本文ファイル - NAOSITE

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
英國中世の國内商業
Author(s)
重藤, 威夫
Citation
経営と経済, 31(3-4), pp.1-18; 1952
Issue Date
1952-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/27301
Right
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垂藤威夫
英 國 中 世 の 國 内 商 業
︵一︶ 市 の 起 源
中世時代には、郡市では日常の商莞取引の外に、国内商業の大部分は年市︵lぎS︶と過市︵昌︼告︶とで行われた。
その活動が敢高潮に達したのは十二・十三・十四世紀で.あって、英国は年市と週市との網で覆われ、その中の或るも
のはプラソスの大年軍であるシャム。バーl二やヮオソとその名声を競った。十三世紀には年市と週市の開設を許され
たものは約三千三百、十四世紀には約千五百六十、十五世紀には一四八二年までに約百、合計約五百を数うるに至
った。り
それらの市場は宗教的超源を有するものであって、その発端に於いては、年市と週市とは商業的行事としてよりも、
宗蘭的行事として現われた。それら、は甜聖徒の祭日に有名な教会の周囲に集まった敬虔孜信徒の宗教的な集りに由来
している。各地方から外来者が集合することによって各地方からの産物を交換する機会が与えられ、叉巡礼者はしば
しぜ商人であ・つた。か主定期的な集りは、人口が分散し、交通が不便で、人品集合することが稀であった時代に
は、商人に買手の出現を確保するよい機会であった。教会による人心への感化は、年市が勃興するに必要な平和を育
成する上に有力な原因であった。年市の宗教的起汝を示すものに次の例がある。ノルマソ征服以前には、ダルハムの
選帝侯領︵1訂palat⋮natの︶の聖C旨をtの祭日には、毎年多数の大火が集まり、この集会からその聖徒の名を冠する大
きな年市が生じた。lハソティアドソシヤーの聖丁イヴス︹地名︺で、一〇〇二年にその聖徒の遺骨が発見されたこと
英国中世の国内商業
γ
経営と経済
英国最大の年市の一である聖プイヴス年市の起源となった。その年市の最初の開設の許可ーがあったのは、
、
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J
王権による特許
サ ー は エ ド ワ ー ド 一 世 に 年 市 を 所 有 す る 乙 と の 権 利 を 請 願 し て い る 。 パ ー ク レ 1卿 は 三 つ の 年 市 を 所
)J
市との間に分割された。年布と週市との権利は相続によクて譲渡された。。
た。或る場合には、年市の支配権と利益とは二或はそれ以上の所有者に分割された。エクゼグ 1の 年 市 は 、 国 孟 と 都
有し、その中のニクは'ニュ l ポ l Tに、他の一一はパーグレーにあクた。しかし特許の受領者で最も多いのは教会であっ
1 ・ アイス。へ
年市,と週市とはしばしば私人の手中に属した。例えば、ベル T Yの過市は一騎士に屈して居り、又一三O 六年にヒユ
多数の都市はその都市に所属する年市と週市とを開設しだが、その特権は国王の特許に基くものであったり叉英国の
中で最も自由に譲渡されたのは、年市と週市とに対する特許であった。乙の特許は都市や教会や個人に与えられた。
週市も・年市もその開設には国王の特許を必要とした@中世の社会では国王の大権は容易に人民に譲渡された。その
(一一)
宇、海外商人が多数集る乙とによって広く海外商品が売買された。
の発達と共に、年市の重要性が増し一ヶ月以上にわたるととが多く怠った。そ乙で取扱われる商品は閏門商品に限ら
があクた。二日乃至四日に限られている場合もあったが、一週間以上にわたるものが一一回多かった。その後国内商業
Eg であクた。年市は年に一回開かれるのが普通であり、その期間は場所に工り著るしい相違
をもつものは年市 (
畜が主怠るものであクた。園内全体の商業取引から見ればその重要性が少友かった。週市工りもはるかに犬き注意義
週 市 (g自室町)は、都市に於いて毎週一回か二回開かれ、そ乙で売買される商品は、近隣の、農村からの食料品や家
スグーに年市があり、十二世紀にはェグゼグーにそれが見られたロめ
二 OO︺の時代にはチェ
さ れ て 居 り 、 そ れ ら の 重 要 性 は 著 る し く 相 違 し て い る 。 勾 ウ ィ リ ア ム 二 世 ︹ 一 O入七1 1
マγ征 服 時 代 の そ れ ら の 状 態 に つ い て は 知 る と と る が 少 い の で あ る 。 下 ウ ム ヌ ・ ヂ イ 調 空 に は 四 二 の 市 場 の 名 が 記 録
リ 1 一世の一一一 O年 で あ る 。 英 国 の 初 期 の 年 市 と 週 市 と に つ い て は 、 極 め て 乏 し い 知 識 し か 得 ら れ な い の で 、 ノ ル
カ
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(一ニ﹀
年市と沼市の利益.
