い出しました。
頓所 ああ、機械がありましたよね。
河辺
そうそう、それで、ゴム編みていって、袖のところのゴム編みをしてたのを覚えて
ますもん。やかんの口に金具つけて蒸気出して、解いたら、毛糸がこうなっている
のを熱で戻して…。
いい時代でした。テレビはなくラジオでもききながら親子は十分すぎる会話の時間
がありました。
頓所 そうですよ。私らもね、そうやって編みましたよ。
河辺
そういう時代を僕も通ってきたでしょう。で、そういう人たちがこれだけの功績が
あったのに全く誰もそこに目をつけないというのが20年ぐらい前から分かってき
て。こりゃあ、なんとかせないかん、と。
頓所 おかげさまでね、お酒飲まないんですよ。それからタバコも吸わないんですよ。
河辺 ああ、そうですか。
頓所 私が結婚したばっかりの時は、タバコ20本吸ってたんですよ。
戦後のことだから、戦前から吸ってあったのかな。
河辺 ああ、じゃあ止められたんですか?
頓所
止めたんです。それがそんなに無理しなくて。体によくないからって言って。いつ
頃から止めたのか覚えないくらい、ハイ。
つまり「意思」の強さですね。
頓所 グライダーに興味をお持ちなんですか?
河辺
ええ、岡山県に滑空機の研究かがおられて彼の熱意が私を動かしたんですけどね 。
「河辺さん、このままじゃ日本の滑空界の歴史はどうなりますか。」と。頓所先生の
ところのボタンを押すと、頓所先生の一生の功績とかね、できればいろんな遺品の
写真とかを載せていけばみんながわかるわけですね。だから今日、拝見したら、本
もたくさんありますしね、これはちょっとね、私もここで写真を撮るっていうのも
大変ですしね。今日持って帰るということもできないし。こりゃ、もう一度こない
かんかな、という思いが…。頭の中で、どんな風にするのがいいか…。
あたまではこの資料の仕分けが交錯しています。
頓所 そうですね。本当に大変ですよね。
ぐるっとお部屋を見渡して・・。
河辺 どのくらいの資料までお借りできるかによって決まってきますね。
実際ここでは仕分けしてありませんので必要なものと否がわかりません。
仕分けは大変な作業になることでしょう。
頓所
いいですよ、希望を話してください。私ね、本音を言いますとね、私には資料の是
非はわかりませんのよ。あってもわからないんですよ。とにかく。
まったく正直な回答であった。
河辺 奥様のお考えとご子息の気持ちも確認すべきと考えています。
突然課題が重要なところに入ってしまった。
頓所
ええ。だからね、わからないかといって処分する気にはならなかったんです、人情
としてね。どうしてもその、できなかったんです。だからこのままになってたんで
す。だからね、結論といえば、どうやっていただいても、みなさんの研究になるん
でしたら、主人も本望だと思いますよ。
実際これほどの資料が残されていることは奇跡に近いものある。先生に対するご尊
敬の念と苦労がまぶたに残るが故の「愛情」の表現であると感じた。
河辺
私どもは一度はお預かりして記録をとったり。大事なところはコピーをとったり。
で、ご遺族様が戻してくれという時は原本はまた全部お返しするわけです。ご寄贈
もありがたくお受けさせていただきます。ただし双方で念書を交わすようになりま
すけど。
頓所 そうですよねえ…。
河辺
それを考えますと、何もかんも持っていくというのはちょっと難しいところですね
…。
頓所 そうですよね。
河辺 お電話の時には、本が2冊しかないですよという話だったから私もついつい…。
これには大きな行き違いがあった。先生が残された「マイウイング」のデーターフ
ァイルが2冊
のこされたこを言ってあります。
頓所 だから私としては、どうやっていただいても結構です。
河辺
あの…、諏訪の方が持っていかれた、機体を持っていかれた時にですね、譲渡書と
いいますか、差し上げますよという、そういう書類の交換はされてはおられないん
ですね?
ここでひとつの疑問に出会った。機体のことである。
頓所 ええ、全然ありません。
まさに信用のみの行動につながっていた。
河辺 ああ、そうですか。
ちょっと気になりますが仕方ない。
頓所
お見えになったとき私はもう、主人の看病でもう…。そっちの方ばっかりに頭がい
ってましたから。訪問話に「はいはい」といっておきながらどうしていいのかはあ
たまになかった。
河辺 ああ、なるほど。
頓所
主人はベットからどうにか起きてきました。ここへ皆さん座られて向こうにビデオ
カメラが立てられて主人との話しを録画されたのですが・・声も小さく座ることも
ままならない状態の中ですよ。主人はすぐに部屋にもどり薄目をあけて手を組んで
寝ておりました。「よろしく」ということであったのでしょうね。
どう受け止めるべきでしょうか。きつかったでしょうね。
第8回おわり