英国では年市の権利が国王の千にあるとその臣下の千にあるとを問わ宇、十二世紀以降に勃興じ繁栄したが、その
創設に大怒る糾戟と注クたのは、それらがその所有者にとクて犬怒る牧入の源泉となったからであるロ年市及び週市
(EU) 、第三は訴訟事務を裁く市巧裁判所から得られる罰金其他の牧入である。(第三については後片市場裁判所の項
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gロ品。)、第二は売買された商品の取引税
の牧入源は三程あった。第一一は小屋持や昆庄の地代(同83 即 ち 、 宮 居 税 (
参照)
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r一呉服屋は小屋持に十二ペ Y スを・支払
第一、露庖税(明神戸口品。):::ノヅチ γガムでは散布商、粟屋、鞘商守口ο
い、叉鉄類商左除きその他の商人は八ベ γ ス を 支 払 ク た 。 他 方 に 於 い て 、 ケ ム プ リ ザ ヂ の 各 市 民 は 、 ス ? ウ ル プ リ 汐
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: 過霊友取引税は法律にエクて禁止され、その場合には年市と週市の梶利は国王の手に戻
第 二 、 取 引 税(
ヂ の 年 市 で は 小 笠 掛 で 免 税 さ れ た 。 叉 ノ 1ザムプ Tγ の商人は、商品を彼等自身の週市で売る場合には免税された。
ク て い る 。 パ ウ ク エ ル で は 荘 園 領 主 は 馬 が 売 ら れ る 毎 に 、 売 手 と 買 手 と の 双 方 か ら 一 ペ γ スづ
Aを市場取引税として
るととになクていた。しかし、法律上の諾記録正調査との結果は、通常乙の禁令が無視されていた乙とを堆弁に物語
ー歓牧した。叉堆牛一一問、雌牛一一問、四国の羊、馬の一荷毎に右と同額の取引税を徴牧し、年市の時にはその倍額を徴
のである。﹂と宣告された。そして彼は適度に引下ぐべきととを命令された。役はその後、馬一一関につき買千からだけ
収 し た ロ か ふ る 取 引 税 は 裁 判 所 で ﹁ 過 主 で あ り 、 不 正 且 つ 一 般 人 へ の 圧 迫 と た り 普 通 法 令ZEggs-μ 三 に 反 す る も
て
へ γ ス、雌牛一一関或は羊八匹につき右と同額、馬一荷にクき半ペシスを徴牧し、年市の時にもとの額を越え怠い乙
とを承諾した。
取 引 税 も 露 庄 税 も と ら な い 自 由 年 市 は 例 外 的 で あ っ た 。 二 一 八 二 年 に マ γチ ェ ス グ ー で は 、 時 間 領 主 は 取 引 税 か ら
六務二ニ志四片を得た。それは役の所有地の地代に昇え相当する金額で、その当時では少からざる金額である。プ一フ
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v フオ]下の年市と沼市とは一三一一年に六時の価値があり、リパ 1プールの年市正週市の露応税壮一 O跨で請負
英国中世の国内商業
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経蛍と経済
E
か Lる 牧 入 は 宗 教 的 及 び 慈 善 的 団 体 を 維 持 す る に 役 立 っ た 口 英 国 の 年 市 の 中 で 最 犬 の も の で あ る ス Tウルプリッ
0725叫)に永代借地料会。。,P5) を支払い得るよう
値 を 認 め た の で あ る ロ 二 二 三 四 年 に ノ 1 ザ ム プ T Yは 大 蔵 省 令M
院のためにイプスウイヅチで年市を許可した。同様に各個人や公共団体もその利益の故に、それらの市場に対して価
ヂは
2y 主 ︹ 二 九 九li 一一一一六︺によって病院の維持のために建設された白又彼は聖メリ1 ・zfv1メの病
る
最も著るしいのはへγ91二世の治世︹一一主四ーー一一人九︺の終に一四六務をもたらした聖ジヤイルスの年市であ
わ さ れ た 。 二 一 八 二 年 に 聖 ボ ト ル フ の 年 市 は 、 地 代 と 露 庖 税 と で 九O務 余 と 裁 判 上 の 四0・務の利益とをもたらした
四
シユ l pパりによれば、一フムゼイの司教は国王にエクて聖プイずユの年市を没牧された時に、役はむしろ多くの荘闘
に年市の開設を請願したロ叉或る場合には、火災で破壊された村を復興させるために年市が許されたとともある。マ
教
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会
を取上げられんととを欲する旨を嘆願した。の
(四)
と
布された白山町
に於ても絃然として教会の境内が商人の集合地であクた乙との証拠がある。一四九七年にす 1 スグ 1 で 禁 令 が 再 び 溌
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境内で開く乙とを許さや 。﹂と。しかし、中世時代には法律が厳格に守られたと.考える乙とは正確ではない。十五世紀
ウインチエ、スグ lの 条 令 に よ ク て 一 般 的 禁 止 令 を 発 布 し た 。 即 ち ﹁ 爾 今 、 教 会 の 名 誉 の た め に 、 年 市 も 週 市 も 教 会 の
・グロステス Tは、彼の司教管区内の市場に対して寺院の境内で開くことを禁じた。エドヲ 1下 一 世 は 一 二 八 五 年 に
にワエルズの教会や教会の門に入クたり或は教会の神聖を冒涜したりする乙とを許さない己日を訓令した。又ロパ 1 T
招くものとして非難された。二一O 一年にウエルズに対する一司教の令書は、年市に来る者はすべて商品を売るため
年市と週市とはしばしば教会の境内で開かれた。しかしその雑沓のために、教会に対して神聖冒涜であり、悪評を
市
(五)
の期間
市
英国中祉の国内商菜
0.
五
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能主年市の所有者が任命した数名の取締官に委任した。のそれらの取締官には一時的た古長(日品。吋)や役員
日制)
は、近傍の町村の商人は、年市以外の場所で売買する乙とを禁ぜられた。都市の行政当局は、年市の期間中はその職
の出身地別或は販元する商品別に応じて、各集団毎にまとめられ、長い列をたして排列される。年市が聞かれた後で
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占有すべき地面を彼等自ら選んだり、 或は割当てられたりする。年市が開かれるまでに、そ乙 K集 ク た 商 人 は 、 彼 等
者のために地面左割当てたりした。それから、外国や英国内の各都市から商人が集クて来ると年市の期間中継続して
ると、年市の所有者の使用人がやって来て、乙の土地に材木で小屋掛を作クたり、自己の天幕を張る者や野天で売る
年市は多くの場合、都市の町はやれの野原や丘のなだらかた傾斜面で開かれた。毎年、年市が開かれる数日前にた
(六) 年 市 左 都 市 の 行 政 権
許可なくしては、期間延長は違法であり、国王に対して特許権の侵害を意味した
一三七七︺はすザムプ T Yに四週間の年市を許可した。如何たる年市の期間延長の場合にも国主の許可が要求された。
l ・二一Oち か ら 三 O日の年市の許可を得た。エドワ1下三世︹一一一一一一七i!
ハルの市民はエドワード一世門一一一七千
市の重要位は次第に噌し、期間も長くたった。かくて年市の期聞が一グ月以上にわたる乙とは極めて一般的と注クたロ
nv1六位三四二一一ーー一四六一︺がそれを八日間に延ばした。英国の商業が発展し、社会の必要の増大に伴クて、年
支 払 う 乙 と に よ ク て 、 更 に そ の 上 八 日 間 延 長 の 許 可 を 得 た b コヴェγtりでは年市は一日間にすぎか仏かクたが、へy
れを八日間に延ばし、スデブプシは十四日に、ヘシリ 1二 世 は 十 六 日 に 延 長 し た 。 二 一 六 九 年 に そ の 司 教 は 六O跨を
にウィリアム赤面王はウイ γチェスグ 1の司教に、聖ジヤイルスの年市左三日間許したが、,その後へ γリ 1 一世はそ
るものが一一回多かクた。最初の許された期間は、国王の恩典に工って延長される乙とがしばしばあクた。一 O 九六年
年市の期間は場所に工り者るしい相違があクた。二日乃至四日に限られている場合もあったが、一週間以上にわた、
年
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HRM)
は年市がつづく
同一都市から来た商人はそれぞれ割当てられた通路に一・まとめに及クてい究町叉外国から来、た商人のためにも一定の
とり、羊毛商人は北側にとクた口各種の職業毎に異クた場所が割当てられたのみでなく、出身地毎に即ち同一州或は
手 の 問 の 競 争 を 促 進 し た り 、 取 引 税 の 徴 牧 を 容 易 に せ ん が た め で あ っ た 口 ポ ス T Yの 年 市 で は 反 物 商 は 南 側 に 場 所 を
の農奴の義務とされる場合があった。同一商売の売手は普通一ヶ所に集合していた-それは買手の便利のためや、売
テイシガムでは小屋持は縦と棋とがそれぞれ八吠づつあり、それを作るに必要た材料と労力とを提供するととが荘園
年 市 政 開 け た 野 原 に 設 け ら れ 小 屋 拘 300Fごと露庄(目立町)とが列を な
ι して並び、田各種の通路左作っていた。ノヅ
︿七) 都 市 の 町 名 の 起 源
やノ、取引税や共他すべての牧益を徴牧する。
その代官は都市の治安を維持し、市の役人が他の期間中にたすのと同様に、氷上からたると陸上からたるとを問わ
司教が派遣した代官が市の橋のところに来て、市の行政権の去朱としての同を市の役人から受取る。年市の期間中、
問、行政機関の代理をなし、年市が終クた後では、行政権は市民の手に戻クた口ヨークの年市が関かれる時には、大
は市の門の鍵と市の行政権とを掌握した。ヒープフォードとノルウイヅチでは教会の代官守色
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ころで都市の管理権は年市の所有者に移されたロオクスフォードで型ブライドヲイド(司広自主含)の修道院(耳目c
周内に及び、そ乙では年市以外でのすべての売買は厳主に禁止されたロウイシネノエスグーだけではなく、すべてのと
-審理された。司教の司法権は七 zpm5田︹一リーグが一哩の長さを意味するか、或は二一哩を意味するか陪かではない︺の長さの円
権を握クた口そしてそとでは法律違反、負債の不払、契約違反に関する訴訟や、市内の土地や家屋に関する訴訟すら
全 く 年 市 の 支 配 者 の 手 に 移 設 さ れ 、 ウ イ γチ ェ ス グ ー の 司 教 は 裁 判 所 を 設 置 し 、 そ の 裁 判 所 が 市 の 門 の 鍵 と そ の 管 理
妨 害 を 受 け る と と 友 く 、 そ の 法 規 を 実 行 し た 口 ウ イ γチ ェ ス グ ー で は 、 聖 ジ ヤ イ ル ス の 年 市 の 期 間 中 は 市 の 行 政 権 は
が あ っ て 、 市 の 行 政 を 担 当 す る 究 め に 構 成 さ れ た 。 叉 管 理 官 (g853 や司法官 (ggr色)が、市民から何等の干渉や
経醤之経済
、
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いる口的
、穀物市
04)
(Ccgag白
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H広三.肉屋通
の名称はそれに由来するの職業別に場所を割当てられた乙とが、都市の街
年市と沼市との比較
五O九︺の一
叉 そ の 箆 庄 で は 珍 奇 な 且 ク 高 価 た 品 物 を 全 般 に わ た っ て 並 ぺ て い た 。 へ γ リ 1七世時代︹一四入五li 一
であクた。年市はしばしば英国全般にわたる性格をもク乙とがあり、或る場合には国際的名戸を博するととがあクた口
週市は地方の需要を充たし、その附近の住民のみが集クた。その商品は回合の産物であり、日常生活に必要た商品ー
く相違していた。
それかといって臨時的た不定期的た市場とも具クていた点で相似ていた。しかしその重要性の民度に於いては著るし
相違が生じた。原理的には両者は定期的危集会たる点に於いて相似て居り、叉両者共に商業の永久的た中心地でなく、
によクて前者は収入左後者は利潤をあげ得るととは両者にとクて有利であクた。しかし年市と週市との間には霊要た
一 ク の 点 に 於 い て 、 市 場 の 支 配 者 つz-23 と 商 人 の 利 益 は 一 致 し て い た 。 即 ち 、 商 品 が 充 介 に 豊 富 で 、 そ の 売 買
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路 の 名 を 定 め る 起 源 と た ク て 居 り 、 現 代 に い た る ま で そ の 名 が 残 ク て い る 。 現 代 の ロ γFYに見られる出円。包 3
EFEHOE-己Mvgzop 同84H80 は本来は市場内のそれらの場所にそれぞれの屋台・活が並んでいた乙とに由来して
九
回
向
(HUgZ円
は各通路に彼等に割当てられた永久的危庖を持っていたロ現代に於いて見られる茶屋通
葉、乾草と草類、木材、家畜、陶器、ピ1ル、パシ、千袋と皮革、酪農製品、魚類と穀物等がある口ギルドの組合員
は、最も詳細に各種の商品毎にそれぞれの場所を指定している口例えばそれらの商人には次の工う訟ものがある。麦
商人はライスグ1の商品が通常おいてある庖に、その商品を運ぶと
εを 命 喧 ら れ た 。 オ ク ス フ ォ ー ド の 市 の 規 則 で
人は他の通路に、コ1Yウオールからめ商人は第三の通路に集っていた。スグ今ォードの年市に来たライスグ1の
場 所 が 割 当 て ら れ た 。 聖 ジ ヤ イ ル ス の 年 市 で は フ ラ γグ 1 ス か ら の 商 人 は 一 ク の 通 路 に 集 ク て い た 。 カ 1 Y か ら の 商
・‘、
法律は次のように記述している。﹁人民の共通の福祉のために多数の年市がある。人えは佼良で有利な多くの物を買
英国中位の国内商菜
む
経醤と経済
反物屋がすぐに沢山の反物を差出した
ロ Yド y ・スト 1 Yのわきに行クた
315 符を通クて
次 に 私 は の8
そして金がないので買えなかった
(
H
g
H可円宮司のごの装飾品として、型複一杯、書籍、法衣、叉家庭用品とし
私はそうゅう品物には慣れていなかった
園内で一番上等のパリの糸は如何です
もう・一人は私の手をとって
一人が私にビロード、絹、寒冷紗を差出した
そ乙に沢山の民家が立っているのを見た
それから私はチ 1プ へ 行 き は じ め た
γグス製鉄所からの鉄、ミカエル祭(九月二十九日)当
年市の活動的注生活にクいては、ロ Y
0
F Y市場について活えとした描写をしている有名な民謡 HOESSW35w からその一斑を知り符るであろう。
句節用の魚を、貴族はその甲胃、軍馬、障を、貴婦人はその衣装左買入れた・
時、反物商が英国の内外からいつも買入れていた布地類等。とLでは叉代官は彼の農場で使う道具、塩、羊の察、四
グ 1 Vヤ 1 の 温 泉 か ら の 塩 、 グ l r 1 シヤ 1鉱山の鈴、サセ
はリy、不ル布、スペイ Y人は鉄、ノルウェー人はグ 1ル、ガスコ 1 ニ子人はぶどう酒、ドイツ人恨毛皮と琉泊とをもク
可,来た。年市では叉国産品が集った。例えば、中世時代に英国の宮の源泉である羊毛、コ 1γ ウオールの錫、ウ l ス
pgm阻止nog-8800)左、フ一フ γグ 1 スの悦刷物商
はアジアからの高価た香料・薬味類や絹、ビロード、共他の同日好口問 (
J
島の時のみ買う乙とができた口外国商人はヨーロッパのすペての地方から英国に集 クて来た。ヴエニス?とゼノプの商人
J
r⋮一山⋮臥郡山山倍以祐一一。)、並鉄製品、亜麻布、敗、及び其他多くの生活心需品﹂口海外からの商品は年市
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(炉心耕一h
て は 、 四 句 節 ( 円S3 の際の食料品及び共他の必要品、9Y、ネル布、毛布、真鈴製品、白銀製品、寝具、高純鉄製品
入れ、調達せんがために集る。神聖た教会
入
一人が肋骨づきの牛肉や多くのパイを呼売する
次に私はイースト・チ 1プへいそいだ
白銀の査は積まれてからから鳴った
居酒屋の主人が私の袖をとらえて
そ乙には竪琴や笛やら伶人が居クた
旦那、うちの.ぶどう酒を飲んでみませんかと言クた。的
年市の主要性は外国商人が出席するという事実忙工ってだけでたく、重要注年市が開かれている問、都市生活の日
常 の 務 活 動 が 停 止 さ れ る と い う 事 実 に 工 っ て 示 さ れ る 。 ロ γ下 γではハスティ γグの裁判所は、パ 1ソロミュ 1、聖
ε同ビ理由に
クヤイルス、聖ボトルブの年市の期間中は開廷が停止される。ライスグーでは商人ギルずの組令員は右
よクて、総会への出席を休むととができる。しかし年市の意義はもっと深いと乙ろにある。それは間際的た集会であ
った。遠隔地からの人えとの交際に工クて、そとに集クた人えの視野が著るしく拡大された。それは園内共通の炉辺
として思想の発展に寄与し、海外の世界に対する強い活設た興味を換起した。
(九) 市 ' 場 裁 判 所
年市の所有者の第三の財源は、裁判上の罰金や手数料等に工クて得られる牧入である。法律上の事務を処理じ、商
チ、
匂
(F352ε:83 であクて、汚れた足 25qpmJE OE芯 ) の 裁 判 所 の 意 味 で あ る 。 叫 が か
人 間 の 争 左 裁 判 す る た め K審 理 法 廷 を 開 設 す る 乙 と は 、 す べ て の 年 市 と 週 市 去 の 組 織 の 不 可 欠 の 要 素 で あ ク 売 。 と れ
4
が所謂市場裁判所
ら市に渡り歩いて居って、通常の裁判所の開廷を待クととができ泣い商人が出廷するととから、かく呼ばれる工うに
たクたのである。法廷を開く格利は初期の特許の場合には推測的のものにすぎたいが、後期の特許状の条項中には明
市場裁判所在開設することは、年市だけの特権では、なかった。自治都市 328mE) で は そ 乙 を 通 過 す る 商 人 や 外 国
白に規定されている。十五世紀には法律によクて法的に承認される工うにたクた。
英国中世の国内商業
九
経蛍と経済
JC
れていたと推測できる。しかし実際に於いては、債務者は彼が他の時と場所で契約した負債にクいて年市
ブ一ブてグ 1 九 に 羊 毛 を 輸 出 し た が 、 そ れ は 官 患 に よ ク て 没 牧 さ れ た 。 そ し て 五 年 後 に 彼 は 年 市 に 来 て 商 売 し て い る 或
一一ニ一二年にグムプリッヂで負クた負債
ω支払にクいて訴訟が提起芭れた。二一六五年にリジ(どロロ)の一市民が、
で責任を負うばかりでなく、その負債は彼等の団体の組合員によクて分祖された。二ニ二四年に聖アイヴスの年市で、
から免除
は差押えを免除されていたという記述川は承認され待ない。特許状中の文言は確かに明白であクて、債務者は逮捕
裁 判 所 権限は年市内で起ク九事件にのみ制限されていなかク・たととは注目すべきである。債務者は年市の期間中
ω
馬車を乗り入れて騒がす﹂等の不法侵入等にクいて犯則者は訴えられたロ
の外に、・裁判所は取引税の徴牧や平和と秩序の維持に当クた。各種の犯則例えば暴行、侮辱的た言辞、﹁家畜市場に
関する訴訟があクた。叉.土地に関する訴訟に及ぶ場合もあクた。但し王室に関する訴訟は除外された。商業上の訴訟
裁 判 所 の 権 限 は 極 め て 多 様 の 事 件 に わ た っ て 居 り 、 負 債 の 不 払 、 契 約 不 履 行 、 権 利 侵 害 、 パ シ や ピ 1ルの量目不足に
ーその判決に対して上級裁判所への訴願が認められた白
を 主 張 し た 口 普 通 の 場 合 に はil必ヂしも常にではないが11
席判事は商んであり、叉中世の訴訟手続によクて、彼等は評決を与える原告であクて、難問題が起ク売場合には法規
った。事件が外国商人に関する場合には陪席判事の半数は、年市に出席している外国商人から選ばれた。とれらの陪
では、それは代官 22日S であクた。法廷の裁判を執行する裁判長と共に、判決に参与す、る若干名の陪席判事が居
法 廷 の 裁 判 長 は 自 治 都 市 の 市 長 官42) か或は役員 (EH-RC であクた口裁判の特権が都市の管理下にないと乙ろ
(十) 市 場 裁 判 所 の 組 織 と 職 能
滞 在 を 引 き の は さ れ る と と が な い 工 う K、急速な裁判を容易にするために色えの手段がとられた。
を そ の 緊 急 の 度 に 応 じ て 裁 判 す る た め に 、 毎 日 常 時 法 廷 を 開 い た 。 ロ シ ド γでは外・国商人が審理の長い継続に工づて
易裁判の約束はごニO三年ののミSZ225E で 外 国 人 に 与 え ら れ た 特 権 の 一 で あ る ロ グ ム プ リ ザ ヂ で は 商 人 間 の 争
人のために、しばしば約束や不法行為、負債等に関する訴訟を速かに裁判せんがために、市場裁判所を開設した。簡
O
るフラ γグ 1 スの商人に対して損害賠償を請求した。他の時に、ヲイスグ 1の商人は三年前にライスグ 1で彼等の仲間・
の一人が負った負債のために差押えられた。その場合の異議申立の方法は、普通に想像される工うに、その差押の適
e
γチの市民を逮捕する計画が、注されたととがあるが、その理由はその市民仲間が負
法性如何を問題にするととにあるのではたくて、その債務者が彼等の団体に属しているととを否認するととにあク
た。聖ボ T ルフの年市でノルウイ
クた負債の不払によるものであクた。
裁判所の直接の管轄区域外の事件にクいてまで訴訟を認める慣習は、それを濫用に陥らせ易く、圧迫的友ものとた
吋
UggH) で下院(昨日Hopsggm)は次の工うに訴えた。即ち、年市と週市との役員
った。二ニ七六年の議会(同月話。。。仏E H
(EZRm) が訴訟手数料 Kよる利治を符んがために、彼等の管轄外で注された負債、不法行為、契約不履行にクいて、
叉商業に関係なき事件について人々を即ち本国人たると外国人たるとを問わや裁判所に拘引するというのであるロ一
世紀後に即ち、一四七パ年のエドワード四世の有名た法律の中で、起訴手続が定められた。それに工れば、原告が契
クいても訴訟を審理する乙とはでき怠いというのである。しかし一四七八年の法律にェって幾世紀にもわたって深く
約が年市の期間内で旦クその裁判管轄内で注された乙とを誓約するので-怠ければ、代官宝gpE) は如何たる事件に
根を下した慣習を根絶し得るととは容易でなかクた。それから百年後に於いても多くの都市で年市の区域内で契約さ
れた売買取引によるの巧たければ、¥何人も年市の期間中に逮捕されたり、苦しめられたりすべきでたい乙とを繰返し
命令し﹃なければたら喝なかった。
(十こ商
法
英国中世の国内商業
拘束すると乙ろの法的諸慣習と理論との特殊た集合体である。その当初に於いては、程えたる地方の複雑たる慣習から
た。メイ T γ Fに よ っ て ﹁ 申 世 時 代 の 私 的 国 際 法 ﹂ で あ る と 適 切 に 表 現 さ れ た 。 均 そ し て 十 五 世 紀 の 或 る 法 官
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乙であるとした口切とれは欧洲全体にわたクて、商人をその商取引関係で
(OFEm-c与は自然法(時}︼OF405
司)ではなくて商人法令ZF44g20F83 であク
中 世 の 商 業 活 動 を 支 配 し た 法 律 は 、 英 国 内 の 普 通 法 (F98自ggrd
、
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経時凸と経済
1商 人 が 彼 等 自 ら の 必 要 と 見
次第に発達して来た一クの統一的法体系であって、遂には普通法と具ると乙ろの、しかも国際的意味関連を有する明
確な法体系にまで発達したものである。それは或程度まで成文法の影響を受けているが
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識とによクて創造した'不文法‘であり、一クの慣習法である。或る点に於いて、それは明かに普通法から離れて いるが、
或程度に於いて近代の商慣習に先行するものである。
殊にその特徴的危点は乎附金(。。良宮53 の支払である。一旦契約の当事者が千附金を支払えば、当事者はその契約
を 破 棄 し 得 た く た る 白 そ の 原 理 は FE2の原理即ち占有の原理である。町内 MES とはフ一アシク人の問に行われた慣習
で、契約を拘束するために質の表象として棒を渡すととになクている。その表裂は土地の売手が所有権の移転の表象
として買手に手渡すものである。一三O三年の caZEROPEE は一旦手附金 28号宮山口止)が授受された後は、すべて
の売買契約は確定的で安定しなければたらぬと規定している。プ一フク T Yに上れば、﹁芳し買手が彼の買入を後悔して
千附金として受取クた金額、の倍額を買手に戻さねばならた一い。﹂叫プレス f y門地名︺の慣習法令集合EZBとでは、
その契約から手を引こうと欲する、ならば、彼が与えた手附金を捨て‘なければならね。若し売手が後悔するならば、彼が
もし買手が既に品物左手に入れて居り、しかも売手が契約左実行する乙と左欲したかクた場合には、売手は罰金とし
て十シリ Yグを支払わねばならないことを附け加えている。グヌリ γで は 手 附 金 を 与 え た 者 は 何 人 も 若 し 彼 が そ の 契
約な後悔した場合には、十シリ γグ の 罰 金 を 支 払 ク た 。 他 の 商 業 上 の 制 度 は 約 束 手 形 の 制 度 で あ ク て 、 そ れ は 取 引 と
る。中世時代及びその後の時代を通じて、英国は市場裁判所の網の目で覆われていた。その数と活動力とに於いて、
金融の発展上極めて重要である。か・ふる理由によクて、市場裁判所とそ乙で実施されていた法律とは甚だ注目に価す
円
。83) に 比 し て 少 し も 遜 色 が な か ク た 。 同 時 に そ れ は 商 業 法 の 体
そ れ ら は 都 市 (Z司自主宮)の地方裁判所(昨日522
年
市
系の樹立に着るしく貢献した。それは次第に現代の法律の主要な法源左なしている。
(十二) 主 な
る
英国中位の国内商業
にあるその地理的位置は本国
sfu) の年市である。それは一一一O
而 で あ ク て 教 会 に よ ク て 所 有 さ れ て い な い 点 で 例 外 的 な も の は 聖 ボ T ルブ(日・白o
O年 に 建 設 さ れ た よ う に 息 わ れ る 。 へ γリ1三世︹一一一一六!l一 二 七 三 は そ の 年 市 左 エ レ プ ノ 1 ル 女 王 の 伯 父 で あ
ド、絹、錦繍の布地等がある。乙・ふでは叉オクスフォード大学が四句節のために塩漬鯨左大量に買付けた-重要た年
、市の勅許を聖メリ1・マググレ1ヌ病院の病患者に与えた。乙の年市を有名にした商品の中には、高価ゑ刺線、ビロー
配時代に起源をもクと一一一日われているが、それはジヨシ王︹一一九九ll一一一一六︺によクて建設されたもので、彼は年
マイγやニュ1ルブベルク目やアウグスプルクの年市もとれとは比べものにたら伝い。﹂と述べている。同ロ1マ人支
年にヂフオーは﹁全英国中最大であるのみならやノ、世界最大の年市であクて、ライブチヒやフ一フ ypブ
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全 英 国 の 年 市 中 最 大 の も の は ス Tウ ル プ リ エ ノ の 年 市 で あ ク た 口 東 部 イ シ グ ヲ Y F諾州の中心であクて、一七一一一一
商品の重量や大さを計る仕事をやり、取引税や罰金牧入は平等に分けられた。その年市は英国で最大の服地の市とな
。 E) やロ γド γの 羅 紗 商 221同)が集クて来、た。
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り、全英国の呉服商 色
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る 土 地 の 一 部 を 国 王 か ち 得 た 。 年 市 の 支 配 は 修 道 院 長 と 組 合 (POOR322ロ ) と の 問 に 分 担 さ れ 、 後 者 は 販 売 さ れ る
修 道 院 (123︹位絡は島げ白河に次ぐ︺を建設した。彼は慎重に用地を選び、有名たスミスフィールド市場と混在してい
ミム1年市は一一三三年にヘシリ1一世に工って、修道僧レイヤー・に与えられた特許に起源を有する口レイヤーは
た口それらは十七世紀に於いてすら﹁特別に注目すべき年市﹂であるとして或る布告中に記載された。紛パ1ソロ
丹
で あ ク た 。 他 の ニ ク の 有 名 た 年 市 は ス T ウ ル プ リ ヲ ヂ (mgcFHEmo) とパ 1ソロミ L 1 3 2]5852) の 年 市 で あ ク
る 種 類 の 外 国 商 品 、 印 刷 術 が 発 明 さ れ た 後 は 多 数 の 書 籍 、 r m三FSFC840己の屋台ー屈は特にぶどう酒、香料で有名
英国南部との間の交通の中心地として豆要性をもクように怠クた。そ乙で取引される商品は服地、羊毛製品、あらゆ
グ 1 で 開 か れ た 。 そ れ に つ い て は ウ 年 リ プ ム ・ ラ γグラ γドが 23EZBS¥沖 で 記 述 し て い る 。 そ れ は ブ ラ シ ス と
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) の年市がウイシチェス
のみたら、歩、外国の商人を多数ひきクけた目それより数年早く有名た聖ジヤイルス (2・
に建設された。それは急速に発展して、生皮、羊毛、服地の重要た中心地とた?た
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英 国 の 年 市 で 重 要 た る も の に つ い て 次 に 述 べ る 。 聖 ア rtvス(F-42)の年市はヘシリ1一世によクて、一一一 O年
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経営と経済
多年の間企く中止されていると言われている。他の年市も衰退し党乙とは明かである。し
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頚廃と新通商路の発展である。実際に於いて、各世紀毎に商業中心地が不可避切に変動しているのであクて、自然の成
る通路を変更した。それ以来、その都市は甚だしく衰退した﹂と述べている。町その都市の衰退の他の要因は、河の
る。たとえば、聖ボ
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O一一一︺に著るしく伝ったが、それは主と
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してハ Yザ商人が英国から引揚げた乙とに基くのである。ル一フ γ Fは﹁ハ Yハ
ザ 商 入 国g丹市奇想はポストシに商品を送
かし乙のことは商業の潮流が或る特定の場所から引いいて、他の一層便利た中心に移クたにすぎたい乙とを意味してい
ポT ルフの年市の開催は乙
/一三五五年当時に外国人は聖ボ T ルフの年市に従来のようには来たくたったと言われている。一方、一四一六年に聖
英国の年市がその数と重要性とに於いて衰退を示し始めた時期を或程度の確かさをもクて示すととは困難である。
(十一ニ) 年 市 , の 衰 退
して列挙している。
一法律は、ス T ウルプリッヂ、聖アイヴス及びイリ 1の 年 市 左 ﹁ 王 国 の 中 で 魚 類 の 食 料 品 で 設 も 有 名 た 年 市 ﹂ 切 と
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市は四旬節の慣習のために、中世時代は特別な重要性をもっていた。しかもヘシリ 1八 世 三 五 O九i
の年市は服地の販売のため、ウェイヒルの年市はチーズのためである。ャーマウ丸及びその他の海岸の多くの憾の年
以上挙げた年市の外に、多くの一層小さい年市があった。その中の或ものは特定の目的のために開かれた。リーヅ
の年市として十六世紀にはストウルプリッヂやパ1ゾロミェ1の年市と屑を並べた。
ロ}の年市は聖アイヴスー聖ポ T ルフ、聖ジヤイルスの年
や商庖が底を開くととを禁じた。ノ 1ザムプ TY22nEE10
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市と共にそれぞれ一年間の四季の各一クの季節に保される市でもある。プリス b ルの年市は堕ジエ 1 ムス (2・
た。彼はロ YFγ の市民にそれに出席するように命じ.その年市の期間中は、ロ γ下 γ市内で他の年市が関かれるとと
遠 距 離 の 地 か ら 多 く の 顧 客 を 集 め た 。 ウ エ ス ト ミ γ スグ 1 ( 当oaES宮司)の年市はへ γリ 1三世によクて建設され
・v- サヴォイに与えた白ピーグーとリ γヵ1 y市の市民との問にはかなりの軌糊慌があった。その年市は
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行として一つの年市が他の年市にとクて代クている。二二六三年に或る特許状は聖プイヴスの年市は外国商人が来-な
いために二O年 以 上 開 催 さ れ な い と 記 し て い る 。 一 四 四 二 年 に 同 様 の 主 張 が 記 さ れ て い る 。 当 座 の 間 そ の 年 市 が 昔 の
地位を回復した乙とが明かである。聖ヲヤイルスの年市は明かに十四世紀に衰退し、その牧税所からの牧入は著るし
く低下した。時を具にして、或る年市が勃興したり、他の年市が没落する乙とは明かであるが、十五世紀に定期的市
場が一般に衰退したととを実証すべき史料はない上うに思われる。反対にヨ 1グ主朝時代︹一四六︺ ll一四人豆︺の
最 後 の 九 年 間 の 特 許 記 録 (F03宮口仲間o-U)によれば、少くとも十グ所の年市の特許が記録されている。そのうちの一
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はノルウイヅチの司教に与えられたもので、彼の所領であるり γ市 で 二 つ の 年 市 を 開 く と と を 許 さ れ ー そ れ ぞ れ 四 十
一日間の期間であク党。とのととは年市が依然として牧入の有利な源自然であると去を示している。
十五世紀企十六世紀との年市は性格を変化して、商業中心たる工りもむしろ娯楽の中心とたクたという説が有力と
怒った。しかし乙の見解は立証すべき根拠が取いのであって、市世紀の終頃に於いてすら、英国の年市はその商業制
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度として活気を夫クて、近隣に住んでいる地方人だけが集るととにたったと考え る乙とは確かに誤クている。次の著
るしい実例は、十六世紀に於いても年市はしばしば国内商業の重要た中心地であった乙とを示す。へ γリ 1八世の治
世︹一五O九li一五四七︺の初年に、プリス T ルの郊外であるレドクリフは年市の特許を得た。しかしそのととはプ
poug のEgZC ︹二八四一年に廃止された民事裁・
リス T ル 市 民 の 利 益 を 害 す る も の で あ る と と が 解 り 、 彼 等 は 星 室 庁 (
判所︺に訴えてその解決を求めた。一五二九年のその起訴状に工れば、プリス T ルの手工業者還は、買手逮がその都
市をはたれた郊外の一年市に集クて来る限り、彼等の商品をその都市内で売さばき得たいととを訴えている。特に彼
等は次の工うに訴える。即ち、ロシドシの帽子商と王国内に居る他の外国明子商人とがその年市で帽子を売った。そ
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見合同 U、紡績
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28bgg二月二日)に年市が継続されると商人を
市が開かれる以前にプリス T ル の 帽 子 商 人 に よ ク ぺ そ の 生 計 を 維 持 し て い た 三 ・ 四 百 人 に 上 る 硫 毛 工
のために、プリス t ル の 帽 子 商 人 は 彼 等 の 帽 子 の 売 行 が 少 く た り 、 犬 な る 損 失 と 障 害 と を 招 い て い る の み た ら 宇 、 年
工、編物ヱが大部分その職を失ったのその都市の商人は、来型燭節
没落させ、都市の港の海軍左京返させるであろうと主張している。
英国中世の国内商業
-忠岡.
都市間の商取引
種の商品を取扱う乙とを全く禁ぜられて居り、又しばしば彼等のその都市に於げる滞在期間が、特定の期限にまで制
通常、彼等は卸売取引でのみ売買するととが詐され、叉彼等からその売買に当クて、取引税が徴牧された。彼等は或
行クた都市のギルずの商人とのみ取引する乙とが出来た。叉彼等はギルドが定めた諸条件に従う乙とが要求された。
Eamロggrsg) は、彼等が出掛けて
に、ロシドンやオクスフォードの市民に対しても適用された。かふる外来商人 (
国商人であろうと、外国商人であろうとその相違を問うととたく、会く同一に取扱われていた。例えば、プリス T ル
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- の一一一日中架は、パリやコロ1ニェの市民に適用されるのと金く同様.
の都市の記録に使われている tFB-msち 或 は Jロo
各都市の商人ギル下が統制していたのは特に乙の程の継続的た商業であった。他の都市から来る商人は、それが英
や、英国や外国の諸都市の商人の間に卸売商業が営まれていた。
近郷の農民との問に開かれる毎週一回か二回の市場が常に継続されていたのみたらやノ、その都市の商人間の卸売商業
型地にして告かれる。しかし、既に述べたように、都市内では絶え十商取引が行われていた。小売取引や町の商人と
帰るか或は他の年市に向クて出発する。取締官は解任される。市の地域は次の市が開かれるます三ヶ月怠り一年たり
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年市は一時的危売買の場所にすぎたかクたロ年市の期間が終ると小屋掛は撤去され、商人は彼等の定住せる都市に
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得るようにたったからである。年市が都市に侵越して発展するととは不可能であった。
主なる中心地でさえも-なくなった。何とたれば諸都市が次第に発達して繁栄するようにたり、社会の誇要求を満たし
に英国の年市はたしかに重要性が相対的に減少した。それらのものはもはや商業の唯一の中心地で伝く、長そらくは
非常に多数の人々が集合すると乙ろの注目すべき年市﹂として記述されているからである。均十五・十六世紀の間,
り、聖ポ T ルフですらその後、復活した'主うに思われる。何と怠れば二六六五年に於いても﹁王国の数穫の地方から
の重要性にクいては依然として人々の注意が向けられていた。聖プイヴスは依然ともて魚類の食料品で最本著名であ
レ ず ク リ フ 年 市 だ け が 園 内 の 他 地 方 か ら 商 人 を 集 め る 年 市 で は 怠 か っ た 。 ス ト ヲ ル プ リ ッ ヂ や パ 1ソロミュ 1年 市
経蛍と経済
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e かえる状況の下にあクては、各都市の行政当局は他の都市の当局と商業上の協約を結ぶ必要があり、
相互の問の利益の尊豆と妥協とが行われた。各様の都市の当局の問に相互に絶えや通信連絡が行われた。その通信の
限忘れてい先
内容は、紛争の場合に於ける個々の争点の裁決に関する乙とや、逃亡せる徒弟の帰還に関するとと、虐待された市民
yは七O 以 上 の 都 市 や 商 業 団 体 と の 聞 に 正 式 の 協 約 を 結 ん で い る 。 ロ ン ド ン の 市 当 局 は 、 二0年 間 に 九O 位 に 及 ぶ 英
に対して公正な処置を要求する乙と、叉持としては、脅かすような報復手段に関する乙とか仏どがあク免田サザムプ f
って来た尚人は、孤立せる個人として取引するのではなくて、彼等の定住せる都市の威信や、故郷の市当局の支持や、
国 及 び 大 陸 の 諸 都 市 と の 問 に 、 右 の よ う な 事 柄 に ク い て 三O O通 以 上 の 文 書 を 送 ク て い る 。 そ れ 故 、 他 の 都 市 か ら や
或は協約によクて既に承認されている新特格に依存して取引していたのである。或都市の一商人がその負債を支払わ
ない時には、その商人と同じ都市から来たその商人仲間は誌でも、債務者が支払をなすまで、差押えを受けるのが普
通である。二一八五年にエドワード一世の法律によクて、乙の乙とは英国に関する限り禁止されたが、ブラシスの都
旦っその財産主差抑えられた口英国人とブラシス人、フ一フ Yグ 1 ス 人 、 ス ペ イ ジ 人 、 ド イ ツ 人 等 の 外 国 人 と の 聞 に 於
市か巨来た一向人は、彼が従来全く与り知ると乙ろがなかクた他のブ一フシユ人仲間の負債のために、身柄を拘束され、
リス T ル、ペニス、ゲ l y t、ア一フス、リ斗 T ベ ッ ク 等 の 諸 都 市 の 市 民 は 、 彼 等 の 都 市 が そ の 市 民 の た め に 腔 侍 し た
け る 対 外 貿 易 は 、 既 に 述 べ た よ う な 都 市 間 の 取 引 と 同 様 に 個 人 的 な 性 格 の も の で は な か っ た 。 例 え ば 、 ロ γドシ、プ
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